2-9 姉川の「一番陣」交渉――徳川の名を汚すな
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。三河の「真実ログ」の番人、大久保彦左衛門だ。前回は遠江を平定し、浜松城を新拠点に定めたところまで話したな。
だが、家康公が休む暇なんてない。盟友・織田信長公から「北近江の攻略を手伝ってくれ(マルチプレイ要請)」と、緊急の招待状が届いたんだ。
今日は、信長公の絶体絶命のピンチを救った「金ヶ崎の退き口」、そして歴史の記録を巡って家康公が信長公にガチギレした「姉川の戦い」の真実を語ってやろう。
元亀元年(1570年)。信長公は越前の朝倉を叩くため、金ヶ崎へ出兵した。だが、義弟の浅井長政が裏切るという「予期せぬエラー」が発生。挟み撃ちの全滅を恐れた信長公は、なんと家康公に何も告げず、夜陰に乗じて無断撤退しやがったんだ。
夜が明けて、家康公は驚いた。「おい、信長がいねえぞ!」。この時、案内役を買って出たのが木下藤吉郎(後の秀吉)だ。彼は殿として残り、家康公と共にこの地獄の退却クエストをクリアした。これが後の天下人の「初・共同作業」ってわけだ。
その後、信長公は体勢を立て直し、浅井・朝倉連合軍3万を迎え撃つため姉川へ。家康公にも再度、救援要請が来た。信長公は家康公にこう打診した。
「家康くん、今回の一番手は柴田勝家や明智光秀に任せる。君は二番手で頼むよ」
これを聞いた家康公、なんと「一番手じゃないなら、今すぐ帰国する」とブチギレたんだ。信長公は慌てて「二番手も一番手も同じだよw」となだめたが、家康公の言い分はこうだ。
「俺が50歳や60歳のベテランなら三番手でも四番手でもいい。だが、まだ30歳にもならない若造が、わざわざ助っ人に来て『二番手でした』なんてログを残されたら、末世までの恥だ。歴史の書物には『一番は一番』『二番は二番』と永久に記録されるんだぞ。 一番をやらせないなら、明日俺は戦わない。今すぐこの場を更地にして帰る!」
信長公はこの「Giga-Chad」な気迫に圧倒され、一番手を譲るしかなかった。家康公にとって、戦果よりも「後世にどう記録されるか」というメタな視点が一番重要だった。
元亀元年6月28日、決戦。敵軍は3万。信長軍1万、徳川軍3,000。家康公は一番手として正面から突っ込んだ。織田軍が旗本近くまで押し込まれる大苦戦を強いられる中、家康公の部隊は敵の横っ面をブチ抜き、そのまま奥まで切り込んだ。この「側面突破」が決定打となり、敵は総崩れ。
信長公も「今日の勝利は家康くんのおかげだ!」と絶賛。天下にその名を轟かせた。だが、信長公には「勝ったらすぐ帰る(兜の緒を締める)」という変なクセがあってな。今回も勢いに乗って越前を飲み込めばいいのに、さっさと岐阜へ帰っちゃった。勝機を逃さないようでいて、意外と慎重なんだよな。
その後も近江での小競り合いは続いた。三河から助っ人に来た松平勘四郎(忠次)は、織田軍が落とせなかった「三造の城」を、織田軍が撤退するフリをした隙に正面から攻め落とすという、エグい手柄を立てた。
だが、問題は都(京都)で起きた。些細なことから織田の重臣・織田上野守の家臣と、三河武士が喧嘩になったんだ。原因はなんと「古烏帽子」の奪い合い。
美濃・尾張の連中が徒党を組んで松平勘四郎の陣へ襲いかかろうとしたが、三河武士たちは「上等だ、やってやるよ!」と街中に弓・鉄砲・槍を並べて迎撃体制。これを知った信長公は激怒した。
「加勢に来てくれた連中を、自分たちで攻撃する奴があるか! 喧嘩した奴らは全員成敗だ!!」
結局、信長公は勘四郎を呼び寄せ、「お前は体は小さいが、肝っ玉はデカいな! その傷を誇りにして、これからも頼むぞ」と、褒美を授けてなだめたんだ。
どうだ。信長公のピンチを救いながらも、「一番手」の座を譲らない家康公のプライド。俺たち三河武士が、どれほど「名前」と「経歴」を大事にしてきたか、分かったか?
