2-1 安祥防衛戦と、史上最大の「人質トレード」
『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。出典:Wikipedia
さて、物語を戻そう。小豆坂で織田軍を退けた翌年、またもや波乱が起きた。今川義元の軍師・太原雪斎が、3カ国の軍勢を率いて織田側の拠点「安祥城」を包囲した。
この戦いは凄まじかった。四方八方から鐘や太鼓が鳴り響き、矢と鉄砲の雨が降り注ぐ。まさに天地が震えるような激戦。雪斎は新手を次々と投入する「物量作戦」で、ついに織田側の守将・織田三郎五郎(信広。信長の兄)を本丸に追い詰めた。
ここで雪斎が最強の「トレード」を持ちかける。
「三郎五郎の命を助けてほしければ、織田が奪った竹千代(家康公)を返せ。さもなくば、ここでこいつの首を飛ばす」
織田側はこれに合意。こうして、竹千代様は織田から今川へと「再譲渡」されることになった。
だが、それは「解放」じゃない。今度は駿河の少将の宮の町で、7歳から19歳までという、人生のゴールデンタイムをすべて費やす「超長期・人質イベント」の始まりだった。
駿河での人質時代、竹千代様は常に針のむしろだった。ある時、竹千代様が裏の林で鷹狩りをしていたら、その屋敷の主・原見石主水という男が、こんな煽りを吐いた。
「けっ、三河の若造にはもう飽き飽きだ。いつまで居座ってやがる」
―― それから約38年後。
天下人への階段を登り始めた家康公は、武田側の「高天神城」を攻め落とした。その中に、あの原見石主水がいた。生け捕りにされた原見石に対し、家康公は静かに言い放った。
「昔、駿府にいた頃、お前は俺のことを『三河のせがれには飽きた』と何度も言ったそうだな。……よし、お前が俺に飽きているなら、もうこれ以上付き合う必要はない。さっさと腹を切れ」
この執念。まさに執念の「伏線回収」だ。
原見石も最後は潔かった。「西に極楽がある? 仏はどこにでもいるんだよ!」と、あえて南に向かって腹を切ったという。
反対に、ずっと誠実に仕えていた大河内という男は、家康公に命を助けられ、手厚い報酬を与えられた。
「慈悲を持たない奴は、最後には詰む」。 この歴史の教訓、覚えておくべきだ。
竹千代様が駿河にいた10数年間、俺たち三河の譜代衆はどうなっていたと思う?
……正直、目も当てられない惨状(暗黒期)だった。
今川義元は三河の領地をことごとく自分のものとして押領し、俺たちには一切の給料をよこさなかった。
「せめて山中の2千石だけでも返してくれ! 俺たち餓死しそうなんです!」と泣きついたが、あっさり却下。最強の武士団と呼ばれた俺たちは、百姓同前に鎌や鍬を持ち、泥にまみれて田畑を耕す日々を送った。妻子を背負って泥臭く働き、今川の役人が来れば、主君の命を人質に取られているから、ヘコヘコと這いつくばって身をすくめて歩くしかなかった。
だが、ここからが三河武士の異常なところだ。今川から「織田との戦いで先鋒をやれ」と命令が来れば、主君がいない寂しさを抱えながらも、俺たちは全員先駆けて出撃した。
「主君がどこにいようが、俺たちの主はあの方一人だ。『竹千代殿の軍勢』としての誇りを見せてやる!」
親が死に、子が死に、伯父も甥も従兄弟も討死した。自分たちも体中傷だらけになりながら、昼夜を問わず戦い続けた。すべては、いつか竹千代様が岡崎に戻ってくる日を夢見て……。
今川義元は、俺たちを「使い捨ての駒」にしようとしていたのかもしれない。
「松平の譜代を戦場で使い潰せば、竹千代を岡崎に戻さずに三河を完全に自分のものにできる」……そんな意図があったのか、とにかく俺たちを最前線の激戦区にばかり放り込んだ。
さらに今川は、伊賀の忍者(伊賀衆)を呼び集めて、織田側の水野藤九郎が守る「苅屋城」をステルス襲撃させた。藤九郎は用心深く、台所役や年寄り、小姓まで動員して防備を固めていたが、伊賀衆は海側の「誰も通らないルート」から潜入。一気に藤九郎を討ち取り、城を血に染めた。
