第32話「森山翼、二つ隣の席に着く」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
四月の終わり、月曜日。
三週間の研修が明け、先週の金曜に配属が発表された。今日から新卒たちが、それぞれの配属先に着任する。三階のフロアでは朝からいつも通りの業務が進んでいた。
二週間ほど前の日曜、僕は市内の試験会場で、応用情報を受けてきた。朝の九時半から、夕方まで。午前の四択は、手が動いた。午後の記述は、半分は書けて、半分は鉛筆が止まった。手応えは、正直、分からない。発表は六月の末。それまで、合否の二文字は宙吊りのままになる。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。試験会場の長机で、僕は去年の僕より、ちゃんと受けに来ていた。取らされる試験ではなくて、受けに行く試験だった。それだけは、結果が出る前から、もう決まっていた。
午前十時を過ぎたあたりで、廊下のほうからエレベーターの音が聞こえた。続いて、新卒の一人がフロアの入口に到着した気配があった。
ぱたぱたと、慣れない革靴の音。
諏訪マネージャーが自分の席を立った。
「桐谷くん、ちょっとこっちに」
諏訪さんが手で合図した。
僕は席を立ち、入口のほうへ歩いた。
森山翼くんが緊張した顔でフロアの入口に立っていた。背筋はまっすぐ伸びている。それでもスーツの新しさと、社員証のストラップを握る指の白さが、緊張を隠せていなかった。
「桐谷くん、紹介します。森山翼くん。今日からチームA」
諏訪さんがいつもの落ち着いた声で言った。
「関西の大学を情報系で卒業しました。今日から君の二つ隣の席で働きます」
森山くんが深々と頭を下げた。
「森山翼です。兵庫から来ました。本日からお世話になります。よろしくお願いします」
声に関西のイントネーションは混じっていなかった。研修で標準語に切り替わったのか、もともとそういうタイプなのか、僕にはまだ分からなかった。
「桐谷蒼太です。よろしくお願いします」
僕も頭を下げた。
下げながら、自分の声がほんの少しだけ硬かったことに気づいた。一年前、配属初日の自分の声と、ほぼ同じくらいの硬さだった。
諏訪さんが続けた。
「桐谷くん、OJTの一部を君に担当してもらおうと思っています。日々のコードレビューの第一段階、Slackの簡単な質問対応、業務の進め方の説明、そのあたりから」
……OJTの、一部。
心の中で僕は止まった。
(僕が、教える側?)
胸の中でひと呼吸、何かが宙に浮いた。
「分かりました」
声に出してから、自分の声が思ったより落ち着いていたことに、自分でも少し驚いた。
「ありがとう。詳しいことは後で別途、相談しましょう」
諏訪さんはそう言い、森山くんのほうに向き直った。
「森山くん、午前中は人事の手続きを済ませて、午後からこのフロアに来てください。最初の数日は桐谷くんから業務の流れを聞きながら、私のところにも気軽に来てください」
「はい、よろしくお願いします」
森山くんがまた頭を下げた。
彼が一度頭を下げ終わるまでに、僕はひとつだけ決めた。
……名刺、自分から渡そう。
心の中で決めた。
あの三月の最後の土曜日、城跡公園の土塁の上で決めた「僕から、声をかけよう」が、まだ消えていなかった。先輩らしい言葉はまだ言えない。けれど、名刺の交換なら僕からでも始められる。
胸ポケットから名刺入れを出した。
「森山くん、名刺交換、よかったら」
僕は彼に自分から声をかけた。
森山くんがぱっと顔を上げた。
「あ、はい、すいません、まだ慣れてなくて」
彼は研修で習ったらしい所作を丁寧にやり直そうとした。両手で名刺を持ち、わずかに身を傾けながら差し出した。
「森山翼です」
「桐谷蒼太です。チームA、二年目です」
二年目、と口にしたとき、僕は自分の口の中の音をもう一度確かめた。
……二年目。
心の中でその音を確認した。
しっくり来るような、来ないような、ちょうどその間。
