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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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9/15

第39話「ある日の三浦翔太」(インタールード⑤)

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は、三浦翔太の視点で描かれています。


 六月、東京、渋谷の南のほうの雑居ビルの三階。うちの会社、Bridge Techのオフィスはそこにある。


 壁の白いペンキが所々剥げていた。エレベーターのボタンは、長く押しすぎるとたまに反応しない。階段で上がるほうがはやい。


 俺は朝八時半、オフィスのドアを開けた。


 まだ二人しか、いない。CTOの遠藤さんと、デザイナーの相田さん。遠藤さんはいつものポロシャツに、いつものMacBook。相田さんはヘッドフォンをしたまま、Figmaの画面の中の何かをトラックパッドでひたすら動かしていた。


「おっす」


 俺の声に、二人とも軽く片手だけ挙げた。


 自分の席に着いた。コーヒーをひとくち。Slackを開いたら、未読がちょうど百四件。Datadogのアラートのチャンネルは、今朝は静かだった。


 「百」を超えるともうめくる気にならない、というのが、たぶん世界共通の人間の作法だ。けれど、めくらないと仕事は進まない。


 俺は左から右に、ざっと流した。


 


 Bridge Techは社員二十名のスタートアップだ。プロダクトは企業向けの請求書管理SaaS、それひとつ。受託はやらない。自分たちのプロダクトの売上だけで生きていく、と決めている会社だ。シリーズBの直前というところで、半年前から毎月の新規契約が伸び始めている。


 みんなフルリモートとオフィスの併用で、Slackの上で生きている。


 九時から朝会。


 ビデオの中にリモートの七人と、オフィスの三人。CEOの佐久間さんが「今日もいきましょう」と、いつもの軽い感じで始める。


「俺は今日、新機能の設計レビュー、午前中に潰します。午後は明日の勉強会の準備」


 俺がそう口頭で共有した。佐久間さんは「了解」と短く。デザイナーの相田さんが「設計レビュー、私もちょっと入ります」と。


 朝会は十五分で終わる。


 うちの朝会は議事録、ない。誰も書かない。Slackのスレッドに、各自自分のタスクをぽんと置いて終わる。


 ……桐谷の会社、たぶん議事録、まだ誰かが書いてる。


 ふと、そう思った。


 俺は地方IT中小、知らない。ヨキエルのことも、桐谷が話す範囲でしか知らない。けれどたぶん、桐谷のフロアの会議室では若手の誰かが議事録を書いている。


 その「誰か」が最近、桐谷から聞く話の中ではしょっちゅう、葉山という女性社員だった。


 


 設計レビュー。


 新しい機能のAPIの仕様書。Notionに、俺が、おとといの夜書いた。十五ページ。CTOの遠藤さんが画面共有で、最初の三行で首をひねった。


「三浦、ここ、なんでこの粒度?」


「あ、たぶんフロント側との切り口の、ちょっとずれ」


「うん、ずれてる」


「直します」


「あと、エラーコード、ここの命名、前のと揃ってない」


「あ、ほんとだ。揃えます」


 遠藤さんのレビューはいつも十分以内。判断がはやい。理由は必ず言う。直し方はこちらに任せる。


「あとは、いい感じ」


「ありがとうございます」


「公開、午後でいい」


「はい」


 画面共有を切った。


 俺は遠藤さんのレビューを、桐谷の世界の「白瀬さん」と勝手に結びつけて考えていた。


 いや、たぶん結びつけ方は、半分くらい外れている。白瀬さんはもう少し静かなタイプ、と桐谷は言っていた。遠藤さんはもうちょっと速くて忙しない。けれど、判断のはやさと、理由の置き方は似てる気がした。


 いい先輩は、業界が違ってもたぶん同じ匂いがする。


 


 昼、十二時半。


 オフィスの近く、雑居ビルの一階の定食屋に、遠藤さんと相田さんと俺の三人で行った。


 今日のメニューは生姜焼き、唐揚げ、鯖味噌煮。俺は唐揚げ。


「三浦、お前さ、最近ちょっといい感じだな」


 遠藤さんが唐揚げの一個目を口に入れた直後にそう言った。


「いい感じ、っすか」


「うん。設計、こなれてきた。話し方もちょっと落ち着いてきた」


「ありがとうございます」


「副業のほうも、順調?」


「ぼちぼち、っす」


 俺は副業で、コミュニティで知り合った別のスタートアップのAPI実装を、業務委託で週二時間、月に八時間ほど手伝っている。会社としては副業は歓迎だけれど、新卒には労務管理の観点で、低めの時間のキャップがある。うちのプロダクトとは全く被らない領域、ということで、就業規則の範囲内で許可されている。


