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夫が呼ぶ妹について、そろそろお伺いしたいのです  作者: むむさん


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3/3

第3話 北棟が空いて、あなたが座り直す日

 月曜の朝、ニグレム家の正面玄関に、小さなトランクが一つ置かれた。

 革張りの、年季の入ったトランクである。三年前に北棟の二階へ運ばれたとき、誰の手にも触れさせなかったものを、ファルラは、今朝、自分一人で階段を下ろしてきた。

 手摺りを使わずに、一段ずつ、トランクを抱えて、下りてきた。

 病弱な、と私が三年間聞かされ続けてきた女性が、自力で、である。

 エーレが、玄関の脇で、無表情に立っていた。

「ファルラ様、外套をお持ちしますか」

「いえ。自分で、結構です」

 ファルラは、自分の指で、外套のボタンを留めた。指の節は、しっかりしていた。


 ロドリック・テッセル先生が、十時きっかりに、玄関の呼鈴を鳴らした。

「お時間どおりに、参りました」

 テッセル先生は、書類鞄を肩に下げて、外套も脱がずに立っていた。

「ファルラ・カイス様。ご選択の確認をいたします」

「王都南区、女性自立寮を、お願いします」

「後見人は、王立法務院書記局でよろしいですね」

「はい」

「最後に、もう一度だけ、お聞きします。これは、事実ですか。それとも、希望ですか」

 テッセル先生は、書類の重さを音で測る人の、いつもの淡い声で、その問いを置いた。

 ファルラは、玄関のたたきに、視線を落とした。

 落とした後、顔を上げた。

「事実、です」

 テッセル先生は、書類鞄から、署名済みの転居書を取り出し、ファルラに手渡した。

「では、参りましょう」

 ファルラは、トランクを持ち上げ、玄関を出るとき、一度だけ振り返った。

 私を見て、エーレを見て、それから、奥の階段の方を見た。

「お姉さま」

 ファルラは、初めて、その呼び方を、止める前提で口にした。

「最後に、一度だけ、お姉さまと、お呼びしてもよろしいですか」

「どうぞ」

 私は答えた。

「ただし、それが、希望か、事実か、ご自分で決めてから」

 ファルラは、口元を、はっきりと、ほどけさせた。

 三年間、北棟の扉の内側で、いちども浮かべなかったであろう顔だった。

「希望、でした」

 ファルラは、そう言い、外へ、出た。

 扉が閉まる音を、私は、立ったまま、聞いた。



 応接間で、エーレが、私の前に紅茶を置いた。

 その紅茶のとなりに、もう一つ、銀の盆に乗った鍵束が、置かれた。

「奥様。北棟の鍵、お戻しいたします」

 エーレは、無表情のまま、私の左手に、鍵束を渡した。

 鍵束には、北棟の扉の鍵、北棟二階の鍵、屋根裏の鍵、それから、私の知らない小さな鍵が一つ、ぶら下がっていた。

「これは、何の鍵?」

「北棟の地下、用具置きの鍵でございます。三年間、開いておりません」

「では、明日、開けましょう」

「承知いたしました。空気を、入れます」

 エーレの声は、いつもと同じだった。

 けれど、鍵束を私の手に渡したとき、その指だけが、少し、白かった。

 私は、その白さに、気づかないふりをした。気づいたと言ってしまえば、彼女が三年間、ずっと、その鍵を取り戻したかったことを、私が遅れて知ったことになる。

 エーレは、頭を一つ下げて、応接間を出ていった。

 扉が閉まる音は、いつもより、少しだけ、軽かった。



 夕方、夫は、いつもより一時間早く、帰宅した。

 玄関で外套を脱ぎながら、私の顔を、まず見た。

「君に」

 夫が、外套をエーレに渡してから、言った。

「君に、話したいことが、いくつもある」

「夕食の前に?」

「夕食の後でも」

「では、後で」

 私は、答えた。


 夕食の席で、夫は、紅茶を、温かいうちに飲んだ。

 三年連れ添って、私がまだ知らなかった、夫の顔の一つだった。

「君に、聞きたいことがある」

 夫は、紅茶のカップを、両手で持ったまま、私を見た。

「君は、私と、離縁を、選ぶか」

 私は、自分のフォークを、皿の縁に置いた。

 置いた後、夫を見た。

「あなたが、それを、事実として、お聞きですか。それとも、希望として、お聞きですか」

 夫が、口元を、ほんの少しだけ、ほどけさせた。

「……事実として、聞いている」

「では、事実で、お答えします」

 私は、紅茶のカップを、左手で持ち上げ、湯気を、見た。

 目線は、もう、床には、落ちなかった。

「私は、離縁を、選びません」

 夫が、息を、止めた。

 止めた、と、私には分かった。

「ただし、条件があります」

「どうぞ」

「あなたが、希望と事実を、ご自分の口で、区別する人で、あり続けてください。今日、できたように、明日も、来年も。それができなくなった日には、私は、もう一度、お茶会を開きます」

