3-6 武田騎馬軍団の壊滅、長篠城の解放。
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、三河の歴史ログを語り継ぐ「天下の御意見番」、大久保彦左衛門だ。
前回は、鳥居強右衛門が命懸けで「援軍来るぞ!」という真実のパッチを当てたところまで話したな。今日は、戦国サーバーのパワーバランスを根底から覆した伝説のイベント、「長篠(設楽原)の決戦」の本編を語ってやろう。
織田・徳川連合軍10万 vs 武田勝頼2万。圧倒的な物量差と、我が大久保一族の「しつこすぎるプレイスタイル」が火を噴くぜ。
決戦前夜。徳川ギルドの古参・酒井左衛門尉(忠次)が、信長公の前でとんでもない攻略ルートを提案した。
「長篠城を包囲している鳶ヶ巣山の砦。ここを南から大きく迂回して叩けば、城を解放し、敵の退路を断てます」
信長公はこの戦術を絶賛した。
「さすがは忠次だ。お前には目が10個ついているかと思うほどの索敵能力だ!」
この奇襲部隊には、松平紀伊守、天野西次郎、戸田半平といったガチ勢が参加。
ここでちょっとした「装備品」の話がある。一番槍をつけたのは天野西次郎だったが、彼は「指物(旗)」を付けない実力主義の無骨プレイヤーだった。対して戸田半平は、ド派手な指物を背負っていた。
結局、世間では「あの目立つ旗の奴(戸田)が凄かった!」と噂になり、天野の功績はログに埋もれちまった。「戦場でも見た目の映えは大事」っていう、世知辛い教訓だな。
天正3年5月21日。織田・徳川連合軍は設楽原に10万もの大軍を展開。谷を前にして、ガチガチに「柵」を設置して待ち構えた。
対する武田勝頼は、わずか2万。しかも逃げ場のない絶所を越えて、わざわざこちらの間合いに飛び込んできた。連合軍は柵から一歩も出ず、足軽たちによる遠距離攻撃(鉄砲)で武田軍を削り続ける。
ここで、我が兄貴たち、大久保七郎右衛門と次右衛門の出番だ。二人は敵味方の境界線ギリギリまで突っ込み、敵が来れば引き、敵が退けば追う。信長公が遠くからそれを見て驚いた。
「おい、あの家康の陣にいる『金の蝶の羽』と『水色の円(石持)』の指物はなんだ? 敵か味方か分からんほど敵陣にベッタリ張り付いているじゃないか。見てこい!」
使いの者が戻って報告した。
「あれは大久保兄弟です。金の蝶が兄、円の印が弟です」
信長公は溜息をついてこう言った。
「……羨ましい。家康くんは良い武将を持っているな。俺のところにはあんな奴らはいない。あいつらは、敵にベッタリ付いて離れない『最高の膏薬』だぜ。」
武田側も、土屋平八郎、内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守といった、これまで数々のサーバーを荒らしてきた伝説のランク上位プレイヤーたちが代わる代わる突撃してきた。
だが、連合軍の「鉄砲三段撃ち」という圧倒的な弾幕の前に、彼らは次々とロストしていった。馬場や山県といった看板プレイヤーが消えたのを見て、勝頼は「もうダメだ……」と戦意を喪失。武田軍は総崩れとなり、壊滅的な敗北を喫したんだ。
合戦後、家康公は信長公へお礼のために安土城へ向かった。そこへ信長公がフラリと現れて、こう聞いたんだ。
「例の『七郎右衛門』は来ているか?」
あいにく兄の七郎右衛門は留守番だったが、弟の次右衛門がいた。信長公は彼を呼び寄せて絶賛した。
「おお、お前か! 長篠でのあのアグレッシブな動き、最高だったぞ。俺のところにもお前らほどのガチ勢はいない。本当によくやってくれた!」
信長公は、次右衛門に最高級の「御服」をプレゼントした。これには次右衛門も、一生分の「面目」を貰ったと大喜びしたよ。
長篠で武田を粉砕した徳川ギルドは、その勢いのまま、宿敵・信玄の思い出の地「二俣城」や「光明城」を次々と攻略。大久保七郎右衛門は二俣城の周辺を任され、いよいよ遠江の完全掌握へと乗り出した。
