第40話「黒木、テックリード補佐の夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
六月の最後の金曜日、夜七時。
二年目に入って、同期六人の呼び名は、輪の中で少しずつ落ち着いてきていた。配属の頃はアユシュさんと書いていた僕も、丸山くんの「くん」を借りて、いつのまにか自分の内側でもアユシュくんと呼ぶようになっていた。丸山くんの一年前の一歩が、いまでも輪の温度を、そっと先に決めてくれていた。
同期のLINEグループに、丸山くんからいつもの絵文字付きの呼びかけが流れた。
「今日、かいかん、八時、集合っす。黒木、おめでとう会、っす」
「了解」
葉山さんから即レス。
「了解です」
杉本さんから控えめなレス。
アユシュくんから英語混じりの一行。
「黒木なら、もちろん行く。I'll be there」
「了解」
黒木自身からいつも通り、短い一文字級のレス。
僕はMacBookを閉じ、机を簡単に片付けた。
会議室の予約画面のタブを閉じた。Confluenceのタブも閉じた。Slackのタブだけ開いたまま、スマホに同期させた。
閉じる手を、一度だけ止めた。今日の昼、応用情報の合格発表だった。マイページの画面に、受験番号と、合格の二文字。四月の半ばから二ヶ月半、宙吊りだった二文字が、昼休みの食堂の隅で、すとんと落ちてきた。総務に申請すれば、一時金が出る。あの古いリストの、上から二段目あたりの金額が。
今夜、同期に言おうか、と一瞬思った。思ってから、やめた。今夜は、黒木の夜だった。
森山くんが僕のほうを見て、ちょっと不思議そうな顔をした。
「桐谷さん、今日、何かあるのですか」
「同期のお祝い」
「あ」
「同期のエンジニア、テックリード補佐になった」
「テックリード補佐」
「組込みチーム。二年目では、たぶんいちばん早い」
「すごいですね」
「うん、すごい」
森山くんは机の上を、軽く整え始めた。森山くんも夕方の業務を、もうたたんでいる頃合いだった。
「お先に、失礼します」
森山くんがちょっと頭を下げた。
「お疲れ」
僕も軽く返した。
森山くんがフロアの出口のほうへ歩いていった。
その背中を、ひと呼吸見送った。
……一年前の僕の帰り際とちょっと似てる。
胸の奥でそう確かめた。
駅前の「かいかん」はいつもの場所、いつもの煮焦げのような匂い。
二階の奥の座敷席に僕が着いたとき、既に黒木と丸山くんが座っていた。
黒木はいつもの黒のTシャツに、いつものデニム。髪は相変わらず、半月に一度くらいの頻度で切られているか、いないか、分からない長さ。
丸山くんはいつもの紺のジャージに、運送会社のロゴが入っていた頃の名残りの、肩の擦り切れ方。
「桐谷さん、お疲れっす」
「お疲れ」
「黒木、もうお通し、来てるっす」
「あ、ほんとだ」
お通しはいつものもずく酢。
僕は黒木の隣に座った。
「黒木、おめでとう」
顔を少し横に向けて、僕は言った。
「うん」
黒木はそれだけ答えた。
いつもの、黒木のそれだった。
僕もそれで、いつもの僕だった。
そういう挨拶の長さの感じが、たぶん僕と黒木の、二年目時点のちょうどいい距離だった。
八時を少し過ぎたところで、葉山さんと杉本さんとアユシュくんが、相次いで座敷に着いた。
「お待たせ」
葉山さんは髪を、いつもよりは少しだけ緩く束ねていた。先週の昼に見たときより、半段表情が戻っていた。今日のためか、それとも今日の朝、何かがまた少しだけ整ったのか、僕には分からなかった。
「お疲れさまです」
杉本さんはいつもの薄い色のカーディガン。胸元の小さな葉っぱの模様のブローチ。
「黒木、おめでとう」
アユシュくんが最初にはっきり、声を出した。
「当然だよ、You deserve it」
アユシュくんの口調は、一年目の終わりのいつかとほぼ同じ角度だった。
