2-4 火種はいつも「些細なトラブル」から
『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
よう、また会ったな。天下の御意見番、大久保彦左衛門だ。
前回は、若き日の家康公(当時は元康公)が、最強ギルド「今川」の崩壊という特大パッチの中で、執念の「岡崎城ログイン」を果たしたところまで話したな。
「よし、これで三河は俺たちの天下だ!」……そう思った時期が、俺たちにもありました。
だが、歴史はいつだって残酷だ。平和な時間は一瞬で終わり、次なる地獄のイベント――「三河一向一揆」が強制スタートしやがった。
今回は、身内同士が殺し合い、昨日まで一緒に「おから」を食べていた仲間が敵になる……三河史上、最もエモくて最も辛い「内乱編」を語ってやろう。
信長公と和談を結んで、三河の統一もあと少し。そんな時に、隣の今川の残党である東条城の吉良一族との小競り合いが続いていた。
この戦いで、松平 主殿助殿という忠義のSSR武将が討死しちまった。敵陣に深入りしすぎて、「おらぁ!」と突っ込んだところを包囲されてのロストだ。そんな殺伐とした空気の中、決定的な「炎上案件」が起きる。
永禄五年、坂井 雅楽助っていう役人が、野寺の本證寺に逃げ込んだ犯罪者を追って、寺の中に踏み込んだ。
当時の寺は「不入の権」っていう、いわば「守護も手出しできない聖域」を自称していた。
「神聖な寺領に土足で踏み込むとは何事だ!」
この些細な警察権の行使が、三河全土の「一向宗門徒」の怒りに火をつけた。
永禄六年正月。土呂、針崎、野寺、佐崎の四つの巨大寺院を中心として、数万人規模の門徒が一斉に蜂起した。これが、家康公の人生最大のピンチ「三河一向一揆」の開幕だ。
このイベントが何よりキツかったのは、「信仰」と「忠義」の究極の二択を迫られたことだ。
「殿は大好きだけど、地獄に落ちるのは嫌だ!」
そう叫んで、古参の家臣たちの半分以上が、敵チーム一揆軍へと移籍してしまった。
〈裏切り者リスト〉
蜂屋半之丞: 超一流の槍使い。
渡辺半蔵: 後の「槍の半蔵」。なんと一族揃って敵に回った。
夏目次郎左衛門: 忠臣のはずが、信仰には勝てず。
昨日まで一緒に「殿のためなら死ねる!」と語り合っていた親友や兄弟が、今日は寺の壁の向こう側で、本気で俺たちを殺しに来る。
「全方位、囲まれて詰んでるじゃねえか!」
そう叫びたくなるような孤立無援の状態だ。特に佐崎の寺には、名だたる武闘派の連中が100騎以上の「重課金勢(精鋭)」を引き連れて立て籠もった。
一方で、家康公の味方として残ったのは、竹之谷の松平家や、形原の松平家、そして深溝の松平主殿助殿といった、数少ない「忠誠勢」だけ。
一里四方を敵に囲まれ、昼夜を問わず襲撃を受ける過酷な防衛戦を強いられることになった。
ここで、あるエピソードを紹介しよう。裏切り者の一人、夏目次郎左衛門が、深溝の松平主殿助殿に攻められた時のことだ。次郎左衛門は拠点(屋敷城)を破壊され、蔵の中に追い詰められた。まさに「網の中の鳥」状態。
主殿助殿は「殿に弓を引いた逆賊め、今すぐ首を跳ねてやる!」と殺気立っていた。ところが、そこに家康公から御使が届いた。
「次郎左衛門が逆らっているのは、俺が憎いからじゃなく、宗教のせいで混乱しているだけだ。殺さずに、助けてやってくれ。」
主殿助殿はブチ切れた。
「あんな野郎に何度も錆びた矢を射掛けられたんですよ!? どんだけ慈悲深いんですか殿は! 正気ですか!」
……それでも、主君の命令は絶対だ。主殿助殿は不満を爆発させながらも、次郎左衛門を逃がしてやった。この家康公の「異常なまでの慈悲」。これが後に、次郎左衛門に「命を賭けた恩返し」をさせる伏線になるんだが……それはまた後の話だ。
一揆軍が籠もる寺院は、堀を深くし、塀を高くし、鉄砲を並べて要塞化していた。特に針崎の寺には、蜂屋半之丞や渡辺半蔵、そして渡辺一族の精鋭たちがズラリと並んでいる。
「……やるしかねえのか。」
