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夫が呼ぶ妹について、そろそろお伺いしたいのです  作者: むむさん


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第2話 お茶会と、たった一つの問い

 水曜の午後、私は、北棟の扉を、初めて自分の手で叩いた。

 三年間、一度も叩いたことがない扉だった。

 夫が「妹の体に障るから」と言い続け、エーレも「鍵は、旦那様のお手元にしかありませんので」と無表情に告げ続けた、その扉である。

 今朝、その鍵は、私の左手の中にあった。

 昨日、夫が出仕した後、私はテッセル先生を呼び、合鍵を一本、正式に作らせた。屋敷の主たる夫人が屋敷内のすべての鍵を保有することは、ニグレム家の家令契約書にきちんと書かれている。私は、五年勤めた癖で、契約書をすべて頭の中で復唱できる。


「ファルラさん、お茶の席へお誘いに参りました」

 扉の向こうで、椅子が引かれる音がした。

 返事はなく、足音だけが、一歩ずつ、近づいてきた。

 扉が、内側から、ゆっくりと開いた。

 線の細い、薄い色の髪の女性が、立っていた。年は二十歳前後だろう。頬の血色は、悪くなかった。手の指も、節がしっかりしていた。寝室から出てきた人間の手とは、私には思えなかった。

「……お、ねえさま」

 彼女は、私のことをそう呼んだ。

 三年間、一度も顔を見たことのない女性が、私のことを「お姉さま」と呼んだ。

 私は、目線を一度だけ、廊下の絨毯に落とした。



 応接間の円卓には、五脚の椅子が用意してあった。

 夫、ファルラ、テッセル先生、ライエン、そして、私。

 夫は、私の隣に座った。座るとき、こめかみを左手で押さえた。法務官の癖だ。

 ファルラは、円卓の私の正面に座った。膝の上で、両手をきつく組んでいた。

 テッセル先生は、書類鞄を椅子の脇に置いた。

 ライエンは、無言で目礼をして、書記官の顔に戻った。


 お茶が配られ、茶葉の香りが落ち着くまで、誰も口を開かなかった。

「お忙しいところ、ありがとうございます」

 私は、最初に口を開いた。

「今日は、お茶と、書類と、ひとつの質問だけを、ご用意しました。順番にお出ししますね」

 夫が、紅茶のカップを持ち上げかけて、止めた。


 私は、円卓の中央に、書類を三枚、並べた。

 一枚目。婚姻契約書の、第十二条。

「家族扶養」項。

 ニグレム家の血縁者で、当家の扶養を受ける者の氏名と続柄を記す欄。

 空欄である。

 三年前、私が署名したときも、空欄だった。


 二枚目。戸籍照会の写し。

 申請日、三年と二ヶ月前。

 対象者、ファルラ・カイス。

 返答、本省管下に確認できず。

 末尾、未了。


 三枚目。再申請の戸籍照会の写し。

 申請日、十日前。

 申請者、オリヴィア・ニグレム。

 返答欄に、係官の手で、簡潔に一行。

「ニグレム家との血縁関係は確認できず。」


 夫が、左手で、こめかみを押さえたまま、動かなくなった。

 ファルラの肩が、わずかに震えた。

 テッセル先生は、両手を膝の上に重ねた。

 ライエンは、円卓の脇のメモ帳に、ペンを止めたまま、何も書かなかった。


「これが、事実です」

 私は、書類の角を、左手で軽く揃えた。

「次に、希望をお聞かせいただきたいのです」

 誰も、答えなかった。

「シリル様」

 私は、夫の名前を、三年ぶりに、敬称付きで呼んだ。

「シリル様は、ファルラさんを、何と呼んできましたか」

 夫が、ようやく、こめかみから手を離した。

「……妹だと」

「血の繋がった、妹ですか」

「いや」

 夫の声が、わずかに掠れた。

「血の繋がりは、ない」

「では、義理の妹ですか」

「義理の関係を結ぶ書類は……出していない」

「家族扶養の対象として、契約書に氏名はありますか」

「ない」

「ニグレム家の家計から、ファルラさんの生活費を出していますか」

「出している」

「その出費は、家計簿のどこに記載されていますか」

「……『家政維持費』として、月額の中に」

「では、その月額は、誰が承認しましたか」

「私が、承認した」

「私の署名は、ありますか」

 夫は、答えなかった。

 答えられない、というのは、答えだ。

 私は、その沈黙の間だけ、三年前、自分の手で北棟のベッドに敷いた白いシーツの、糊の硬さを、指先で思い出していた。


 私は、四枚目の紙を取り出した。

 家計帳簿の、過去三年分の月次承認欄。

 夫の署名と、私の署名が並ぶべき欄。

 北棟関係の項目だけ、私の署名欄が、ずっと空欄になっていた。


「ここまでが、事実です」

 私は、紙の角を、もう一度、揃えた。

「ここからが、お聞きしたい質問です」


 円卓の上の湯気が、誰の方にも、傾かなかった。


「シリル様。あなたが、三年間、ファルラさんを『妹』と呼んでこられたこと。それは、事実ですか。それとも、希望ですか?」


 夫の喉が、上下に、深く動いた。

 夫は、紅茶のカップを、初めて、両手で持った。

 持っただけで、口に運ばなかった。

「……希望、です」

 夫が、自分の口で、その言葉を置いた。

「ファルラは、私の戦友の娘だ。ジル・カイス、という。いや……君には、名前から、話すべきだった。彼は、私が王立騎士団の従軍書記をしていたとき、私の、代わりに矢を受けて、死んだ。彼の妻は、その三日後に……流行病で。残されたファルラには、引き取り手が、いなかった。私は、ニグレム家の北棟なら、何とかなると、思った。思った、というか……今は、その『何とか』が、何を指していたのか、自分でも、よく分からない」

