3-14 沼田ハック――真田の「規約違反」宣言
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。これまでは天下分け目の大戦(PvP)を語ってきたが、今日は徳川史に残る「最悪の泥沼ミッション」について語らなきゃならねえ。
天正13年(1585年)、信濃の智将・真田安房守昌幸との激突――「第一次上田合戦」の記録だ。
この戦いはな、一言で言えば「家康公の調整ミス」と「現場の不手際」が重なったクソゲーだった。真田というチート級の策士相手に、徳川の重臣たちがどう「腰を抜かした」か。俺(平助)の視点から、生々しいリプレイを流してやろう。
発端は、北条との和睦の条件だった「沼田領の割譲」だ。家康公が「沼田を北条に渡してくれ」と命じたところ、真田昌幸はこう返してきた。
「沼田は家康から貰ったもんじゃねえ。俺が自分の手柄で勝ち取ったエリアだ。なのに、大した報酬もなしに『渡せ』だと? 冗談じゃねえ、そんな約束は認めん。 俺は今日から秀吉ギルドに移籍するぜ!」
こうして真田は徳川をログアウトし、敵対勢力へと寝返った。怒った家康公は、鳥居彦右衛門、平岩主計、そして俺の兄貴・大久保七郎右衛門ら、総勢数千人の精鋭を「上田城デリート作戦」に派遣した。
天正13年8月。俺たちは上田城へ押し寄せ、一気に二の丸まで乱入した。ここで「城に火を放って一気に焼き払おう(全焼デバフ)」というプランが出たんだが、ここで柴田七九郎(康忠)が「火を放ったら、中にいる味方が出られなくなるぞ! 止めろ!」とストップをかけた。
これが致命的な判断ミスだった。七九郎が若すぎたのか、実戦経験が足りなかったのか……。結局、火を点けられなかったおかげで、城内の敵はダメージを受けず、逆に俺たちが撤退する時に背後から怒涛の勢いでカウンターを仕掛けてきたんだ。
撤退戦は地獄だった。平岩主計の部下、尾崎左門は、自軍の崩壊を悟ってこう言った。
「昔のベテラン兵なら、下知一つで動いた。だが、今の連中は戦いも知らん素人ばかりだ。いくら命令しても耳に入らず、パニックを起こしてやがる。俺はここで討死する。主計によろしく伝えてくれ。」
左門はその言葉通り、戦場を去らずに討死。また、鳥居彦右衛門の部下、五見孫七郎も、敵軍の中に一人で走り込んで無双したが、多勢に無勢で討ち取られた。これを機に、徳川軍は完全に統制を失い、300人以上の死傷者を出す「全ロス寸前」の事態に陥った。
軍が四分五裂する中、立ち上がったのはやっぱり俺たち大久保一族だ。兄貴・七郎右衛門は「金のあげ羽の蝶」の指物をなびかせ、逃げる味方を叱咤して千曲川の河原に踏みとどまった。
そして俺(平助)だ。俺は「銀のあげ羽の蝶」(九尺の特大サイズ)を背負って、川を越えてくる敵を待ち構えた。
黒い具足を着て槍で突き込んでくる敵を、俺は力任せに突き伏せた。
「首なんて取ってる暇はねえ! 次の敵を連れてこい!」
俺の銀の蝶を見て、逃げかけていた松平十郎左衛門や足立善一郎たちが「平助がいるなら!」と次々に再集結してきた。
そこで俺は、敵の中に紛れ込んでいた真田の強キャラ、幣五右衛門を見つけた。
「おい、あいつは味方のフリをしてるが敵だ! 突き落とせ!」
足立善一郎が突き、俺も槍を繰り出し、桁甚六郎が脇腹を捉えた。五右衛門は後で「大久保平助に突かれた」と証言したらしいが、俺は正直に言うぜ。「俺の槍は曲げられて当たらなかった、甚六郎の手柄だ」とな。嘘をつかないのが俺のポリシーだ。
