3-7 松平信康の切腹、残された因果
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
これまで三河武士の意地と勝利の記録を語ってきたが、今日は……正直、思い出すだけでも胸が締め付けられる、徳川サーバー最大の「悲劇のログ」を語らなきゃならない。
若君・松平信康様(三郎様)の切腹事件だ。
信康様はまさに「次世代最強プレイヤー」の風格を持っていた。だが、身内の「通報」と、織田信長の非情な裁定、そして古参スタッフの「痛恨のミス」が重なり、最悪のバッドエンドを迎えてしまった。
天正4年(1576年)から5年にかけて、家康公は「犬居」や「小山城」を攻めていた。小山城の攻略中、武田勝頼が後詰めとして増援。戦況は厳しく、家康公は撤退を余儀なくされた。
この撤退戦で、信康様は驚くべきプレイスタイルを見せた。普通、大将や嫡男は真っ先に安全圏へ逃げる(お先へのく)もの。だが、信康様は一歩も引かず、最後尾(殿)を志願した。
「父上、敵に向かっている間は、俺が先頭を走ってもいい。だが、敵を背にして逃げるなら、まずは父上が先に行ってください。親を後ろに置いて、子が先に逃げるなんて、そんな『不孝な記録』を残せるわけがないでしょう。」
家康公は「何をバカなことを。早く行け!」と千度百度も命じたが、信康様は頑として動かない。結局、家康公が折れて先に城へ入り、信康様が悠々と最後を守り抜いた。この「親孝行バフ」全開の姿に、敵の勝頼でさえ深追いを止めたという。まさにカリスマだった。
だが天正7年、信康様の奥方・徳姫から、父である信長公へ一通の「信康に関する12ヶ条の不適切行為の報告書」が送られた。内容は「夫婦仲が悪い」「信康様は素行が荒い」といったものだった。
信長公は徳川の重臣・酒井左衛門督忠次を呼び出し、一問一答の面談(事情聴取)を開始した。
「左衛門。このリスト(12ヶ条)の1つ目、これは事実か?」
「……はい、存じております。」
「2つ目は?」
「はい、それも事実です。」
信長公が10個まで問い詰めると、忠次はすべて「Yes」と回答。信長公は残り2つを開くのを止め、こう宣告した。
「家のベテラン(おとな)がこれほど認めるなら、もう救いようがない。信康を切腹させろ。家康にそう伝えろ。」
忠次がなぜここで「事実です」と全肯定してしまったのか……。これが後に、古参の間で「忠次の痛恨のミス」として語り継がれることになる。
この最悪の「BAN命令」を持ち帰った忠次は、岡崎の信康様をスルーして、直接浜松の家康公へ報告した。
家康公は天を仰いだ。
「……信長公の命令なら、背くことはできん。だが、高きも低きも、親が子を可愛いと思う気持ちは同じなのだぞ……!」
そこへ、信康様の教育係だった平岩七之助(親吉)が、泣きながら飛び出してきた。
「殿! 聊爾に若君を殺しては、一生の後悔になります!すべては教育係である俺の責任です。俺の首を刎ねて信長公へ届けてください。 『家康の独り子を不憫に思って、平岩の首で勘弁してくれ』と誰かに頼み込めば、信長公の怒りも和らぐはずです!」
七之助は、一刻も早く自分の首を差し出せと激しく詰め寄った。家康公は答えた。
「七之助、お前の気持ちは嬉しい。だが……相手はあの信長公だ。左衛門督(忠次)がすべて認めてしまった以上、もはや小細工は通用しない。お前まで失えば、俺は二重の恥をかくことになる。」
天正7年(1579年)9月15日。信康様は岡崎城を出され、大浜、堀江、そして最後の場所である「二俣城」へと送られた。
見届け人は服部半蔵。信康様、御年わずか21歳。何の咎もない、あまりに無残なロストだった。
信康様は、昼も夜も武勇の話ばかりをし、馬や鷹を愛する、まさに戦うために生まれたような御方だった「三郎様がこう仰っていた」と、後の世まで人々が語り継ぐほど、その「プレイヤースキル」と「器量」は群を抜いていたんだ。
家康公も、自分の持てる武勇のすべてを継承させた嫡男の死に、声を出して泣いた。
どうだ。通報した奥方(徳姫)も、信長公の娘という立場ゆえの葛藤があっただろう。だが、家臣団の長である忠次が、主君を庇いきれなかったことに対し、人々は「主君を見捨てて保身に走ったのか」と長く憎むことになった。
「どれほど最強のステータスを持っていても、身内の不和と権力者の不信には抗えない。」
これが三河武士が経験した、最も辛い仕様変更だ。
信康様には二人の姫が残されたが、その悲しみは三河、遠江の万民の胸に刻み込まれた。
今日は少し、重いログになってしまったが……これもまた、徳川の歴史だ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然る処に天正四年七月日、いぬゐへ御はたらき有而、たる山の城を責取、其寄かつさかへ押寄せ給へば、しほ坂を持ちて入立ざれば、大久保七郎右衛門に石が嶺へあがりて、かさ寄も追ひ崩せと御意之候へば、おうけを申而七郎右衛門石きりへうつりければ、天野宮内右衛門かなはじと思ひ而、しほざかとかつさかをあけて、しゝがはなへ、うつりて引のきけり。大久保七郎右衛門は、天正三年〈乙亥〉寄同天正九年〈辛巳〉年迄、二俣、高明、入手をもちて、境めに有りて、日夜無隙山野に臥してかせぎけり。さて又、天正五年〈丁丑〉に、すはの原の城を責させ給ひ而、頓而責取給ふ。