日本語が半分以上を占めて、核心の一句だけが英語でぽんと置かれる。
アユシュくんの中で、「当然」と「You deserve it」はたぶん同じ重さの言葉ではない。
日本語の「当然」は、関係の中の共有された前提を置いている。
英語の「You deserve it」は、もう少し個別に、黒木一人に宛てた応援の言葉。
その二つを続けて置いた。
その置き方が、アユシュくんのいまの口調の、いちばん自然な順番だった。
「ありがとう」
黒木はそれだけ答えた。
黒木の口の端が、ほんの一ミリだけ上がった。
ほんの一ミリ、というのは、僕の見間違いではなかったと思う。
丸山くんがジョッキを、ぐっと持ち上げた。
「じゃ、乾杯っす。黒木、テックリード補佐、おめでとうっす!」
「おめでとう!」
六人の声が一斉に重なった。
六つのジョッキのぶつかる音が、座敷の天井に軽く跳ねた。
最初の一巡、生ビールとハイボールとウーロン茶。
ウーロン茶はアユシュくん。アユシュくんはたぶん家庭の事情でお酒はほとんど飲まない。けれど、お通しの煮物はいつもいちばん楽しそうに食べる。
最初の十五分は近況、それぞれのふつうの近況。
葉山さんは週末に観た映画の話を、ふたつ軽く流した。仕事の話は、自分からは出さなかった。沢田さんの名前も、立花さんの名前も出てこなかった。たぶん葉山さんは、今日の夜は仕事の話を自分から持ち出さないと決めていた。今日は黒木の夜だった。
丸山くんは新しく担当し始めた物流系のお客様の話を、勢いよくした。
「お客さんの倉庫、行ってきたっす。あの匂い、懐かしいっすね。段ボールとガムテープの、あのちょっと酸っぱい感じ」
「酸っぱい?」
葉山さんが首を傾げた。
「段ボール、長く積んでると、ちょっと酸っぱい匂い、出るんすよ」
「へえ」
「あれが出てる倉庫は結構、現場、まじめにやってる証拠っす」
「丸山くんって、たまにわけ分からない深いこと言うよね」
「お、葉山さん、ちょっと褒めてくれたっすか」
「半分くらい」
葉山さんがちょっとだけ笑った。
その笑い方は、先週の昼の、定食屋のカウンターのいちばん最後の角度に近かった。
……葉山さん、今日ちょっと戻ってる。
内心でそう確かめた。
丸山くんが何の意図もなく、葉山さんのふつうの肩の角度を少しだけ戻していた。
杉本さんはジョッキの底を、両手で軽く包んでいた。
「私のほうは相変わらず、お客様対応で時間取られて、コードはあんまり書けてないです」
杉本さんはそう、つぶやくように言った。
「サポート、まだ毎日まあまあ量、あるの?」
僕は聞いた。
「日に二十件くらい、自分のキュー、来てます。同じ機能の問い合わせが、半分」
「同じの、半分」
「ドキュメント、足りてないのです、たぶん。私、書き直したいのですが、毎日、目の前のキュー、捌くだけで終わって」
「うん」
「これ以上、サポートの中だけで頑張っても、たぶん根本は変わらない気がして」
「うん」
「自分の動き方を、どこかで変えないといけない。まだ、どう変えるかは、見えていないのですが」
杉本さんはそれだけ言って、またジョッキの底を両手で包んだ。
……杉本さん、一年目のSlackの一行、まだ続いてる。
胸の内でその音を確かめた。
杉本さんは入社直後のいつかに、社内Slackに「お客様の問い合わせ対応が多くて、コードを書く時間が思ったより少ないです」と書いていた。あの一行は、八ヶ月後の今日も形をほぼ変えずに続いていた。けれど杉本さんの「根本は変わらない」と「動き方を変えないと」の二つは、たぶん一年目のあの一行の半歩先に出ていた。具体的にどこへ向かうのかは、杉本さん自身、まだ言葉にできていない様子だった。
杉本さんもたぶん彼女なりに、半径3メートルの中で少しずつ動いている。
乾杯の二巡目あたりで、誰がというでもなく、話は本題のほうへ流れた。
「黒木、テックリード補佐、っていうのは具体的に何をやるの?」