俺たちは奮戦したが、他の指揮官たちが最悪だった。
兄貴(七郎右衛門)は、平岩主計や鳥居彦右衛門、保科正直の陣を馬で回り、必死に説得した。
「おい! 敵がバラけてる今がチャンスだ。河原まで兵を降ろせ。俺たちが突っ込むから、後ろを固めてくれ!」
だが、彼らはガタガタと震え(ふるいまわり)、返事一つしやがらねえ。兄貴は吐き捨てるように言った。
「……まるで下戸に無理やり酒を強いてる気分だぜ。話にならん!」
俺が「兄貴、敵が川を越えてきたら全滅だ。鉄砲隊を前に出そう!」と進言しても、兄貴は力なく手を振るだけだ。
「……平助、無駄だ。あいつら全員、腰が抜けてやがる。鉄砲を出す気概のある奴なんて一人もいねえんだよ。弾薬がないなんてのは、ただの言い訳だ。」
結局、この戦いは真田昌幸の「完勝」で終わった。家康公の重臣たちが束になっても、真田一人の知略と、現場の「腰抜け」っぷりに敗北したんだ。
俺たちは「上田城」という難攻不落のバグを修正できず、屈辱のまま引き上げるしかなかった。
どれだけ数(軍勢)を揃えても、肝心のリーダーがパニックになれば、軍は落ちる。
真田のハックは凄まじかったが、味方の不甲斐なさにはマジで引いたぜ……
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然間、氏直合陣之時之、御無事のきりくみに、氏なほよりはぐんないと、作之郡、諏訪ぐんを渡し可申とて、是を渡しける。家康寄は、ぬまたを御渡し候へと御諚に付而、氏なほ寄は、御やくそくのとおりに渡り申に付而、然ば、ぬまたを小田原へ、渡し申せと仰被越候時、真田申けるは、沼田之儀は上寄も被下ず、我等手がらをもつて取奉る沼田なり。其故今度御忠節と申に付而、其御約束被成候、筋めの儀も御座候処に、其儀にさへ御手付も無御座候へば、御恨に奉存候処に、賸我等がもちたる、ぬまたを渡せと、仰被越候儀、なか〳〵思ひもよらずとて、渡し不申。其故御主には仕間敷とて、くわんばく殿へ申依る。然処に天正十三年〈乙酉〉之八月に、真田へ御人数をつかわされける。鳥井彦右衛門、平岩主計、大久保七郎右衛門、すわほうり、しばた七九郎、保科弾正親子、しもぢやう、ちく、遠山、大草、甲州せんぼう之衆、あした、岡部次郎右衛門、さいぐさ平右衛門、屋代越中、是等を指つかわされければ、上田之城へ押寄、二の丸迄 乱入ける間、火をかけんとせし処に、しばた七九郎かけよせて、火をかけたらば、入たる者共出る事成がたし。火をかくる事無益とてとめけるは、七九郎若げのいたりか、物に合付ざるゆへか、火をかけずしてかなわざる処之火をやめけり。然間其元を引のけ申す時、案のごとく、火をかけて、やき立る物ならば、出間敷敵なれ共、火をかけざる故に、城寄したいて出る。早しきりに付、各々寄弓てつぱうをあとへさげけるに、大久保七郎右衛門内、本田主水、平岩主計内之尾崎佐門に申けるは、佐門何としたるぞ、其元之様子殊外、そないがもめて見ゆるは、いかゞ成と申時、佐門こたへていわく、主水能く見たり。只今迄は、昔之てつぱう之者共が有つる間、よく心得而、人之云事をもきゝ候へば、下知をもなして、そないもさだまりてもめず。其者共は、朝寄ほねをくだきてかけ引したりければ、只今西東もしらざる物に合付たる事もなき者共を、かわりに越たれば、あわてふためきて、げぢを云にも、耳にも不入して、事おかしくあわてたる事に候へば、げぢにも付不申間、爰元之儀は、其方など見られ候分に候へば、只今にげちり可申間、佐門は是にて打死を可仕候間、若其方之命ながらへ而、引のき給はゞ、佐門が申つる由、主計によくかたりてくれよと、云もはてざるに、はやはいぐんしたりければ、佐門はことばの如く、場をさらずして、打死をしたり。