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新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ  作者: 条文小説


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2-2 運命の桶狭間――最強ギルド「今川」の油断

挿絵(By みてみん)


 『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia

 よう、また会ったな。語り部の彦左衛門だ。


 前回、俺たちの竹千代様が6歳で「売り飛ばされる」という最悪のスタートを切った話をしたな。だが、逆境こそが主人公を育てる。


 17歳になった元康公は、いよいよ戦国の「公式戦」にデビューすることになる。今日は、あの有名な「桶狭間の戦い」の裏側で、俺たちの主君がどんな「神ムーブ」を見せていたか、そして最強の守護 大名ギルドだった今川家がなぜ滅亡したのか――その真実を語ってやろう。


 竹千代様が今川にいた頃、ちょっとした事件があった。今川軍が織田側の「苅屋かりや城」をステルス襲撃で奪い返したときのことだ。


 本来なら、実戦経験豊富な「三河勢(岡崎衆)」を増援(二の手)に送れば完璧だったんだ。だが、当時の司令官・水野 下野守しもつけのかみが余計な忖度をした。


「藤九郎(自分の息子)は竹千代のいとこでよく比べられるし、ここは身内だけで手柄を立てさせたいな……」


 結果、増援が遅れてグダグダに。そこを織田側のガチ勢・牛田玄蕃うしだ・げんばに見逃見透かされ、「何モタモタしてんだ!」と逆襲を食らって、潜入していた伊賀衆80人が全滅。藤九郎も討ち取られ、今川軍は城を奪い返されるという「身内びいき」で大失敗した。組織にコネを持ち込むとロクなことがない、という教訓だな。


 永禄元年(1558年)、17歳になった竹千代様は、元服して「松平元康もとやす」と名乗った。


 元康公に与えられた最初のミッションは、敵に包囲された大高城への「兵糧ひょうろう搬入」。これがなかなかの無理ゲーだった。


「物見(偵察)の報告です! 敵がガッツリ陣を構えて待ち伏せしてます! これ、突っ込んだら全滅っスよ!」


 ベテラン勢がビビる中、一人のキレ者、杉浦八郎五郎がこう進言した。


「殿、今すぐ突っ込んでください。敵のフラグ(旗)の動きを見てくださいよ。山から下りてくるならやる気満々ですが、下から上に逃げてるってことは、あいつらビビって数合わせで並んでるだけです。今ならノーダメージで通れます!」


 元康公はこのアドバイスを信じて突入。見事に兵糧を届け、そのまま周辺の城を次々と放火・攻略して回った。これには三河の譜代衆も感涙だ。


清康様じいちゃんの再来だ……! あの若さで、なんて完璧なプレイヤースキルなんだ!」


 そして永禄3年(1560年)。今川義元が、駿河・遠江・三河の総勢数万という圧倒的な物量で尾張へ進撃を開始した。


 元康公もその一員として参加し、まずは最前線の「丸根砦」を攻略。敵の守将を討ち取り、大高城への補給を成功させるという大金星を挙げた。


 だが、ここからが今川義元の「運の尽き」だった。義元は「もう勝ったも同然」と、大高城の守備を元康公に任せて自分は引き揚げ、本隊でどんちゃん騒ぎを始めてしまった。


 この時、今川軍のベテラン・石川六左衛門(伊田合戦で顔を十字に切られたガチの猛者)が、義元に冷たく忠告した。


「殿、信長を舐めちゃいけません。あいつら若造に見えますが、5千人のキル集団(精鋭)を揃えてますよ。いつまでも長い会議(評定)なんてしてねえで、さっさと番手を入れ替えて撤退しなきゃ、詰みますよ」