葉山さんが聞いた。
黒木はハイボールのグラスを、テーブルの真ん中に戻した。
「設計レビューの二次。技術選定の相談役。新人と若手の、技術質問の引き取り」
「うん」
「あと、テックリードの林さんの、補佐的な整理」
「林さんって、どんな人?」
「五十二歳。寡黙」
黒木はそれだけ言った。
黒木の中で「寡黙」の一言は、たぶんいちばんいい褒め言葉だった。寡黙で、技術がちゃんとしている、というのは、黒木の中でほぼ無条件でリスペクトの対象だった。
「黒木、二年目で補佐って、けっこう異例だよね」
葉山さんが静かに言った。
「うん。補佐っていう枠そのものが、今年からの試み」
「試み?」
「テックリード制を、遠野CTOがもう一段広げようとしている。一次レビューだけだと、案件が増えたとき回らない。だから二次を見る補佐を、各チームに試しに一人ずつ置く。林さんが、そう言っていた」
「うん」
「その最初の一人に、組込みでは私が指された」
黒木はそれだけ言った。
「二年目で、それ、この会社だと、けっこう、ありえないやつだよ」
葉山さんが、ジョッキを卓に戻して言った。
「年次で順番が回ってくる会社で、二年目が技術の役割を持つって、ふつう、ない」
「うん?」
黒木は、よく分かっていない顔で、首をかしげた。
「順番とか、よく知らない。ただ、今日、フロア、なんか静かだった」
「静かって?」
「辞令のあと、組込みの島の、年上の人たちが、こっちを見て、黙った。ひそひそ、してた。よく分からん」
黒木はそれだけ言って、お通しの煮物に箸をのばした。
黒木は本当に、よく分かっていないようだった。自分の身に起きたことの大きさより、その日のフロアの空気が「いつもとちょっと違った」くらいの手触りで、黒木の中に置かれていた。
いや、と思い直した。黒木は、分かっていないのではない。黒木はたぶん、大きすぎることを、いったん黙って受け止める人だった。言葉にする前に、自分の中で組み立て直す。さっきの短い「うん」も、煮物に伸ばした箸も、たぶんその時間の一部だった。黒木の沈黙は、何もない時間ではなかった。
二年目で、新しい枠の最初の一人。それはたぶん、はっきりとした抜擢だった。
……遠野CTOの改革の、いちばん端っこ。
胸の奥でそう置いた。一年前の全社会議で遠野CTOが話していた、技術と事業の両輪。その片方の輪を、会社はいま少しずつ作り替えていて、黒木はその作り替えの最初の一人になっていた。
……白瀬さんが、二十五で初代のテックリードに指されたとき。
胸の内でそう思い返した。あのときも、フロアは何日かざわついたと、いつか白瀬さんが静かに話してくれたことがあった。けれど白瀬さんが指されたのは、二十五歳の、入社三年目のとき。研修員という呼び名が、まだ会社になかったころの話だ。黒木は、いまの研修員制度の中の、二年目。二年目の研修員が技術の旗を持つのは、白瀬さんのときより、たぶんもっと、この会社の順番から外れていた。
「でもさ」
丸山くんが、ジョッキの泡の向こうから口を開いた。
「黒木がいけるなら、順番待ち、関係ないってことっすよね。なんか、いいっすね、それ」
「……会社、変わるのかもね」
葉山さんが、低く、しかし確かに置いた。
その一言は、お祝いの席の温度を、ほんの半度だけ、前のほうへ押した。
黒木だけが、その半度に気づかないまま、二杯目のハイボールを静かに飲んでいた。みんながなぜ少し前のめりになったのか、たぶん黒木には、よく分かっていなかった。
「黒木、推薦は誰から」
僕は聞いた。
「大沢さん」
黒木は短く答えた。
「大沢マネージャー?」
「うん。組込みチームの。私から推薦した、と本人がそう言った」
「うん」
「ただ、今朝、朝から機嫌が悪そうだった」
「あ」
「辞令の伝達のときは平らだったが、その三十分前にフロアで会ったときは、低かった」
「うん」
