3-5 長篠の絶望と、鳥居強右衛門の「真実の叫び」
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。
武田信玄という最強の戦国大名が死去し、息子の勝頼が跡を継いだ。だが、平和が訪れるどころか、徳川ギルドの内部に致命的な内部崩壊が発生した。それが、史上名高い大賀弥四郎の謀叛だ。
今日は、内部からの裏切りの恐怖、そして戦国史上最も有名な「伝説のスカウト」鳥居強右衛門の勇姿について語ってやろう。
天正3年(1575年)。家康公は、自分の「中間」出身の部下だった大賀弥四郎を高く評価し、奥郡20余郷の代官を任せていた。
だが、弥四郎はあまりの富と権力に溺れ、「主君を消して、岡崎城を乗っ取ろうという、とんでもない謀叛を企てた。彼は武田勝頼にメッセージを送った。
「俺が門を開ければ、岡崎城なんて簡単に落とせますよ。家康親子をBANして、俺たちがサーバーを支配しましょう」
勝頼はこの提案に乗った。だが、共犯者の一人、山田八蔵が土壇場で「……いや、これ主君を殺すなんて取り返しのつかないバグだろ」と怖気づき、家康公にすべてを密告した。
家康公は即座に調査を開始。一方、何も知らない弥四郎は女房に「俺はもうすぐ城主になるんだ」とドヤ顔で語っていた。女房は震え上がって必死に止めた。
「あんた、バカなこと言わないで! 元々ただの中間だったあんたを、これだけの地位に引き立ててくれた主君への恩を忘れたの? 主君の天罰はすぐに来るわよ。お願いだから、今すぐ私と子供を刺し殺して、計画を止めて!」
だが、弥四郎は「女に何がわかる、お前を『城主の妻』にしてやるんだよ」と笑い飛ばした。その直後、弥四郎は捕らえられた。
処刑は凄まじいものだった。妻子は目の前で磔にされ、弥四郎自身は岡崎の辻に埋められ、首だけを出された。その横には、竹の鋸と鉄の鋸が置かれた。
道行く人々が「主君を裏切った憎い奴め」と、交代で少しずつ彼の首を挽いていく。丸一日かけて、彼はこの世からデリートされた。これが「裏切り」に対する、当時の最も重いペナルティだ。
謀叛が失敗した勝頼は、そのまま怒涛の勢いで「長篠城」を包囲。城内は限界を超えていた。そこで立ち上がったのが、一人の足軽・鳥居強右衛門だ。彼は水路を潜り抜け、監視を突破して、岡崎にいる家康公と信長公のもとへ「救援要請」に走った。
家康公から「信長公も出陣した。あと3日で着くぞ!」という吉報を受け取った強右衛門は、一刻も早く仲間に知らせようと城へ引き返すが……運悪く武田軍に捕まってしまった。勝頼は彼に「究極の選択」を迫った。
「命は助けてやる。さらに高い地行(報酬)も出す。だから、城に向かって『援軍は来ない、城を渡せ』と嘘をつけ」
強右衛門は「分かりました。嘘ついて開城させるッスw」と二つ返事で承諾し、城の目の前の磔台に上げられた。仲間たちが城壁から「強右衛門か!」と叫ぶ中、彼は腹の底から叫んだ。
「みんな聞け! 信長公の援軍はすぐそこまで来ている! あと3日の辛抱だ! 城を絶対守り抜け!!」
「嘘」を拒否し、真実を叫んだ彼は、その場で武田軍によって刺殺された。だが、この「真実のバフ」を受けた長篠城の士気はカンストし、信長公の到着まで持ち堪えた。
どうだ。弥四郎という「裏切りのバグ」を掃除し、強右衛門という「忠義のパッチ」を当て、忠次の「奇襲戦略」で状況を整えた。
次はいよいよ、あの歴史的な「設楽原の決戦」だ。織田・徳川の「鉄砲三段撃ち(?)」と、武田最強騎馬軍団の激突!