「報酬よりも、自分の経歴が汚れないこと」。
これが、徳川ギルドが最強である理由の一つだ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
扨又、信長寄仰被越けるは、御加勢を被成而給候得、北近江得働を、被成候はんと仰被越候得ば、頓而すけさせ給はんとて、御出馬被成けり。元亀元年〈庚午〉二月日、信長鐘ヶ崎得働らかせ給ひけるに、越前衆つよければ、信長も大事と思召而、家康を跡に捨置給ひ而、さた無に、宵之口に引取せ給ひしを、御存知無くして、夜明而、木下藤吉、御案内者を申て、のかせられ給ふ。鐘ヶ崎之、のきくちと申而、信長之御ために、大事ののき口成。此時之藤吉は、後之世の太閤成。然者、信長北之郡得御働被成候はんと思召処に、越前衆は出、方々に取出を取、都得之行通りを停めんとて、三万余にて出ければ、信長も急、横山迄御出馬有而、家康に早々御加勢を被成而被下候得、越前衆罷出申候間、合戦を可被成由仰被越候得ば、相心得申とて其儘(まゝ)御出馬被成けり。信長殊外に悦せ給ひ而早く御出馬有。然者明日之合戦に相定申、一番は柴田、明智、森右近など申付候間、家康は二番合戦を頼入申と云ひて、毛利新助と、両人をもつ而仰被越候得ば、御返事にとても御加勢申故は、何と被仰候とも、是非ともに、一番合戦を仰可㆑被㆑付と仰被越候得ば、信長之御返事に、家康之御存分尤、左様に思召可被成、然ども早備組を仕たる事なれば、彼等を一番之やめさする事も、如何に候得ば、同は二番之請取せられ而給候得、其故一番も二番も同意成。二番と云而も時により一番に成事も多き物なれば、兎角に二番を頼入申と御返事有ければ、又押帰而被㆑仰けるは、尤そないぐみを御定之所を、一番を二番得と被仰候得を、如何がと思召すところ、尤承とゞけ申たり。一番も二番も同意と仰せられ候儀、是は承とゞけ不申。尤明日之合戦には、二番が一番にも社成りもや仕らん。其儀は時之仕あはせ、たとゑば二番が一番になると申しても、後之世までの書物には、一番は一番、二番は二番と書きしるして、末世までも可㆑有候間、兎角一番を申可㆑請。其故某が年も寄たる者ならば、三番四番に成りとも被仰候処に可有けれども、三十に足るたらざる者が、家勢に参而、一番を申請兼而、二番に有と、末世迄申伝へに、罷可㆑成事、迷惑仕候。兎角に一番合戦を、仰被㆑付候得、然らずんば、明日之合戦には罷出間敷候。然者今日引払ひ而罷帰可申と御返事有ければ、信長聞召而、家康之被仰も尤承とゞけたり。左程に思召給はゞ、愈忝存知候。其の儀ならば一番合戦を頼入申と被仰而、明日之御合戦は家康之一番陣成。然処に、各々申上けるは、此以前寄一番陣を仰被㆑付只今家康得、一番陣を被成候得との御諚之処、迷惑仕候と申上ければ、信長御腹を立給ひ、大成御声を被成、推参成忰どもめが、何をしりて云ぞと仰ければ、重而音を出事ならざれば、家康之一番陣に定ける。家康之仰には、明日廿八日之合戦に、今日廿七日に、是得着而一番陣を請取事、天道のあたへ成と被仰、御喜悦かぎり無。元亀元年〈庚午〉年六月廿八日の曙に、押出たま得ば、越前衆も、三万余に而押出す。信長之一万余、家康之人数三千余に而互に押出而、北風南風攻㦴処に、家康之御手寄、切くづして追討に打取給得ば、信長之御手は、旗本近く迄切被立、各々爰はの衆が打れけれども、家康之御前が勝而、おくへ切入給得ば、敵も即敗軍して、不㆑残打取給ひ而、今日之合戦は、家康之御手がら故、天下之誉を取と、信長も御感成。