鳥井彦右之者共は、一段高き所を引のきけるに、戸石之城寄出而付、是もきつ〳〵と付ければ、早ならざる間、ご見孫七郎が、人にすぐれてはしり出、鑓をくり出し、ひざぐるまにのせていたる処へ、敵おふぜい押かけければ、つつたちて、おふぜいの者共と、花々とつき合而、場もさらず、うたれければ、其より彦右の衆は、はいぐんしたり。七郎右衛門者は、乙部豆吉、本田主水両人弓、くろやなぎ孫左衛門てつぱうにて、押合而のきける。此外にも十二三人可有けれども、跡には此者共がのきけるに、乙部豆吉が一之矢をはなして、射外し、二の矢をつがはんとしたりける処を、早突きふせて打処を、くろやなぎ孫左衛門が、立はだかりて、てつぱうにて豆吉を、打者をはなしてのきければ、其よりこと〴〵くはいぐんして、諸手之衆が四五町之内にて三百余打れける。大久保七郎右衛門は、賀ゞ河迄引のきけるが、鳥井彦右衛門者共が、くづれて来るを見て、其方へむかひ而、一騎帰しける間、其付而大久保平助馬寄飛んでおりて、やりをひつさげ而帰しける。七郎右衛門は、金のあげ羽之蝶の羽のさし物にて、かけまわりければ、さし物を見て、頓て旗をも押寄ける。にげちる者もかけよせ而、河原にこたへける。平助は銀之あげ羽之蝶の羽之九尺有さし物をさして、むかひける処へ、くろき具足をきて、やりをもちて押込みて来る者を、つきふせ而、頸をばとらずして、よせくる敵をまちかけいたる処へ、さし物を見かけて、松平十郎左衛門来る。次に足立善一郎来る。次に木之下隼人が来る。其寄大田源蔵、松井弥四郎、天野小八郎、戸塚久助、後藤惣平、けた甚六郎、ゑざか茂助、天がた喜三郎、是等が、平助いたる処へ来りたれば、是等を引つれて、上のだいへ押上けるに、敵も防ぎけるが、ことともせずして、押上ける処に、めてはさなだが旗本、弓手と向ふは五間六間之内に、こと〴〵く敵がひかえていたる処に真田が内之へき五右衛門が弓手之方寄、此者共がならびいたる中を、敵としらで通処を、平助が見て、それは三つまきをせざるは敵にて有ぞ、それつきおとせと云ければ、八幡へき五右衛門にて有ぞ。敵にはあらざると申ければ、平助云、へき五右衛門と云に、つきおとせと言時、足立善一郎が、はしりかゝりてつきけるが、鞍の後輪へあたる。五右衛門が共に来る者が、やりを取なほして、善一郎を少つく。然処に大久保平助前へ来るを、胴中と思ひ而つきければ、五右衛門に付たる者共が、やりを四五本もちけるが、二三本にて平助がやりを、からみてなげければ、なほして、つかんとする間に打とおる。けた甚六郎が前へゆきける時、又平助云、甚六郎それつけといゝければ、はしりかゝりてつきけるが、是も追ひさまなれ共、肘のはづれ之腰わきにあたらん。然間へき五右衛門が申は、河中島衆之早くすけ来りたりと思ひ、味方と心得て、敵之中をとおりける処に、大久保七郎右衛門弟の平助に、つかれたると云ければ、平助云は、いや〳〵我もつきはついてあれ共、我が突く鑓はまげられ而、五右衛門にあたらず。けた甚六郎とて七郎右衛門者が、やりがあたる成。我にはあらずと云けるが、五右衛門は、平助につかれたるといへば、おぼへと心得而云けれ共、平助はつかぬと云。然間敵之中へ入而味方が帰しくるかと見ける処に、十七八なる童が一人、敵としらずして来りけるを、天野小八郎がつかんとしける処を、平助が見て、せがれにて有ぞ、むごきにゆるせとてゆるさせける。