3-11 酒井忠次の「失言デバフ」と、諏訪の離反
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。本能寺の変という「サーバー大崩壊」のあと、甲斐・信濃の「未所属エリア」を巡って、徳川ギルドと北条ギルドが激突した「天正壬午の乱」。
今日はその中盤戦、最悪の外交ミスから始まった「絶望的な退却戦」と、起死回生の「真田ハック」の記録を語ってやろう。
4万超えの巨大ギルドを相手に、わずか3,000人でどう立ち回るか。これぞ三河武士の「意地」のログだ。
天正10年(1582年)。北条氏直が4万3,000という圧倒的な軍勢で信濃へエントリーしてきた。これに対し、徳川の重臣・酒井 左衛門督忠次は3,000の兵で信濃・伊那郡に入った。
ここで忠次が致命的な「外交エラー」を犯す。協力関係にあった諏訪ギルドに対し、
「信濃は俺たちの領土に設定された。諏訪も俺たちの配下(手つけ)に入れ」と、高圧的なコマンドを叩きつけたんだ。これに諏訪側がブチ切れた。
「家康公ならまだしも、お前にそんなこと言われる筋合いはねえ! だったら北条(氏直)に付いてやる!」
こうして諏訪が敵側に寝返り、徳川軍は一気に「包囲されるリスク」を背負うことになった。
徳川軍の精鋭(大須賀、大久保七郎右衛門、本田豊後、石川長門など)は、信濃の「乙事」に陣を張っていた。だが、わずか1里(約4km)先に、北条の4万3,000が迫っていることに全く気づいていなかった。
ここで兄貴(七郎右衛門)の忍び・石上菟角が「北条がすぐそこまで来てるぞ!」と特大の警告を飛ばした。
「おい、今すぐ逃げないと(ログアウトしないと)全滅するぞ!」
だが、ここで三河武士特有の「面子」が発動する。兄貴(七郎右衛門)は、諏訪を敵に回した忠次に対し、とガチギレ。
「あんたの口の悪さのせいで、味方が敵になったんだ。まずは責任取ってあんたが先に退け。あんたが退かないなら、俺はここに残って死ぬ!」
対する忠次も、
「お前こそ先に退け! お前が退かないなら俺も動かん!」
と、敵が目の前まで来ているのに、どっちが先に退くかで「口論」を始めてしまった。これぞ三河武士の不器用すぎる仕様だ。
結局、忠次が先に陣を払い、火を放って退却を開始した。それを見た北条軍が「逃がすか!」と一斉に押し寄せてくる。徳川軍の残る6部隊(大久保、本田、石川、大須賀など)は、わずか3,000。対する北条は4万3,000。【戦力比 1 : 14】。まさに無理ゲーだ。
北条軍は山道の上から見下ろし、今にも徳川軍の先頭を叩き切ろうと迫ってくる。だが、ここで徳川のガチ勢たちが本領を発揮した。
【ホールド・ポジション】:追いつかれそうになると、6部隊が同時にピタリと止まり、旗を押し立てて逆に前進する。
【フェイント攻撃】:北条軍が「おっ?」と怯んだ隙に、足軽が鉄砲を撃ち込み、その勢いのまま静かに距離を取る。
【威圧バフ】:一定距離を退くたびに、また旗を立てて「いつでもかかってこい」というポーズを見せる。
この冷静すぎる「引き」に、北条軍は「こいつら、何か罠を仕掛けてるのか?」とビビってしまい、ついに一度も接触できずに7里(約28km)の道を退ききった。一人も戦死者を出さずにだ。これは古今の戦史にもない、奇跡の戦果だった。
新府(徳川の本営)まで退いたものの、状況は依然として厳しい。家康公の軍勢はわずか8,000。北条は相変わらず4万以上。ここで兄貴(七郎右衛門)が、次の攻略パッチを提案した。