 だが、義元はこの警告をスルー。激しい雨が降り出した直後、信長率いる3千人の暗殺ビルド(奇襲隊)が今川本陣を強襲した。


「えっ、何、フラグ!? 敵……!?」


 混乱する今川勢を尻目に、義元は毛利新助に首を飛ばされ、最強ギルド「今川」は一瞬で崩壊した。これが歴史に名高い「桶狭間の戦い」だ。


 この大混乱の中、一人の男が伝説を作った。今川の家臣、岡部五郎兵衛おかべごろべえだ。彼は義元が討たれた後も鳴海城を守り続け、最後は信長に対し、


「城を明け渡す代わりに、主君(義元)のしるしを返せ」


 という強気な条件で交渉を成立させた。主君の遺骸を守り、首を抱えて駿河へ帰還した彼の姿に、敵である信長すら「あいつこそ本物の侍だ」と称賛したという。


 一方で、大高城で「身代わり番」をさせられていた元康公は、義元の死を知る。


「……義元公は亡くなった。だが、これは俺たちが『三河』を取り戻すチャンスなんじゃないか?」


 今川義元の死は、元康公にとっての「独立」でもあった。もし義元が大高城の番を元康公に押し付けず、自分で守っていたら。もし雪斎が生きていたら……。歴史に「もし」はないが、義元の運命はあの日、元康公に難役を押し付けた瞬間に決まっていたのかもしれない。大久保新八郎は、不安がる仲間たちにこう言った。


