第33話「立花先輩の手柄」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
四月の終わり、桜並木通りの桜はほぼ散っていた。
通勤の朝、薄桃色の花弁がアスファルトに小さく散らばっていた。歩くたびに踵の下でぱさり、と乾いた音が立った。一年前のこの時期、僕はこの音をたぶん聞いていなかった。あの頃の僕は道の遠くばかり見ていた。
会社のフロアに着いてMacBookを起動した直後、立花さんが僕の机のほうへ、にこにこしながらやって来た。
「桐谷くん、最近、調子どう?」
立花さんはいつもの人懐っこい笑顔をしていた。
黒のジャケット、ノーネクタイ、シャツの第一ボタンだけ外している、いつものスタイル。ゴルフ焼けの肌の色もいつも通り。
「あ、立花さん、おはようございます。調子はまあ、いつも通りで」
「お、いいねぇ。実はさ、ちょっと桐谷くんに任せたい仕事、あるんだよね」
立花さんが椅子をひとつ、僕の机の脇に引き寄せた。
……任せたい、仕事。
心の中で僕はその音を確認した。
一年前の僕なら、その言葉にたぶん素直に喜んでいた。けれど今朝の僕は少しだけ慎重に、立花さんの顔を見た。
「実はさ、みなと信用金庫の窓口端末の追加機能の提案、書かないといけなくて。それ、桐谷くんに書いてもらいたいんだよ」
「提案、というと」
「ああ、ほら、お客様にこういう機能を入れたらどうですか、っていう、ちょっとした提案書。Confluenceのテンプレに沿って書いてくれたら十分」
立花さんがSlackで、Confluenceのページのリンクを送ってきた。
画面を開くと、テンプレートには「背景」「目的」「想定機能」「概算工数」「リスク」の五段、項目が並んでいた。
「桐谷くん、君なら書けるよ」
立花さんが肩をぽん、と軽く叩いた。
「俺がフォローするから、安心して」
……俺がフォローするから。
心の中で僕はその言葉をもう一度確かめた。
その言葉自体に嫌な響きがあったわけではない。けれど、いつもの立花さんの口癖が、いつもの軽さで、いつもの順番で、僕の耳に届いた。
「分かりました。期限は」
「来週の金曜まで。途中で見せてくれたら、レビューするから」
「はい」
「いい感じに頼むよ」
立花さんは笑顔のまま自分の席に戻っていった。
……いい感じに。
心の中で僕は、その「いい感じ」の意味をしばらく考えた。
その日から一週間、僕はその提案書に真剣に取り組んだ。
顧客のみなと信用金庫の窓口端末は、僕が一年目の終わり頃に小さな改修で関わった案件だった。窓口の担当者が紙の整理券と画面の番号を一致させるところで、ひと手間多いという課題があった。立花さんからもらったお題は、そのあたりをもう少し改善する機能の追加だった。
会社の中で白瀬さんに、ちょっとした技術的な質問を三回ほどした。
白瀬さんはいつも通り淡々と答えてくれた。「桐谷くん、その視点で書くなら、リスク欄に既存の帳票出力との整合性、書いたほうがいい」とひとつだけ補足してくれた。僕はメモを取り、それを反映した。
諏訪マネージャーには内容そのものは見せなかった。けれど、廊下ですれ違ったときにひとこと、「立花さんから任された案件、進んでます」と報告だけは入れた。諏訪さんは「うん、何か困ったら声をかけて」といつもの調子で頷いた。
平日の夜、寮の部屋でも少しだけ手を動かした。
日曜日、僕は朝、桜並木通りの遊歩道を歩きながら、頭の中で提案書の構成を二度ほど組み直した。歩きながら考えると、机の前で詰まっていた箇所の繋がりがふっとほどけた。
火曜日の夜、立花さんにドラフトを見せた。
「お、いいね、いいね」
立花さんは十秒くらいでスクロールして、そう言った。
「概算工数のところ、もう少し強気に書いて。あと、リスク欄、半分くらいに圧縮していいよ」
「半分、ですか」
「うん、リスク書きすぎるとお客さん引いちゃうから。要点だけ」
「分かりました」
……リスクを、半分。
心の中で僕はその指示をひと呼吸、噛んだ。
白瀬さんが補足してくれた「既存の帳票出力との整合性」も、その圧縮の対象になりそうだった。けれど、立花さんの言うことにもたぶん半分くらいは合理性があった。提案書の段階でリスクを並べすぎると、確かにお客様の判断は鈍る。
水曜日、僕はリスク欄の表現を整理し直した。重要度の低い項目は省き、白瀬さんに教えてもらった整合性の件は別の言葉で残した。
木曜日の夜、最終版を立花さんにSlackで送った。
「ありがとう、これで出すよ」
立花さんからすぐ返信が来た。
