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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第38話「葉山、議事録の振られる席で」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 六月の第二週、火曜日の昼。


 空はうっすら曇っていた。窓の外の桜並木通りはほぼ完全に緑だった。


 社内Slackのプライベートチャンネル「6人室」に、葉山さんから短い投稿が来た。


「桐谷くん、今日のお昼、外、いける?」


「いけます」


「五分後、エントランス前で」


 いつもの「ぴくっと」の話とは違う、少し急いだ気配だった。


 僕は手元の資料を閉じ、MacBookを伏せた。Slackをスマホに切り替え、エレベーターに向かった。


 階段を二段ずつ降りる。一年前なら、葉山さんから昼食の誘いが来たことを、僕はもう少し緊張して受け止めていた。いまはその緊張の代わりに、別の小さな張りが胸の真ん中にあった。


 ……葉山さん、また何か来た、かもしれない。


 心の中で僕は確かめた。


 


 エントランスを出ると、葉山さんは既に立っていた。


 濃紺のパンツスーツ、白いシャツ、髪はひとつに束ねていた。表情がいつもより半段、固かった。


 目の下の薄い影が、五月の連休前に見たときよりもう一段、濃かった。


「桐谷くん、お待たせ」


「いえ」


「定食屋『さくら』、空いてるかな」


「行ってみよう」


 桜並木通りの並木の下を、二人で並んで歩いた。


 葉桜の枝が頭の上で、こすれる音を立てた。


 葉山さんはしばらく無言だった。歩幅は、いつもより半歩短かった。


「桐谷くん、ねぇ、聞いて」


「はい」


「先に言っとくと、相談、っていうほどまとまってない」


「うん、聞く」


「ありがと」


 葉山さんはそれだけ言って、また無言になった。


 二人の足音が、葉と一緒に揺れた。


 


 定食屋「さくら」のカウンター席に、並んで座った。


 葉山さんは生姜焼き定食、僕は鯖の塩焼き定食をそれぞれ注文した。


 お冷の入ったグラスを、葉山さんは両手で包んだ。


「今朝、十一時から、お客様の打ち合わせ、あったの」


「うん」


「みなと信用金庫の別の課の人たちと、うちのチームBで、新規の小さい案件の初回打ち合わせ」


「ふむ」


「会議室、入ったらね」


 葉山さんはお冷を一口、飲んだ。


「男性が、五人。うちの会社、三人。お客様、二人。私、一人」


「うん」


「議事録、誰も振られないの」


「……」


「ホワイトボードも、誰も立たないの」


「うん」


「で、空気だけ流れる」


 葉山さんはお冷のグラスを、コースターの上に戻した。


 戻し方が、いつもより半秒長かった。


「沢田さんが、私のほうを見たの」


 ……沢田さん。


 心の中で僕は確かめた。


 チームBの中堅エンジニアの沢田さん。立花さんと人当たりの感じがよく似ている、と葉山さんが一年目のいつかにぼそりと言っていた、あの沢田さんだった。


「沢田さんが、ちょっと笑って、『美月ちゃん、議事録、頼める?』」


「うん」


「私、その『美月ちゃん』でぴくっとした」


 ……ぴくっと。


 その言葉は、葉山さんと僕の間で、もう決まった単位だった。


「今日のは、何回目?」


 僕はできるだけ、いつもの軽い角度で聞いた。


「今日だけで三回。沢田さんから二回、立花さんから一回」


「立花さん、今日、チームBの会議室、いたのですか」


「うん。今日の案件、うちのチームBが主管、立花さんは技術相談でたまたま同席」


「あ」


「立花さんも笑って、『美月ちゃん、それ頼んだ』って」


「うん」


「立花さんと沢田さん、どっちも『美月ちゃん』って呼ぶ。今日はダブル」


「……ダブル」


「うん。私、内心、ダブルパンチ、って思った」


 葉山さんは初めて、口の端でほんの少しだけ笑った。


 その笑い方は、ぜんぜん楽しそうじゃなかった。


「で、議事録、引き受けたのですか」


「うん。引き受けた。引き受けるしかなかった。江口マネージャーに、終わってから声かけたの。『議事録、毎回、私で固定なのはちょっと』って」


「江口さん、なんて」


「『現場で、決めて』」


 葉山さんはお冷を、もう一口飲んだ。


「『現場で、決めて』」


 葉山さんは同じ言葉を、もう一度低く繰り返した。


「現場、私の現場、その現場、誰が決めるの」


「……」


「結局、私が決めて、私が書く」


「うん」


 ……現場で、決めて。


 心の中で僕は、その一言をひと呼吸噛んだ。


 マネージャーの言葉として、その四文字の冷たさは、たぶん葉山さんがこの半年でいちばん聞きたくない種類の音だった。


 