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然処に、天正二年〈甲戌〉勝頼御出馬有而、高天神之城へ押寄而、責させ給ふ処に、信長後づめと被成而、御出馬有りければ、小笠原与八郎手がわりをして、ゐなりに成ければ、信長手をうしない給ひて、吉田寄引帰らせ給ふ。然処に天正三年〈乙亥〉に、家康御普代久敷御中間に、大賀弥四郎と申者に、奥郡廿余郷之代官を、御させ給ひて、何かに付而ふそく成事なく、富貴にくらすのみならず、あまりの栄華にほこりて、よしなき謀反をたくみて、御普代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、我が城にせんとくは立けり。然間小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田八蔵を引入而、此事やす〳〵と岡崎を取可申とよく申合而、勝頼へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を奉取、家康御親子に御腹をさせ可申事はれきぜん成。其いわれは、何何時も、家康岡崎へいらせられ給ふ時は、我等御馬之御先に参而、上様御座被成候に御門ひらき給へ、大賀弥四郎成と申せば、うたがひもなく、御門をひらき申候間、然者つくでまて御馬を被出給ひて、御先手の衆を二かしらも三かしらも、指つかはされ候はゞ、其御先に立而岡崎へ御供して、城へやす〳〵と引入れ申者ならば、御城の内にて、次郎三郎信康様をば、打取可奉成。然者こと〴〵く家康へそむいて、勝頼へかうさん申而、御手に可付成。然時んば、家康へ付可奉者共は、何れも少身者にて有者共、二百三百付申而あればとて、功をばなすべからず。其者共も岡崎に女子をおきたれば、こと〴〵くおさへ取物ならば、其内も大方参而かうさんを可申、大久保一るい共が、御敵を不申候筋め之者にて候間、可奉付、然共是も少身者どもなれば、是も功をなす事はあらじ。殊更女子共はやはぎ河を越而、尾張を指而おちゆくべし。然者河之はたに、小谷甚左衛門と山田八蔵が罷有事なれば、一人もとをさずして、めし取申者ならば、是も御手をとる事も候はんか、然共是は不存候へ共、然共家康へ付可奉者は、百騎之内外にて可有候之間、然者浜松をあけて、舟にて伊勢へのかせられ給ふべき、然らずは吉良へうつらせ給ひて、舟にて尾張へ御越被成候はんとて、御とをり可被成、然者押寄而打奉、家康信康御親子様之御しるしを、ねんじ原にかけ可申と、あり〳〵と書付而、大賀弥四郎、倉地平左衛門、山田八蔵、小谷甚左衛門判とかきとゞめ而、勝頼へ上ければ、勝頼悦給ひ而、然者尤此事いそげとて、つく出筋へ、御出馬有りける処に、山田八蔵つく〴〵とあんじて、如此の儀ならば、御主を打奉らん事うたがひなし、然とても打奉る儀も成間敷なれば、兎角に此儀におひて一味は成間敷と思ひて、此儀を申上、若御ふしんに思召候はゞ、
我等がちやうだいゑ、一両人も御越被成而、御きかせ可被成候。此儀を内談仕而きかせ申さんと申上ければ、尤と被仰而、一両人指つかわされて、きかせられ給ひしに、れきぜん之儀成。大賀弥四郎は、是をば夢寤(ゆめうつゝ)しらずして、女房にむかひて申けるは、我はむほんのたくみ、御主を打奉らんと申ければ、女房まことにもせずして、ぢやれけうしやにも云ふべき事をこそ云たるもよけれ、さやう成事を、いま〳〵わ敷、きゝ度もなしとてそばむけば、弥四郎重而申けるは、夢々いつはりにあらずと、実しがほに申ければ、其時女房おどろきて、げに〳〵左様成くわだてをたくみ給ふか、さても〳〵天道のつきはて給ふ物哉、上様の御かげ雨山かうむりて、何かに付而とぼしき事はなくして、身をすぎ申事をさへ、天道おそろしく候へば、一度は御ばつもあたり可申と思へば、御主様の御事おろかにも思ひ奉らず、其故各々御普代久敷御侍衆達さへ、我等がまねは成給はぬに、況哉御身は御中間之身成を、か様に奥郡廿余郷之代くわんを仰被付候へば、何が御ふそくは有而御むほんをくわ立被申候哉、其儀を思ひとゞまり給へ、然らずんば、我々子共共にさしころして、其故にてむほんをくわ立給へ、かならず御主様之御ばちは、たちまちにかうむりて、御身のはても此世から、かしやくせられて、辛苦をうけてはて給ふべし。