第36話「受け取り方を、刻み直す」
五月の中旬、火曜日の午後三時過ぎ。
白瀬さんから、Slackで短いメッセージが来た。
「桐谷くん、レビュー、終わったよ」
先週、白瀬さんに任せられた小さな機能開発のプルリクエスト。金曜日に出して、月曜にレビュー依頼を送って、火曜の午後に返事が来た。
GitHubのページを開いた。
コメントの数を数えた。
二十二件。
……二十二件。
心の中で、その数字をもう一度繰り返した。
一年前、僕が初めて白瀬さんからレビューをもらった日、コメントの数は二十二件だった。
ちょうど一年。
同じ、二十二件。
でも、その意味はたぶん違う。
僕はコメントを上から順に、ひとつずつ読み始めた。
最初の十件は、すぐに直せるものだった。
関数名がもう少し丁寧にできる、変数の初期化のタイミングを揃えたほうがいい、コメントの粒度がやや細かい、エラーメッセージの表現が他のコードと揃っていない。
一年前は、こういうコメントを見て、自分が責められているように感じていた。
いまは、そういう感覚はもうない。
たとえば「関数名がもう少し丁寧にできる」という一件。一年前の僕なら、名前のつけ方を否定された、自分のセンスがだめなんだと縮こまっていた。いまは違った。なぜこの名前だと後でコードを読む人が迷うのか、白瀬さんがその一行で何を守ろうとしているのかが、コメントの向こうに見えた。同じ二十二件でも、去年は矢のように刺さって、今年は問いのように置かれていた。
白瀬さんの書き方はいつも、ひとつのパターンに従っていた。「なぜそのコードがそのままだと困るか」を最初に書き、「どう直すか」は最後の一行で軽く提案する。「決めるのはあなたです」という余白が、いつもコメントの中に残されていた。
……「決めるのはあなたです」という余白。
心の中で、その余白の存在をもう一度確認した。
残りの十二件は、設計の話だった。
関数の責任分担、データの持ち方、テストの書き方。すぐに直せる話ではない。しばらく考えて、自分なりに納得してから書き直すべき話だった。
全部を読み終えた頃には、十六時を過ぎていた。
席を立って、休憩スペースのコーヒーサーバーの前に行った。
ちょうど白瀬さんがそこにいた。
マグカップを持って、コーヒーが落ちるのを待っていた。
「桐谷くん」
白瀬さんは僕に気づいて、軽く頷いた。
「お疲れさまです。コメント、ありがとうございました」
「うん。ぜんぶ、見た?」
「いま、ひと通り見終わったところです」
白瀬さんは自分のマグカップにコーヒーを注ぎ終わってから、僕の方を見た。
「桐谷くん、去年と比べて、コメントの受け止め方が変わったね」
突然のひと言だった。
「……受け止め方、ですか」
白瀬さんは頷いた。
「うん。前は、コメントに反応するだけだった。最近は、なぜそのコメントが来たのかを考えるようになった」
「気づきませんでした」
「自分では、気づかないものだよ」
白瀬さんはコーヒーを一口含んだ。
そして、しばらく黙った。
午後の遅い時間で、休憩スペースに人は少なかった。窓の外で、葉桜の葉が薄い陽射しに揺れていた。
白瀬さんはコーヒーを置いてから、僕の方をもう一度見た。
「桐谷くん、私が新人だった頃のレビュー、どんなだったと思う?」
予想していなかった質問だった。
「……あまり、想像できないです」
白瀬さんは少しだけ笑った。
「ひどいの、けっこうあったよ」
「ひどい?」
「『これ、考えて書いてる?』とか、『一年生かよ』とか」
白瀬さんは淡々と続けた。
「私のいた研究室は、レビューの作法までは教えてくれなかった。だから、最初の会社でいきなり浴びた」
僕は何も言えなかった。
白瀬さんはコーヒーをもう一口含んだ。
「それで、よくレビューする側に回れますね」
ようやく、それだけ口に出した。
白瀬さんはコーヒーを置いて、ゆっくり答えた。
「だから、じゃないかな」
白瀬さんは続けた。
「自分がされて嫌だったことを、覚えているから」
その言葉の重みが、しばらく僕の中に留まった。
白瀬さんはそれ以上、続けて話さなかった。
ただ、コーヒーカップを両手で軽く包んでいた。
休憩スペースの空気が、ゆっくり流れた。
しばらくして、白瀬さんがぽつりと口を開いた。
「私、教えるのが上手いとは思ってないんだよ」
「……」
「ただ、自分が新人だったときに何が嫌だったかを、覚えてるだけ」