 しばらく二人で、黙って食べた。


 葉山さんはご飯を半分まで進めたところで、箸をお皿の縁に置いた。


「桐谷くん」


「はい」


「私ね、最近ノートに『ぴくっと』の回数、また書いてる」


「うん」


「先月、六十二回」


 ……六十二、回。


 心の中で僕は数えた。


 一年目の頃、葉山さんはノートに「先月、七十三回」と書いていたと聞いたことがあった。あの数字より少しだけ減っていた。一年目の終わりに、葉山さんは「対処の引き出しが少し増えた」と短く言っていた。たぶんその効果だった。


「ちょっと、減ってる」


「うん。減ってた。四月、五月、減ってた」


「で」


「ここ最近、また増え始めてる」


「……」


「異動を考え始めてから、増えてる」


 葉山さんは箸の先で、お皿の角を二度軽く突いた。


「異動を考え始めて」


「うん」


「葉山さん、もう考え始めてるんだ」


「うん」


 葉山さんの口調は、決定の前の、薄い諦めと薄い決意が半々の角度だった。


「ただ、まだ誰にも言ってない」


「うん」


「桐谷くんに、最初」


「ありがとう」


「ありがとう、って、何」


「ううん、僕に最初、というのが、ありがたい」


「ふん」


 葉山さんはほんの一瞬笑った。


 その笑いには、定食屋の蛍光灯の明かりが少しだけ混ざっていた。


 


「桐谷くんは、どう思う」


「異動の話?」


「うん」


 ……どう思う。


 心の中で僕は、その問いをひと呼吸止めた。


 葉山さんからこういう問いをこういう角度で投げられたとき、一年前の僕ならたぶん、何かもっとしっかりした答えをその場で組み立てようとしていた。


 今日の僕は、その癖を半歩横にずらした。


「葉山さんがノートに『ぴくっと』の回数、書いてた」


「うん」


「先月、六十二」


「うん」


「異動を考え始めて、また増えている」


「うん」


「その数字、葉山さんの感覚を、葉山さんがちゃんと測ってる、数字です」


「……うん」


「だからその数字が増え始めてる、っていうのは、葉山さんの中でもう答えに近いところまで来てる、んじゃないかと」


「……」


「思う」


 葉山さんはしばらく、答えなかった。


 お冷のグラスの結露の小さな粒を、指先でひとつだけ潰した。


「桐谷くん、ってちょっとずるい」


「え」


「答え、私に返してる」


「あ」


「ま、いいけど」


 葉山さんは口の端で、また少しだけ笑った。


 今度の笑いは、さっきよりは少しだけ深かった。


 


 お会計のあと、店を出た。


 桜並木通りの遊歩道を、二人で並んでゆっくり歩いた。


「桐谷くん、ありがとう」


「いえ」


「今日、聞いてもらえなかったら、たぶん午後、まずかった」


「うん」


「桐谷くんと話すと、少し楽になる」


「葉山さんが話してくれるから」


「ほら、またずるい」


 葉山さんはちょっと肩をすくめて笑った。


 今度の笑いは、まあまあいつもの葉山さんに近かった。


「私もう限界、かもしれない」


「うん」


「江口さんの下では、私たぶん育たない」


「うん」


「それも最近、はっきり思うようになった」


「うん」


 葉山さんはそれだけ言って、また無言で歩いた。


 遊歩道の片側、ベンチに年配の女性が二人座っていた。会話の声は聞こえなかった。


 葉山さんはベンチのほうを横目で、ちらりと見た。


「あの感じ、ちょっといい」


「うん」


「あの距離、いつか、私も」


「うん」


「いつか、ね」


「うん」


 葉山さんはそれだけ言って、また半歩、歩幅を戻した。


 会社の入口がもう見えていた。


 


 午後のフロアに戻ると、空気はいつもと同じに見えた。


 僕は自分の席に戻り、MacBookの蓋を開けた。


 森山くんが、隣の二つ向こうの席でConfluenceの画面を真剣に読んでいた。彼の机の上には、僕が三日前に渡した「Confluenceの書き方メモ」のプリントアウトが、四つ折りで置いてあった。四つ折りの位置が、最初に渡したときとほんの少しずれていた。何度か開いて、また閉じた形跡だった。