わが身なども烙磔付にもあがりて、うき名をながさんも目のまへなれば、只いまさしころし給へと申ければ、其時弥四郎申は、女之身としてしらざる事を申物かな。其方をば此御城へうつして、御台といわせんと云ければ、女房云は、若も御台といわれゝば祝言だが、いはれぬ時の不祝言はの、御身きゝ給へ。仏法は実がいればかたぶくと云ふ、人間は実がいれば反ると云は、御身之事成とて、其後物もいはず。然る間大賀弥四郎をば御城にて召取、倉地平左衛門はさとり申に付、はなち討に成、小谷甚左衛門は、遠江之国こくれうの郷中にて、服部半蔵がいけ取んとしける処に、天りう河へとび入而、およぎて二俣之城へゆき、それ寄かい之国へゆく。弥四郎をば高手小手にいましめ、鋜をはかせて、大久保七郎右衛門に仰被付而、馬之頭のかたへうしろをして、あとのかたへまへをして、頸がねをはめて、あとわにゆい付而、ほだしを両之鞍骨に搦み付て、むほん之時のためにとて、したてたるさし物をさゝせて、がく、かね、ふへ、たいこにて打はやして、浜松へつれてゆく。然る処にねんし原に、女房子共、五人はり付にかけておく処を、弥四郎を引とをして、やりすごして見せければ、殊之外にわるびれて見えけるが、何とか思ひけん、かほを少もちあげて、五人之者を見て、汝共は先へゆきたるか、目出度事かな、我等も跡寄行べきと申しければ、見物之衆わらひける。然間、道々はやして、人ににくませ、浜松内を引まわして、岡崎へ引帰而牢舎させておく。さて又勝頼は御出馬有けれ共、此事あらはれて、調儀ちがひければ、其寄押出し而、二れんぎへはたらき給ふ。其時信康之御馬は、山中之法蔵寺に立而、御陣之とらせられ給ふ。家康之御旗は、吉田に立てゝ、はぢかみ原にてはげはげ敷、あしがる有而、勝頼は其寄引入給ひて、ながしのへ偣。則城を責させ給へば、家康、信康、両旗にて野田へ押寄させ給ふ。然間、大賀弥四郎をば、岡崎之辻にあなをほり、頸板をはめ、十の指をきり、目のさきにならべ、あしの大すぢをきりて、ほりいけ、竹鋸と、鉄鋸とを、相そへておきければ、とをりゆきの者共が、さても〳〵、御主様の御ばちあたりかな、にくきやつばらめかなとて、のこぎりを取かへ〳〵、ひきけるほどに、一日之内に引ころす。然る所に、信長御出馬有而、先手之衆は、はややわた、市之宮、ほん野が原に陣をとれば、城之介殿は、岡崎へ付かせ給へば、信長は池鯉鮒へ付せ給ふ。然共、長しのゝ城は、きつくせめられて、はや殊之外つまりければ、忍び而、鳥居強右衛門と申者出して、信長は御出馬か、見て参れとて出す。城寄はやす〳〵と出而、此由を家康へ申上ければ、信長へ指被越ければ、信長御悦被成而、御出馬之由仰つかはされければ、強右衛門、おうけを申而罷立而、武田之逍遥軒の、責口へゆき、竹たばをかづきて、早かけいらんと見合ける処に、見出されて召とられ、勝頼之御前へ引出す。勝頼は聞召、其儀ならば、汝が命はたすけ置、国へ召つれ。過分に地行を可出、然者はり付にかけて城へ見せべき、其時ちかづき共をよび出して、信長は不出候間、城を渡せと申候へ、其時汝をもおろさんと云ければ、強右衛門申は、忝奉存候命さへ御たすけ候はゞ、何たる事を成共可申候に、あまつさへ御地行を可被下と、御意之候へば、目出度事何かあらんや、はや
〳〵城ちかくに、はた物にあげさせ給へと申ければ、其ごとく城ちかくに、かけければ、城中之衆出而、聞給へ、鳥居強右衛門こそ、しのびて入とて召とられ、如此に成而候へと申ければ、こと〴〵出而強右衛門かと云。其時、強右衛門申けるは、信長は出させ給はぬと申せ、命を扶其故地行をくれんとは申が、信長は岡崎迄御出馬有ぞ、城之介殿はやわた迄御出馬成。先手は、市之宮本野が原に、まん〳〵と陣取而有。家康信康は野田へうつらせ給ひて有。城けんごにもち給へ。三日之内に御うんをひらかせ給ふべしと、此由を奥平作州と、同九八郎殿と、親子の人へよく申せと云ひければ、却つて敵のつよみを云やつなれば、はやくとゞめをさせとて、とゞめをぞさしける。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