名刺を受け取って、しばらくその文字を見つめた。「ヨキエル株式会社 受託開発部 森山翼」と、新しいインクの匂いがしそうな印字。一年前の僕の名刺と同じレイアウト。たぶん活版の発注先も同じ。
森山くんが僕の名刺を両手で受け取った。「桐谷蒼太」の名前を、彼は二秒ほど見つめていた。
その二秒の長さに、僕は彼の緊張を感じた。
「森山くん、最初の1on1、僕からお願いしてもいい?」
また自分から言葉が出た。
「明日か明後日、三十分くらい時間、もらえる?」
森山くんは少し驚いた顔で僕を見た。
「あ、はい、もちろん、ありがたいです」
「Slackで日程、後で送るね」
「お願いします」
諏訪さんはその短いやり取りを横で静かに聞いていた。
マネージャーの表情に目立った変化はなかった。けれど、口の端がほんの少しだけ緩んでいた気がした。
森山くんが人事のほうに戻っていった後、諏訪さんが僕にひと言、声をかけた。
「桐谷くん、午後、十五時から三十分、1on1、空けてもらえますか」
「あ、はい、空けます」
「事前の準備はいつも通り、特に必要ありません。森山くんの件と、君の今年のテーマ、そのあたりを話せたらと思います」
「はい、よろしくお願いします」
諏訪さんはそう言い、自分の席に戻っていった。
席に戻る背中を見ながら、僕はもう一度ノートを開いた。
午前の最初の一行、「二年目、仕事の質を見る」。
その下にペンを走らせた。
「森山さんに、自分から名刺、自分から1on1」
書きながら心の中で笑いがこぼれそうになった。
(僕、まだ昨日まで新人だった気がするのに)
心の中の声がつぶやいた。
昼休み、僕は社員食堂に一人で行った。
葉山さんはチームBで打ち合わせ、丸山くんは外回り、黒木とアユシュさんは組込みチームのフロア、杉本さんはパッケージ事業チーム、それぞれ別の場所だった。
日替わり定食のトレーをカウンターから受け取って、窓際の席に座った。
味噌汁の湯気がゆっくり立ち上った。
……森山さん、最初の人。
心の中で僕はつぶやいた。
白瀬さんは、僕にどう接してくれたか。
頭の中で、一年前のレビューの夜が自然と浮かんだ。
白瀬さんは僕の最初のプルリクエストに二十二件の指摘をくれた。指摘の文章はいつも敬語で淡々としていて、何が問題で、なぜ問題で、どうすれば良くなるかが、三段で書かれていた。「ここはなぜ、この方針ですか」と、選択の理由を質問してくれることもあった。決して答えを先に渡さなかった。
あれが本物の任せ方、本物のレビュー、たぶんそういうものなのだろう。
森山くんに、僕は何をどう伝えるべきか。
答えはまだ出なかった。
ただ、白瀬さんの距離の取り方と諏訪さんの口数の少なさ、その二つを自分のやり方の中に少しずつ写し取っていくことから始まる気がした。
味噌汁をひと口、飲んだ。
出汁の塩気が口の中で午前の緊張をふっとほどいた。
午後三時、僕は会議室の前でファイルを胸に抱えて立っていた。
諏訪マネージャーとの、二年目で最初の1on1。
一年前の六月、配属から五週目に、僕は同じように会議室の前に立っていた。あのときの僕はノートの中に「諏訪さんに聞いてみたいこと」を箇条書きにして、三つ目まで書いてから二つは消した。
今日はノートの中に何も書いていなかった。
一年で僕は少しだけ、自分から話すようになっていた。
会議室の扉が開いた。
「桐谷くん、どうぞ」
諏訪さんの声。
いつもの、低めで揺れない声。
会議室はいつもの第三会議室。白いテーブル、白いホワイトボード、薄いブルーの椅子。窓の外、桜並木通りの桜はもう散って、若葉が明るい黄緑色に伸びはじめていた。
諏訪さんが向かいの椅子に座った。
白いシャツに、グレーのジャケット。袖口にはいつもの細いシルバーの腕時計。
「桐谷くん、二年目、お疲れさま。今日から、後輩のいる二年目ですね」
「お疲れさまです」
「まずは、森山くんの件からいきましょうか」
諏訪さんはいつもの順で話を始めた。