 森山くんと葉山さんの間に、共通点はたぶんなかった。


 けれど僕の中では、二人の名前がなぜか同じページの上下に置かれた。


 Confluenceの自分の作業ページを開く前に、GitHubのタブを開いた。


 森山くんのプルリクエストに、レビュー依頼の通知が来ていた。先月の終わりに僕が振った、最初のバグ修正のチケット。彼が初めて出した、小さなプルリクエストだった。


 差分は二十行ほど。条件分岐をひとつ直して、テストを一件足した内容だった。


 ……白瀬さんなら、どう書くか。


 心の中でまず、それを思い浮かべた。


 一年前、僕が初めて出したプルリクエストに白瀬さんは二十二件のコメントをくれた。何が問題で、なぜ問題で、どうすれば良くなるか。三つの段で、敬語で、淡々と。答えは最後の一行で軽く。決めるのは僕だという余白を、いつも残して。


 最初のコメントを書いた。


「この分岐、いまの書き方だと後から条件が増えたとき読みにくくなります。否定形が二重になっているからです。早期returnに直すと読みやすくなるかもしれません。直し方は森山さんに任せます」


 書いてから、最後の一行をもう一度読み返した。


 ……決めるのは森山さん。


 白瀬さんの余白を自分の口で写し取れているか、僕にはまだ分からなかった。


 コメントはぜんぶで四件にとどめた。直せばすぐ良くなる三件と、次に考えてみてほしい一件。一年前に僕が浴びた二十二件を四件に絞ったのは、森山くんがまだ最初の一本だったからだった。


 数を絞ること自体が、たぶん受け取り方を刻み直すことのひとつの形だった。


 送信ボタンを押した。


 すぐに森山くんから、Slackで短い返事が来た。


「ありがとうございます。直してみます」


 その一行の温度を、しばらく見ていた。


 一年前、白瀬さんのコメントに僕は最初うまく返事ができなかった。森山くんは、もう返せている。


 Confluenceの自分の作業ページに戻った。午後の手元のチケットを進めた。指の動きは午前中と、ほぼ同じだった。


 帰り際、葉山さんとSlackで一往復だけ、交わした。


「桐谷くん、今日、ありがとう」


「ううん、また聞く」


「うん。ありがとう」


 短い、いつもの二人の往復だった。


 


 退社後、寮の自分の部屋。


 窓を半分だけ開けた。


 六月の夜の風は、まだ湿気を含み始めたばかりだった。


 机の電気をつけてノートを開いた。


 四月一日の最初の一行、「二年目、仕事の質を見る」を今日も一秒だけ見直した。


 その下の、最近のページをめくった。


 四月下旬の「裏切り、しかし見ている人もいる」。


 五月初旬の「信頼される、ということは、こういうこと」。


 五月下旬の「両輪、というのは、こういう、こと」。


 新しいページを開いた。


 ペンを握り直した。


「葉山さん、限界に近づいてる」


 その一行を書いた。


 書きながら、一年前のいつかの、僕の手の動きを思い出した。あの頃、葉山さんの何かを、僕はたぶんもっと薄い字で書いていた。


 今日の一行は、薄くはなかった。


 もう一行、書いた。


「ぴくっと、先月六十二。異動を考え始めて、また増え始めた」


 もう一行。


「沢田さんと立花さん、両方から『美月ちゃん』。葉山さんの会議室、ダブル」


 もう一行。


「江口マネージャー、『現場で、決めて』」


 書きながら、僕はその四文字の冷たさを、ペン先の角度でもう一度確かめた。


 その下に、もう一行だけ書いた。


「僕が葉山さんにできることは、たぶんほぼない」


 書いてから、その一行をしばらく見た。


 「ほぼない」の「ほぼ」のところで、僕は少しだけペン先を止めた。


 「ほぼない」と「まったくない」は、別の音だった。


 「ほぼない」の中のわずかな余白に、葉山さんが今日、僕に最初に話したその事実は、たぶん入っていた。


 ノートを閉じた。


 窓の外、街灯の光の中で、葉桜の影がゆっくり揺れていた。


 ……葉山さん、今夜ちゃんと眠れるといい。


 心の中で僕はそう思った。


 願い、というほどでもなかった。


 ただその夜、街灯の光と自分のノートの一行と、葉山さんの「ありがとう」の音だけが、同じ一晩の別の部屋で、それぞれ静かにあった。


 


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