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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第34話「白瀬先輩の信頼」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 五月の連休が明けた。


 桜並木通りはもうすっかり葉桜だった。緑色の葉が薄い陽射しを葉脈の網目から、地面に落としていた。


 連休明けの月曜日の午前、Slackのダイレクトメッセージに、白瀬さんから短い一文が届いた。


「桐谷くん、十一時から三十分、第四会議室、空いてますか」


「はい、空けます」


「ありがとう」


 白瀬さんからの呼び出しはいつも短かった。「これは何の話ですか」と聞き返したくなる気持ちを、何度か口の中で噛んだことがあった。けれど白瀬さんは、いつも会議室に入った瞬間に、自分から用件を先に話してくれる人だった。


 十時五十五分、僕は第四会議室の前でConfluenceのメモを開いて待っていた。


 白瀬さんがいつもの時間ぴったりに来た。


 いつもの薄いブルーのシャツ、グレーのパンツ、肩までの黒髪を後ろで一度結んだスタイル。手の中にA5のノートとMacBook Pro。


「桐谷くん、お疲れさま」


「お疲れさまです」


 会議室は第三よりもひとまわり小さい。テーブルの白い天板、ホワイトボード、窓の外に葉桜。


 白瀬さんは椅子に座って、MacBook Proを開く前に、まずこう口を開いた。


「ひとつ、桐谷くんに任せたい仕事があります」


 ……任せたい、仕事。


 心の中で僕はその言葉をひと呼吸、噛んだ。


 二週間前、立花さんから同じ言葉を聞いた。あのときの声と、いま白瀬さんが言った声の温度の違いは、ちょっと説明しづらかった。けれど確かに、違っていた。


「中規模機能設計、です」


 白瀬さんはConfluenceの該当ページをMacBook Proの画面で開いて、テーブルの中央に向けた。


 画面にお客様の名前と、案件名が出ていた。


 みなと信用金庫ではなく、別の受託案件。地方の物流系の中堅企業向けの、在庫管理システムの追加機能。データ件数、業務フロー、関連帳票、現行スキーマ。そのあたりがひと通り整理されたページ。


「桐谷くんに任せたいです」


「あの、これ、本当に僕が、ですか」


 声に出してから、自分の声にほんの少しだけ警戒が混じったのが、自分でも分かった。


 立花さんの提案書の件がまだ、頭のどこかに残っていた。


 白瀬さんはその警戒に、たぶん気づいた。


 けれど、責めることも、慌てて打ち消すこともしなかった。


「うん、桐谷くんなら、できる」


 白瀬さんはただ、短くそう言った。


「ひとつだけ確認していいですか」


「はい」


「桐谷くん、立花さんの提案書の件、まだ引きずってる?」


 ……まだ、引きずってる。


 心の中で僕は、自分の中の感触をもう一度確かめた。


「半分、引きずってます。あと半分は、たぶん整理がついています」


「うん」


「あの後、ノートに二行、書きました。『今日、僕は、裏切り、を見た』、『しかし、見ている人もいる』」


「桐谷くんらしい言葉です」


 白瀬さんは口の端をちょっとだけ緩めた。


「今回の話は、立花さんの件と、私の中では別の話です」


「はい」


「私から桐谷くんに任せる、というとき、私の任せ方はたぶん、立花さんの任せ方とはいくつか違います」


 白瀬さんはA5のノートを開いた。


 そこに白瀬さん自身の字で、三つの項目が箇条書きで書かれていた。


「ひとつ。設計の責任は私とチーム全体が最終的には持ちます。桐谷くんがひとりで抱える話ではないです」


「はい」


「ふたつ。途中の進捗は週一で、私が確認します。指示はしません。質問だけします」


「質問、だけ」


「うん。答えを先に渡しません」


 ……答えを、先に、渡さない。


 心の中で僕はその音を確認した。


 白瀬さんが僕の最初のプルリクエストで二十二件のレビューをくれたときの、あの淡々とした口調が、いまの白瀬さんの声とほぼ同じ温度だった。


「みっつ。完成したら私がレビューします。指摘はたぶん多いです。それでも、ひとつずつ議論しましょう」


「はい」


 白瀬さんはノートを閉じた。


「桐谷くん、ひとつ聞いてもいいですか」


「はい」


「この三つで、引き受けられますか」


「はい、引き受けたいです」


 声に出してから、自分の中でひとつ、別のことに気づいた。


 ……立花さんのときは「お願いされた」、白瀬さんのときは「引き受けた」。


 心の中で僕はその違いを確認した。


 立花さんのとき、僕はただ流れに足を入れた。白瀬さんのときは、白瀬さんから示された三つの枠を、自分の意思で頷いた。


 その違いはたぶん、後で効いてくる気がした。


「ありがとう」


 白瀬さんは立ち上がる前に、もうひとつ付け加えた。


「立花さんのときのように、誰が書いたか痕跡が消えるということは、ありません」


「はい」


「Confluenceの履歴と、Slackのスレッドで、ひと目で分かるようにします」


 白瀬さんはそれを、まるでお天気の話のように平らな声で言った。


 その平らさが、たぶんいま、僕には必要だった。


 


