3-15 石川数正の「裏切りバグ」と、信濃の緊急アラート
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
上田合戦で真田に手痛いデバフを食らった後、徳川ギルドをさらなる大混乱が襲った。天正13年(1585年)の暮れ、あろうことか最高幹部の一人、石川伯耆守(数正)が秀吉側へと寝返り、岡崎から出奔しやがったんだ。
今日は、サーバー崩壊の危機に直面した信濃・小諸城での「兄弟のガチ対談」、そして俺――大久保平助が引き受けた、報酬ゼロの「決死の留守居ミッション」の裏側を語ってやろう。
石川数正の裏切りは、徳川サーバー全体を揺るがす特大の「脆弱性」だった。当時、兄貴(大久保七郎右衛門)は信濃の最前線、小諸城にいた。家康公からは「すぐに岡崎へ戻れ」と、連日のように飛脚が届く。だが、兄貴は冷静だった。
「今、俺がここをログアウトしたら、信濃の治安維持が解けて一揆が起きる。そうなれば真田が確実に横取りに来る。さらに、越前にいる信玄の息子(勝道殿)を甲斐に担ぎ上げるなんて不穏な噂まで流れている。今引いたら、甲斐まで全ロスするぞ」
とはいえ、主君の命令は絶対だ。兄貴は「誰か代わりの管理者を残して、俺は帰還する」と決めたが……ここで大問題が発生した。兄貴は部下たちに聞いた。
「誰か、この城に残り、命懸けで守ってくれる奴はいないか? 相応の追加報酬(地行)は出すぞ」
だが、誰一人として手を挙げない。それどころか、みんなこう吐き捨てた。
「石川数正の野郎、俺たちの母親や女房を連れたまま秀吉のところへ行きやがった。家族の行方も分からんのに、今さら土地なんて貰っても、管理する気力もねえよ。俺たちはさっさと岡崎へ戻って、家族を奪還するか、主君の前で討死したいんだ!」
「報酬」が全く機能しない。 極限状態の「ハードコア・モード」に、ギルドの結束がバラバラになりかけていたんだ。
困り果てた兄貴は、ついに俺(平助)を呼んだ。
「平助。お前にこの城を任せたい。お前ならやってくれるだろ?」
俺は兄貴を正面から論破した。
「兄貴、俺も他のみんなと同じだ。数正の膝元にいた俺の母上も、女房も、今どうなっているか分からん。『地行をやるから残れ』だって? 笑わせるな。この状況で生き残って報酬を貰うなんて、奇跡でも起きなきゃ無理だ。俺は閻魔大王のサーバーに土地を捧げに行くつもりはないぜ。どうせ死ぬなら、主君の目の前(御旗先)で華々しく討死したい。こんな辺境の城で、誰にも知られずにロスト(幕の内の討死)するのは、絶対にゴメンだ!」
俺が「絶対に拒否」と突っぱねると、兄貴はしばらく沈黙し、そして深く頭を下げたんだ。
「……すまん。俺が悪かった。お前の言う通りだ。
母上のことは、俺たち兄弟が責任を持つ。女房の行方も分からん中で『報酬』なんて言葉を出したのは、兄としての間違いだった。平助、地行のためじゃなく、俺の頼みとして、命を捨ててこの城を守ってくれ。 お前が残ってくれなきゃ、俺は安心して主君のもとへ帰れないんだ。」
兄貴が「金」ではなく「情」に訴えてきた時、俺の覚悟は決まった。
「……そこまで言うなら、心得た。報酬なんていらねえ。俺の命、兄貴に預けてやるよ。一刻も早く岡崎へ飛んでくれ。ここ信濃のことは俺に任せて、二度と後ろを振り返るな!」
俺は即座に暇乞いを済ませ、兄貴たちを送り出した。それから天正13年8月から翌14年正月まで、俺はたった一人(と少数の部下)で、いつ敵が攻めてくるか分からん小諸城を守り抜いたんだ。
結局、数正はそれ以上こちらを攻撃してくることはなかった。俺の「不敵なログイン継続」が、敵を牽制したってわけだ。