「OJTの一部、君に担当してもらいたいと朝、お伝えしました。具体的には、コードレビューの第一段、Slackでの質問対応、業務の進め方の共有。この三つ」
「はい」
「白瀬さんが全体のOJTメンターを引き続き担当します。君はその下、補佐の位置。森山くんから見ると、白瀬さんが先生、君がもう少し近い先輩、というイメージ」
「分かりました」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「君から見て、白瀬さんは君にどう接してくれましたか」
諏訪さんの目がまっすぐ僕に向いていた。
その質問は、一年前の最初の1on1の延長のような響きを、僕の中で確かに鳴らした。
……白瀬さんは。
心の中で僕はゆっくり考えた。
「指摘の数は、たぶんいまでも社内で一番多いと思います」
まず、そこから話し始めた。
「でも、その指摘はいつも敬語で淡々と書かれていました。何が問題か、なぜ問題か、どうすれば良くなるか。三つの段で、丁寧に」
「はい」
「答えを先に渡さない、というのも印象的でした。『ここはなぜ、この方針ですか』と、僕の選択の理由をいつも聞いてくれました」
諏訪さんが小さく頷いた。
「もうひとつ、ありますか」
「白瀬さんは、僕がレビューに反論しても声を荒げなかったです」
言いながら、僕はその音をもう一度自分の耳で確かめた。
「『なるほど、その視点もありますね。ただ、この観点では』と、いつも僕の言葉を一度受け止めてから続けてくれました」
「うん」
「僕はたぶん、その三つを森山さんに写し取りたいと思っています。指摘の段、答えを先に渡さないこと、声を荒げないこと」
話してから、僕は自分の言葉が思ったよりまとまっていたことに気づいた。
昼休みの社員食堂で湯気を見ながら考えていた断片が、いまひとつの形になって口から出た。
諏訪さんはしばらく黙っていた。
その沈黙は嫌な沈黙ではなかった。むしろ相手の言葉をゆっくり噛んでいる、そういう沈黙だった。
「桐谷くんの今の話、私は二つ、嬉しかったです」
諏訪さんが口を開いた。
「ひとつめ。白瀬さんのスタイルを、君がちゃんと言語化していること」
「はい」
「ふたつめ。それを、自分のものとして写し取りたい、と言ったこと」
諏訪さんの目がほんの少しだけ和らいだ。
「『真似する』ではなくて、『写し取る』。この言葉の選び方、たぶん君の中にもう何かが芽生えています」
僕は黙って頷いた。
頷きながら、自分の耳の奥で何かが小さく温かくなる音を聞いた気がした。
「ここから、君の今年のテーマの話に移ってもいいですか」
「はい、お願いします」
「君は今年、何をしたい?」
諏訪さんの問いはいつも短かった。
短いけれど、その短さの裏にたくさんの含みがある。一年前は、その含みに僕は気づけなかった。
今日、僕はノートのことを話した。
「二年目の初日、四月一日の朝に、新しいノートに書きました」
「うん」
「『二年目、仕事の質を見る』と」
諏訪さんはもう一度頷いた。
「仕事の質、を、見る」
「はい」
「具体的には、何を見るつもりですか」
その先はまだ僕の中ではっきりしていなかった。
けれど、口に出した。
「分からないです。まだ。たぶん一年かけていろいろ書いて、見えてくるものを見るつもりです」
「いいですね」
諏訪さんが初めて、笑顔の手前のような表情を見せた。
「焦って答えを決めない、というのはそれ自体がひとつの態度です」
「ありがとうございます」
「諏訪さん、ひとつ、僕からも話してもいいですか」
「どうぞ」
「去年の六月に薦めてもらった二冊、年末に読み終えました」
「『Effective Java』と『Spring 徹底入門』、ですね」
「はい。一日十ページずつ、半年かけて」
「うん。続けましたね」
「それで、次に学びたいものが、ひとつあります」
一年前の僕なら、次の課題も諏訪さんから渡されるのを待っていた。今日は自分から口にした。
「去年の勉強会で、遠野CTOがSWEBOKという地図の話をされました」
