第1話 朝の北棟と、滑り落ちた一通
朝の食堂に、いつも通り、三人分の支度がある。
私の席、夫の席、それから、配膳台にもう一皿。
誰も座らない席は、もとからない。けれど、配膳台のもう一皿が、いつも、誰かの席の代わりのような顔で、銀の盆に乗って、北棟へ運ばれていく。
「奥様、本日のパンは薄切りにいたしました」
侍女頭のエーレが、私の前に皿を置いた。
私はうなずいて、パン切り台の方を見た。三年前と同じ手順で、エーレが薄く三枚に切ったパンの内、一番厚みのある一枚を北棟の盆へ移している。
「ファルラ様は、今朝もお粥のご希望でしたので」
お粥。
三年間、北棟の住人の朝食は、ずっとお粥だった。
病弱な妹のための、温かくて、噛む力のいらない、白いお粥。
私は紅茶のカップを左手で持ち上げ、湯気を見た。
目線が一度、床に落ちた。
「奥様、塩はどちらへお置きいたしましょう」
「右手の方に、お願いします」
「承知しました」
いつも通りの朝。
いつも通りの北棟。
いつも通り、私は、夫の妹の顔を知らないままでいる。
夫が出仕したのは八時半だった。
玄関で「いってらっしゃいませ」を言い、扉が閉まった音を一拍待ってから、私は二階の執務室へ上がった。
夫の執務机は、契約調査局所属の法務官にしては、いつも整っているとは言い難い。
書類束が三つ、インク瓶の蓋は半分開いたまま、ペン先のインクが乾いている。
私は左手で蓋を締めた。
それから、束の一番上から、書類を一枚ずつ整え始めた。整える、というのは、私の癖だ。怒っているときほど、紙の角を揃えたくなる。
三束目の中ほどから、一通の照会状が滑り落ちた。
封蝋は、王立法務院・第二文書局のもの。私が五年勤めた、同じ局。
封の脇に、誰かの筆跡で短く書かれていた。
「未了。再提出を要する。」
未了。
私は照会状を拾い、机の上で角を揃えた。
手が、いつもより少しだけ、紙の角に長く触れていた。
照会状の本文は、私の読み慣れた書式だった。
戸籍照会、申請者ニグレム家、対象者「ファルラ・カイス」、生年・本籍・血縁関係。
申請日は、三年と二ヶ月前。
私が、ニグレム家に嫁いだ三日後。
返答欄には、白い余白だけが残っていた。
末尾に小さく、係官の手で書き加えがある。
「対象者の出生記録、本省管下に確認できず。再照会の手続きを要請のこと。」
私はもう一度、申請日の数字を見た。
三年と二ヶ月前。
私が、夫の妹のために用意した部屋に、初めてシーツを敷いた日の、三日前である。
ペン先が、机の上でかすかな音を立てた。
私が右手で押さえていたから、その音は、誰にも聞こえなかった。
◇
「テッセル先生」
応接間で、私は公証人のロドリック・テッセルに、紅茶を一杯出した。
夫がいない時間に呼んだ、という事実は、書類の上には残らない。
「奥様、今日はどのご用件でしょうか」
テッセル先生は、紅茶のカップを耳元に近づけて、軽く揺らした。
書類の重さを音で測る癖があると、王立法務院では有名だった人だ。
「戸籍照会を、再申請したいのです。対象は同じ。三年と二ヶ月前から、未了のままになっています」
「ご主人様のお名前でお出しになりますか」
「私の名前で、お願いします」
テッセル先生は、カップを置いた。
「奥様、確認です。ご夫君が提出された申請が未了のまま残っているところに、奥様のお名前で別途お出しになる。それは、事実ですか?」
「事実です」
「それは、ご夫君のお名前を、いずれ消すことに繋がります。よろしいですね」
「結構です。私はただ、紙の上にいない人を、紙の上に呼びたいだけです」
テッセル先生は、左手の指で、自分の襟元を一度撫でた。
「奥様。これは、私の私見ですが」
「どうぞ」
「奥様は、お茶会の準備が、お上手でいらっしゃる」
私は、笑わなかった。
「ええ、念のために、準備しておきます」
◇
夕方、夫が帰宅した。
玄関で外套を受け取り、私は「お帰りなさいませ」を言った。
夫は外套を脱ぎながら、いつもより一拍長く、私の方を見た。
「君は、今日、何をしていた」
夫の声は、穏やかだった。
私は、外套の襟を整えながら答えた。
「あなたの机を、少し、片付けました」
夫が、息を止めた。
止めた、と私には分かった。三年連れ添えば、息の止まる音は、空気の重さで分かる。
「……何か、見たか」
「インク瓶の蓋を、左手で締めました」
「それだけか」
「それだけ、とは?」
夫が、外套をエーレに渡した。エーレは無言で受け取り、無言で下がった。
私は、夫を見上げて、もう一度言った。
「インク瓶の蓋を、左手で締めました。それから、紙の角を、揃えました」
夫の喉が、上下に動いた。
夕食の席で、夫は、紅茶を飲まなかった。冷めるまで放置していた。三年間で、私はもう、夫が紅茶を冷ます癖を知っていた。
ただ、今夜は、いつもより一杯、冷め方が早かった。
◇
夜、書斎の机で、私は招待状を三通、並べた。
一通目、宛先「シリル・ニグレム卿」。
二通目、宛先「ファルラ・カイス様」。
三通目、宛先「王都公証役場・ロドリック・テッセル先生」。
ペンを取り、便箋の上で一度、ペン先を止めた。
お茶会、と私は書いた。
日時、場所、議題は無し。
ただ一行、最後にこう書き添えた。
「お茶と、書類と、ひとつの質問だけ、お持ちください」
四通目の便箋を取り、私はもう一通、書いた。
宛先は、王立法務院・第二文書局、ライエン・コール書記官。
元同僚への、私的な手紙。
「来週の水曜、午後の私的なお茶会に、証人として同席を願えますか」
封蝋を、右手で押した。
今度は、左手で蓋を締めることはなかった。
書斎の窓の向こうで、北棟の二階に、灯りが一つ、ともっていた。
私は、その灯りに目を向けたまま、ペンを置いた。
ペン先が、机の上で、かすかな音を立てた。
私は、その音を、今度は、誰にも聞かれないようにしなかった。