岡崎城から出陣する俺たち大久保一族や、本多 豊後守たち。向かい合うのは、かつての戦友。相手が「南無阿弥陀仏」の旗を掲げて突っ込んでくる中、俺たちは「徳川」の旗を握りしめて迎え撃つ。
「信仰をとるか、主君をとるか。」
この三河を揺るがす最大最悪のイベントは、ついに「上和田」を舞台にした全面戦争へと突入する。
どうだ、これが三河一向一揆の「リアル」だ。単なる反乱じゃない。これは、「家臣たちの魂をかけた内戦」だった。
家康公は、自分を信じて残ってくれた僅かな仲間とともに、最強の「宗教勢力」という壁をどうやってブチ壊すのか。
次回、「上和田の激突、そして和談」。一人の若きリーダーが、地獄を乗り越えて「真の覇者」へと覚醒する瞬間を語ってやろう。
※三河一向一揆:クエスト進行中
状況 : 岡崎城は完全に包囲。
味方残数: 激減中。
敵のバフ: 信仰心「極楽往生」による不死身の突撃。
勝利条件: 門徒衆を解散させ、三河を再統一せよ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
其後信長と御和談被成し寄は、此城々得御働は無。但西尾之城と東条之城は駿河方なれば、節々之御働成。吉良殿も惣領の義藤は、清康之御ためには妹婿なれば、家康之御ためには大姑婿成に寄而、駿河得下申而、藪田之村に置奉、舎弟之義諦を義藤寄西尾の城に置給ひしを、東祥之城得義諦をうつし給ひて、西尾の城得は牛久保之、牧野新次郎を留守居に申付而置。然所に松平主殿助殿は中島之城に東条にむかはせ給ひ而御而、日々夜々の迫合ゐ摝かまりに無㆑隙して、寸ん之隙を不㆑得。然間東条寄中島得働けるに、引羽に主殿助殿余り手ぎつく付給得ば、敵方取而返而こんずこまれつしける処に、主殿助殿打死をし給ふ。其をきをいにして敵は引のく。然者又荒河殿は義諦得逆心をして、家康之御手を取、坂井雅楽助を荒河得引入而西尾之城と日々夜々にせりあいければ、牧野新次郎もこらゑずして城を渡して、牛久保得行。其寄西尾之城には坂井雅楽助を置給ふ。東条之城得押寄而取出を取給ひ而、小牧之取出をば本多豊後守が持。醅塚之取出をば小笠原三九郎が持。共国之取出をば松井左近が持。本多豊後守手に而、藤瀿畷に而九月十三日にはげ敷せりあゐ有而、義諦のおとなの飛長半五郎を打取、味方には大久保太八郎、鳥居半六郎など打死をする。義諦も半五郎を打せ給ひ而寄、弄して頓而降参して城を下させ給ひ而、御扶持方に而御。半五郎は其年二十五に成けれども、武辺之者なれば敵味方共に申けるは、半五郎打死之上は、落城程有間敷と申せしは、年にもたらずして半五郎者斯被㆑申けるは、手柄成とほめたり。漸したる処に永禄五年〈壬戌〉に野寺之寺内に徒者の有けるを、坂井雅楽助押こみ而けんだんしければ、永禄六年〈癸亥〉正月に、各々門徒衆寄合而、土呂、鍼崎、野寺、佐崎に取籠り而、一揆を迮而御敵と成。其時之義諦をすゝめて、御主となさんと云ければ、其に乗而頓而敵、東条之城得飛上而手を出させ給ふ。荒河殿も初に御味方被成候時、家康之御妹婿に被成申而、此度は逆心之被成義諦と一所に成給ふ。其耳成、桜井之松平監物殿も、荒河殿と仰被㆑合而別心を被成けり。上野にては坂井将監殿別心成。東三河者長沢、御油、赤坂を切而、東は不㆑被㆑残駿河方成。上様之御味方は竹之谷之松平玄蕃殿、形之原の松平紀伊守殿も御忠節成。深溝之松平主殿助殿是、土呂、鍼崎、東三河衆に両三人ははさまれ給ひ而御忠節有。西尾の城には坂井雅楽助有而、野寺荒河殿と取合而有。本多豊後守は、土井之城に居而、土ろ鍼崎に向有而之御忠節成。松平勘四郎殿も、松平右京殿も、野寺、桜井に向而御忠節成。右之御一門之衆、同本多豊後守は遂に一度も逆心は無、岡崎之南は土ろ鍼崎、其内は一里によはし。西南にあたつて、野寺、佐崎、桜井、其内一里有。北西にあたつて上野の城有、其間一里半有。東は長沢寄して不㆑被㆑残駿河御敵成。中にも、土ろ鍼崎者一の御手先なれば、一揆之衆も爰を先途と心得而、鑓をもふりまはす程之衆は、悉我も〳〵と此両所え籠り居たる。