「北条に付いている真田安房守(昌幸)を、こちらに引き戻しましょう」
兄貴は、不器用だが忠実な杉浦久蔵を呼び出し、極秘メッセージ(家康公の直筆サイン入り)を預けて真田の元へ忍ばせた。
このハックが成功! 真田昌幸は再び徳川に寝返り、徳川軍の拠点(芦田の小屋)に兵糧を差し入れ、飢え死に寸前だった味方のスタミナを回復させてくれた。
真田の寝返りに焦った北条は、別働隊1万を「郡内」へ派遣。一揆を煽って徳川軍の揺さぶりをかけてきた。
家康公は対抗措置として、新府の向かいにある「向かいの原」に突貫工事で砦を築いた。
「ここは大事な拠点だ。絶対に油断するな!」
家康公の命令で、夜番が設定された。松平家からは孫三郎、そして大久保家からは……そう、俺(大久保平助)が指名されたんだ。俺たちは一日一夜交代で、北条軍の動きを監視し続けた。
この「地道な防衛ログ」の積み重ねが、巨大ギルド・北条をジワジワと焦らせ、後の勝利へと繋がっていくことになる。
どうだ。これが「譜代」のチームワークだ。忠次と兄貴の喧嘩みたいなバグがあっても、戦場では3,000人で4万人を翻弄し、裏で真田をハッキングして戦況をひっくり返す。
「圧倒的なスペック差があっても、プレイヤースキルと情報戦で勝機を掴む」。これが三河武士の、そして「大久保一族」の戦い方だ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然る処に北条の氏直は、かんな河にて滝川伊予守と合戦して打勝而、信濃のうすいとうげを越而、作之郡へ出でければ、頓而真田 安房守も氏直の御手に付く。然間坂井左衛門督は、東三河之国衆を引つれて、三千斗にて伊名郡へ出て、すわへ来り而被申けるは、信濃をば我等に被下候へば、諏訪をも我手つけんと云ければ、其時すは気を違へて、其儀ならば家康へは付申間敷、然ば氏なほへ可付とて、手ぎれをして氏なほへ申つかわしければ、氏直は此由聞召而、蘆田小屋へあてゝ、其寄ゑんのぎやうじやへ出て、かぢが原に陣取。坂井左衛門督三千斗にて、すわをのきて、おつこつに陣之取。同大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、石河長門守、本田豊後親子、岡部次郎右衛門、あな山衆、是もおつこつに陣之取而有けるが、氏なほ道一里の内外に、四万三千にて陣取給ふを、夢にもしらずして有ける処に、七郎右衛門に石 上菟角と云者、あしたの小屋寄、氏なほのすわへ出馬有けるが、おつこつに陣取衆之儀、心元なきとて八つがたけをしのび而来りて申けるは、氏なほはかぢが原に、四万三千之人数にて陣取而、纔是寄一里の内外可有に御存知有而御入候哉と莵角が申ければ、其儀ならばみせに可越とて、其時おつこつの名主太郎左衛門と申者七郎右衛門が陣場に有而、何かの指引を申付而おきたる事なれば、所之者之事なれば、太郎左衛門を申付而見せにつかわしければ、太郎左衛門罷帰而申、むかひの原之しげみ之かげにまんまんと陣取而有。明日は定而是へ押 寄可申かと申ければ、其儀ならば然ばのけやと各々被申ける処に、すわにて七郎右衛門が申けるは、すわを引付而御味方申処を、左衛門督殿口さきをもつて、二度敵になしたると申而、左衛門督と七郎右衛門と、口問答をしたりける。故をもつて坂井左衛門督殿は、七郎右まづのき給へ。七郎右之のき給はずば、我はのく間敷と被申候。七郎右は左衛門督のき給へ、左衛門督殿のき給はずば、何と有而ものく間敷と、申はらつていたりけるに、敵はさわを越而我おとらじと、むかひの原へ押上けれ共、此もんどうがはてざれば、さらばとて左衛門督殿のき給ふ。