1-2 徳川家、どん底からのリスタート 〜 浪人僧侶が『無限の慈悲』で、最強の軍団を爆誕させるまで 〜
『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
俺だ、大久保彦左衛門だ。
前回、王位争奪戦に負けた惟喬親王と、彼を訪ねた在原業平の話をしたな。あの二人の再会は、まさに「夢か現実か」ってレベルのドラマチックな再会だった。
業平が「雪をかき分けてお会いできるとは……」とエモい歌を詠めば、親王は「世の中をさっさと捨てて出家しなかった自分が悔しいよ」と返す。
――だが、歴史の勝者は、いつだって残酷だ。
勝った方の惟仁親王の血筋からは、その後、とんでもない「SSR武将」が次々と排出されることになる。これがいわゆる「清和源氏」という最強の血統だ。
清和天皇の系譜からは、源経基、多田満仲、そして「鬼退治」で有名な源 頼光といった伝説級のプレイヤーが現れた。さらに、八幡太郎義家。こいつはまさに源氏の黄金時代を築いたチートキャラだ。
この頃のルールは単純明快だった。源氏が世を乱せば、平氏が「勅命」という運営特権を使ってデバフをかける。平氏が調子に乗れば、源氏が「詔命」を掲げて、勲功を稼ぐために平氏をボコる。
この無限ループを繰り返すうちに、平氏は衰退し、源氏がトップメタとして君臨した。四海を静め、誰もが源氏の威光にひれ伏す……。そんな時代が続いたんだ。
ところがだ。どんな強豪ギルドにも「冬の時代」は来る。足利尊氏という異次元のプレイヤーが登場し、我が先祖の筋目である新田義貞を叩き潰したんだ。
この敗北によって、俺たちの主君の家系は、自分たちの拠点を失い(徳川の郷、全アイテム喪失)、文字通りの「全ロス」を喫した。
ここからが泣ける。そこから約10代にわたり、先祖たちは住所不定の「放浪者」として、あちこちのサーバーを転々とするハメになった。もはや「源氏の嫡流」なんて看板もボロボロ。世間からは「何者でもない連中」として扱われていたんだ。
だが、物語はここから逆転する。
ある時、一人の時宗の僧侶が西三河の坂井という場所に流れ着いた。名を徳阿弥という。こいつが、後に徳川家の実質的な創始者となる松平 親氏だ。
徳阿弥は、松平の郷の長者・太郎左衛門に見込まれて婿入りし、家を継ぐことになった。「坊主が婿入り?」「設定ブレすぎだろw」と思うかもしれないが、ここからの親氏公の立ち振る舞いが、まさに『究極の内政チート』だったんだ。
親氏公は武勇もすごかった。山中の敵17人を一人で斬り伏せるほどの戦闘力を持ちながら、その本質は「異常なまでの慈悲深さ」にあった。
親氏公は、暇さえあれば鍬や斧を持って外に出た。
「道が細いな。これじゃ荷物を運ぶ民が大変だ」
「この石、邪魔だな。どかしておこう」
「ここに橋がないと不便だろう」
――大名(予定)の自らが行う、深夜・早朝の「道路工事・インフラ整備」ボランティアだ。
誰に頼まれたわけでもない。民や馬が安らかに通れるようにと、昼夜を問わず環境を整え続けた。これ、今の政治家にできるか?
