2-10 『信長記』はフェイクニュースだらけ!?
『三河物語』は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、三河の「歩く記録」こと、大久保彦左衛門だ。
これまで戦国三河の激動を語ってきたが、今日はちょっと趣向を変えて、当時の「公式記録」に対する俺の強烈なレビューと、俺がなぜこの『三河物語』を書いているのか、そのメタ情報を語ってやろう。
いいか、ネットに転がってる情報や、お抱え記者が書いた「まとめ記事」を鵜呑みにするなよ。真実は常に、現場で泥を啜った「ガチ勢」のログにしかないんだ。
織田信長公は、とにかく「恩を忘れる奴」が嫌いだった。かつて将軍・足利義昭公が路頭に迷っていた時、信長公が岐阜へ呼び寄せ、再び「天下の公方」の座に据えてやった。いわば、特大の「復活バフ」をかけてやったわけだ。
だのに義昭公ときたら、あろうことか朝倉ギルドと組んで、信長公に牙を剥きやがった。信長公はブチ切れた。
「腹を切らせたいところだが、腐っても公方だ。京都から追放するだけで勘弁してやる!」
さらに比叡山延暦寺。あいつらも「僧侶」の皮を被りながら、裏でこっそり敵と内通し、信長公をハメようとした。
「だったら、その拠点ごと消してやる!」
こうして比叡山は長らく「滅亡」状態だったが、後に俺たちの家康公が「再興」パッチを当てて、今の姿に戻したんだ。信長公が壊し、家康公が直す。これがこの世界のサイクルだな。
さて、ここからが本題だ。世に出回っている『信長記』っていう公式記録みたいな本があるだろ? 俺から言わせれば、あんなのは「サクラのレビュー」だらけだ。真実(Fact)は 3分の1。似てるだけの創作が 3分の1。完全なFakeが 3分の1。
あの中身を精査してみろ。当時まだ10歳そこらの、右も左も分からん「ビギナー」だったガキが、成人した後の話を聞きかじって「あの時俺は無双したw」なんて書いてある。笑わせるなよ。
長篠の合戦のログだってひどいもんだ。実際には一度も兵を動かしたことのない奴が「俺の武者遣いは完璧だった」なんて書いてある。逆に、何度も敗走して後ろ指を指された腰抜けが、なぜか「鬼神のような強キャラ」として描写されてたりする。
なぜそんなことになるのか? 書いた奴が、自分の「お気に入り出頭人」に忖度して、実績を捏造したからだよ。知識はあるが、真実を見る「眼力」がない。俺はあんな「まとめサイト」みたいな嘘は絶対に認めねえ。
だからこそ、俺はこの『三河物語』を書き綴っている。ここには嘘は一つもねえ。後世の人間が読んでも、今の将軍 家光公が見ても、誰も「嘘だ」とは言えない真実だけを刻んでいる。
だがな、これは世間に公開するための「プレスリリース」じゃない。大久保家の子供や親戚たちに向けた「非公開・遺言ファイル」だ。
「お前たちの先祖がいかに徳川ギルドの初期メンとして苦労したか」
それを忘れさせないために、あえて大久保一族のログを詳しく書いているんだ。他の譜代の連中の武功も山ほどあるが、それは彼らの家で「家譜」を残せばいい。俺は俺の家族を教育するために、この筆を叩いているんだよ。
いいか、息子たちよ。この書は「門外不出」だ。もし万が一、これが流出して他人の目に触れることがあっても、「彦左衛門は身内びいきで書いてる」なんて思わせるな。これは「教育用資料」なんだ。俺たちの苦労を「理解」させるには、身近な実績を書くのが一番なんだからな。
家康公(相国様)、秀忠公、そして今の家光公。徳川の時代が続く限り、お前たちは何代先までも全力で奉公しろ。他人がどう評価しようが関係ねえ。「真実の記録」を胸に持っている奴が、最後には一番強いんだ。
元和八年(1622年)四月十一日。俺はこの記録をセーブして、お前たちに譲る。大切にしろよ。絶対に外に出すなよ!
