第39話「ある日の三浦翔太」(インタールード⑤)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、三浦翔太の視点で描かれています。
六月、東京、渋谷の南のほうの雑居ビルの三階。うちの会社、Bridge Techのオフィスはそこにある。
壁の白いペンキが所々剥げていた。エレベーターのボタンは、長く押しすぎるとたまに反応しない。階段で上がるほうがはやい。
俺は朝八時半、オフィスのドアを開けた。
まだ二人しか、いない。CTOの遠藤さんと、デザイナーの相田さん。遠藤さんはいつものポロシャツに、いつものMacBook。相田さんはヘッドフォンをしたまま、Figmaの画面の中の何かをトラックパッドでひたすら動かしていた。
「おっす」
俺の声に、二人とも軽く片手だけ挙げた。
自分の席に着いた。コーヒーをひとくち。Slackを開いたら、未読がちょうど百四件。Datadogのアラートのチャンネルは、今朝は静かだった。
「百」を超えるともうめくる気にならない、というのが、たぶん世界共通の人間の作法だ。けれど、めくらないと仕事は進まない。
俺は左から右に、ざっと流した。
Bridge Techは社員二十名のスタートアップだ。プロダクトは企業向けの請求書管理SaaS、それひとつ。受託はやらない。自分たちのプロダクトの売上だけで生きていく、と決めている会社だ。シリーズBの直前というところで、半年前から毎月の新規契約が伸び始めている。
みんなフルリモートとオフィスの併用で、Slackの上で生きている。
九時から朝会。
ビデオの中にリモートの七人と、オフィスの三人。CEOの佐久間さんが「今日もいきましょう」と、いつもの軽い感じで始める。
「俺は今日、新機能の設計レビュー、午前中に潰します。午後は明日の勉強会の準備」
俺がそう口頭で共有した。佐久間さんは「了解」と短く。デザイナーの相田さんが「設計レビュー、私もちょっと入ります」と。
朝会は十五分で終わる。
うちの朝会は議事録、ない。誰も書かない。Slackのスレッドに、各自自分のタスクをぽんと置いて終わる。
……桐谷の会社、たぶん議事録、まだ誰かが書いてる。
ふと、そう思った。
俺は地方IT中小、知らない。ヨキエルのことも、桐谷が話す範囲でしか知らない。けれどたぶん、桐谷のフロアの会議室では若手の誰かが議事録を書いている。
その「誰か」が最近、桐谷から聞く話の中ではしょっちゅう、葉山という女性社員だった。
設計レビュー。
新しい機能のAPIの仕様書。Notionに、俺が、おとといの夜書いた。十五ページ。CTOの遠藤さんが画面共有で、最初の三行で首をひねった。
「三浦、ここ、なんでこの粒度?」
「あ、たぶんフロント側との切り口の、ちょっとずれ」
「うん、ずれてる」
「直します」
「あと、エラーコード、ここの命名、前のと揃ってない」
「あ、ほんとだ。揃えます」
遠藤さんのレビューはいつも十分以内。判断がはやい。理由は必ず言う。直し方はこちらに任せる。
「あとは、いい感じ」
「ありがとうございます」
「公開、午後でいい」
「はい」
画面共有を切った。
俺は遠藤さんのレビューを、桐谷の世界の「白瀬さん」と勝手に結びつけて考えていた。
いや、たぶん結びつけ方は、半分くらい外れている。白瀬さんはもう少し静かなタイプ、と桐谷は言っていた。遠藤さんはもうちょっと速くて忙しない。けれど、判断のはやさと、理由の置き方は似てる気がした。
いい先輩は、業界が違ってもたぶん同じ匂いがする。
昼、十二時半。
オフィスの近く、雑居ビルの一階の定食屋に、遠藤さんと相田さんと俺の三人で行った。
今日のメニューは生姜焼き、唐揚げ、鯖味噌煮。俺は唐揚げ。
「三浦、お前さ、最近ちょっといい感じだな」
遠藤さんが唐揚げの一個目を口に入れた直後にそう言った。
「いい感じ、っすか」
「うん。設計、こなれてきた。話し方もちょっと落ち着いてきた」
「ありがとうございます」
「副業のほうも、順調?」
「ぼちぼち、っす」