「副業、何が面白い?」


「よその会社のコードベースの癖が、生で見える」


「うん」


「あと、こっちでは書きにくい設計を、向こうでちょっと試させてもらえる」


「お前、そういうの、得意だな」


「ありがとうございます」


 相田さんが横で、ぼそっと言った。


「三浦さん、たぶん根がお祭り好き」


「お祭り、っすか」


「お祭り。色んな所、首、突っ込みたいタイプ」


「あ、当たってます」


 遠藤さんが笑った。


「俺もな、二十代後半、似たような時期、あった」


「お、遠藤さんもお祭り、ですか」


「俺はもうちょっと地味なお祭り。複数のOSSのコミットを片手間に出してた」


「あ、めちゃくちゃいいお祭りっすね、それ」


 三人で軽く笑った。


 俺の中で、唐揚げの油の感じと遠藤さんの「お祭り」の音がちょっと混ざって、午後の活力に変換された。


 


 午後、Slackで、いや、桐谷からはLINEに通知が来ていた。


 社内のSlackは業務。LINEは大学の頃からの私的なやり取り。桐谷の会社のSlackには俺は当然、入れない。だから俺と桐谷の連絡はずっとLINE。


 メッセージは短かった。


「最近、先輩の質問の仕方を観察してる」


「白瀬さんは、答えを言わない。質問だけくれる」


 通知の青いバッジを、俺は定食屋を出た直後の信号待ちで見た。


 ……桐谷、相変わらず観察してるな。


 俺はその二行を二度読んだ。


 信号が青に変わった。横断歩道の白線を半歩踏みながら、もう一度読んだ。


 桐谷の文面はいつも通り短い。絵文字も感嘆符もない。


 桐谷らしい。


 絵文字をつけないほうの観察の報告は、たぶん桐谷の中では、絵文字つきの報告よりももう一段、地に足がついている。


「お、いいじゃん」


 俺はその一行を、横断歩道の真ん中で返した。


「その観察、いつか外でしゃべってみろよ」


 もう一行、送った。


「社内だけじゃ、もったいない」


 もう一行。


 桐谷からの返信はすぐには来なかった。たぶんヨキエルの午後の業務の最中、桐谷はLINEを自分から出すタイミングを、また二、三時間後にずらしている。


 桐谷は、そういう奴だ。


 LINEのやり取りで、いっぺんに五個も六個もレスを返してくることはない。代わりに夜、寮の自室に戻ってから、まとめてぽつぽつと来る。


 その遅さは、桐谷の一年前と、ほぼ同じだった。


 


 午後の業務、Linearの自分のチケット、APIの修正の二件をぱぱっと片付けた。設計書をNotionに更新した。Slackでデザイナーの相田さんに、フロントとの繋ぎ込みの相談を二往復。


 夕方、五時を過ぎたあたりで、俺は椅子の上で両手を伸ばした。


 窓の外、渋谷の方向の空は少しだけ夕焼けに染まっていた。


 ふと、机の引き出しの奥の薄い茶色の紙箱を思い出した。


 大学の頃、桐谷から一枚だけもらった、観察ノートのコピー。


 あれは大学三年の、たぶん夏休み明けだった。


 ゼミの研究室で、桐谷が一人ノートを開いて何か書いていた。俺はその横を通り過ぎるとき、ちらっとノートの一ページを見た。


 桐谷の字で、こう書いてあった。


「ゼミの先生、月曜の質問、テンポが速い。火曜の質問、テンポが遅い」


「火曜の質問の後、自分の理解が深くなる」


 俺はその場でちょっと笑った。


「お前、何、書いてるの」


「観察ノート」


「観察、何の」


「いろんなこと」


 桐谷はノートをぱたんと閉じた。


 俺はなんとなく、その一ページが面白くて「俺にもコピー、一枚、くれよ」と頼んだ。桐谷は半分嫌がりながら、後日、研究室のコピー機で一枚だけ刷ってくれた。


 その一枚は、いま東京の俺の机の引き出しの奥にある。


 桐谷の字は、いまでも薄く紙の上に残っている。


 


