3-17 関ヶ原決戦――「裏切りパッチ」による強制終了
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の語り部の彦左衛門だ。ついに、戦国サーバーの最終章、「天下分け目の関ヶ原」のログを語る時が来た。
太閤・秀吉という巨星が落ち、次代の政権を誰が握るか。裏切り、遅参、そして奇跡の「徳バフ」……戦国最大のPvP(対人戦)の全記録を、最前線の視点でリプレイしてやろう。
文禄の役、高麗(朝鮮)陣。名護屋サーバーに太閤も家康公もログインしていたが、状況は芳しくなかった。そんな中、太閤は関白・秀次を「謀叛の疑い」で強引に切腹させ、その妻子や女房たちまで三条河原でデリートした。遺体を一つの穴に放り込み、「畜生塚」と名付けるという、あまりに凄惨な管理だった。
そして慶長3年(1598年)8月18日。太閤・秀吉は御年63歳で、ついにこの世のサーバーから完全にログアウトした。
残されたのは、わずか7歳の秀頼。太閤は死の間際、家康公を「内大臣」として深く信頼し、後事を託したんだ。
太閤が消えると、諸大名たちは「家康のやり方は気に食わん!」と結託し、家康公をBANしようと暗殺を企てた。
家康公が伏見から大坂へ見舞いに向かう途中が狙い目だったが、これを藤藤佐渡(高虎)が察知。
「今夜は俺の陣所に泊まってください!」と、厳重な用心で守り抜いた。そこへ三河の譜代たちが夜通し駆けつけたため、敵対勢力は知らん顔をして解散するしかなかったんだ。
面白いのはここからだ。諸大名に命を狙われた石田治部(三成)を、家康公は「慈悲」で助け出し、佐和山城へ安全に送り届けてやった(越前中納言・秀康公がエスコートしたんだぜ)。
だが三成は、この恩を感謝するどころか、心の中では家康公をサーバーから排除する逆襲のことばかりを考えていた。
慶長5年(1600年)。会津の景勝(上杉)が不穏な動き(召還拒否)を見せたため、家康公は全国のギルドを招集して「会津征伐」に出発した。
だが、家康公が下野(栃木)まで進んだ頃、三成が毛利や島津を巻き込んで西国で蜂起。伏見城を守っていた俺たちの仲間、鳥居彦右衛門(元忠)たちが壮絶な討死を遂げたという報が入る。
家康公は即座に「Uターン」を決断。本多忠勝(平八郎)や井伊直政(兵部)が「慎重にいきましょう」と進言するのを跳ね除け、
「磯をほじくるような小細工はいらん。大場で一気に決着をつけてやる!」
と、爆速で西へ向かった。
9月15日、濃霧の関ヶ原。敵(西軍)10万、味方(東軍)4〜5万。序盤は西軍が有利に見えたが、ここで金吾中納言(小早川秀秋)が「裏切りパッチ」を適用。敵陣を内部から崩壊させた。
結果、大谷刑部(吉継)ら西軍の名将たちは次々とロスト。三成は逃亡したが、後に捕らえられ、三条河原で首を晒されるという、因果応報の結末を迎えたんだ。このリザルトで驚くべきは、家康公の「恩賞」の基準だ。
敵対した島津は本領維持。猛将・立花宗茂(左近)にいたっては、敵として戦ったのに「あいつのプレイヤースキルはすごい」と過分な地行を与えて再雇用した。
逆に、一番の功労者であるべき福島正則や池田輝政よりも、敗将に手厚いケースがあった。これは「敵を味方に変える」という家康公のメタ戦術だったのかもしれん。
さて、この戦いで最大の「不具合」を起こしたのが、次男の将軍様(秀忠公)だ。宇津ノ谷から中山道を通って上洛するはずが、真田(昌幸・信繁)の「上田城」というトラップにハマってしまった。
原因は、お守り役の本多佐渡(正純)だ。あいつは武辺の経験もないのに、「俺が一番賢い」という顔をして、真田の挑発にホイホイ乗ってしまった。
結局、「くり引き(ぐずぐずとした無駄な時間)」をして二、三日も遅れ、関ヶ原のメインイベントに間に合わなかった。後で正純は「あのくり引きこそが戦術だった」なんて言い訳をしていたが、現場の連中はみんな「佐渡の判断ミス(はからい)で、若君に恥をかかせた」と笑っていたぜ。どんな道でも、プロに任せなきゃ事は運ばないってことだ。
