3-12 見坂の迎撃――「500の生首」という特大デバフ
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。本能寺の変という「サーバー大崩壊」の後、甲斐・信濃という「無所属エリア」を巡って、徳川ギルドと関東の巨大勢力・北条ギルドが激突した。これが天正壬午の乱だ。
今日は、北条の戦意を根こそぎ奪った「精神的デバフ」攻撃と、我が兄・七郎右衛門(忠世)による信濃の超速攻略ログを語ってやろう。裏切りと死、そして交渉。戦国サーバーのドロドロした「メタ・ゲーム」の極致だぜ。
古府中の留守居(防衛)を任されていた鳥居彦右衛門(元忠)と、その甥の三宅惣右衛門。この叔父・甥コンビの動きがキレキレだった。
北条の大軍が押し寄せてきたが、彦右衛門たちは「見坂」でこれを迎撃。敵を完膚なきまでに叩きのめし、北条軍は散り散りに逃げ出した。おかげで味方の左衛門助殿も、命からがら戦線を維持できた。だが、ここからが「三河流」のえげつないところだ。
彦右衛門と惣右衛門は、戦場で仕留めた雑兵500人余りの首を回収し、新府(徳川の本営)へと送り届け、敵からよく見える場所にズラリと晒し上げた。これを見た北条軍の兵士たちはパニックに陥った。
「おい、あの晒されている首、見てこいよ……」
恐る恐る確認に行った兵たちは、叫び声を上げた。
「……ああ! これは俺の親父だ! こっちは俺の兄貴だ! 甥っ子に、従兄弟まで……!」
身内の無残な姿を見た兵士たちは、戦う意欲がゼロになり、泣き叫んで首を抱きしめるしかなかった。これを見た北条氏直も「……これ以上の継戦は無理だ。和解しよう」と、折れるしかなかった。
天正10年10月。徳川と北条の間で「和睦」が成立した。条件はこうだ。
北条の取り分: 上野の沼田エリア。
徳川の取り分:甲斐と信濃の郡内・佐久エリア。
氏直は「わかった、もう帰るよ」と、信濃の野辺山を通り、碓氷峠を越えて、本拠地の関東(上野)へとログアウトしていった。
家康公は甲斐を完全に掌握し、次なるターゲット、信濃・佐久セクターの制圧を我が兄、大久保七郎右衛門(忠世)に命じた。
天正10年9月。兄貴(七郎右衛門)は家康公の命令を受け、新府を出発した。まずは「諏訪」を調略で味方に引き入れると、そのまま佐久郡へ突入。そこは、四方1〜2里の間に小規模な城(屋敷城)が密集する「高密度防衛エリア」だった。
小諸、内山、岩村田、海ノ口、平尾……。兄貴はこの「ミニボス」たちの間にグイグイ割り込み、ある時は攻め落とし、ある時は交渉で寝返らせ、信濃の勢力図を次々と「徳川カラー」に塗り替えていった。まさにマップ全消しの勢いだ。
天正11年(1583年)。快進撃を続ける徳川軍だったが、ここで大きなロストが発生する。前回のログで活躍した、信濃工作の要・依田右衛門 信蕃だ。彼は「岩尾城」を力攻めで落とそうと、先陣を切って乗り込んだ。
だが……。なんと、兄弟揃って「狙撃」というクリティカル・ダメージを食らって討死してしまった。指揮官二人のロストにより、軍は一時撤退。だが、敵に首は取らせなかった。
その後、兄貴(七郎右衛門)がこの穴を埋め、残る全ての城を制圧。天正12年(1584年)春には、あの有名な「上田城」を手に入れ、それを真田(昌幸)に引き渡すことで、信濃の防衛ラインを完成させた。
500の首で敵の精神を破壊する戦術。そして、佐久12の城を同時並行で攻略していく兄貴の「マルチタスク能力」。
三河武士はただ頑固なだけじゃない。「勝つための最短ルート」を、冷徹かつ泥臭く実行する。 これが、後の天下を支える実務能力だ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然所に鳥居彦右衛門と、三宅惣右衛門と、伯父姪をば古府中之御留すいに、おかせられ給ひけるが、此由を聞寄急かけ付ければ、おどろきさわぎける処へ、押寄押寄打ければ、こと〴〵くはいぐんして、見坂を指而にげ行ければ、左衛門之助殿もから〴〵の命たすかり給ひて、見坂を指而おちゆき給ふ。然間、彦右衛門惣右衛門両人之手柄云に不㆑及。さて頸を雑兵五百余新府中へつけて越ければ、物見場にかけさせ給へば、敵方是を見て何事をするやらん。寄合而 走廻りありくとて見ける処に、頸をかけて立のきければ、敵方いそぎ来りて見て帰り、氏直へ申上けるは、何頸やらんこと〴〵数かけて見へ申と申上ければ、何頸にて有ぞ見て可参由被仰ければ、各々来り而見て、是は我が親、是は我が兄、甥、従弟、是は我が伯父あに弟と申而、興を醒し頸をだきかゝへてなきさけぶ。氏直もいよ〳〵是におどろき給ひ而、其儀ならば無事をつくりて合互に引のけべしとて、ぶぢをぞつくり給ふ。然る間ぐんないと作之郡を渡し可申間、然らばぬまたを此方へ御帰しあつて、御ぶぢに被成候へと仰ければ、其儀においては尤可然と被仰候らいて、頓而御ぶぢに成而、まづぐんないを渡し給ひ而、其故氏直はのべ山にかゝらせ給ひ而、作之郡へ出させ給ひ、うすいが峠を越而上野へ出させ給ひ而引入給ふ。家康もかい之国をおさめさせ給ひ而、其寄大久保七郎右衛門を仰被付而、作之郡へ召つかわされ而、御馬は入。七郎右衛門は御うけ申而、午之九月新府を立而、かぢが原にてすわへ使を立而、すわを引付而、ゑんのぎやうじやへ出て、其寄あしたの小屋へゆきければ、早野ざはの城を明、前山之城を焼きはらいてのきけるに、其城へうつりて有に、四方に一里二里之内に小城屋敷城共に十二三有。こむろ之城、ねつごや、もぢつきのあなご屋、内山之城、ゆわをの城、みゝ取之城、かしわぎの城、ひらはらの城、田之口之城、ゆわむらだ之城、うみの口、平尾之屋敷城、あらこの屋敷城、此城々の中へわり入而、四方へ取合而其内に此方彼方を引付けり。まづ岩村を引付而寄、午之年之内に大方引付而、未之年よだ右衛門は岩尾之城をのり取んとて、押寄而のり入処に、右衛門はてつぱうにあたり而打死しける。舎弟之源八郎もてつばうにあたり而はてけり。兄弟打死をしたりければ其儘引のく。然共敵にしるしは取られず、又七郎右衛門が未之年こと〴〵く城共を取おさめて、天正十二年〈甲申〉之春、上田之城を七郎右衛門が取而、さなだにわたす。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




