第35話「教えてみて、分からなくなる」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
五月の、葉桜がすっかり緑になった頃だった。
二つ隣の席の森山くんが、椅子を少しこちらに寄せて、僕に聞いてきた。
「桐谷さん、これ、どう直せばいいですか」
森山くんは、四月の終わりにチームAに着任した、今年の新卒だった。僕の、初めての後輩になる。
ただ、後輩を本当の意味で見るのは、白瀬さんだった。諏訪マネージャーは、森山くんが着任した日に、線引きをしてくれていた。白瀬さんがメインのメンターで、僕は補佐。第一段の質問対応と、進め方の共有が、僕の役目だった。
森山くんの画面をのぞき込んだ。処理を try-catch で囲って、catch の中が空になっていた。握った例外を、どこにも出さずに、そのまま飲み込んでいる。
だから僕は、補佐として、森山くんの質問に答えた。
「ここ、catch で握りつぶしてるよね。ログに出して、上に投げ直そう。こうやって」
手順を、そのまま渡した。
森山くんは「分かりました」と頷いた。早かったし、うまくいったように見えた。教えた、という小さな満足が、僕の中にあった。
ただ、これでいいのか、自信はなかった。
数日後、森山くんが、また似た場面で同じことを聞いてきた。今度はファイルを読む処理で、やっぱり catch の中が空だった。
「桐谷さん、これも、さっきと同じで握りつぶし、ですか」
……あれ。
心の中で僕は止まった。
手順は、覚えてくれていた。けれど、少し形の違う場面になると、自分では判断がつかないようだった。なぜ握りつぶしてはいけないのか、そこを、僕は渡せていなかった。
「うん、それも……ログ出して、上に……っていうか、えっと」
なぜと聞かれたわけでもないのに、自分から詰まった。
森山くんが、不思議そうに僕を見た。
「握りつぶすと……何がまずいのか、まだよく分からなくて」
……それは。
口を開きかけて、また止まった。だめなのは、分かっている。手が、勝手にそう直す。でも、なぜだめなのかを、人に渡せる言葉にできなかった。
「……後で、困るから」
やっと出たのは、それだけだった。自分でも、ひどい説明だと思った。何が、どう困るのか。そこを、言えなかった。
森山くんは「はあ」と、曖昧に頷いた。たぶん、分かっていない。当然だった。教えている僕自身が、分かっていなかったのだから。
なぜ、そう直すのか。
手は動くのに、その理由を人に渡せる言葉にできない。自分がどれだけ「なんとなく」でやってきたか、森山くんの前で、思い知らされた。
一年前、白瀬さんが言っていた言葉を、僕は思い出した。手順だけ覚えても、応用は効かない。あのとき本を読みながら聞いた言葉が、いま教える側で裏返って効いていた。
白瀬さんや諏訪さんは、なぜあんなに自然に言葉にできるのだろう。
……自分なんかが、教えていいんだろうか。
出過ぎていないだろうか。放っておくのも、違う気がする。森山くんのために、本当になっているんだろうか。
手探りのまま、僕は悩んだ。
森山くんの分からない顔を見ていると、一年前の自分がそこに重なった。
……去年の僕も、こんな顔を、してたのかな。
その週、白瀬さんが森山くんに教える場面を、僕は横で見ていた。
白瀬さんは、答えを言わなかった。
「これ、何のためにやってると思う」
「こうしなかったら、どうなると思う」
問いだけを、置いた。
森山くんは、考え込んだ。少し時間がかかった。それから、自分の言葉で、何かにたどり着いた。
その瞬間、森山くんの目の色が少しだけ変わった。
僕は、それを、横で見ていた。
僕の中で、二つの教え方が、並んだ。
手順を渡す。速いけれど、育たない。
目的や背景に、気づかせる。手間はかかるけれど、育つ。