 あいつ、地方で何してるんだろう。


 就職先が地元のIT中小と桐谷から聞いたとき、俺は半分安心し、半分心配した。


 地方のIT中小、なめてはいけないが、若手のキャリアの選択肢としては、その後の動かし方、難しい場面が来ると俺は思っている。


 俺は東京の二十名のスタートアップで、シリーズBの直前で暴れている。桐谷は地方の百名ほどのIT中小で、ノートを開いている。


 俺と桐谷の半径3メートルは、ぜんぜん違う風景になっている。


 そのことは半分当たり前で、半分ちょっとだけ寂しい。


 けれどたぶん桐谷の半径3メートルで、桐谷が見ているもの、書き留めているものは、どこかで、俺の半径3メートルでは見えないものだ。


 桐谷の観察は、たぶん桐谷の場所でしか起こらない種類の観察だった。


 俺の中でその理屈は、ずいぶん前から決着がついていた。


 俺は桐谷の観察を、東京に引っ張り出したい。


 それは、桐谷を東京の会社に転職させたいという意味ではない。


 あいつのノートの一ページが、地方のIT中小の会議室の中でだけ終わってしまうのは、もったいない。だから、まず外に一度、出してほしい。LT、登壇、ぴったりだ。地方の小さい勉強会から、東京の業界イベントに、いずれ繋ぐ。


 桐谷の「観察」を、世界のもう少し広いところにshareしてほしい。


 ……俺はお前を、外に引っ張り出したい。


 心の中で、俺はもう一度その一行を確かめた。


 お前の良さを、もっと多くの人に見せたい。


 その動機はたぶん、半分は友達、半分は世界への、俺のおせっかいだった。


 桐谷は東京のお祭りに向いてないかもしれない。けれど、桐谷の観察はお祭りのもっと奥の地味な裏側で、たぶん誰かの役に立つ。


 


 夜九時、俺はオフィスを出た。


 いったん家に帰ってシャワーを浴び、明日の勉強会の自分のLTスライドの最終チェックをする。明日の勉強会は東京の別のスタートアップが主催する、エンジニア向けの小さな会で、俺は二十分の枠をもらっている。


 帰りの電車、井の頭線、車内、空いていた。


 スマホの画面で、桐谷からの追加のLINEを見た。


「外でしゃべるの、まだ自信ない」


「でも、ちょっと考えてみる」


 桐谷らしい、慎重な二行だった。


 俺は軽く笑った。


「無理しなくていい」


「考えるだけ、考えてみろよ」


「そっからゆっくりいこう」


 俺はそう返した。


 電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた。


 ちょっと疲れた顔をしていた。


 けれど目の奥は、悪くなかった。


 窓の外、ビルの群れの隙間に、夜の空が細く見えていた。


 


 家に着いたのは夜十時半。


 ワンルームの自室の机の上に、明日のスライドの紙、十二枚、並べた。


 最後のスライドの結びの一行を、もう一度見直した。


「観察は、世界をゆっくり変える」


 俺はその一行を、口の中で一度つぶやいた。


 そのフレーズは、俺自身の言葉ではない。


 半分、桐谷の観察ノートのコピーからもらった。半分、東京でここ三年、インターン含みで俺が現場で、自分のために組み直したもの。


 桐谷の名前は出さない。けれどその一行の半分は、桐谷の半径3メートルの中の何かから来ている。


 俺は明日、東京の会場でそのスライドを見せる。


 桐谷も、いつか地元の勉強会で、自分のスライドを見せるかもしれない。今日はまだ、その手前にいる。


 俺と桐谷のLTが、いつか別の都市で、別の規模で、別の文体で起こるなら、たぶんどこかで繋がる。


 俺はその繋がり方を、ちょっと先に想像するのが好きだ。


 


 寝る前、もう一度、桐谷からの「でも、ちょっと考えてみる」のLINEを見直した。


 俺はその短い一行に、ハートマークの絵文字をひとつだけ追加で送った。


 桐谷からは、たぶん明日の朝まで返信は来ない。


 それでいい。


 明日の朝、桐谷がヨキエルの自分の席でその絵文字をちらっと見て、半秒くらい口の端で笑ってくれたら、俺の今日の夜はそれでちゃんと終わる。


 ……桐谷の観察、たぶんどこかで活きる。


 心の中で、俺はもう一度確かめた。


 ベッドの上で、目を閉じた。


 明日のLTの会場の白い壁と、プロジェクタの四角い光が、頭の中でちらっと浮かんだ。


 その光の四角の中に、桐谷の半径3メートルの葉桜の影が、ほんの少しだけ混ざっているように見えた。


 その影を見ているうちに、俺はいつのまにか眠っていた。


 


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