「波がある、いつも通り」
黒木は軽く首を傾けた。それ以上、大沢マネージャーの名前は出さなかった。
大沢マネージャー、と僕は内心でそっと名前を撫でた。
一年目、僕は何度か遠目に見た。機嫌の波がフロアの空気を半段ずつ動かす、組込みチームの古参のマネージャー。今日は黒木の推薦を上げてくれた人で、しかし朝の機嫌は低かった。推薦の役割と、機嫌の波と、その二つはたぶん大沢さんの中で別々に動いていた。
「黒木、嬉しい?」
丸山くんがジョッキの泡を舐めながら聞いた。
「うん」
黒木は短く答えた。
「でも」
黒木は一拍置いた。
「うん」
「給与、同期と同じだ」
その一文を、黒木はいつものぼそりとした低い音で置いた。
ぼそりと置かれたその一文は、座敷の中の空気を半度くらい下げた。
誰もすぐには応えなかった。
ジョッキの中の氷の小さな音が、座敷の隅でひとつだけ鳴った。
「それ、おかしい」
最初に口を開いたのはアユシュくんだった。
「君は、テックリード補佐、新人と若手の引き取り、設計レビューの二次。You're doing more work」
アユシュくんの口調は、いつもの半分日本語半分英語の角度ではなかった。
日本語がほぼ全部を占めていた。最後の一句だけ、英語でぐっと押し込んだ。
その一句の重みが、たぶんアユシュくんのいちばん直球の言い方だった。
「You're doing more work、なのに、給与、同じ、というのは、おかしい」
「うん」
「私の国でも、それはおかしい」
「うん」
「日本だからおかしくない、ということ、ない」
「うん」
アユシュくんはそれだけ言って、ウーロン茶をひとくち飲んだ。
いつもより、ひとくちの量が少し多かった。
その「多さ」の中に、アユシュくんの半分怒り半分戸惑いが混じっていた、と思う。
葉山さんが両手の指を、テーブルの上で軽く組んだ。
「キャリアラダーの問題、よね」
「キャリアラダー?」
丸山くんが首を傾げた。
「うん、職務等級の階段、みたいなもの。役職と給与の階段がどう設計されてるか、という話」
「うちの会社、キャリアラダー、明文化されてるんすか」
「グレード一覧みたいなのは、ある。私、人事からもらった。葉山ちゃんね、って言って渡された。まあそれは、置いとく」
葉山さんの「それは、置いとく」のところのちょっと平らな声を、僕は聞き逃さなかった。
「グレード一覧で、テックリード補佐、ちゃんと給与のレンジが上に引かれてる?」
「補佐は、グレードのレンジ、同期と同じ枠」
黒木は短く答えた。
「同じ枠、ってことは」
葉山さんが続けた。
「役職の名前は、上に来てる。けれど給与の枠は、上に引き直されてない、ってこと」
「うん、そういうこと」
「それ、いちばんよくない奴」
葉山さんは低く言い切った。
「役職を上にあげる、ということは、責任が増える、ということ。責任の増分に給与が付いてこないなら、その役職は形だけ、ということになる」
「形だけ」
「うん」
「形だけの役職、長く続けると、その人たぶん潰れる」
「うん」
葉山さんはテーブルの組んだ指をほどいて、ジョッキをひと口飲んだ。
葉山さんの「形だけの役職、長く続けると潰れる」の一行を、僕は胸の内でノートにそっと書き写した。
書き写しながら、僕は葉山さん自身のここ最近の話と、その一行がなかば重なっていることに気づいた。
……葉山さん、自分の話、なかば混ぜてるかもしれない。
胸の奥でそう確かめた。
葉山さんはたぶん混ぜていた。
混ぜていることに、葉山さん自身、なかば気づいていたと思う。
けれど、今日はその混ぜ方を葉山さん自身が選んでいた。
……ポケットの中に、今日の昼の通知がある。
僕はそのことを思い出していた。紙の資格には、申請すれば一時金が出る。テックリード補佐という役割には、責任が増えても、何も出ない。同じ会社の中に、別々の物差しが並んでいた。古いほうの物差しだけが、お金の出口につながっていた。