「お疲れさま」
その夜、僕は寮で少しだけほっとした気持ちで、ノートにこう書いた。
「初めての、提案書らしいもの。立花さん、ありがとう、と一応書く」
ペンを置いて、一度、自分の文字を見つめた。
まだ何か引っかかりが、胸の奥に薄く残っていた。
けれど、その夜はその引っかかりの正体まではっきり分からなかった。
翌週の月曜日、チームAの定例会議。
第三会議室、いつもの席順。
諏訪マネージャーが議長。チームAのメンバーが八人ほどテーブルを囲んでいた。僕の右隣に白瀬さん、向かいに立花さん、その隣に古川さん、もう少し奥に森山くん。
森山くんは会議のテーブルに着くのがまだ慣れていなかった。手帳を出すタイミングが、半拍ずれていた。
議題のひとつに「みなと信用金庫・窓口端末・追加提案の進捗」があった。
諏訪さんがいつもの落ち着いた声で、その項目を読み上げた。
「立花さん、進捗、お願いします」
「はい」
立花さんが笑顔で立ち上がった。
「先日のみなと信用金庫さんへの追加提案、僕がまとめました」
……僕が、まとめました。
心の中で僕は止まった。
そのときの自分の動きを、僕はよく覚えている。
まず、息をするのを忘れた。次に、手の中のペンが軽く机に当たって、こ、と短い音を立てた。続いて目が、自然と立花さんではなく、テーブルのホワイトボード側の壁のほうを見ていた。
……僕が、まとめた。
もう一度、心の中で確認した。
顔はたぶん、表情を保っていた。一年分の社会人の表情筋が、こういうときに勝手に平坦さを保ってくれた。
立花さんは続けて、提案の概要を説明していた。窓口端末の、紙の整理券と画面の番号を一致させる仕組み、概算工数、リスクの整理。リスクの表現は、僕が最終版で整理し直した順、ほぼそのままだった。
白瀬さんが僕のほうをちらりと見た。
ほんの一瞬。
目が合ったわけではない。けれど横顔の角度で、白瀬さんがたぶん僕に向かって視線を一回、振ったのが分かった。
その視線は何かを「分かっている」目だった。
古川さんはいつも通り、椅子の背もたれに沈み込んでいた。手元のペンで机の縁を、こつこつと軽く叩いていた。
森山くんは議事の流れを必死で追っていた。
諏訪マネージャーは立花さんの説明を最後まで静かに聞いた。
説明が終わると、諏訪さんはいつものペースで口を開いた。
「立花さん、ひとつ確認していいですか」
「はい」
「この提案、誰が書きました?」
……誰が、書きました。
心の中で僕はその問いを聞いた。
諏訪さんの声はいつもより、ほんの半音だけ低かった。
その低さは怒鳴り声ではない。けれどテーブル全体の空気をふっと一度だけ止める音だった。
「えっと、僕と、桐谷くんで」
立花さんは一拍、慌ててから、そう訂正した。
「桐谷くんが、たぶんドラフトの最初の部分は結構、書いてくれて、それを僕が、こう、まとめる感じで」
「分かりました」
諏訪さんはそれ以上、その場で深く追及しなかった。
「桐谷くん、立花さん、二人でお疲れさまです」
「あ、諏訪さん、ひとつ補足」
立花さんが、急いで続けた。
「この提案の実装とリリース計画も、桐谷くんに進めてもらおうかと。九月の本番リリースで」
「リリース判断、立ち会いは」
「ああ、白瀬さんがレビュー、桐谷くんが現場担当で進める形で」
諏訪さんは半秒、目を細めた。
「立花さん、ご自身は」
「あ、はい。僕は別案件で立ち会いが厳しい時間帯もあるので、レビューと現場は二人で」
「分かりました。リリース体制は、私のほうで別途整理します」
諏訪さんはいつもの落ち着いた声でそう言って、次の議題に進んだ。
追及しなかったけれど、追及しなかったことそのものが、たぶんひとつの態度だった。
……諏訪さんは、見ていた。
心の中で僕はその音を確かめた。
会議が終わって、会議室の外に出た。
立花さんは僕のほうを見ずに、足早に自分の席に戻っていった。
古川さんは、ぼーっと給湯室のほうに向かった。
森山くんは議事録の体裁を、白瀬さんに確認しに行っていた。
僕はしばらく廊下の壁の前に立っていた。
頭の中で、何かが整理されようとしていた。
怒り、ではなかった。
悔しさ、でもたぶんなかった。
ただ、薄いざらっとした感触が胸の奥に残っていた。
白瀬さんが廊下の角を曲がってきた。
「桐谷くん、お疲れさま」
いつもの淡々とした声。
「お疲れさまです、白瀬さん」
「ちょっと、休憩室、いきませんか」
白瀬さんが目で、給湯室の隣の小さな休憩室を指した。