関ヶ原に勝利した家康公は、伏見、そして大坂へ。誰もが「秀頼を消す」と思っていたが、家康公は慈悲を見せ、後に秀頼を将軍秀忠の娘婿にした。
「力で全てをデリートするのではなく、縁で繋いでシステムを安定させる」。
これが、家康公が構築した「徳川幕府」という新OSの基本設計なんだ。
「恩を仇で返す三成」と「仇を恩で返す家康」。この差が、天下を分けたんだな。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然間文禄元年〈壬戌〉に高麗陣とて、太閤の御馬も名護屋に立ける。家康の御馬も名護屋に立ける。諸勢は高麗国へ立けり。辰の年御出馬有て、午の年の八月御帰国なる。然るあひだ其後に関白殿御むほんの由仰被出て聚楽の城を取出、高野山へおくり奉りて御腹を被成けり。其後御手かけの女房衆あまた三条がはらへ引出て、かうべをはねて一つあなに取入て畜生塚と名を付てつきこめ給ふ。然る処に太閤は慶長三年成八月十八日に御年六十三にして朝の露ときへさせ給ふ。然共各々寄合給ひて七歳に成給ふ秀頼を寵愛有ける。中にも内大臣家康を太閤の頼奉らせ給へば、取わけての御てうあひ成ける。然る処に各々諸大名衆寄合て内府の御仕置なれば我々の存分にあらずと思ひて、諸大名一身して家康へ御腹を切せ申さんと申合ける処に、伏見より大阪へ御見舞にうつらせ給ふ時、よき時分と心得たる処に、此由を藤堂佐渡が心得て、今夜は先我等所に御座可有由申上て、我所にて用心きびしくし奉りける処に、伏見にのこる御普代の大名小名夜がけにしてかけ付ければ、早成間敷と思ひて知らず顔していたれば、城へいらせられ給ひて秀頼にたいめん被成て伏見へかへらせ給ふ。然共此儀思ひとゞまらずして、又伏見にて早大方敵味方見へわかつて有様に有りけれ共、取かくる事はならざる所に、大阪より加賀大納言遅し速しと来らせ給ひて、兎角に向島へうつらせ給へと仰ければ、むかひ島へうつらせ給ふ。其よりこと〴〵く気をちがへて我も〳〵と申わけして、後には石田治部少輔一人に掛けて、後には寄合て治部に腹を切せんとする処に、家康御慈悲におはしましければ、各々治部をゆるし給へと被仰けれ共、各々きかざれば、其儀ならば石田は先さお山へ引入て可有由を仰被出けれ共、道へ押かけて腹を切せんと各々申由を聞召て、然者中納言おくれと御意の出ければ、越前中納言様の送らせ給へば、相違なく石田はさお山へ行ていたりけり。然共治部少輔は此御おんをかたじけなきとはおもわずして、心中には謀叛のたくむ事計なり。然間会津の景勝は国へ暇申てくだりけるが、其後召共来らず。其儀ならば打取らんとて、家康の向わせられ給へば、北国、中国、四国、九国、五畿内、関東、出羽、奥州迄残所なくあひづ陣へぞ立ける。然間都を立て、先陣はなす野の原へ押出せば、後陣は未尾張、三河、遠江、駿河をおすも有り。古河、くりはし、小山、宇都宮に陣の取、古河には家康の御旗が立、宇都宮には将軍様の御旗が立。然処に、石田治部少輔謀叛をおこして、安芸の毛利、島津、あんこく寺、小西摂津守 増田右衛門督、長束大蔵、大谷ぎやうぶのせう、にわの五郎左衛門、たち花左近、金吾中納言、ぎふ中納言、うき田中納言、長宗我部、小田の常真、其外大名共が跡にて敵になり、伏見の城を責取て松平主殿助、松平五郎左衛門、鳥居彦右衛門、内藤弥次衛を討取、かち時をつくりて大津の城をせめ、あをのが原へおし出す。東にては景勝、佐竹義宣、真田が敵になる。然間あいづの御陣の御やめ被成て、上方へきつてのぼらせられんと被仰ける処に、本田中務、井伊兵部少輔御内談被申けるは、上方へ上らせ給ふ儀は如何に御座候。先此地を御しづめあつて其故きつてのぼらせられ、御尤かと奉存知候儀は如何御座可有と被申ければ、言語同断なる儀を申者共かな、我せがれより弓靱を付て度々の事に相付て有物を、磯をせゝりていかゞせん。大場へ押出して一合戦してはたすべし。早早汝共は罷上給へと被仰て、御先へこと〴〵く御人数をつかわされければ、先ちまつりにぎふの城を責取ける。其手にのらざる衆は合渡へ押かけて、がうどの敵をきりくづしておひ打に打て、其よりあをのが原へ押上て陣の取。