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
然処に信長之仰に、天下之公方も朝倉は引請申事もならざるを、某が岐阜へ喚越申而、二度天下之公方となし奉り申たる、其情をも忘而賸朝倉と一身して、我に敵をなし給ふ事恩を知給はねば腹を切せ申度存ずれども、公方にて御ませば徐置申と而都を除給ふ。其時に比叡山も長袖の身として帰りちやうぎをして我を打んとしける間、さらば山を立間敷と仰有而、其寄も久敷ゑい山はくづれ而、久敷たゝざるを、又家康之御取立被成而、今者山が立。扨又信長記を見るに偽多し。三ヶ一者有事成、三ヶ一者似たる事も有、三ヶ一は無㆓跡形㆒事成。信長記作たる者、我々がひいきの者を、我が智恵之有儘に能作たると見得たり。其故は処々に而の勝負之事を書付けるに、先偽と見得けるは、其比、十、十一、十二三に成、西も東もしらざる者が、成人してはるか後に元服して男に成而有間、昔物語に聞し者を、そんぢやうそこに而走り廻り、ひる無高名などと書而、偽を作る事も多し。長篠などの陣にも、せざる高名を相打にしたると云処も有。武者づかひなども、一代つかひたる事も無人を、武者をつかひたると書而有。此外此場に而の事にも偽多し。度々にをいてひけを取、人に後指さゝれたる者を、鬼神之様に書たるも有。又は度々の高名をして、諸国に而かくれ無覚得之者をかゝざるも有り。ちからの無者を大ちからと書たるが皆偽り或。大ちからと書たる内に、独力持たる衆は一人も無。結句力は無してがいす成衆多きに、色々加様に書申事は、思得ば我が目を被㆑懸たる衆之事を、かたも無事をも作たると見得たり。然時んば書者に智恵有而無㆓智恵㆒に似。然間信長記には偽多しとさたしたり。家康御代々の事を是にあらまし書しるす成。一つとして偽と云事を、後之世にも当代にも、をそらく申人者有間敷、然ども人に見せ申とて書不㆑置、我等子供に御八代御九代当相国秀忠様、当将軍家光様迄御主様成。其御末々迄なん代も能御奉公申上奉れ、我寄後しらせんため成。門外不出。
元和八年〈壬戌〉卯月十一日
子供に是譲門
外不出可有成
大久保彦左衛門花押
此書物に、各々御普代衆之御事あらまし書而、我一類之儀くは敷書申事は別之儀に非。姪子供又は一類之者ども、御普代久敷御主様之御ゆらいを後には存ず間敷と思ひ而、しらせん為に我遺言として書而子供にくれ申事なれば、門外不出と申置故、くがいゑ出す書物にあらざれば、我等一名之事を本に書置事なれば、別之御普代衆之儀は不㆑書。何れも御普代衆御忠節は雨山可有ければ、各々も後子供之御普代御主様之御筋目を忘させ給はぬ様に、家々に而の御普代之御主様之筋目、又は御普代久敷召つかはれ給ふ、筋目並に御忠節之筋目を能書給ひ而、子供達へ各々も御譲給得、我等も如此に候、然ども此書物は門外不出に候間、他人は見申間敷けれども、若百に一つも落ちりて、人之御覧じも在、其御心得之為に如此に候。我依怙に我一名一類、又は我身之事を書置たると思召有間敷候。子供得之遺言之書物なれば、我一名一類又は身之事を書ざれば、子供の合点がすみ申間敷候間如此に候事以上。
此書物くがひへ出す物ならば、各々御普代衆之御忠節はしりめぐりの儀をも具にせんさくして可㆑書が、是は門外不出としてくがひへ出事なくして、子供にもたせ而後之世に御普代之御主様のしらせん為に書置事なれば、他人之事をかゝず。然時我名又は我身之事をかゝずは、子供の合点もすみ申間敷ければ如㆑此に候。門外不出に候へば、誰人も見は申間敷けれ共、若おちちりて人も見申さば、其時之為如此に候。各々御普代衆は家々之忠節はしりめぐりの事を書立而、子達へ御ゆづり可有候。我等如此書候て、子供にゆづり申。門外不出也以上。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