野寺寄も一揆は起る事なれども、彼地は岡崎寄は遠候ゑば、本人とは申せども、岡崎之間に、佐崎と桜井を隔てゝ有事なれば、是両所を押向はせて、却而野寺は手置に成。土呂、鍼崎、佐崎、三ヶ寺は知ら去事なれども、尤一味の寺なれば同心をしたり。此三ヶ寺は岡崎近く候得ば帰而手先と成に仍、爰はと云衆は悉土ろ、鍼崎、佐崎、是三ヶ所得楯籠る。然とは云ども野寺得は何事も在こもらんと云而、吉良あたりの衆、又は寺内近衆に、大津半右衛門を初獚塚甚左衛門、獚塚八兵衛、獚塚又内、獚塚善兵衛、小見三右衛門、中河田左衛門、牧吉蔵、其外石川党、賀藤党、本田党、手島党、其外爰は之衆百余も可㆑有。小侍は数をしらずしるすに不及。事之在可㆑入とて居たり。佐崎之寺内に楯籠る衆は、倉地平左衛門、小谷甚左衛門、太田弥太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田善太夫、太田彦六郎、安藤次右衛門、鳥居又右衛門、加藤無手之助、矢田作十郎、戸田三郎右衛門、其外是に (おとらぬ)爰は之衆百騎余可有。其外小侍共は際限無。戸田三郎右衛門御前をそむき、御面目たるに寄而、寺内得入たる事なれども、心からの御別心にあらざれば、寺内を可㆑取と調儀をしける処に、顕れければ、外ぐる輪を燔而出で、其時御前がすみて罷出。佐崎に松平三蔵殿の城を勿而居給得ば、御加勢をくわゑ給ふ。岡崎得道一里有。其間にばりの取出小栗等に持給ふ。是は矢作河之西、やはぎ河之東、六栗之郷中に夏目次郎左衛門屋敷城を持而、ふかうずの松平主殿助殿と、取合而居たりけるを、主殿之助殿押寄而構を押やぶり給得ば、夏目次郎左衛門かなはずして、蔵屋得とぢこもり而有処に、松平主殿之助殿得仰つかはされけるは、次郎左衛門構をやぶらせ給ふ事ひるい無、殊更夏目我に敵をなし、弓を彎事憎き事かぎり無とは存れ共、左様にとぢこめ、箄の内の鳥になし給得ば、害給ふも同前に候得ば、弐置給得と仰つかはされければ、主殿之助殿大きに腹を立給ひ而、御敵を申而、錆矢を射懸申たる族を、何に御慈悲ふかければとて、弐置給得とはさりとは承とゞけざる御事なれども、御意ならば是非に不㆑及、惣別申上申に及去者をと慷慨被成ける。御免被成間敷夏目を御寛けるを、御慈悲哉と各々感じ入ける。扨又松平七郎殿は大草の城を持而、一揆と一味して御敵に成給得ば、是も土呂同前に御改易を被成ければ、何くゑ行供無、跡方も無して、七郎殿跡者絶たり。扨又土ろに立こもる衆、大橋伝一郎、石河半三郎、佐馳甚兵衛、佐馳甚五郎、大見藤六郎、石河源左衛門、佐馳覧之助、大橋左馬之助、江原孫三郎、本多甚七郎、石河十郎左衛門、石河新九郎、石河新七郎、石河太八郎、石河右衛門八郎、石河又十郎、佐野与八郎、江原又助、内藤弥十郎、山本才蔵、松平半助、尾野新平、村井源四郎、山本小次郎、ぐわつくわい佐五助、黒柳次郎兵衛、成瀬新蔵、岩堀忠七郎、本多九三郎、三浦平三郎、山本四平、阿佐見主水、阿佐見金七郎、賀藤小左衛門、平井甚五郎、黒柳喜助、野沢四郎次郎、其外是に劣ぬ兵ども、七八十騎こもる。其外小侍ども百余可㆑有。坂井将監殿得こもる衆、足立右馬之助、鳥井四郎左衛門、高来九助、足立弥一郎、芝山小兵衛、鳥井金五郎、本田弥八郎、榊原七郎右衛門、大原佐近右衛門、今藤伝次郎、坂井作之右衛門、其外是に劣ぬ衆数多有。扨又鍼崎之寺内得立こもる衆、八屋半之丞、筧助大夫、渡辺玄蕃、渡辺八右衛門、渡辺八郎三郎、渡辺八郎五郎、渡辺源蔵、渡辺平六郎、渡辺半蔵、渡辺半十郎、渡辺墨右衛門、久世平四郎、浅井善三郎、浅井小吉、浅井五郎作、波切孫七郎、今藤新四郎、黒柳孫左衛門、黒柳金十郎、本田喜蔵、賀藤善蔵、朝岡新十郎、賀藤次郎左衛門、佐野小大夫、賀藤源次郎、朝岡新八郎、獚塚七蔵、賀藤伝十郎、賀藤源蔵、賀藤一六郎、賀藤又三郎、成瀬新兵衛、坂辺又六郎、坂辺人屋、坂辺勝之助、坂辺桐之助、坂辺酒之丞、坂辺又蔵、此外是に劣ぬ衆七八十騎可㆑有。其外に小侍供数多有、上和田と日々夜々之たゝかい成。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




