3-3 家康公の「お返し」――長篠城攻略クエスト
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。徳川ギルドの御意見番、大久保彦左衛門だ。
前回は、最強のレイドボス・武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で、俺たちの主君・家康公がボコボコにされながらも、夜討ちという名の「嫌がらせ」で首の皮一枚つなげた話をした。
信玄という巨大な壁が消えたあと、次に現れたのはその息子、武田勝頼。今日は、この「新世代の脳筋プレイヤー」との激闘と、三河武士の意地が爆発した「討取った首の強奪」、そして笑える大脱出劇を語ってやろう。
元亀4年(1573年)、信玄亡きあとの武田勢力を押し戻すべく、家康公は反撃のパッチを当てた。ターゲットは、三河の要衝・長篠城だ。家康公は城を囲むと、惜しみなく「火矢」を撃ち込みまくった。
「燃えろ、燃えろ! 全部焼いちまえ!」
これが面白いようにハマり、本城も蔵も一気に全焼。武田側は鳳来寺まで援軍を送ったが、家康公はそれを完全スルーして城を攻め立てた。
結局、食料も尽きた城兵は「もう無理っス、降参します」と開城。家康公はここを「重要拠点」として再整備し、奥平九八郎(信昌)を管理者にアサインして馬を入れた。これが、後の伝説の合戦への伏線になる。
長篠城を落とした後、武田の穴山梅雪ら別動隊が略奪を始めたという報告が届いた。「荒らし行為は許さん!」と、家康公の部下たちが次々と出撃。ここで、我が一族の大久保 次右衛門が、見事に敵を仕留めて首をゲットした。
ところがだ。次右衛門がその首をひっさげて引き揚げようとしたその時、榊原小平太(康政)の部下である「上方浪人」たちが7、8人で囲んできやがった。
「おい、その首、俺たちの手柄にするからよこせ!」
……ガチの討伐数略奪発生!多勢に無勢、次右衛門は悔し涙を流しながら城へ戻った。
だが、次右衛門は黙っていなかった。榊原小平太がその浪人を連れて「うちの部下が首を獲りました!」と家康公に報告している場に、ドカドカと乱入した。
「殿! あいつらが持ってる首は、俺が獲ったもんです! 譜代の俺たちは、給料ももらえず、妻子を捨てて命を懸けてるのに、新参の浪人が俺の手柄をパクるなんて、徳川のコンプライアンスはどうなってるんですか!?」
榊原小平太も「俺の部下がやったんだ!」と反論したが、家康公はニヤリと笑ってこう言った。
「……次右衛門、もういい。お前の武辺に点をつける奴なんてこの家にはいない。この件は俺が預かる」
家康公は暗に次右衛門の勝ちを認め、パクった浪人はいつの間にか虚空へと消えた。三河武士の意地が、新参の要領の良さをねじ伏せた瞬間だ。
ここで、ちょっとした「お笑いイベント」を挟もうか。
徳川ギルドに、池田 喜平次というプロのギャンブラーがいた。彼は賭けに負けすぎて一文無しになり、「よし、武田の陣から馬をパクって売って、種銭を作ろう!」という、とんでもないソロクエストを思いついた。
当然、秒で見つかって生け捕りになった。武田勝頼の前に引き出された喜平次だが、「徳川の弱みを言え」と脅されても、逆に「徳川は最強だ!」と強気を通した。
勝頼は「こいつ、死刑(BAN)確定な」とキレたが、ここで武田側の将・瀬名信輝が助け舟を出した。
「殿、こいつは俺の昔馴染みです。俺に預けてください」
瀬名は喜平次の縄を解き、「友達だから自由にしろ。逃げたきゃ逃げろ」と優しく接した。……が、これは瀬名の高度な「恩義の罠」だった。喜平次は「縄をかけられてりゃ逃げるが、こんなに優しくされたら逆に逃げられねえ……」と苦悩。
その後、勝頼から「やっぱり縄をかけて引き渡せ」と命令が下る。喜平次は再びガチガチに縛られ、6人の番人に監視されることに。だが、喜平次は諦めなかった。