俺は副業で、コミュニティで知り合った別のスタートアップのAPI実装を、業務委託で週二時間、月に八時間ほど手伝っている。会社としては副業は歓迎だけれど、新卒には労務管理の観点で、低めの時間のキャップがある。うちのプロダクトとは全く被らない領域、ということで、就業規則の範囲内で許可されている。
「副業、何が面白い?」
「よその会社のコードベースの癖が、生で見える」
「うん」
「あと、こっちでは書きにくい設計を、向こうでちょっと試させてもらえる」
「お前、そういうの、得意だな」
「ありがとうございます」
相田さんが横で、ぼそっと言った。
「三浦さん、たぶん根がお祭り好き」
「お祭り、っすか」
「お祭り。色んな所、首、突っ込みたいタイプ」
「あ、当たってます」
遠藤さんが笑った。
「俺もな、二十代後半、似たような時期、あった」
「お、遠藤さんもお祭り、ですか」
「俺はもうちょっと地味なお祭り。複数のOSSのコミットを片手間に出してた」
「あ、めちゃくちゃいいお祭りっすね、それ」
三人で軽く笑った。
俺の中で、唐揚げの油の感じと遠藤さんの「お祭り」の音がちょっと混ざって、午後の活力に変換された。
午後、Slackで、いや、桐谷からはLINEに通知が来ていた。
社内のSlackは業務。LINEは大学の頃からの私的なやり取り。桐谷の会社のSlackには俺は当然、入れない。だから俺と桐谷の連絡はずっとLINE。
メッセージは短かった。
「最近、先輩の質問の仕方を観察してる」
「白瀬さんは、答えを言わない。質問だけくれる」
通知の青いバッジを、俺は定食屋を出た直後の信号待ちで見た。
……桐谷、相変わらず観察してるな。
俺はその二行を二度読んだ。
信号が青に変わった。横断歩道の白線を半歩踏みながら、もう一度読んだ。
桐谷の文面はいつも通り短い。絵文字も感嘆符もない。
桐谷らしい。
絵文字をつけないほうの観察の報告は、たぶん桐谷の中では、絵文字つきの報告よりももう一段、地に足がついている。
「お、いいじゃん」
俺はその一行を、横断歩道の真ん中で返した。
「その観察、いつか外でしゃべってみろよ」
もう一行、送った。
「社内だけじゃ、もったいない」
もう一行。
桐谷からの返信はすぐには来なかった。たぶんヨキエルの午後の業務の最中、桐谷はLINEを自分から出すタイミングを、また二、三時間後にずらしている。
桐谷は、そういう奴だ。
LINEのやり取りで、いっぺんに五個も六個もレスを返してくることはない。代わりに夜、寮の自室に戻ってから、まとめてぽつぽつと来る。
その遅さは、桐谷の一年前と、ほぼ同じだった。
午後の業務、Linearの自分のチケット、APIの修正の二件をぱぱっと片付けた。設計書をNotionに更新した。Slackでデザイナーの相田さんに、フロントとの繋ぎ込みの相談を二往復。
夕方、五時を過ぎたあたりで、俺は椅子の上で両手を伸ばした。
窓の外、渋谷の方向の空は少しだけ夕焼けに染まっていた。
ふと、机の引き出しの奥の薄い茶色の紙箱を思い出した。
大学の頃、桐谷から一枚だけもらった、観察ノートのコピー。
あれは大学三年の、たぶん夏休み明けだった。
ゼミの研究室で、桐谷が一人ノートを開いて何か書いていた。俺はその横を通り過ぎるとき、ちらっとノートの一ページを見た。
桐谷の字で、こう書いてあった。
「ゼミの先生、月曜の質問、テンポが速い。火曜の質問、テンポが遅い」
「火曜の質問の後、自分の理解が深くなる」
俺はその場でちょっと笑った。
「お前、何、書いてるの」
「観察ノート」
「観察、何の」
「いろんなこと」
桐谷はノートをぱたんと閉じた。
俺はなんとなく、その一ページが面白くて「俺にもコピー、一枚、くれよ」と頼んだ。桐谷は半分嫌がりながら、後日、研究室のコピー機で一枚だけ刷ってくれた。
その一枚は、いま東京の俺の机の引き出しの奥にある。
桐谷の字は、いまでも薄く紙の上に残っている。
あいつ、地方で何してるんだろう。
就職先が地元のIT中小と桐谷から聞いたとき、俺は半分安心し、半分心配した。