どうだ。土地や金で釣る「ビジネスライクな奉公」が通用しなくなった時、最後に残るのは「兄貴の頼みなら死ねる」という、シンプルで強力な兄弟の絆だったんだ。俺は大久保家の「譜代」として、地行のために戦ったことは一度もねえ。
「ここで俺が引いたら、大久保のログ、ひいては徳川のログが汚れる」。
その一心で、報酬ゼロの地獄の留守番を引き受けたんだ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
各々ははつまがそり寄引取給へ共、大久保七郎右衛門者こむろの城にとゞまりける処に、天正十三年〈乙酉〉の暮に石河ほうき守逆心をして、女子を引つれて岡崎寄引のけける。上には岡崎へうつらせ給ふ。大久保七郎右衛門にも、さう〳〵罷上候へとこむろへ日々に重々飛脚立けれ共、七郎右衛門いそぎて上ならば、上方は乱而早七郎右衛門も落行と云ならば、爰元も乱而一揆も起き而あらば即さなだも偣者ならば、相違なくとらるべし。其ゆゑ越後に信玄御子に御せうどう殿と申而、御目の見えざるの御入候ふ。是親子を甲州へ入奉んやうに申而、是を何とかと心がけたると、さたの有様に申候へと、何となく申様に候へば、自然左様之儀も有らば、甲州迄も乱而可有、左様にも有ならばいよ〳〵御負けに可被成候間、爰元を少見合而罷可上と申而有とは申せ共、重々仰被下候へば、其儀ならば誰ぞのこしおきて罷可上と申而、御地行を申上而可出に、誰居よ彼居よと申せ共、御地行ののぞみ処にあらず。石川ほうき守ぎやくしんの故は、親女子のゆくへもしらずして、のこり所にあらずと各々申はらつていたり。七郎右衛門は其儀ならば是非に不及、各々は帰り給へ、我等が是に可有と云ければ、各々申は、たとへば親女子はつれ申共、我等共斗罷帰る事は中々有間敷、何方へもともかくも御貴殿次第と申。七郎右衛門はたれに申而もがつてんなし、然者平助是に有而くれよかしと被申ければ、我等もいづれも同前に候。ほうき守いられ候う膝の下に、母と女房をおきて、とられたるもしらざるに、御地行を申而、くれんなどといはれ而、跡にとゞまる者哉可有か。其故爰元之様子をも御らんぜ候ごとく、命ながらへて帰り而、御地行申うけ申事かたし。其故ほうき守ぎやくしんの故は、定而おほかたの儀には有間敷ければ、上而も死するとゞまりても死ずる、とてもしする物ならば、御旗先にて討死を可仕候。同命をまいらせながら、爰元にて果て候はゞ、人もしり申間敷候へば、幕の内之討死に候。其故母之儀は、御方にも母、次右衛門、権右衛門にも母にて候へば、我等一人之母にあらず。我等こそあらず共、両三人之御入候へば、思ひおく事はなけれ共、女房之行へもしらずして、其故命不定成処にて御地行ののぞみ処あらず。御地行は閻魔王の御前へさゝげ候はん哉、何と仰候共とゞまり申事は中々思ひよらず、ふつつといやに候。其時七郎右衛門申は、其方が被申候所げに〳〵左様に候。母之儀は子供あまたあればあんずる事なし。女子之儀はほうき守ちかくにおきたるに、何と成たるもしらずして御地行ののぞみ処にあらざると被申候事、其の儀は尤道理きこえ而候。其儀は我等あやまつたり、かんにんせよ。然者何の望もなく、命をすてゝ是に其方とゞまりてくれよかし。其儀にあらざれば、我等のぼり申事ならざる間、偏に頼入と被申ければ、其儀ならば心得申候。地行にたづさわりてならば、中々にかくごに不及候へ共、何かなしに命をすてよと仰候処を、いやとは不被申候間、さう〳〵一時も早くいそがせ給へと、重々の御意に候に、爰元之儀あんじ給ふなと言て、早早と申て暇乞してのぼせて、我は酉之八月より戌之正月迄とゞまりける。然共ほうき守させる手立もせずして引のきける。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