「お前ら、そんなに真面目に見張って疲れないか? 俺、こんなに縛られてるし、逃げられるわけないだろ。ゆっくり寝ろよ」
番人がイビキをかいて寝落ちした瞬間、喜平次はマジックのように縄を解いて脱走! 険しい阿波ヶ岳を飛び越え、浜松へ無事に帰還した。家康公もこれには「お前の生存スキル、チート級だなw」と感心したという。
さあ、次回はいよいよ。あの有名な「長篠・設楽原の戦い」。最強の武田騎馬隊 vs 最新の織田鉄砲三千挺。勝負の行方は……。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然る間元亀四年〈癸酉〉二俣之城にむかつて、取出を御取被成ける。一つ屋城山、一つがう大島、一つ道々国中のおさいと被成ける。さてまた浜松より岡崎へ御越被成候とて、元亀四年〈癸酉〉長しのゝ城を打まわらせ給はんとて、かけよせさせ給ひて、火矢を射させて御覧じければ、案之外に本城、は城、蔵屋共に一間ものこらず焼きはらひければ、其儘其寄押寄給ひて、責給へば、勝頼は後づめと被成候へて、鳳来寺くろぜまで、武田之典厩をさしつかわせ給ふ。是をも御もちいなくして、せめさせ給へば、城中にもはや、兵糧米も候はねば、はや降参をぞ申ける。しからばたすけおくべきよしおほせ給ひて、あつかいて、同年の七月十九日に城をうけとらせ給ひ、御普請を被成、兵糧米多こめおかせられ給ひて、おく平九八郎に城を被下而頓而御馬も入。然ける処に、是も後づめとして、武田之梅雪を遠江之国へ出し森に陣之取、こゝかしこをほう火して、苅田をして打ちりて、らん取をする処に、長しのゝ城をせめおとし給ひ而、引いらせ給ふ所に、敵出而、此方彼方うちちりて放火をし、らんぼうらうぜき、かり田をしるときくよりも、我さきにとかけ付而、おひくづしておひ打に打取。然処に榊原小平太同心に、上方らう人有けるが、大久保次右衛門が高名をして、首をひつさげてのく処へ、彼らう人来りて、七八人してうしろよりいだきて、次右衛門が取頭を、ばいてゆく。次右衛門は、汗をにぎつて、腹を立けれ共、かなわずして帰る。其時榊原小平太彼らう人を召つれて、御前へ出けるを、戸田之三郎右衛門是を見て、急次右衛門に告げられけるは、次右衛門はしらざるか、彼者をこそ只今榊原小平太が、召つれて御前へ出けると被申ければ、次右衛門は、忝よくぞ御きかせ候とゆひすて、彼者之帰らぬさきにと、御前へいそぎける。三郎右も、我も同心してゆくべきとて、二人つれて御前に参、あの人之指上申すしるしは、各々見被申候。我等が打申候へて、ひつさげてのき申処を、七八人参て、ひきかなぐりて参たり。我等にかぎらず、各々御普代久敷衆には、御あてがひも不被成と申共、御普代御主なれば、我人女子を帰見ず、一命をすてゝかせぎ申とは申せ共、あれてい之者にはくわ分之御知行を被下、人をおゝくもち申候へば、何時もあのごとくに御座候へば、少身成、我等通り成者は、何とかせぎ申ても御ほうかうに罷成がたく奉存知候。其うへ彼等はよければ罷有、あしければ罷あらず、御普代之衆はよくてもあしくても、御家之犬にて罷出ざるに、せざる高名を立させられ候御ことは、一段とめいわく仕候と申上ける処に、榊原小平太申けるは、次右いはれざる儀を仰被上候。我等同心の高名には歴然したるに、きこゑざると被申ければ、次右衛門申は、たれ人のよきあしきも、貴所之何とてしらせ給はん。其あたりへも来ずして、いらざる事を仰候。見ぬ京物語は、せざるものに候間、いかに同心之腰を引度共、なき事は成間敷と申ければ、其時御諚には、次右衛門いらざる事な申そ、我家にて汝に武辺に点うつ者は有間敷に、我次第にしておけと、御意のうへ畏つて御前を罷立ければ、くだんの浪人は、有事ならずして虚空にうせぬ。