地方のIT中小、なめてはいけないが、若手のキャリアの選択肢としては、その後の動かし方、難しい場面が来ると俺は思っている。
俺は東京の二十名のスタートアップで、シリーズBの直前で暴れている。桐谷は地方の百名ほどのIT中小で、ノートを開いている。
俺と桐谷の半径3メートルは、ぜんぜん違う風景になっている。
そのことは半分当たり前で、半分ちょっとだけ寂しい。
けれどたぶん桐谷の半径3メートルで、桐谷が見ているもの、書き留めているものは、どこかで、俺の半径3メートルでは見えないものだ。
桐谷の観察は、たぶん桐谷の場所でしか起こらない種類の観察だった。
俺の中でその理屈は、ずいぶん前から決着がついていた。
俺は桐谷の観察を、東京に引っ張り出したい。
それは、桐谷を東京の会社に転職させたいという意味ではない。
あいつのノートの一ページが、地方のIT中小の会議室の中でだけ終わってしまうのは、もったいない。だから、まず外に一度、出してほしい。LT、登壇、ぴったりだ。地方の小さい勉強会から、東京の業界イベントに、いずれ繋ぐ。
桐谷の「観察」を、世界のもう少し広いところにshareしてほしい。
……俺はお前を、外に引っ張り出したい。
心の中で、俺はもう一度その一行を確かめた。
お前の良さを、もっと多くの人に見せたい。
その動機はたぶん、半分は友達、半分は世界への、俺のおせっかいだった。
桐谷は東京のお祭りに向いてないかもしれない。けれど、桐谷の観察はお祭りのもっと奥の地味な裏側で、たぶん誰かの役に立つ。
夜九時、俺はオフィスを出た。
いったん家に帰ってシャワーを浴び、明日の勉強会の自分のLTスライドの最終チェックをする。明日の勉強会は東京の別のスタートアップが主催する、エンジニア向けの小さな会で、俺は二十分の枠をもらっている。
帰りの電車、井の頭線、車内、空いていた。
スマホの画面で、桐谷からの追加のLINEを見た。
「外でしゃべるの、まだ自信ない」
「でも、ちょっと考えてみる」
桐谷らしい、慎重な二行だった。
俺は軽く笑った。
「無理しなくていい」
「考えるだけ、考えてみろよ」
「そっからゆっくりいこう」
俺はそう返した。
電車の窓に、自分の顔が薄く映っていた。
ちょっと疲れた顔をしていた。
けれど目の奥は、悪くなかった。
窓の外、ビルの群れの隙間に、夜の空が細く見えていた。
家に着いたのは夜十時半。
ワンルームの自室の机の上に、明日のスライドの紙、十二枚、並べた。
最後のスライドの結びの一行を、もう一度見直した。
「観察は、世界をゆっくり変える」
俺はその一行を、口の中で一度つぶやいた。
そのフレーズは、俺自身の言葉ではない。
半分、桐谷の観察ノートのコピーからもらった。半分、東京でここ三年、インターン含みで俺が現場で、自分のために組み直したもの。
桐谷の名前は出さない。けれどその一行の半分は、桐谷の半径3メートルの中の何かから来ている。
俺は明日、東京の会場でそのスライドを見せる。
桐谷も、いつか地元の勉強会で、自分のスライドを見せるかもしれない。今日はまだ、その手前にいる。
俺と桐谷のLTが、いつか別の都市で、別の規模で、別の文体で起こるなら、たぶんどこかで繋がる。
俺はその繋がり方を、ちょっと先に想像するのが好きだ。
寝る前、もう一度、桐谷からの「でも、ちょっと考えてみる」のLINEを見直した。
俺はその短い一行に、ハートマークの絵文字をひとつだけ追加で送った。
桐谷からは、たぶん明日の朝まで返信は来ない。
それでいい。
明日の朝、桐谷がヨキエルの自分の席でその絵文字をちらっと見て、半秒くらい口の端で笑ってくれたら、俺の今日の夜はそれでちゃんと終わる。
……桐谷の観察、たぶんどこかで活きる。
心の中で、俺はもう一度確かめた。
ベッドの上で、目を閉じた。
明日のLTの会場の白い壁と、プロジェクタの四角い光が、頭の中でちらっと浮かんだ。
その光の四角の中に、桐谷の半径3メートルの葉桜の影が、ほんの少しだけ混ざっているように見えた。
その影を見ているうちに、俺はいつのまにか眠っていた。