「あの」
言いかけて、やめた。
「ん? 桐谷さん、なんすか」
「ううん、なんでもない」
丸山くんは深追いしなかった。
言いかけたのは、合格の話ではなかった。一時金の話だった。言えば、この座敷の空気がもう半度、変な方向に動く。黒木の「おかしい」の隣に、僕の「もらえる」を並べるのは、今夜ではなかった。
「黒木」
僕は隣の黒木のほうに、首を少し向けた。
「うん」
「それでも、引き受けたんだ」
「うん」
「なんで?」
「技術には、興味がある」
黒木はハイボールのグラスの結露の粒を、指でひとつ潰した。
「設計レビューの二次、っていうのは自分の領域の外の、いろんな案件の設計が見られる」
「うん」
「コードの抽象の、別パターン、たくさん見られる」
「うん」
「そこは、おもしろい」
黒木はそれだけ言った。
「でも、給与は、おかしい」
「うん」
「それは別の話として、ちゃんとおかしいと思ってる」
「うん」
「林さんには、言った。林さんも、おかしいと思ってると言った」
「言ってくれたんだ」
「うん。たぶん林さんは、上に相談を上げてくれる」
「うん」
黒木はそれだけ言って、またハイボールをひと口飲んだ。
黒木の中ではたぶん、「技術への興味」と「給与のおかしさ」は別々の引き出しに入っていた。引き出しを混ぜずに別々に開け、それぞれに対応する。
その引き出しの別々さが、黒木らしさだった。
……黒木はたぶん、給与が同じでも、これを引き受けた。
内心でそう思った。黒木は家でも、自分で買った基板を相変わらずいじり続けている。一年前、夏の寸志で返すと言って先にカードで買ったラズパイは、いつのまにか机の上で二枚に増えていたらしい。会社が払おうが払うまいが、黒木は技術にだけは自分の財布を開く。その黒木にとって補佐の役割は、給与の話とは別の引き出しで、ただ純粋に「おもしろい」のだった。
「黒木さん、つよい」
杉本さんがぽつりと言った。
「強い?」
黒木がちょっと聞き返した。
「うん。引き出しを別々に、ちゃんと開けてる」
「あ」
「私、たぶん混ぜちゃう」
「うん」
「ありがとう」
「ありがとう、って、何が」
「いえ、なんとなく」
杉本さんはジョッキの底を、また両手で包んだ。
「私もその引き出しの分け方、ちょっと参考にします」
杉本さんはそれだけ言って、またお通しの煮物の一切れを口に入れた。
……杉本さん、もうひとつ、別のこと考え始めてる気がする。
胸の内でそう確かめた。
杉本さんの両手のジョッキの包み方が、いつもより少し長かった。その間に、まだ完成していない役職に手を挙げた黒木と杉本さん自身の「これから」が、淡く重なり始めていた気がした。
丸山くんがいつもの調子で、声の角度を戻した。
「黒木、林さんの上にもう一回上がるとき、たぶん給与、追いつくっすよ」
「うん、たぶん」
「とりあえず、今日はテックリード補佐、おめでとう、もう一回っす」
「ありがとう」
「お、もう一杯、いきますよ。すいません、生、追加で四つっ」
丸山くんが店員さんに、手を挙げた。
座敷の空気が、半度戻った。
戻し方のぶっきらぼうな感じが、丸山くんのいちばんの得意技だった。
お会計のあと、駅前のロータリーで解散した。
葉山さんはタクシーを拾った。「ちょっと、疲れた」と短く言って笑った。
杉本さんと丸山くんは二人で、駅の改札のほうへ歩いた。たぶん駅前のコンビニでもう一本、何か買って、それぞれの寮に戻る。
アユシュくんは僕のほうを向いた。
「蒼太、寮、同じ方向、帰る?」
「うん、帰ろう」
黒木とは駅前のロータリーで別れた。
別れ際、黒木はほんの一瞬、僕のほうを見た。
「桐谷」
「うん」
「今日、来てくれてありがとう」
「ううん、おめでとう」
「うん」
それだけだった。
黒木の「ありがとう」の言葉はいつもより半秒、ほんの少しだけ長かった。