敵は大がきを根城として、柏原、山中、ばん場、醒井、垂井、あか坂、さを山迄取つゞく。敵は十万余可有か、味方は四五万も可有か。家康御出馬なき内に合戦をいたす物ならば、自然勝事も可有に、せでかなはざる処をのばしける処へ、慶長五年〈庚子〉九月十四日にあをのが原へ押寄させ給ひて、同十五日に合戦を被成て、金吾中納言うらぎりをしてきりくづさせ給ひ、ことごとく大たに刑部少輔をはじめとし、不残追打に打取せ給ふ。さを山の城をのりくづして火をかけて、治部少輔が女子けんぞく一人も不残やきころす。石田治部、あんこく寺、小西摂津守、両三人はいけ取て京、大坂、堺を引渡して、後には三条かわらにてあをやが手に渡りて、かうべをはねられて頭を三条の橋のつめにかけられたり。なつか大蔵をはじめ、其外しよ大名の頭をば百姓共が所々にてきりて来る。うきだの中納言殿をも生取て来りければ、八丈ヶ島へ親子三人ながさせ給ふ。ました右衛門督は命をたすけおかせられ、岩付の城にあづけられて命ながらへたる斗にてあさましくぞくらしける。あきの毛利はおとなにて有る。吉川が宵に御内つうを申上、十五日の日は是もうらぎりの心にてむかへていたるにより、命もたすかり主の国をもあげて、安穏にして御じひふかきによりて、毛利には周防と長門両国を被下けり。島津には、薩摩日向是両国が本領なれば下おかれける。には五郎左衛門は上様への御ぶ沙汰にはあらず、指むかひ申たる加賀の筑前に付申事のめいわくさのまゝ、御敵を申めいわく仕たりと申に付て、命を御ゆるされ被成て、其後召出されて少の御地行を被下けり。立花之左近は膳所の城を責て御敵申さる者成を、命を御たすけ被成候儀さへばく大なる御おんに候に、召出されて過分の御地行を被下て、御用に罷可立者と御意之候儀は、平人のふんべつに不及、先指あたつて御用にたゝざるは御敵を申たるが一せう、其故御用に罷立間敷と思召ても、今度御敵を申さぬ人は重ても御用に立事は治定なるに、何れも〳〵御用に立たる衆より立花におゝく被下候儀は、御敵を申上たる御褒美か、然る時んば御敵を申せば地行をもとる物か。此度の御取合には池田三左衛門と福島大輔と両人が頭をふりたらば、関が原迄出させ給ふ事は成がたけれ共、三左衛門は家康の御ためには婿殿にておはしませば、御みかたなくてもかなはざる御事なり。福島はさりとは思ひきりて御味方を申。きよすの城をあけて渡し申事はたぐひすくなき御ちうせつなり。然る所に将軍様は宇都宮より御立被成、中道にかゝらせ給ひて押て上らせ給ひける処に、さなだが城へとをりがけに打よせさせ給ひける。将軍様御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡をつけさせたまひて御供させたまふ。なにかの儀をもおの〳〵にまかせずして、佐渡一人して指引をしたりける。佐渡がさなだにたぶらかされて、我はの顔して五三日日をおくりける。何事も各々は佐渡次第と被申て罷在間、佐渡がはからひも隼の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。然間二三日もおそく付せ給ふ。何時も何事に付ても、其道々にえたる者に指引をばさせてならでは、事のゆくべきにあらず。佐渡が我があしくしたるとはいわずして、後にはしらずがほしていたれ共、何事も皆佐渡が妨なり。其時繰引をしたり、是も佐渡がかうしやぶりにてくり引をして、後には我が利口に云けれ共、人々は佐渡がくり引とてわらひける。くり引と云事はあれ共、つひにくり引に合たる者はなくして、佐渡がをしへてはじめて各々もくり引に合たり。くり引に不及、敵が城より出たらば、おつ取〳〵おひ入て付入に城をとらんとはおもはで、さても〳〵佐渡はくり引はしたり。さて又さを山にて先ぜいに追付せ給ひ、其より伏見へ移らせ給ひて、押て大阪へうつらせ給ひけり。秀頼に腹を切せ給ふかと各々存知ければ、御じひなる上様にて、帰て後には将軍様の婿殿に被成ける。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