左衛門督殿も此もんどうにはらを立而、四つ之比のき給ひしに、陣場に火をかけ而陣ばらいをし給へば、敵は此由を見るよりも、早めて押出す。左衛門督殿は其寄もあとも見ずしてのきはらい給ふ。然処にはじめ寄一手におしたる事なれば、六手の衆は一度にのく。しつはらいが、岡部次郎右衛門、二の手があな山衆、三が大久保七郎右衛門、四が本田豊後親子、五が石河長門守、六が大すか五郎左衛門、是六手が一所に成て五郎左衛門を先に押立、だん〳〵に押而のきける所に、氏なほは四万三千之人数にて、嵩成道を押而敵を見くだして、先をもぎらんと踸。六手之衆は漸々 取集而雑兵三千之内外にて、敵をかさに見上而、無㆓動転㆒引のけける処に、早頓而先を取きらんとしたりける処に、六手が一度に立とゞまりて、旗を押立て踸ければ、敵も帰され而徐呷而見へければ、猶侑而あしがるを出し、てつぱうを打かけて、其競に酷ずして禅引のきければ、敵もしらみて見へける間、そこを十町斗引のけて又旗を立て、敵を相待たるていにいたし候へば、敵も脇へまわすと見へける処へ、早石河はうき守をはじめとして、其外之衆すけ来りければ、坂井左衛門督も押とゞまる。然間氏なほも其寄若見こへ押而、陣之取給へば、各々は新府へ入而陣之取ければ相陣に成。然間六手之大将衆心おくれ之衆ならば、はいぐんもせでかなわざる事なれ共、各々度々之事に合付たる人々の事成。其故三千之人数が千斗は度々の高名、名をあらはしたるこゝはの者共なれば、十万騎二十万騎にてよせくると云共、一合戦づつ花々とせずしては、六手ながらおくまじきそなひに候へば、四万三千之人数をもつて、纔三千之内外之者が、七里之道をつかれて、人を一人打せずして引のく事は、上古も今も有がたし。然る処に家康は古府中に御座被成候つるが、明之日は早新府中へうつらせ給ひけり。然とは申せ共、家康之うつらせ給へ共、御人数は八千寄外は無之と申せ共、日夜之戦にも、四万三千之敵に一度もつらは、出させ給はず。然ば氏直仰けるは、是寄古府中を押而郡内へ入而、引取らんと仰ける由を家康聞召而、其儀ならばむかいの原に取出を取而、氏なほ押而とおらば取出へ人数をうつして、合戦を可被成とて若見こにも、むかいの原新府にもむかい之原に取出を被成けり。其日かきあげ斗成されて、夕さりは松平上野者と、大久保七郎右衛門者を指越而、大事之番にてある間、ゆだん仕なと仰被越ければ、松平上野殿寄は松平孫三郎を指越給ふ。七郎右衛門方よりは、大久保平助を指遣しける。次之日は御普請をも丈夫に被成而、其寄は諸手よりも一日一夜がわりに番をしたり。然間大久保七郎右衛門方より、あした方へ申越而、何とぞ才覚をめぐらして、真田を引付給へと申越候へばあしたがさいかくしたり。然共家康御前之さいかくをよく被成而、さなだ安房守方へ具に被仰越候へと、あした方より申越に付而、御はんぎやうを取、七郎右衛門方よりもくわしき事杉浦久蔵に申きかせて、久蔵をしのび而、遣しければ、安房守は即御手に入ければ、あしたの小屋へもひやうらう米をいれけり。此比は小屋も兵粮米につまり而、牛馬を喰い而命をつぎける処に、さなだにつゞけられ而、命ながらへたり。然処にさなだとあしたと一手に成而、うすいを取きらんとしければ、氏直滅亡とや氏まさも思召か、含弟之北条之左衛門助殿を仰被付れて、一万余にてぐんないへ出、見坂を越而東郡へ打出、此方彼方に打ちりて、はう火してらんぼうをして、そなひを乱しける。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