「ソフトウェアエンジニアリングの知識体系、ですね」
「はい。あれを自分の手元に置いて、学んでみたいです」
去年の夏、勉強会の帰りに、僕はノートにその四文字だけを書いた。地図を持つと迷ったときに楽になる、と。あの一行が、ずっと薄く残っていた。
「読み物として通しで読む、というより、地図として」
「地図として」
「迷ったとき、自分がいまどのあたりにいるのか、確かめられるように」
諏訪さんはしばらく、その言葉を噛んでいた。
「いいと思います。ひとつだけ」
「はい」
「読む、ではなくて、使う」
「使う」
「うん。十八の領域を全部覚える必要はないです。今日触った仕事が、地図のどの区画にあたるか。その都度それを引けば、それでいい」
「はい、ありがとうございます」
「君の今年のテーマ、仕事の質を見る。その地図として、ちょうどいいかもしれません」
「ひとつ、私から補足してもいいですか」
「はい」
「『質』というのは、コードの質だけではありません」
諏訪さんはそう言ってから、テーブルの上で両手を軽く重ねた。
「設計の質。レビューの質。会議の質。1on1の質。報告の質。判断の質。たぶんいろいろあります」
「はい」
「もうひとつ、君に見てほしい質があります」
「何ですか」
「事業の質」
……事業の、質。
心の中で僕はその言葉を繰り返した。
まだその輪郭ははっきりしなかった。けれど、何か大きな響きがその四文字の奥にある気がした。
「来月、別の1on1で、私から君に、ちょっと違う話をします」
諏訪さんはそう言って、いつもの落ち着いた目で僕を見た。
「うちのチームの売上、解約率、顧客満足度。村瀬社長の方針も含めて。君の書くコードと、それらがどう繋がっているか」
「はい、ぜひお願いします」
「事業の質を見るための、最初の一歩として」
「ありがとうございます」
「今日はこれくらいで」
諏訪さんはいつもの所作でメモを閉じた。
「森山くんの件、何か困ったら白瀬さんでも私でも、いつでも声をかけてください」
「はい」
「焦らずに」
最後の言葉は低く、短かった。
けれど、その短さの裏にたぶん、もうひとつ何かが含まれていた。
……守る、と、たぶん言われている。
心の中で僕はそれを受け取った。
会議室を出るとき、諏訪さんはいつも通り、自分の手帳を脇に挟んで先に廊下に出た。
僕も後に続いた。
廊下の窓から、桜並木通りの方角が見えた。
桜はもうほとんど散って、若葉の緑が午前より少しだけ濃くなっていた。
その日の退社後。
寮の自分の部屋でノートを開いた。
四月一日の朝の一行、「二年目、仕事の質を見る」。
昼の追記、「森山さんに、自分から名刺、自分から1on1」。
その下に二行、書いた。
「白瀬さんのスタイルを、写し取る。真似ではなく」
「事業の質、というものが、ある、らしい」
書いてから、僕はペンを置き、私物のスマホで同期のLINEグループを開いた。
いつも、葉山さんと丸山くんと黒木とアユシュさんと杉本さん、それから僕、六人でたわいない話をする場所。
短く、僕はこう打った。
「後輩、できた」
送信してから画面を見つめた。
すぐに葉山さんから返信が来た。
「お、桐谷くん、先輩じゃん」
続けて丸山くんから。
「マジっすか、おめでとうっす」
杉本さんが絵文字なしで丁寧に。
「桐谷さん、おめでとうございます」
アユシュさんから。
「蒼太、congratulations。後輩、大事にね」
最後に黒木から、二文字だけ。
「うん」
その二文字を、僕はしばらく見ていた。
黒木はいつもこうだった。短いけれど、必ず何かひと言、置いてくれる。
……六人、いる。
心の中で僕はつぶやいた。
画面を閉じて、もう一度ノートのほうを見た。
ペンを取って、最後にもう一行、書いた。
「先輩、ということ。たぶんここから、一年で、しっくり来るようになる」
書きながら、窓の外で夜風が桜並木通りをゆっくり撫でていた。
葉桜の若い緑が、街灯の下でかすかに揺れていた。