 その日の午後から、僕は設計に取り掛かった。


 Confluenceに新しいページをひとつ作った。ページ名は案件名と僕の名前がそのまま入った。「在庫管理システム・追加機能設計案・桐谷蒼太」と。


 ページの先頭に、白瀬さんからもらった三つの項目を、自分の言葉で書き直してメモとして置いた。


「責任は、白瀬さんとチームで最終的には持つ」


「途中の進捗は週一で白瀬さんが確認、質問のみ」


「完成後、白瀬さんがレビュー、議論する」


 書き出してから、僕は設計の本体に入った。


 業務フローの整理から始めた。


 お客様の担当者からヒアリングするのは、白瀬さんと同行する形で来週、予定が組まれていた。それまでに現行のシステムと、想定される追加機能の関係を、自分なりに整理しておく必要があった。


 夕方、森山くんが僕の机の脇に来た。


「桐谷さん、ちょっといいですか」


 森山くんは自分の手元のMacBookを、僕に見せた。


 彼には初日に、業務の進め方の説明としてConfluenceの使い方を一通り共有していた。森山くんはその後、毎日何回か、僕にConfluenceの細かい質問をしてきていた。


「すいません、テンプレートのコピーの仕方が、よく分からなくて」


「ああ、なるほど」


 僕は画面を覗き込んだ。


 森山くんが見ていたのはテンプレートではなく、別のページの「アクション」メニュー。クリックする場所が、半メニュー分ずれていた。


「ここの『…』のところ、押してみて」


「あ、そっちですか」


「うん、最初はちょっと見つけにくいよね」


 森山くんがちょっと笑った。


「すいません、何度も」


「ううん、最初は皆こんなもの」


 言いながら、僕は白瀬さんの口調をひそかに自分の口に写し取ろうとした。


 ……白瀬さんが、僕にこう答えてくれた、そういうとき。


 心の中で僕はその記憶を撫でた。


 森山くんが自分の席に戻った後、僕は自分のページに戻った。


 業務フローの図を、半分まで書き終えていた。


 画面の向こうの世界、お客様の倉庫の中、フォークリフトの動き、棚卸しの紙、それから現場の担当者の机の上のExcel。想像できる範囲で、想像した。


 


 次の週の月曜日、午前。


 白瀬さんからSlackで確認の依頼が来た。


「Confluence、見ました。一週目、進んでます」


「ありがとうございます」


「水曜日、十六時から三十分、第四会議室、空いてますか」


「空けます」


 水曜日、白瀬さんはいつも通り、時間ぴったりに会議室に来た。


 MacBook Proを開いた白瀬さんは、僕のConfluenceのページをゆっくり、上から下までスクロールした。


 しばらく黙っていた。


 その沈黙は、たぶん評価ではなく、理解の沈黙だった。


 顔を上げた白瀬さんが、最初の質問を口にした。


「ここ、なぜこの方針ですか」


 画面の中で、業務フローの分岐のひとつを指していた。


 ……ここはなぜ、この方針ですか。


 心の中で僕はその音をもう一度聞いた。


 一年前、白瀬さんが二十二件のレビューの中で、繰り返し僕に投げかけてくれた、あの質問の形。


 僕は自分の方針の根拠をゆっくり説明した。現場のExcelで、担当者がこういう順でデータを入力している、と想像したこと。その想像の根拠は、お客様の現行画面の入力欄の並び順、それから添付されている記入例。


「うん」


 白瀬さんは頷いた。


 頷いただけだった。


 次の質問。


「他の選択肢は、考えました?」


「はい、二つ、考えました」


 僕は二つの代替案を、白瀬さんに説明した。ひとつは画面の入力順を現行と同じにする案。もうひとつはデータの保存タイミングを変える案。


 白瀬さんは聞き終わってから、こう言った。


「桐谷くんが最終的にこの方針を選んだ理由を、Confluenceに書いておいてください」


「はい」


「『考えなかった』のではなくて『考えた上で、これを選んだ』、ということが後でレビューで共有できるように」


「分かりました」


 その三十分の1on1で、白瀬さんは合計八つの質問だけを口にした。


 ひとつも、答えはくれなかった。


 ただ頷いただけのときも、三回あった。


 会議室を出るとき、白瀬さんはいつもの調子でこう言った。


「来週も水曜日、同じ時間でお願いします」


「はい、よろしくお願いします」


 