「……お茶会を」

「はい。お茶と、書類と、ひとつの質問だけ、ご用意して」

 夫は、紅茶のカップを、円卓に、ゆっくり置いた。

「君は、私を、観察する、ということか」

「観察、というよりは」

 私は、自分の口角を、ほんのわずか、上げた。

「契約、でしょうか。念のために、書面に、しておきましょう」

 夫が、声を上げて、笑った。

 声を上げて笑う夫を見たのは、私には、初めてだった。

 笑い終わってから、夫は、両手を膝の上に、揃えて置いた。

 法務官が、依頼人の前で、書類を受け取る姿勢である。

「お願いします。観察を」

 夫は、頭を、深く、下げた。

 深く、けれど、ゆっくりだった。

 ゆっくり、ということは、見せかけでは、ないということだ。

 私は、五年勤めた癖で、その動作を、頭の中で、議事録に変換した。

「承りました」

 私は、自分の指先で、夫の指先に、一度だけ、触れた。

 触れて、すぐに、離した。

 離してから、私は、フォークを、もう一度、持ち直した。



 その夜、私は、書斎の机に、新しい帳簿を、一冊、置いた。

 厚みは、薄い。

 表紙には、何も書いていない。

 私は、ペンを取り、一行目に、こう書いた。


「夫の更新記録・第一日」


 二行目に、日付。

 三行目に、その日に起きた事実を、簡潔に。

「ファルラ・カイス、転居完了。王立法務院書記局、後見人。」

 四行目。

「シリル・ニグレム、希望と事実を、自身の口で区別。一回。」

 五行目。

「北棟、鍵束、侍女頭エーレより返還、当主夫人の手元へ。」


 ペン先を、止めた。

 書斎の窓の向こうで、北棟の二階は、暗かった。

 三年間、毎夜、必ず灯っていた灯りが、今夜は、ない。

 その暗さを、私は、しばらく、見ていた。

 暗さの中に、なにか、悲しいものが、混ざっているような気もした。

 けれど、混ざっているのは、悲しさだけでは、なかった。

 たぶん、安堵と、それから、これからの、ほんの少しの楽しみが、一緒に、混ざっていた。



 数日後、ライエンから、手紙が届いた。

 王立法務院・第二文書局、書記官の名前で、正式な書式の手紙だった。

「ご報告いたします。王立騎士団・戦時従軍書記の名簿、過去十五年分が、今月より一般公開となりました。ファルラ・カイス様のご尊父、ジル・カイス書記官の従軍記録ならびに殉職記録、公的に確認されました。彼の名誉ある殉職は、王国の戦史に、正式に刻まれます」

 手紙の最後に、ライエンの筆跡で、私的な一行が添えられていた。

「ニグレム夫人。あの日のお茶会の議事録は、二行で済みました。事実、一行。希望、一行」


 私は、その手紙を、夫の執務机の上に、そっと、置いた。

 置いた後、インク瓶の蓋を、左手で、締めた。

 今夜は、夫の机を、それ以上、片付けなかった。

 夫が帰ったら、夫の口で、その手紙について、話してもらうつもりだった。


 私は、書斎へ戻り、新しい帳簿の、最後のページを、開いた。

 最後のページに、一行だけ、控えとして、書いておいた言葉がある。

 三年間、私が、自分の口で、誰にも言わずに、心の中で、何度も並べ替えてきた言葉だった。


「それは、事実ですか。それとも、希望ですか」


 私は、その一行を、線で消さなかった。

 消さずに、そのまま、最後のページに、残した。

 いずれ、必要になる日が、もう一度、来るかもしれない。

 来なければ、それは、それで、よい。

 来ないことの方が、たぶん、私の希望ではなく、事実に、近い。


 書斎の窓の向こうで、北棟の地下の小窓に、ほんの一瞬、灯りが見えた。

 エーレが、空気を入れるために、ランプを持って入ったのだろう。

 その灯りは、しばらくして、消えた。

 私は、ペンを置き、立ち上がり、夫を、玄関で、出迎える支度に、入った。


 今夜の夕食は、薄く切ったパンを、二枚。

 配膳台のもう一皿は、もう、いらない。

 誰かの席の代わりだった皿が、ようやく、誰の代わりでもないものに、戻る。

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― 新着の感想 ―
・・・ざまぁされてます? まあ、離婚するほどの事ではないようには思えるから話的には妥当なのかなあと感じました。
この作品は『ざまぁなし』である。 それが唯一の間違い。 そして、それだけ。
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