今思ひ合せ候へば、是等ほどよき高名は有間敷物をと、平助も若げのいたりにて打せず。坂井与九郎高名も其の時之高名を、御旗本にてはくづれくちの高名と云て、世にかくれなきやうに申共、一つ時之高名にて候つるが、与九郎高名は七郎右衛門旗之立たる処をしらでかけ入たる者なれば、味方の中にて打たる高名成。小八郎に平助が無用と云たる場は、与九郎高名の場寄一町程敵之中へ行過、敵の中にての事なれば、高名をせでさゑ此者共には、高名したる衆之口は開ざるに思へば、其時討すべきを然間敵之中にて味方の帰すかと見ける処に、何かはしらず、廿騎斗本道を石橋之方へ帰してくると見て、平助は其寄むかうの敵にむかひ而、帰し来る衆と一手にならんと思ひ而、押こみてゆきける処に、一度に行ける者共は、其時は一人も来る者なき所に、天方喜三郎斗来る。然間帰し来る馬乗を見てあれば、一人も見しりたる人なし。其時喜三郎是寄はゆく間敷ぞ、見しりたる者は一人もなし。只今此者共はくづれべきと申もあへざる処に、我さきにと迯げ行く。もとより敵は五六間之内にひかへたる事なれば、ほどなく乗り付けり。石橋之有ける処にて、天野金太夫と小笠原越中と、なみきり孫惣と、両三人がことばをかわして申は、平助が是をのく程に見捨てまじきとて、平助に詞を孫惣がかけける。見すてまじきと云ければ、三人は馬にのりたり。平助はおり立而、徒歩なれば、いらざるをかしき事ないひそと云てのく。大久保七郎右衛門は、平岩主計がそなひへのり入而云けるは、貴殿のそなひを河を越而、われ等がそなひのあとへ押付給へ。敵之人数之纒らざる内に、我等がきつてかゝるべし。然時んば一人もやるまじきと申せば、中々主計返事もせず。七郎右衛門重而云けるは、川を越事成間敷と思はれば、せめて河のはた迄そなひおろさせ給へ。我等かゝり可申と申けれ共、其儀もならざれば、七郎右衛門はらをたちて、日比其かくご成人なれば、ちからもなきあさましき事とてのり帰し而、又鳥居彦右衛門そなひへ行而申は、平岩主計方にそなひを河のはた迄おろし給へ。然者敵之人数ちり〴〵成内に、我等がきつてかゝらんと云けれ共、震慄まわりて物をもゆわず。然者彦右のそなひを我等そなひのあとへ押出し給へ。敵之人数ちり〴〵にてまとわぬ内に、我等きつてかゝらんと云けれ共、鳥居彦右もことばをも不出して有ければ、其儀ならば河越事をいやとおもはれば、河のはたまでそなひをおろさせ給へ。我等がきつてかゝるべし。せめてあとをくろめ給へと云けれ共、返事もなければ、何れも下戸に酒をしいたるふぜいなれば、ちからもなし。日比之存分之ごとく成とて立帰り、又ほしなのだん正方のそなへへのり入而、御身のそなへを河のはたへおろし給へ。然者敵のまとまらざる内に、我等がきつてかゝるべしと云ければ、是は猶もふるゑて返事もなければ、あつたら地行かなと云すてゝ帰る処へ、平助が乗り迎ひ而、河むかひの敵が河をこしたらば、此ていにてははいぐん可有と見えたり。てつぱうを河のはたへ出させ給へと申ければ、七郎右衛門物もいはずして手をふりければ、手をふりてはかなふまじきに、はや〳〵