味方も敵も、誰が裏切り、誰が死ぬかわからない。そんな混沌とした「戦国本番」の時代。俺たち三河武士は、飢えと屈辱に耐えながら、ただじっと「太陽」が昇るのを待っていた。
どうだ。これが我が家、そして徳川譜代の「血と涙の歴史」だ。俺がこの話を書き残したのは、世間に自慢するためじゃない。お前たち子孫が、「なぜ俺たちはこんなに苦労しているのに報われないんだ?」と腐りそうになったとき、このページを開いてほしい。
俺たちの先祖は、豆腐のカスを食い、泥を啜りながら、それでも主君への忠義を「川に流さず」に守り抜いた。その積み重ねがあるからこそ、今の平和な世があるんだ。
【三河物語 作:大久保忠教 国民文庫刊行会 1912年】
第二中
小豆坂之合戦之明の年、今河殿寄、雪斎長老を名代として、駿河、遠江、三河、三箇国の人数を促而押而出、西三河之案祥得即取つめけり。案祥之城に者、小田之三郎五郎殿うつらせ給ひ而、御処に、四方寄、責寄而、鐘太鼓を鳴し、四方寄、矢鉄砲をはなし、天地を響かせ、鯨声を上、もつたて、かひ立、せい楼をあげ、矢蔵を上、竹たばを付而、昼夜、時之間もゆだん無、荒手を入替々々責入れば、早二三之丸を責取而、本丸斗に成而、噯ひを懸而、二の丸得おろして、即、堄をゆて、押こみて、この内之鳥、あじろの内の、ひ魚のごとくにして置、其寄して小田之弾正之忠得、雪斎長老寄申しつかはしけるは、三郎五郎殿をば、二の丸得、押おろし、即堄をゆいて、押入而おく。然とは云ども、松平竹千代殿と、人質替にも被成候はんや。其儀においては尤成。然らずんば、是に而御腹を切せ申さんと、申つかはしければ、平手と林両人寄返事に、仰被越候儀尤に存知候。さらば取替申さんとて、其時相互に、替相にならせられ給ひし寄、竹千代様者、駿河之国得御下被成、駿府之、少将之宮之町に、御年七歳寄、十九之御年迄、御気伻を被成候御事、云に無㆑斗、あたりにて、䲼(こたか)をつかはせられ給し迄も、御気遣を被成候。去程に人者只、情あれ。原見石主水が屋敷得、御鶚それ而入ける時者、折折うらの林得入せ給ひ而、すゑ上させ給へば、主水申様は、三河の忰に、あきはてたりと、度々申つるを、御無念にも思召けるや、三拾七八年程へて後、遠江之国、高天神之城を、甲斐之国の、勝頼方寄持けるを、押寄而、堀を掘、堄をゆい、塀柵付而烯害させ給ひし時、原見石主水も、其時城に籠ける。早兵粮米も尽きて、切而出けるを、生取而此由を申上ければ、其原見石と申者、我昔駿府につめて有し時に、上原得、鶚つかいに出るに、原見石が林得、鶚のそれて入時、すゑ上に入候へば、三河のせがれに、あきはてたると、度々に置而申つる。我も侤たり。原見石も可㆑存。とてもわれにあきたる原見石なれば、とく〳〵腹を戮申との御諚成。原見石、最後もよかりける。尤其儀成、悔敷事に非とて、南得むきて腹を切りけるを、そば寄申けるは、さすがの原見石程の者が、最後をしらずや、西にむきて腹を切と云ければ、原見石が申、汝物をしらずや、仏者十方、仏土中、无二亦、無三、除仏、方便説と、説給得者、西方にばかり、極楽者有と斗思ふか、荒胸狭や。いづれの極楽を嫌はんやとて、南にむきて腹を切けり。然所に、大河内と申者は、其比再々御前得も参、御用をもたして、御奉公ぶりを、いたしたる者なれば、城寄も何時切而出るとも、汝等は石川伯耆守責口之前に、石風呂のありける中得入而居よと仰せければ、御意之ごとく、大河内は、石風呂之中にぞゐたりけるを、命を御扶被成、其耳成、物を被下而、送り而国得御返しあり。能あたり申大河内も、悪あたり申。原見石も一つ時、一度に高天神の城に籠りて、城をば一度に出るとは申せども心に哀見を勿而、人に能あたりたる者は、天道の御恵に仍、忽に、打死をする所を命を佑る。