その一言を聞いたとき、僕の中で何かが静かに動いた。
白瀬さんのレビューの、あの「決めるのはあなたです」という余白。
あれは、技術として習得されたものではなかった。
白瀬さんが、自分の浴びたひどいレビューを覚えていたから生まれた余白だった。
……覚えている。
心の中で、その動詞を繰り返した。
覚えていることが、レビューの作法を作っていた。
覚えていることが、白瀬さんの信頼を作っていた。
「桐谷くん」
白瀬さんがもう一度、僕を呼んだ。
「来年、後輩がつく可能性、あるよね」
「……ええ、たぶん」
たぶん、というのは、自分でもまだはっきり考えていないことだった。けれど二年目の業務量を見れば、来年の春に誰かが入ってきて、自分が指導する側に回ることは十分にあり得た。
「そのとき」
白瀬さんは少し、声のトーンを落とした。
「いまの自分が受けているレビューを、どう渡すか考えてみて」
「渡し方、ですか」
「ううん」
白瀬さんは首を軽く振った。
「渡し方の前に」
白瀬さんはそこで一度、言葉を置いた。
「受け取り方を、もう一度、刻み直すこと」
……受け取り方を、もう一度、刻み直す。
その言葉を、心の中でゆっくり何度か繰り返した。
自分が受け取っているものを、そのまま後輩に渡すのではない。
受け取っているものを、もう一度自分の中で刻み直す。
刻み直してから、初めて渡せる。
いや、刻み直すこと自体が、渡す準備になっている。
白瀬さんはそれ以上、説明をしなかった。
ただ、コーヒーカップをもう一度両手で包んだ。
しばらくして、低い声で付け加えた。
「私もまだ、刻み直してる」
白瀬さんはコーヒーを最後まで飲み干して、マグカップをシンクに置いた。
「PR、続き、よろしく」
「はい、ありがとうございました」
白瀬さんは軽く頷いて、自分の島の方角に戻っていった。
僕は自分のマグカップに、まだ手をつけていなかった。
ゆっくり一口飲んだ。
コーヒーはもう、少しぬるくなっていた。
席に戻って、ノートを開いた。
白いページに、ひと行書いた。
……渡し方の前に、受け取り方を、もう一度、刻み直す。
書いてから、しばらく自分の文字を見ていた。
ちょうどそのとき、連絡事項で組込みチームから来ていた藤村さんが、通りすがりに声をかけてきた。
「桐谷、何書いてるの」
藤村さんは組込みチームの中堅エンジニアで、黒木とアユシュさんの相談役でもある人だった。たまに用事で、チームAの島まで寄ることがあった。
僕はノートを軽く、藤村さんに見せた。
「自分のための、地図みたいなものです」
藤村さんは僕の一行をちらっと読んでから、笑った。
「桐谷、最近、ノート、多くなったな」
「あ、はい、多くなりました」
藤村さんはそれだけ言って、自分のチームの島の方角に戻っていった。
でも、その「笑った」の中には、少しだけ温かいものが混じっていた。
二年目の自分がノートを増やしているのを、藤村さんなりに見ていてくれたのかもしれなかった。
夕方、十八時。
窓の外、五月の夕焼けが桜並木通りに降り始めていた。
僕は白瀬さんのコメントをもう一度開いて、十二件の設計コメントをゆっくり読み直し始めた。
ひとつずつ読みながら、頭の中で刻み直していった。
白瀬さんがなぜ、このコメントを書いたのか。
白瀬さんが新人のころに、何を浴びていたのか。
その経験が、このコメントのどの一行に滲んでいるのか。
わかるところと、わからないところがあった。
わからないところは、わからないままノートに書き残した。
いつか後輩が来たときに、その「わからないまま」をもう一度開けるように。
それが、刻み直すということなのかもしれなかった。
いまの自分には、それ以上のことはまだわからなかった。
でも、わからないことを、わからないままノートに書いておく。
その作業自体が、たぶん後輩を持つ準備になっていた。
窓の外、夕焼けが深まっていった。
桜並木通りに、街の灯がゆっくり灯り始めていた。
ノートを閉じて、自分の画面に視線を戻した。
設計コメントの直しは、まだたくさん残っていた。
明日、白瀬さんにもう一度PRを出す。
その日まで、自分なりに書き直す。
仕事は、そういう順番で続いていく。
でも、今日ノートに書いた一行は、たぶんその仕事の順番よりもう少し長い時間の中で、自分に残っていくはずだった。
僕はもう一度、コードに向き合い始めた。