ある時、親氏公は家臣たちにこう言った。
「俺たちの先祖は、10代前に足利高氏に拠点を奪われ、ずっと野良プレイヤーとして彷徨ってきた。だが、俺は決めた。俺の一命を、これからの10代に捧げる。
少しずつ領地を切り取り、子供たちに渡していく。10代かけて力を蓄えれば、必ず足利の先祖を絶やし、天下を獲れるはずだ」
これを聞いた家臣たちの反応がまた熱い。
「先祖がどうとかは、ぶっちゃけどうでもいいっス! 俺たちが惚れてるのは、あんたのその『慈悲』なんですよ!」
実はこの家臣たちの中には、本来なら死罪になるような重罪を犯した者もいた。だが親氏公は、彼らだけでなくその妻子や一族まで、全てを「許し」て、自分の手元で雇用したんだ。
「死ぬはずだった俺たちを、あんたは家族ごと救ってくれた。その恩返しをするのに、この世の命一つじゃ足りねえ! 燃える火の中に飛び込めって言われたら、秒で飛び込みますよ!!」
親氏公は、彼らの言葉に涙を流した。
家臣たちは雪の日も雨の日も、夜は「ゲリラ活動・潜入」、昼は「戦場での武功」と、命を捨てて奉公した。こうして、近隣の領地を次々と切り取り、最強の軍団の基礎が出来上がったんだ。
二代目・松平 泰親もまた、親父に負けない「武勇」と「慈悲」の持ち主だった。
そんなある日、都から偉い大臣が三河へ流されてくるというイベントが発生した。やがて大臣が許されて帰京することになった時、「誰か護衛をしろ」という話になった。三河中の侍をリサーチしたが、大臣を護衛するのに相応しい「血筋」を持つ者がいない。そこで白羽の矢が立ったのが、我が主君だ。
「泰親、お前の家系は源氏の嫡々(SSR)じゃないか。お前が供をしろ」
この功績によって、朝廷から下された公式文書(綸旨)には、ハッキリとこう記されていた。
『徳川泰親』。
ついに「徳川」の名が、公式にシステム登録された瞬間だ。これには三河の武士も百姓もビビり散らかした。
「あの松平の人たち、マジで本物の源氏だったのかよ!」
ってな。勢いに乗った泰親公は、岩津に城を築き、さらに岡崎城をも手中に収めた。どん底の「浪人生活」から、ついに「関東を揺るがす勢力」へと、徳川家は進化を遂げたわけだ。
どうだ、これが我が徳川家の「黎明期」の真実だ。ただ戦いに勝っただけじゃない。
「民のためのインフラ整備」と「罪人さえも心酔させる無限の許し」この二つの強力な慈悲があったからこそ、俺たちの徳川家は最強になったんだ。さあ、次はもっと熱い「戦国本番」の話に入ろうか……。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
文徳天王御年三十にして御崩御なりしかば、第二の王子御年九歳にて御ゆづりをうけ給ふ、清和天王と申は此御事成。後には水之尾の帝とぞ申ける。王子あまたおはします。第一をば陽成院、第二をば帝こ親王、第三をば帝慶親王、第四をば帝法親王、此王子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申ける。心を懸らるゝ女は月の光を待兼、蛍を袪につゝむ。此御子の御事成、今之源氏の先祖是成。第五をば帝平親王、第六をば帝春親王と申、六孫王是成。されば彼親王の御子常元之親王の御嫡子、多田の新発意満伸、其御子摂津守頼光、次男大和守 頼親、三男多田之法眼とて、山法師三塔一之 悪僧成。四郎河内守頼信、其御子 伊予之入道 頼義、其ちやく子八幡太郎義家、其御子 式部大輔 義国等、新田大炊助義重迄、七代は皆諸国のちくぶに名をかけ、げいを将軍之きうはにほどこし、不㆑被㆑家々々にして四海を守、白波猶越たり。されば各争をつくすゆへに、互に朝敵と成而、源氏世を乱ば平氏 勅宣を以是を制し、御恩に詫、平氏国を傾くれば、源氏詔命に任せて是を罰して勲功を極む。然るに近代は平氏ながく退散して源氏世に驕る。四海を静しより此方緑林えだをふく風音もならさゞりき。されば叡慮に背くせいよふは、色をおふけんの秋之霜にをかされ、てうそをみだすはくはうは、音を上絃之月にすます。是ひとへに羽林の威風代に超えたる故成。然るにせいしをひそめて都の外の乱を制し、私曲之争を止めて帰伏せざるはなかりけり。げにや八幡太郎義家寄御代々嫡々然共義貞の威勢に仍、それにしたがつて仁田之内徳川之郷中におはしまし給ふ故に寄而徳川殿と奉㆑申き。義貞高氏に打敗給ふ時、徳川を出させ給ひ而寄、中有の衆生之ごとく何と定給ふ処も無く、拾代斗も此方彼方と御るらう被成有かせ給ふ。徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と奉申。西三河坂井之郷中得立被㆑寄給ひ而、御あしをやすめさせ給ふ。折節御徒然さのつれ〴〵に、いたらぬ者に御情を懸させ給へば、若君一人出来させ給ふ。然る処に松平之郷中に、太郎左衛門申而、国中一之有徳成人ありけるが、いか成御縁にか有やらん、太郎左衛門 独姫之有りけるを、徳阿弥殿を婿に取、遺跡に立まゐらする。然る処に坂井之御子、後に御尋をはしまして御対面有時、尤御 疑無㆑更、然りとは云ども人の一つせきを嗣ぐ故は、総領とは云がたし。家之子にせんと仰あつて、末の世迄おとなとならせ給ふ由、しかとの事はなけれ共申つたへに有り。偖又後には太郎左衛門 親氏、御法名は即徳阿弥、何に況哉、弓矢を取而無㆓其計㆒、早山中拾七名を戮取せ給ふ。殊更御慈悲においては并無㆑人、民 百姓乞食 非人どもに至迄哀みをくはへさせ給ひ而、有時は鎌、くわ、銲、鉞などをもたせ給ひ而出させ給ひ、山中之事なれば道細くし石高し。木の枝之道ゑさしいで荷物に掛をばきり捨、木根之出たるをばほり捨、せばき道をばひろげ、出たる石をば掘捨、橋を懸道を作り人馬の安穏にと、昼夜御油断無御慈悲をあそばし給ふ。御内之衆に被仰けるは、我が先祖十時斗先に、高氏に居所をはらわれて、此方彼方と流浪して遂に本望をとぐる無㆑事。我又此国得まよひき而、今又すこし頭をもちあぐる事仏神三宝も御哀みも有か。我一命を跡拾代にさゝげ、此あたりをすこしづつも戮取而子供に渡す物被㆑成ば、代々に戮取々々する物ならば、先拾代之内にはかならず天下を治め、高氏 先祖を絶やして本望を遂ぐるべきと被仰ければ、御内之衆一同に申上けるは、御先祖は只今社承候へ。其儀は兎も角も其儀にかまい不申、年月当君之御情雨山忘難在候儀を各々寄合中而も、別之儀を請不申、扨も〳〵御慈悲と申、又は御情此御恩の何として報じ可㆑上哉、只二つと無命を奉り、妻子けんぞくをかへりみず中夜の摝にて、御恩をほうぜんと申成、親氏聞被㆑召而面々被申候事 憐入而候。我面々に何をもつて慈悲供をぼゑず、又何をもつて情供おぼえざる。又何をもつ而面々に思ひつかれんともおぼえざるに、面々の左様に申さるゝは、分別に不㆑及ふしんに社あれと仰せければ、面々申上候。先御慈悲と申事は御存知なきや、あれに伺候申、五三人之面々は重罪の御咎を申上申者成を、妻子ともに火水の責に而責戮させられではかなはざる者を、妻子眷族ゆるしおかるゝのみならず、其身が一命迄御ゆるされ賸何ものごとく、御前得召被㆑出召つかわさるゝ御事は、是にすぎたる御慈悲何かは御座候はん哉。あの者ども一類女房供の一類の者供迄も、人寄先に一命をすてゝ御奉公申上候はんと存知定申たり。ましてあの者供は妻子の一命を被下御恩者未世、此御恩ほうじ上申候事此世に而成難。此御恩には燃㷄(もゆるひ)之中得も御奉公被㆑成ば飛入らんと、一心に思ひ定而罷有と申成。それのみならず、面々も心に入而摝申事、御祝着に思召るゝ凛か腆か昼夜供に骨折御身にあまり而思召るゝに、近参而膝を直し罷有との御情は、雨山御忝身に余り存知候と申上候へば、御ことばも不㆑被㆑出御涕をおさへさせ給へば、面々愈 涕をながし御前を罷立、申つるごとく雨露雪霜にもいとはず、夜はかせぎ、かまり、ひるは此方彼方のはたらき昼夜身を拾而御ほうかう申上申に付而、あたりをきりとらせ給うて、御太郎左衛門尉秦親え御代を御譲り給ふ。太郎左衛門尉泰親、御法名用金、是も御父におとらせ給はざりし、弓矢取と申し、御慈悲、中々申つくしがたし。然る所に、大臣殿、勅勘をかうむらせ給ひ而、三河之国ゑ流罪ならせ給ふ。然りとは申せども、無㆑程御赦免ならせ給ひ而、御帰京とぞ申ける。其時国中におひて、大小人に不㆑寄、名之有侍に、御供申せと有し時、国中をさがさせ給へども、源氏之ちやく〳〵にてわたらせ給へば、是にましたる、ぞくしやうなし。其儀ならば、泰親御供あれと被仰而、御供を社被成けり。其寄して、三河之国ゑの、御綸旨には、徳川泰親と被下給ふに仍、早国中之侍も、民、百姓にいたる迄も、恐れをなさゞる者はなし。然る間、松平之郷中を出させ給ひ而、岩津に城を取せ給ひ而、御居城として、住ませ給ふ。其後岡崎に城を取給ひ而、次男にゆづらせ給ふ。岩津をば、和泉守信光に御代渡させ給ふ。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