然間、元亀四年〈癸酉〉の暮に、勝頼は遠江へ御出馬有而、久野、懸河へあてゝ、国中へ押出して、ほう火する。其寄天りう河の、上の瀬をのり越而、浜松へはたらき、まごめ之河をへだてゝ、あしがるをして、其寄引取てかんざうの瀬を越、やしろ山を越て、山なしへ出而、すくも田が原に陣を取給ふ。然所に、池田喜平次郎と云者、博奕打のはうびきし成。然共、うき世になきすりきりなれば、ばくちは、やるせもなく打ちたくはあれ共、し合に立るものなければ、取みなしとて、あひてもなければ、やるせもなく打たきまゝに、然者勝頼のすくも田が原に陣取而、御入之由を承候へば、忍び入而馬を盗み取而、ばくちを可打とて、行ける所に、被見付て、四方へおひまはされ、頓而いけどられて、高手小手にいましめられて、勝頼之御前へひつすゆる。勝頼は御覧じて、敵のもやうは何と有と被仰けれども、弱みを一つ不申して強み斗を申ければ、引立而行、番をよくしておきてにがすな、頓而御せいばい可有とて、いらせ給へば、いよ〳〵つよくいましめけり。然所に勝頼はすわ之原へ御陣がへを被成而御越有而、縄打を被成而城を取給ふ。然者せな殿、喜平次を御覧じて、あれは、某が古へ存知たるものなり、駿河へほうかうに参し時、某目懸申たる者之儀にて御座候間、哀某に御あづけ給候へと被申ければ、其儀ならばあづけよとの給候へば、せな殿へわたしける。せな殿仰には、御身は昔寄之知音なればあづかり申成。さて又ちいんと云て、なわをかけておくことは、あづかりたるせんもなし。さらばなわをときて、我等が相伴をして、我等が陣之内をば、らく〳〵とありき給へ。他之陣場へ行給ふな。然者御身に昔目を懸申たる故にあづかりて、らくにおき申成。此故にても国へも行度は行給へ。ちかづき故に我が一命を知行に相そへて、勝頼へ指上申迄にて候へ。少もくるしからざるに、行度は行給へと仰ければ、喜平次申、せな殿御なさけをわすれ申而おちゆく者ならば、我身のはぢはさておきぬ、国のはぢをかき申間敷と申。心之内には前のごとく、なわをもかゝりて有ならば、何とぞしてなわをも抜きて行べけれ共、せな殿になわをとかれ申候へば、にぐる事はならず、却而せな殿になわのうへになわをかけられたるとこそぞんじ候と、心の内におもひける所へ、やかたよりの御意に候。あづけおくいけ取に、なわをかけ給ひて、渡し給へとて参ければ、喜平次心之内に思ひけるは、さて命ながらへけるぞや。此程はせな殿にからしばりと云物にあひつるが、うれしやと思ひける処に、せな殿仰けるは、此間之内にかけおちもし給はで、又渡し候へと仰被越候へば、めいわくなれ共是非に不及と被仰而渡し給へば、喜平次も其名をゑたるものなれば、おどろくけしきもなく一礼して行ける。なわ取うけ取而、おつ立而行、なわをつよくいましめて置。ねずの番の者六人ゐて、かわりていたりける所に、喜平次申けるは、御身達はあまりこと〴〵敷ふぜいかな。いけどりと云事は、何方にも敵味方之事なれば、互に主之ほうかうなれば、にくきにあらざる事なれども、かほどに高手小手にいましめて其上に塩水をふきて、したへ足之付ざるやうにいましめて、其の故ねずの番をも給ふ。此のうへ我等がにぐる事は此の世にてならざるていに候間、ねむたくはゆく〳〵とね給へといへば、番之者申けるは、げに〳〵それもきこえたり。其上にげてゆかば、おし付打すつべし。さらばねよとて、臥して大いびきかきければ、喜平次はしすましたりと心得而、高手小手のなはをはづして、番之者をあごみ越而、はしり出而あわが岳へとびあがりて、くら見さいがうゑ出而、浜松へ参りければ、手がら成命のたすかりやうかなとぞ、御意被成けり。勝頼はすわの原の城を取給ひて引入給ふ。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