信長其寄、此方彼方押つめさせたまふならば、近江之儀は申に不㆑及、越前迄も切取せ給はんに、惣別信長は勝而、鋹之緒をしめよとて、其儘岐阜へ引入給ふ。桶狭間の合戦にも、義元をば打取給ふ故、其寄無㆑もよをし璅物ならば、 (すみやか)に三河、遠江、駿河迄納させ給はん。此時もをけばさまより清須得引入給ふ。然ども終には近江も、越前も、三河、遠江、駿河も御手には入たれども、勝而鋹の緒をしめよとて、其きをいを以てつよみをば、おさせられたまぬ御方成。然間元亀元年〈庚午〉十二月日、越前衆三万余に而、比叡に陣取而有。信長は志賀に御陣を取り給ひ而、家康ゑ御加勢之由仰被越ければ、石河日向守を指つかはさる。北国は早雪もつもりたる事なれば、兵粮米も尽き可申。然者敵を干し害べしと信長は思召処に、比叡山寄兵粮米をつゞけ申のみならず、賸帰り調儀をして信長を打せんとす。山寄申越たるは、越前衆之陣屋得火を懸可㆑申候。然時んば切而懸らせ給へば敗軍可㆑有。其儀ならば夜中に山得あがらせ給得と申けれども、信長さすが之弓取なれば、聊爾に山得あがらせ給はずして、坂本迄押寄而、火之手があがらば偣べきとて、ひかゑさせ給ひし処に、案之ごとく帰りてうぎ成。然間越前衆は三万余有、殊更に近江之国は大方越前之領分なれば、岐阜への道も塞れば、信長纔一万之内なればかなはじとてあつかひをかけさせ給ひ、天下は朝倉殿持給得、我は二度望み無と起請を書給ひ而、無事を作り而岐阜へ引給ふ。扨又引入給ひ而、をつ付而切而上らせ給ふ処に、又家康寄御加勢を被成けり。其時は松平勘四郎殿に諸家中寄人を面々に出合而付而立給ふ。然処に信長は見つくり之城を攻させ給ふに更に落ず。然者此小城にかゝり而、日を尽して詮も無。是は先指置而都得切而のぼらんとて、城をまきほぐして搦手之衆のくを、松平勘四郎殿是を見給ひ而、大手之方寄責入給得ば、即からめ手得落行ば城得乱入。松平勘四郎殿手柄覚え云に不及。然間都得入せ給得ば、乱取に小田之上野守殿の者と、三河之者が出合而、ふるゑぼしを奪合ひ而、上野守殿の者を三河之者がしたゝかに打ければ、それが喧嘩に成而、美濃尾張之衆が一つに成而、松平勘四郎殿得偣程に、何れも三河衆が無㆓是非㆒とて悉町得出て、弓鉄炮鑓をかまゑ而居たる処得、偣程に引請而打立ければ、中々あたりゑ寄付ん事は思ひ寄ずして、信長得比由申ければ、信長聞召言語道断とゞかざる事を申者ども哉、家康寄加勢を頼而、其加勢を打害法や有物か。れうじをしたるやつばら在ば、一々に成敗せんと仰ければ、偣者どもはちり〴〵に成而見得ざりけり。扨又信長勘四郎を召而仰けるは、勘四郎今度みつくりにおい而、手柄ひるゐ無処に、又此度之喧嘩扨々ひるい無。勘四郎は背はちひさけれ共、肝のをうき成者なり、いやいや勘四郎は熨斗づけをさして有間、此度之陣をばつゞけられべきぞやと仰けり。勘四郎ためには面目成。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
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〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