一年前、諏訪さんや白瀬さんが僕にしてくれたのは後者だった。なぜを問いながら読め、と白瀬さんは言った。
僕は森山くんに手順だけを渡していた。
その翌日、森山くんは僕を飛ばして、白瀬さんに直接聞きに行った。
……あ。
心の中で、小さく、寂しさが揺れた。
自分はメインじゃない。出過ぎてもいけないし、放っておいてもいけない。そのちょうどいい距離が、まだうまく掴めなかった。
次に、森山くんが僕のところに来たとき。
僕は手順を答える代わりに、白瀬さんの形を、そっと真似てみた。あの人が一年前、僕にしてくれたように。答えではなく、問いを一つだけ返す。
「これ、設計の根拠、Confluenceに残すよね。あれって、何のためだと思う」
森山くんは、考え込んだ。
沈黙が、流れた。
待つのは、手順を渡すより、ずっと怖かった。間違っていないだろうか。突き放していないだろうか。
それでも、僕は、待った。
やがて、森山くんが、口を開いた。
「あ……後で、社内の誰かがコードを読んだときに、分かるように、ですか」
「うん。たぶん、そう」
森山くんが、自分の力で、答えにたどり着いた。
その瞬間、僕の胸に、温かいものが広がった。
去年、自分のコードが初めて本番に乗ったときの嬉しさとは、また違う種類の嬉しさだった。人が、自分の関わりで一歩育つ。こんな達成感があるのか。
そこで、僕は、もう一つのことに気づいた。
森山くんに教えようとするたびに、自分の「なんとなく」が言葉になっていく。教えるために考えるから、自分の理解が深まっていく。
……森山くんに教えてるつもりが、いちばん学んでるのは、僕だ。
教えることは、たぶん、最大の学びだった。
気づいたことは、それだけではなかった。
森山くんが質問してくれるから、僕は考えて言葉にして、成長できる。
僕は、指導しているのではなかった。指導させて、もらっているのだった。
森山くん、ありがとう。
その気持ちが、静かに湧いた。まだ、口には出せなかったけれど。
夕方、白瀬さんが、短く声をかけてくれた。
「桐谷くん、教えるの、どう」
「難しいです。自分が、なんとなくでやってたこと、たくさんあって」
「うん。教えるのは、相手のためだけじゃない。自分が、ちゃんと分かってるか、確かめる作業でもある」
「はい」
「いまは、第一段で十分。全部、背負わなくていい」
白瀬さんは、補佐の距離についても、そう言ってくれた。それから、少しだけ、間を置いた。
「答えを渡すのは簡単。でも、答えにたどり着く道を本人に歩かせるほうが、たぶん育つ。遠回りに見えて、それが近道のときがある」
「……自分が、いちばん学んでる気が、します」
僕がそう言うと、白瀬さんは、薄く頷いた。
「そう。教える側が、いちばん、得をする」
その日の退社後、寮の部屋で、ノートを開いた。
教えることは、自分の輪郭を、確かめることだった。
人を育てるのは、手順じゃなくて、気づきだった。
そして、教える側こそがいちばん育って、教える機会をくれた相手に感謝する。
一年前、自分が受け取ったものの正体が、教える側に回って少しだけ見えてきた。
いつだったか立花さんに言われた、「業務じゃない」という言葉。あのとき覚えた違和感の正体にも、うっすら近づいた気がした。けれど、まだ掴みきれなかった。
ノートに、書いた。
「教える、ということ」
「手順を渡すと、その場は早い。でも、育たない」
「なぜを渡すと、遠回りでも育つ」
「教えてるつもりで、いちばん学んでるのは、僕だ」
少し迷って、その下にもう一行書いた。
「森山くん、ありがとう」
一年前、諏訪さんと白瀬さんは、僕に手順じゃなくて、なぜをくれた。
それをいつか、森山くんに渡していく。その最初の一歩だった。
窓の外で、初夏の葉桜が夜風に静かに揺れていた。