休憩室は、丸テーブルがひとつと椅子が四つの狭い部屋。コーヒーマシンと、ウォーターサーバー。窓の外には、桜の散った後の青い葉桜。
白瀬さんはコーヒーマシンから紙コップにコーヒーを二つ淹れて、ひとつを僕に渡した。
「桐谷くん、ひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「あの提案、どこからどこまで桐谷くんが書きましたか」
白瀬さんの問いはいつもまっすぐだった。
僕は正直に答えた。
「全部、書きました。立花さんからのフィードバックは、リスク欄を圧縮、概算工数を強気に、その二つだけです。リスクのうち一件は、白瀬さんから教えてもらった整合性の件で、それは別の言葉で残しました」
「やっぱり」
白瀬さんはコーヒーを一口、飲んだ。
「桐谷くん、もうひとつ聞いてもいいですか」
「はい」
「どうしてあの会議で、何も言わなかった?」
その問いは、責めているのではなかった。むしろただ、確認していた。
「言えなかった、というより、その場で何を言うのが正しいか、自分の中で整理が追いつかなかったです」
「うん」
「諏訪さんが立花さんに『誰が書いたか』を確認してくれて、立花さんが自分から『桐谷くんも』と訂正したので、結果としてはその場で認識は修正されたと、思います」
「うん」
「だから、いま僕はたぶん大丈夫です」
言いながら、僕は自分の声が半音、震えそうになるのを深呼吸で抑えた。
白瀬さんはしばらく黙って、紙コップを両手で包んでいた。
「ひとつだけ私から言ってもいいですか」
「はい、お願いします」
「あの提案、文章のスタイル、桐谷くんのものでした」
「……スタイル、ですか」
「うん」
白瀬さんはいつものように淡々と続けた。
「リスク欄の項目の並べ方、目的のところの主語の置き方、概算工数の単位の書き方。どれも桐谷くんが私のレビューでいつも気にしている所作。あれは桐谷くんの癖です」
「気づきませんでした、自分では」
「だから私は会議で、桐谷くんを一回、見ました」
「あの目線」
「うん」
……白瀬さんは、見抜いていた。
心の中で僕はその事実をゆっくり噛んだ。
白瀬さんはコーヒーをもう一口、飲んだ。
「もうひとつだけ、いいですか」
「はい」
「諏訪さんも、たぶん気づいていた」
「あの確認の質問」
「うん。あの問いの仕方は、誰が書いたか本当に分かっていない人の問いではないです」
「……」
「桐谷くん、見ている人はいます」
白瀬さんの言葉は短かった。
短かったから、たぶん僕の中に深く入った。
……見ている人は、いる。
心の中で僕はその言葉をもう一度、撫でた。
休憩室の窓の外、葉桜の影がベンチのあたりでゆっくり揺れていた。
「白瀬さん、ありがとうございます」
僕は頭を軽く下げた。
「桐谷くん、ひとつだけ釘を刺してもいいですか」
「はい」
「立花さんの話を今後引き受けるときは、メールか、Slackか、Confluenceの履歴で、誰が書いたか必ず痕跡を残してください」
「はい」
「証拠を残すのは、相手を疑うためではないです」
白瀬さんはそう言って、ちょっとだけ口の端を緩めた。
「自分を守るためです」
「……はい」
白瀬さんは紙コップをゆっくり、テーブルに置いた。
「コーヒー、ご馳走さまでした」
「いえ、こちらこそ」
白瀬さんは休憩室を出る前に、もうひとつこう付け加えた。
「私はこれからも桐谷くんのドラフトの初稿、見ますから。気軽にレビュー依頼、出してください」
「はい、ありがとうございます」
白瀬さんがドアの向こうに消えた。
僕はしばらく、ひとり丸テーブルに残っていた。
紙コップの中のコーヒーは、もう半分以上冷めていた。
……冷めるコーヒーも、たぶん観察。
心の中で僕はいつもの調子でひとつ、ツッコミを入れた。
窓の外、葉桜の枝がゆっくり風で、また揺れた。
その夜、寮の自分の部屋で、僕はノートを開いた。
今朝の一行、「初めての、提案書らしいもの。立花さん、ありがとう、と一応書く」を見つめた。
その下の行にペンを走らせた。
「今日、僕は、裏切り、を見た」
書いてから、ひと呼吸、置いた。
もう一度ペンを動かした。
「しかし、見ている人もいる」
二行、書いて、ノートを閉じた。
窓の外で夜の風が、桜並木通りを撫でて通り過ぎた。
桜の花弁はもう、ほとんど地面の上で乾いていた。
……二年目、仕事の質を、見る。
心の中で僕はもう一度、今年のテーマを撫でた。
仕事の質というのはたぶん、コードの質や設計の質だけではない、という諏訪さんの言葉が、その晩、夢の手前のあたりで、ふっともう一度、頭の中を通った。