てつぽうを出させ給へと申ば、其時七郎右衛門たまくすりがなきぞと言ければ、たまくすりのなきとは何としたる事ぞや、はや〳〵出させ給へと云ければ、其時せがれめが何を云。こと〴〵くこしがぬけはてゝ出んと云者一人もなきぞ、こしがぬけたると云へば、諸人のよわみ成に、たまくすりがなきと、云物なるぞと云ければ、平助も其儀ならばとて、かはらへのり出して帰る。され共敵も河を越さずして引入ければ、相互に引。然間明之日はまりこの城へはたらかんとて、ちぐま河を越而八重原へ押上ける処に、さなだは是を見て、うんのゝ町へ押出して、八重原之下を一騎打に、手しろづかまではたらきければ、大久保七郎右衛門が是を見て、しばた七九郎をつかいにして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申越ば、両人之旗をちぐま河のはたへ押おろさせ給へ。然者岡部次郎右は若く候へば、よた源七郎と、すはと我等がむかつて、中を取きりて、ねつ原へおひ上而、一人ももらさず打取べきと申けれ共、両人之衆一ゑんにすゝみ不申。されば七九郎も手をうしない而立帰り、七郎右衛門に語ければ、如存知左様に可有。然者河のはたへ出させ給ふ事ならずば、此の山さきまで押出してあとをくろめ候へ。兎角に我等がかゝり可申と重而申ければ、両人ながら七九郎にも出合給はず、七九もはらを立而此由七郎右衛門にきかせければ、七郎右衛門はこの内之鳥をにがしたりとて、手をうしないて有けるが、重而又御越候へ而給候へと申ければ、其時七九郎七郎右衛門にはをかけ而申は、どれ〳〵とてもげこに酒をしいたるごとくに武辺之方をしいればとて、しいたよりもあらざるに、重々千度百度行たればとて、かたが可付か、天日あつきとてかきがみをかぶりて、我等にも不出合して、臥りて有にいらざる事を被申候物かな、あのていに候はゞ、出たり共やくには立まじければ、ほしなだん正親子と右之両人をば有なしにして、其方と我等計成共、出ば出させ給へと被申ければ、源七郎も幼少成、岡部内前もやうしやうなれば、御身と諏訪と我等三人して、進む所にあらざれば、無是非とて打おきぬ。然る所にまりこへはたらきて、八重原に陣取ければ、さなだも押帰して相陣之取ける。然る処に岡部内前之物見番之時、さなだ親子足軽之中へ打まじりて、手ぎつくせり合けるが、岡部内前には、駿河先鋒のこゝわの者共あまたあつまりければ、事共せずしてあひしらいける。其時七郎衛門又もやこりずして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申被越ける。さなだ親子あしがる場へ出而、かけ引をしたると見えたり。ねがうに幸の処へ出たれば、両人の旗を我等が陣場迄出させ給へ。然者内前之手まへは引はなされば成間敷候へば、内前を一番にして、其あとへ我等が押つめて、合戦をするならば、さなだ親子をばとてもあの坂をばあげ間敷、打可取と度々のつかひを立けれ共、中々返事もせざれば、日比の事はしりてあれ共、か程とはしらず、もつけかな〳〵とて打返ぬ。岡部内前斗にても追ひ不被立して、対々にして有つるに、各々出たらば手に物はもたすまじき、千兵はもとめやすし、一将はもとめがたしとは今思ひ合たり。二人之心をもつて勝利をうしなひ給ふ。殊更何れもの手はよき事に会か又あしき事に会か、何様に此度手にあはざる人は一人もなけれ共、ほしなだん正は、よき事にもあしき事にもあわざれば、たぐいなき武者下戸と見へたり。然間此衆ふるひまわりたる故に、いよ〳〵敵もきをもちければ、相陣ののきかね而、重而御かせいを申うけて引のきて、各々ははつまがそりに城を取給ひと、よだの源七郎は天神林に行而、おさいにおりければ、其時も大久保平助にてつぼうを相そへてかせいに越たり。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