其寄小山之城を押寄而責させ給ふ処に、勝頼は後づめと被成而、長しのにて打死の跡嗣之、十二三寄うへの者、又はしゆつけおちなどを引つれて、御出馬ありてはやおほ井河を、一そなひ二そなひ越ければ、城をまきほぐして、引のき給ふ時、いらうさき迄は、敵にむかわせ給ひし程は、信康何共不被仰してのかせられ給ふが、いらうさきより敵をあとへなす時は、信康之仰には、是迄は敵にむかひ申なればこそ、御先へは参たり。是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上様のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子の身として、先へのく事の御座可有哉と被仰ければ、大殿之御諚には、せがれのゆわれざる事を申者哉。とく〳〵のき候へと、千度百度、押しつおされつ仰られけれども、つひに信康はのかせられ給はねば、大殿之まけさせられて、引のかせ給へば、信康は御あとをしづ〳〵と引のかせられ給へば、勝頼も河をば越給はず、河を越たる者も引とり、上様もすはの原城へいらせ給ひ而、其寄御馬は入。丑之年信康之 御前様寄、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条かき立被成而、坂井左衛門督にもたせたまひて、信長へつかわし給ふ。信長左衛門督を引むけて、まきものをひらき給ひ、一々に是はいかゞと御たづね候へば、左衛門督中々存知申と申ければ、又是はと被仰ければ、其儀も存知申と申ければ、信長十ヶ所ひらき給ひ、一々に御尋ありければ、十ヶ所ながら存知申と申ければ、信長二ヶ所をば、ひらかせ給はで、家之おとながこと〴〵く存知申故はうたがひなし、此分ならばとても物には成間敷候間、腹をきらせ給へと、家康へ可被申と仰ければ、左衛門督此由おうけを申而、罷帰時、岡崎へはよらずして、すぐに浜松へとをりければ、御利根成殿に候へば、頓而御心得被成而、是非に不及と被仰けり。家康へ此由を左衛門督が申上ければ、此由を聞召而、是非に不及次第成、信長に恨はなし、高きもいやしきも子の可愛き事は同前成に、十ヶ所迄ひらき給ひ而、一々尋給ひしに、しらざる由申候はゞ、信長もか様には仰間敷を、一々存知申と申たるによつて、か様に被仰候成。別之子細にあらず、三郎をば左衛門督がさゝゑによつて、腹をきらする迄、我も大敵をかゝゑて、信長をうしろにあてゝ有故は、信長にそむきて成がたければ、是非に不及と被仰ける処に、平岩七之助罷出て申けるは、聊爾に御腹をきらせ御申給ひては、かならず御後悔可被成。然者某を御もりに付奉り候へば、何事をも某之いたづらに被成候へて、某が頸をとらせ給ひて、信長へ急指被上給ば、其時誰ぞ御頼被成而、家康も独子にて御座候間、ふびんに可被存と申上候はゞ、其時は信長も、某が頸之参ると聞召給はば、疑団のやはらぐ事も可㆑有に、兎角に某が頸を一時もはやく指つかわされ給へと思ひ入而、重々指つめ〳〵申上ければ、七之助が云処尤成、忝こそ候へ、能つく案じても見よ、我も国にはゞかる程の独子をもちて、殊更我あとをつがせんと思ひて有に、か様に先立申さんこと、日本之はじと云、いか計めいわくこれにすぎず、然るとは云共勝頼と云大敵をかゝへて有なれば、信長をうしろにあてねばかなはざる事なれば、信長にそむきてはならず、其故汝をきりて頸をもたせてやりて、三郎が命さへながらへば、汝が命をもらはんずれ共、左衛門督がさゝへの故は、何としても成間敷に、汝までなくしては上がうへの恥辱成。然者三郎をふびんなれ共、岡崎を出せと仰あつて、岡崎を御出被成而、大浜へ御越有而、其寄ほりゑの城へ御越被成而、又其寄二俣の城へ御越被成而、天方山城と服部半蔵を仰被付而、天正六年〈戊寅〉御年二十にて十五日に御腹を被成けり。何たる御とがもなけれども、御前様は信長の御娘にておはしまし給ふ。其故早御姫君も、二人出来させ給へ共、御不合にも有つるが、それとても御子も有中と申、御ふうふの御中なれば、御子の御ためと申、人口と申、方々いか様に御さゝへ可有にはあらざる御事なれ共、さりとてはむごき御仕合と、申さぬ人はなかりけり。それのみならず、坂井左衛門督は御家のおとなと申、御普代久敷御主の候事を、御前様に見かへ奉りて、御前と一身して、よくも〳〵くちを指上而さゝへ奉りたりと、各々上下共に申而にくみけれども、信長へおそれをなして讐はならず、さてもをしき御事かな、これ程の殿は又出がたし。昼夜共に武辺之者を召寄られ給ひ而、武辺の御ぞうたん計成、其外には御馬と御鷹之御事成。よく〳〵御器用にも御座候へばこそ、御年にもたらせられ給はね共、被仰し御事を後之世迄も、三郎様之如此被仰しとさたをもする、人々もをしき事とさたしたり。家康も御子ながらも、御きやうと申、さすが御親之御身にもたせられ給ふ御武辺をば、のこさず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ数々に思召候へども、其頃信長にしたがはせられで、かなはぬ御事なれば、是非に不及して、御腹を御させ給ふなり。上下万民こゑを引而、かなしまざるはなし。信康之御そく女二人おはしまし給ふ成。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