御幼少之御時、能あたり申ならば、此度の命は、無㆑遖佑べきを、心に慈悲を持去故に仍、討死の場に而、生取れ而、腹を切たる儀は、主之奉公には、同事にはあれ供外のきけいと申、其身之ためには、迷惑成。是を見に付而、只人者慈悲之心を本として、人を悪する事なかれ。去程に御年七歳寄御十九迄、駿河に引被㆑付させ給ひ而、其内者御扶持方斗之あてがいにして、三河之物成とて少もつかはされ候事成して、今河殿得不㆑被㆑残押領して、御普代之衆者、拾箇年余、御ふちかたの御あてがひ可被成様もあらざれば、せめて山中弐千石余之所を渡してもくれ去歟、普代之者ともが餓死に及体なれば、かれらにせめてふちかたをもくれ度と被㆑仰けれども、山中弐千石さゑ渡し候はねば、何れも御普代衆手作をして、年貢石米をなして百姓同前に鎌鍬を取、妻子をはごくみ、身を扶荒れぬ形をして誠に駿河衆と云ば気を取拝つくばひ、折屈而髃身をすくめて恐をなして歩く事も、若何成事をもし出てか、君之御大事にも成もやせんと思ひ而、其耳斗に各々御普代衆有にあられぬ気伻をし趙廻。拾箇年に余年には五度三度づつ駿河寄尾張之国得働に而有、竹千代殿の衆に先懸をせよと申越けれども、竹千代様は御座不㆑被㆑成、誰を御主として先懸をせんとは思得ども、然供御主は何くに御座候とも、普代之御主様得の御奉公なれば、各々我々不㆑残罷出て、先懸をして親を打死させ子を打死させ、伯父姪従兄弟を打死させ、其身も数多の疵をかうむり、其間々には尾張寄働ければ出て者禦。昼夜心を尽し、身をくだき働とは申せども、未竹千代様之、岡崎得入せ給はぬ事之悲しさと、各々の身に余りて歎けり。今河殿も竹千代殿の普代之者をさゑ害あげたらば、竹千代殿を岡崎得入申間敷とや思召哉、此方彼方の先懸をさせ、数多之人を害、然処に今河殿寄苅屋之城を忍び取に取んと、伊賀衆を喚寄付けり。水野藤九郎殿者恪気の深き故に、城之内にかいがは敷人を置給而、年寄たる台所人之様成者、夫あらしこ、其外年寄、小性の様成役にも立去者どもを取集而、四五十人斗居たり。其故熊村と云郷に目懸を置給得ば、其後通い給ふとて、浜手の方をば人之行かよいなければ、聞懸而浜之方寄伊賀衆やす〳〵と忍入而、藤九郎殿を打取。其外之者どもを此方彼方得押寄々々 皆打取而、二の手を待けり。其時岡崎衆を二之手にするならば、無㆑難城を取かためべき物を、水野下野殿者竹千代様の御ためには、眼前の伯父、藤九郎殿者下野殿には御子、竹千代様には御いとこなれば、其に心を置歟、岡崎衆には不㆑付して、二の手を三河之衆に申被付ければ、をくれても有歟、二の手慹ければ苅屋衆之爰はと思ふ衆が、早悉おとなの牛田玄蕃所得懸寄而、此方は何とゝ云ければ、玄蕃云、何とゝは酷とて即倍程に、其儘城を騎返而、伊賀衆を八十余打取。然ども藤九郎殿頸をば羽織につみて、床ゑ上而社置。駿河衆も城を騎返され而、手をうしないける処に、早小河寄下野殿懸着給得ば、駿河衆も足々にして引退く。
〜参考文献〜
三河物語(国民文庫刊行会 大正元年)- Wikisource
https://share.google/jJTiQMFkLIRfryR6a
〜舞台背景〜
この作品では原典を併記していますが、これがなかなか厄介で、単にWikiなどから貼り付けると元のルビが崩れて文章がグチャグチャになります。そのため原文の体裁は、ストーリーを考える数倍の手間を掛けて整えています。
せっかくなので、小説と原文を見比べながら、原典の雰囲気を感じてもらえたらと思います。
この「小説+原文併記」という形式は、たぶんなろうではあまり見ない試みだと思います。
もし面白い試みだと思って頂けたら☆5とは申しませんが、☆3〜4くらい頂けると嬉しいです。
逆に「ウ~ン」と思われた方は、遠慮なく☆1で意思表示して頂ければと思います。率直な感想として謹んで承ります。