その半秒の長さの中にたぶん、給与のおかしさと、技術への興味と、林さんへの相談と、同期からの拍手が、まとめて入っていた。
アユシュくんと、桜並木通りのほうの道をゆっくり歩いた。
六月末の夜の風は、なかば湿っていた。
「蒼太」
「うん」
「私、黒木のこと、リスペクトしている。給与の話を、引き出し別に開ける、強い」
「うん」
「私の国だったら、たぶんもう少し感情が混ざる。黒木は混ざらない」
「うん」
「だから私は、黒木のこと、very much、リスペクトしている」
アユシュくんの「very much」のところは、英語の音の中にちょっとした優しい笑みの角度が混ざっていた。
葉桜の枝の影が、道にゆっくり揺れていた。
「アユシュくん」
「うん」
「アユシュくんも、引き出しの分け方、上手い」
「あ、そう?」
「うん。日本語と英語の引き出しを、ちゃんと別々に開けてる」
「あ、それは、私たぶん無意識」
「うん」
「でも、無意識でも別、なのは、いい、ということ?」
「うん。いい、と思う」
「Thank you」
アユシュくんはそれだけ答えた。
寮の入口の街灯のところで、僕たちは別れた。
アユシュくんが軽く片手を挙げた。
「Soota、おやすみ」
「おやすみ」
寮の自分の部屋に戻り、机の電気をつけた。
ノートを開いた。
四月一日の最初の一行、「二年目、仕事の質を見る」を今日も一秒だけ見直した。
その下、最近のページをめくった。
先週の「葉山さん、限界に近づいてる」の一行を視界の端で確認した。
その下、新しいページを開いた。
ペンを握り直した。
「黒木、テックリード補佐に。給与は、同期と同じ」
一行書いた。
もう一行。
「役職と給与の乖離。評価制度の問題」
もう一行。
「二年目が技術の役割を持った。この会社の順番から、ひとつ外れた日。フロアがざわついた。当の黒木だけが、よく分かっていない」
もう一行。
「葉山さんの言葉。形だけの役職、長く続けると潰れる」
もう一行。
「黒木、引き出しを別々に開ける。技術への興味と、給与のおかしさを混ぜない」
書きながら、僕は黒木のその引き出しの分け方を、自分の中でもう一度確かめた。
もう一行。
「応用情報、合格。一時金は、申請すれば出る」
もう一行。
「紙には一時金が出て、役割の責任には何も出ない。同じ会社の、別々の物差し」
もう一行。
「黒木には、今夜は言わなかった。言わない、を選んだ。選んだことも、ここに書いておく」
ノートの右下に、もう一行書いた。
「両輪、と、引き出し」
書きながら、僕は一年前の入社初日の遠野CTOの「両輪」と、今日の黒木の「引き出し」がたぶん形が近いことに、ふっと気づいた。
両輪、というのは、技術と事業の二つの輪を、同じ車軸の左右にちゃんと置く話だった。
引き出し、というのは、技術への興味と給与のおかしさを、それぞれ別の箱にちゃんと入れて、別々に開ける話だった。
どちらも、ふたつの別のものを混ぜずに、ちゃんと持ち続けるという姿勢の話だった。
ノートを閉じた。
窓の外、六月の夜の湿った風が、葉桜の枝を軽く撫でていた。
……黒木、たぶん林さんと一緒に、上に相談、ちゃんと上げる。
胸の奥でそう確かめた。
黒木はそういう奴だった。
黒木の中で「おかしい」と「引き受ける」は両立していた。両立させながら別々の引き出しから、それぞれの対応をちゃんと続ける。
その並列の置き方が、たぶん黒木の二年目の、今日時点の答えだった。
明日、僕はConfluenceの自分の作業ページを、また開く。
森山くんの簡単なバグ修正のチケットの二件目を、軽く見る。
白瀬さんからのレビューコメントを、午前中のうちにひとつだけ返す。
その作業の合間にたぶん僕は、もう一度今夜の黒木の「うん」の音を思い出す。
黒木の「うん」は、短いけれど、たぶん誰の言葉よりもまっすぐ立っていた。