「見ろ、ついにその時が来たんだ。俺たちは泥を食い、豆腐のカスを食って耐えてきた。その執念が、ついに天下のバランスをぶっ壊したんだよ。」


 さあ、次回。ついに今川から独立し、織田信長と同盟を結び、三河の主として君臨する――徳川家康、覚醒編だ。




【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】




然処に小田之弾正之忠も御遠行有而、信長之御代に成、竹千代様も早御元服被成、義元の元を取せられ給ひ而、次郎三郎元康と申奉る。永 ろく元年戊午の年、御年十七歳にして、大高の兵粮を請取せられ給ひ而入させ給ふ処に、敵も出て見得ければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郎左衛門、杉浦藤次郎、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門など見而参、今日之兵らう入者如何御座可有哉。敵陣てきいくさもち而候と被㆓申上㆒候処得、杉浦八郎五郎参而申上候者、早々御入候ゑと申上ければ、各々被㆑申けるは、八郎五郎は何を申上候哉、敵きをいていくさを持たると云。八郎五郎申、いや〳〵てき者陣いくさ㆑持、御旗はた先を見而山成敵方が下得おろさば、陣を持たる敵なれども、御旗はた先を見而、下成敵が上得引上申せば、兎角に敵者武者をば持ぬ敵に而御座候間、早々入させ給得と申ければ、八郎五郎が申ごとく成、早々入よと被仰而、押立て入させ給得ば、相違無く入給ひて引のけ給ふ。大高之兵粮入と申而御一大事成。然間信長も清須得引給ふ。次郎三郎様之御おぼゑはじめ成、其寄岡崎得引入給ひて、寺辺てらべ之城ゑ押寄給ひ而、外ぐるはを押敗やぶり放火して岡崎得引入らせ給ひ而、次に梅がつぼの城得押こみ給ひければ、城寄出てふせぎ たゝかふと云とも、何かは以堪ゑべき。付入にして外がまゑゝおひ入、二三之丸迄 焼排やきはらひ而、数多打取而、其寄岡崎得引せ給ひ而、次に広瀬之城、衣之城得押寄給ひ而、数多すた打取かまいをやぶり、放火して引きのけさせ給ひ、其寄岡崎得引入給ひ而、程無又駿河得返らせ給ふ。御普代衆之 よろこび申事無㆑ かぎり。扨も何とか御 成長そだち給ひ而、弓矢之道も如何御おはしまさんと、朝暮あけくれ無㆓心元㆒あんまゐらせ候得ば、扨も〳〵清康之御勢に能も〳〵たがはせ給去ざる事之目出たさと申、各々感涙泊かんるゐをながし而喜けり。扨又義元、尾張之国得出馬之時、次郎三郎元康も御供被成而御立有。義元者駿河、遠江、三河、三ヶ国之人数をもよをして、駿府すんぷを打立而、其日藤枝に付。先手之衆は島田、金谷、仁坂、懸河に付、明ければ藤枝を立而懸河に付、先手者原河、袋井ふくろゐ、見付、池田に付、明ければ懸河を立而引間に付、諸勢は本坂と今切ぎれゑ両手にわけて押而出て、御油ごい赤坂に而出合けり。義元者引間を立而吉田に付、先手はしも地之御位ごい、小坂井、かう御油ごい赤坂あかさかに陣取、吉田を立而岡崎に付。諸勢者屋萩はぎ鵜等うとう、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣之取、明ければ義元池鯉鮒に付給ふ。此以前寄くつ懸、鳴海、大高をば取而持もちたれば、くつ懸之城には駿河衆入番有り。鳴海之城をば岡部之五郎兵衛が居たり。大高には鵜殿長勿もち番手に居たり。信長寄大高には取出を取而、ぼう山の取出を佐間大角と申者がもち而、明ずして居たりしを、永禄えいろく三年〈庚申〉五月十九日に、義元は池りう寄段だん々に押而大高ゑ行、ぼう山之取出をつく〴〵と巡見して、しよ大名を寄而良久敷評定ひやうぢやうをして、さらば責取せめとれ。其儀ならば元康責給得と有ければ、元寄踸殿なればすなはち押寄おしよせ而責給ひければ、程無たまらずして佐間は切て出けるが、うんも尽きずや、打もらされておち而行。家の子郎従らうどうどもをば悉打取。其時松平善四郎殿、かけひ又蔵、其外之衆も打死をしたり。其寄大高之城に兵らう米多籠おほくこむる。其上に而又長評定ながひやうぢやうの有けり、其内に信長者清須きよす寄人数をくり出給ふ。評定ひやうぢやうには鵜殿長勿もちを早長々の番をさせ而有り。誰をかはりにかおかんとて、誰か是かと云内、良久敷誰とても無。さらば元康を置申せとて、次郎三郎様を置奉り而引のく処に、信長者思ひの儘に懸付給ふ。駿河衆是を見而、石河六左衛門と申者を (よび)出しける。彼六左衛門と申者は、大剛がうの者に而、伊田合戦之時もおもて十文字に切はられ、頸を半分切れ、身の内につゞきたる処も無、きずを持たる者成をよび而云けるは、此敵は武者をもちたるか、又もたざるかと云。各々の仰に不㆑及、あれ程若やぎ而見えたる敵の、武者をもたぬ事哉候はん。敵は武者を一ばい勿たりと申。然者敵之人数は何程可㆑有ぞ。敵之人数は内ばを取而五千も可㆑有と云。其時各䇻て云、何とて五千者可㆑有ぞと云。其時六左衛門打䇻而云、方々達は人数のつもりは無㆓御存知㆒と見えたり。かさに有敵を下寄見上而見みる時は、少数をも太勢にみる物成に有。敵をかさ寄見おろして見れば、太勢をも少勢にみる物にて候。方々達のつもりには、何として五千寄内と被仰候哉、惣別か様之処の長評定ひやうぢやう者、能事は出来せざる物にて候。方々達山をせめん歟責せめ間敷歟との評定ひやうぢやう久敷、又城之替番の詮義久敷候間、ふつゝと能事有間敷と申つるにたがはず、是得押寄給ふと其儘、取あゑずにぼう山をせめ落させ給ひ而、番手を早く入帰給ひ而、引かせ給はでかなはざる処を、余りにをもくれ而、手ねばく候間、ふつゝと能事有間敷、早々被㆑帰せ給得と、六左衛門申ければ、いそぎ早めて行処に、歩行者は早五人三人づつ山得あがるを見而、我先にと退く。義元は其をばしり給ずして、弁当をつかはせ給ひて、ゆく〳〵としておはしまし給ひし処に、車軸しやぢくの雨がふり懸る処に、永禄三年〈庚申〉五月十九日に、信長三千斗に而切而懸らせ給得者、我も〳〵と敗軍はいぐんしければ、義元をば毛利新助方が場もさらさせずして打取、松井をはじめとして拾人余、枕をならべ打死をしけり。其外敗軍はいぐんしておひ打に成、其儘押つめ給はゞ駿河迄も取給はんずれども、信長は強みを押させられ給去ざる人なれば、其寄清須得引入給ふ。然ると申に、元康の しつはらいを被成候物ならば、か程の事は有間敷に、大高の城之番手を申被㆑付し事 こそ、義元の運命成。

〜参考文献〜

三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource

https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a


〜舞台背景〜

 この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。

 せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。

 この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。

 もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。

 逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。

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