「そのとき、私には、相談しましたか」

「していない」

「結婚式の前ですか、後ですか」

「結婚式の、二日後」

「家族扶養の契約書を、結び直す機会は、何度ありましたか」

「……何度も、あった」

「それを、なぜ、なさいませんでしたか」

 夫は、両手で持ったカップを、ゆっくりと、円卓に戻した。

「君に、知られたら、君が、ファルラを追い出すと、思った」

「それは、事実ですか。それとも、希望ですか」

 夫が、息を止めた。

 止めた、と私には分かった。

 私は、もう、夫の息の止まり方を、三年分、覚えていた。


「希望、だ」

 夫が、自分の口で、また、その言葉を置いた。

「君は、君ならきっと、追い出さない人だと、私は、ずっと前から、知っていた。それを、知っているのに、私は、自分が怖くて、君に、相談しなかった」

 夫の声は、震えていなかった。

 震えていない、というのが、夫の癖だ。

 怒鳴らないし、泣かない。ただ、紅茶を冷ます。



 ファルラの肩は、まだ、震えていた。

 私は、五枚目の紙を取り出した。

 白い、何も書かれていない、便箋の一枚。

 その一枚を、ファルラの方へ、ゆっくり、滑らせた。


「ファルラさん」

 ファルラは、顔を上げなかった。

「あなたを、誰の何にするか。それは、シリル様の希望でも、私の事実でもありません。あなたが、書いてください」

「……私は」

 ファルラの声は、細かった。

「私は、妹では、ないのですよね」

「あなたが、ご自分でお書きになるなら、その通りです。ただ、もう一つだけ、お聞かせください」

 私は、自分の声を、いつもより一拍、柔らかくした。

「三年間、朝はお粥ばかり、召し上がっていましたね。それは、事実ですか。それとも、希望ですか」

 ファルラの目から、初めて、涙が落ちた。

「……私は」

 ファルラは、紅茶のカップに、目を落とした。

「お粥が、好きだったわけでは、ありません。ただ、妹らしくしていたかった、だけです。妹で、いれば。ここに、いてもいいのだと、思えたのです」

 私は、うなずいた。



 テッセル先生が、書類鞄を開けた。

「ファルラ・カイス様。法的後見人の選任手続きを、王立法務院に申請いたしましょう。現状、戸籍上、あなたは身寄りのない成人女性です。後見人は、ご本人の選択により、王立法務院書記局、王都南区の女性自立寮、もしくは私的後見人の三択がございます」

 テッセル先生の声は、書類の重さを音で測る人の、淡い声だった。

「お時間をかけてお決めになって結構です。来週の月曜、午前十時に、私が再度伺います」


 ライエンが、初めて口を開いた。

「ニグレム夫人。本日のお茶会の議事録を、王立法務院第二文書局に、私的な記録として残します。よろしいでしょうか」

「お願いします」

「もう一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」

「どうぞ」

「ニグレム卿について、夫人として、どのような記録をご希望ですか」

 私は、夫を、隣に座らせたまま、答えた。

「希望は、ありません。事実だけ、お願いします。事実とは、今日、シリル様が、ご自分の口で、希望と事実を区別したという、その一行です」

 ライエンは、メモ帳に、一行だけ書いた。

 書いたのが、何行か、私からは見えなかった。

 ただ、ペン先の音が、私の耳に、いつもより、よく届いた。



 お茶会が終わり、テッセル先生とライエンが帰った後、応接間には、私と、夫と、ファルラだけが残った。

 ファルラは、白い便箋を、両手で握っていた。

 夫は、こめかみを、また左手で押さえた。

「君に、謝っても、いいか」

 夫が、私に向かって言った。

「謝罪は、いつでも、お聞きします」

 私は答えた。

「ただ、今日は、書類が、たくさん、ありましたので。今日の議題には、入れません」

 夫の口元が、ほんのわずか、ほどけた。

 三年間で、私が、その表情を見たのは、初めてだった。

「……君は」

「はい」

「君は、私の妻だ」

「ええ」

「希望、ではなく」

「事実、です」

 私は、夫の隣で、自分のカップの紅茶を、ようやく一口、飲んだ。

 冷めていなかった。

 いつもよりも、ずっと、温かかった。

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― 新着の感想 ―
いっそ愛人じゃないのが自分に酔ってるみたいで気持ち悪い。と、言ってくれる家族がいればなぁ。それこそ、本当の妹がいたら言ってくれそう。
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