 二週目、三週目、四週目と、僕は設計を進めた。


 白瀬さんの質問は毎週、少しずつ深いところに降りていった。


 最初は、業務フローの分岐の理由。


 次に、データの正規化の方針。


 その次に、エラーハンドリングのパターン。


 最後のほうは、運用に入った後の、お客様側の担当者の作業負荷。


 白瀬さんが頷くだけの回数が、徐々に増えた。


 頷くだけのとき、僕は最初、不安だった。「これで本当に合っているのか」と心の中で聞きたかった。


 けれど三週目あたりで、その不安は少しずつ別のものに置き換わった。


 ……白瀬さんは、僕の選択の理由がちゃんと僕の中で根拠を持っていることを、確認している。


 心の中で僕は、自分なりにその沈黙の意味を解いた。


 答えが合っているか、ではなく、僕が自分の根拠を自分の言葉で説明できるかどうか。たぶん白瀬さんが毎週確認していたのは、そっちだった。


 その理解に至ったとき、頷くだけの沈黙が急に、別の色に見え始めた。


 あれはたぶん、信頼の沈黙だった。


 


 月の終わり、最終の設計案をConfluenceで白瀬さんにレビュー依頼で投げた。


 翌日の朝、白瀬さんからレビューが返ってきた。


 Confluenceのコメントの数を、数えた。


 二十六件。


 ……白瀬さんの、いつもの数。


 心の中で僕は小さく笑った。


 一年前なら、その数を見ただけで息が浅くなった。


 今朝の僕は最初のひとつを開いて、淡々と読み始めた。


 一件目。


「この分岐の表記、矢印の向きが現場の作業の流れと逆になっています。図と業務の整合性を取るために、向きを揃えたほうが後の担当者に優しいです」


 二件目。


「データ型の選択、現行スキーマとひとつだけ合わない箇所、あります。スキーマ側を直すか、設計側を合わせるか、選択肢を明示してください」


 三件目から二十五件目まで、似たような調子で淡々と続いていた。


 責めるニュアンスはどこにもなかった。


 ひとつずつ、僕は自分の中で考え、コメントに返信していった。納得できるものは修正、納得できないものは根拠とともに別案を書いた。


 全部、捌き終わるのに二日かかった。


 二十六件目を開いた。


 他のコメントと、少しだけ毛色の違うコメントだった。


「これは、いい設計です」


 白瀬さんの、それだけの一行。


 ……これは、いい設計です。


 心の中で僕はその一行を、しばらく見つめた。


 胸の奥で何か温かいものが、ゆっくり開いた。


 その温かさは、立花さんの「いい感じ、続けて」とは、まったく別の温度だった。


 立花さんの「いい感じ」は、表面の言葉だった。中身は空っぽだった。


 白瀬さんの「いい設計」は、二十五件の指摘の、その後に置かれていた。指摘の数がたぶん、その「いい設計」の言葉の重さを支えていた。


 ただ、二十六件を書くのに、白瀬さんは一時間以上を使っていた。丁寧さには、丁寧さのぶんだけ、時間という代償がある。すべてのレビューにこの密度を注いだら、白瀬さんの手はきっと回らなくなる。どこに二十六件を書いて、どこは短い一言で流すのか。その選び方もたぶん、設計の一部なのだった。


 磨く優しさ、というのはこういうことだ。


 一年前、ノートにその言葉を書いたとき、僕はその意味をまだ半分しか分かっていなかった。


 今朝、Confluenceの画面の前で、僕はその意味のもう半分を、たぶん初めて自分の体で受け取った。


 


 その夜、寮の自分の部屋でノートを開いた。


 四月一日の最初の一行、「二年目、仕事の質を見る」をもう一度見つめた。


 その下に、いくつかの行を見直した。


「立花さんの件、裏切り、しかし見ている人もいる」


 ページをめくった。


 新しいページにペンを置いた。


 ゆっくり、書いた。


「『信頼される』ということは、こういうことか」


 書きながら頭の中で、ふっと立花さんの「君なら大丈夫」と、白瀬さんの「桐谷くんなら、できる」が、自然と横並びになった。


 同じ「任せる」、同じ「桐谷くんなら」。けれどその後の三週間、僕がやったことと、二人がやったことの合計の質は、たぶんまったく別のものだった。


 立花さんのほうは、僕が一週間書いて、立花さんがリスクを半分にして、会議で「僕がまとめました」と言って、諏訪さんの問いで訂正された。


 白瀬さんのほうは、僕が一ヶ月書いて、白瀬さんが毎週質問だけして、最後に二十六件のレビューを書いて、最後の一行で「これは、いい設計です」と書いた。


 ……同じ言葉でも、本物とたぶん、そうでないものがある。


 心の中で僕はその音をもう一度確かめた。


 ペンをもう一度、動かした。


「磨く優しさ、というのは、たぶんここに続いている」


 書き終えて、ノートを閉じた。


 窓の外、夜の風が葉桜の枝をゆっくり揺らしていた。


 ……明日、白瀬さんにちゃんとお礼を言おう。


 心の中で僕は決めた。


 森山くんにもいつか僕は、白瀬さんから受け取ったこの三十分を、別の形で渡していく。それがいつになるかは、まだ分からない。けれどいつかの日、僕は誰かに「桐谷くんなら、できる」と、白瀬さんの口調を写し取って言う。


 その想像は、まだしっくり来ていなかった。


 けれど、しっくり来ない、というのも、たぶん今夜の僕にはちょうどいいくらいの距離感だった。


 渡す側になるのは、まだ先のことのような気がしていた。


 


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