どうだ。「金の蝶」と「水色の円」――敵にベッタリ張り付く『膏薬』の意地。これが、織田信長公にさえ「欲しい」と言わしめた、三河武士の真髄だ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然処に、坂井左衛門尉、信長之御前に参而申けるは、ながしのゝかさに、鳶が巣と申処之御座候を、はる〴〵と南へまわりて取申物ならば、則城と入合可申。可然と思召候はゞ、三河之国衆を同道申候へ而、某参可申と被申ければ、信長悦給ひ、尤の儀成、早々急給へ。左衛門尉は日比聞及たる者なれば、其ごとく成。目眼が十付而見えけりと被仰ければ、左衛門尉は罷出、家康へ此由申、各々同道してとびがすへまわりて、頓而おひくづす。其時松平紀伊守、同天野西次郎、同戸田之半平、其外之衆おほく鑓が合。世上にては、戸田之牛平が鑓之事をさたしたるは、半平はさし物をさしたるゆゑ成。天野西次郎は、半平寄先なれ共、さし物をさゝざる、づつぼう武者なれば、せじやうにては、半平程はさたはなけ共、半平寄西次郎がゝさき成。然間、大正三年〈乙亥〉五月廿一日、信長、城之介殿親子両旗、家康、信康親子両旗にて、十万余にてあるみ原へ押出し、谷を前にあてゝ、ぢやうぶに柵を付而待ちかけ給ふ所に、勝頼は纔二万余にてたき河之一つ橋之絶所を越、賸わづか橋を越てから一騎打の処を、一里半越て押寄而之合戦なり。然共十万余之衆は、柵の内を出でずして、あしがる計出し而たゝかひけるに、信長之手へは作ぎわ迄おい付而、其寄は引而入。家康之手は大久保七郎右衛門同次右衛門此兄弟之者を指つかわされければ、兄弟之者共は、敵味方之間に乱入而、敵かゝれば引、敵のけばかかり、おゝき人数を二人之ざいに付而、とつてままはしければ、信長是を御覧じて、家康之手まへにて、金の上羽の蝶のはと、あさぎのこくもちのさし物は、敵かと見れば味方、又味方かと見れば敵也。参而敵か味方か見て参れと仰ければ、家康へ参而、此由かくと申ければ、いや〳〵敵にはあらず、我等が普代久敷者、金之あげはのてふのはゝ、大久保七郎右衛門と申而こくもちが兄にて候。あさぎのこくもちは、大久保次右衛門と申而、てふのはが弟にて候と仰ければ、急立帰此由申ければ、信長聞召而さても家康はよき者をもたれたり。我はかれらほどの者をばもたぬぞ。此者共はよき膏薬にて有り。敵にべつたりと付而、はなれぬと仰けり。然間勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山方三郎兵衛、馬場美濃守、さなだ源太左衛門など云度々の合戦に合付而、其名を得たる衆が、入かへ〳〵おもてもふらず責たゝかいて黜事なき処に、此衆は雨のあしの如く成、てつぽうにあたりて、場もさらず打死をしければ、勝頼も是を御覧じて、是非もなき馬場美濃と、山方三郎兵衛が打死之うへは、合戦は見えたりと思召処に、其外こと〴〵くむねとの兵打死をしたりければ、則乱而はいぐんする。然共勝頼は無何事引のけさせ給ふ。是寄璅給ふならば、かい之国迄おさめさせ給ふべきに、奥平作州同九八郎を召出給ひ而、今度はひるいなき城をもち給ふ事、天下にかくれなき其おぼへ、ばくたい成と御かん其かへもなし。大久保七郎右衛門、同次右衛門兄弟之者共を召出給ひ而、さて〳〵今度之武者づかいひるいなし。汝共がかけ引ゆへ、陣にかちたり。汝共程成者を我はもたぬと被仰而、殊外御かん成。然間其寄引入給へば、家康も頓而今度之御礼と被成而、あづちへ御参府あり。其時御供之衆はしらずに伺候して有所へ、信長立出させ給ひ而、髯はこぬかと被仰ければ、其時ゑ原孫三郎が罷出ければ、信長之仰に、いや〳〵ながしのにてのひげが事と被仰ければ、七郎右衛門は御供にあらざれば、大久保次右衛門罷出ければ、其時さて汝が事にて有。さて〳〵ながしのにてのはしりまい、手がら云に不及、汝共程の者を我はもたぬ。今度は辛労をしたると被仰而、御ふくを被下ければ、次右衛門は時の面目はどこして罷立、家康其寄御帰被成而、同亥の年二俣へ押寄させ給ひて、びしやもんどう、戸ば山、みな原、わたが島に取出を被成給ふ。二俣を大久保七郎右衛門に被下候ゆへ、みな原之取出に有。然処に高明の城へ押寄させ給ふ。大手の二王どうぐちへ、本田平八、榊原小平太、其外押寄けり。御旗本は横河ゑうつらせ給ひて、かがみ山へ押上させ給ひ、其寄城へ璅程に、城にはあさいなの又太郎が有けるが、かうさんをこひければ、命をたすけてやり給ふ。同年二俣も落城成。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




