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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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プロローグ「2年目、桜並木通りの新人たち」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 四月一日、火曜日。


 桜並木通りの桜はまだ満開を迎えていなかった。


 蕾はなかばほど膨らんでいた。あと一日か二日。風が南から吹けばその日のうちに開く。地元のニュースは前の晩からそう伝えていた。


 寮を出るとき、玄関の段差でふっと足が止まった。


 ……二年目の朝。


 胸の奥で僕はその言葉をひとつ確かめた。


 空気はまだ冷たかった。けれど一年前の四月一日の朝より、ほんの少しだけぬくもりがある気がした。盆地の朝はいつもこんなふうに、冬の名残と春の予感を一緒に運んでくる。


 桜並木通りに出た。


 通りの両側に桜の木が一列。蕾の色は空に向かってまだ淡い。歩きながらつい上を見上げた。一年前の自分も、ちょうどこんなふうに空を見上げて歩いていた。


 あのときは足元のスーツのズボンの裾を、二度ほど直しながら歩いた。


 今朝の僕は裾を直していなかった。スーツも靴も、もう一年分、僕の体に馴染んでいた。


 


 バス停に着いた。


 いつもの場所だった。


 そこに見慣れない若い男性が二人、立っていた。


 ひとり目はスーツが新しすぎた。襟元のシワの入り方が、まだ体に合っていない。袖口から白いシャツのカフスが余分に出ていた。


 ふたり目は革靴がぴかぴかだった。底に新品の判子のような艶があった。歩くと、土埃ひとつついていない靴の裏がちらりと見えた。


 ……今日、入社式。


 僕はそうつぶやいた。


 四月一日、火曜日、ヨキエル株式会社の入社式。今年の新卒は五人入社すると諏訪マネージャーから聞いていた。寮への引っ越しは三月の最後の土日に済ませる人が多いとも聞いた。あの土曜日に城跡公園の土塁の上から見えた、桜並木通りを歩いていた新卒も、たぶんこの中にいる。


 二人は黙って立っていた。


 黙りながらも互いに少しだけ視線を合わせていた。たぶん、寮で何度か顔を合わせたのだろう。けれどまだ「同期」と呼び合えるほどには、お互いの名前を覚えていない。


 ふたり目の男性がぽつりと言った。


「あの、入社式って、何時からでしたっけ」


「九時半だったと思います、確か」


 ひとり目が答えた。声がほんの少しだけ震えていた。


「あ、ですよね。九時半、九時半」


 ふたり目が二回繰り返した。たぶん自分に言い聞かせていた。


 ……九時半を、二回。


 心の中で僕はちょっと笑った。一年前の自分も、たぶん同じくらい何かを二回ずつ言っていた。


 僕は離れた位置でその会話を聞いていた。


 ……一年前の僕。


 もう一度つぶやいた。


 一年前、僕は同期と一緒に特急に揺られて港川市に来た。バスの中で葉山さんが声をかけてくれて、何とか会話が始まった。あのときの僕も、たぶんこの二人と同じくらい、緊張で言葉が一拍ずつ詰まっていた。


 


 バスが来た。


 オレンジ色の地方バス。一年前と同じ車体だった。塗装は同じ。ドアの開く音も同じ。一年前と違うのは、僕がもう運賃の小銭を慌てて探さなくていいということだった。ICカードをタッチして、慣れた位置に立った。


 二人の新人もバスに乗った。


 空いていた席に二人は並んで座った。


 僕は通路を挟んだ後ろの席に座った。


 バスが走り出した。


 窓の外を桜並木通りの蕾が流れた。


「入社式のあと、研修って、三週間でしたっけ」


 ふたり目が小声で聞いていた。


「はい、三週間。配属はそのあとって、案内に書いてありました」


 ひとり目が答えた。


「あ、そうでしたよね。三週間、三週間」


 ふたり目が小さく頷いた。


 その頷きはまだ「初対面の頷き」だった。


 僕は窓の外を見たまま、その音を耳の端で聞いていた。


 ……ぴくっと、しない。


 心の中で自分のことを確認した。


 一年前なら、たぶん横の知らない人の会話に体が固くなって、息を浅くしていたかもしれない。今朝の僕は、横で初めての会話が始まっていても呼吸が乱れなかった。


 ひとつだけ、胸の中で別のものが揺れていた。


 ……先輩、って、たぶん、僕も。


 僕はそう言いかけて、その先を止めた。


 まだしっくり来ていなかった。


 いずれヨキエルの三階のフロアにも、今年の新卒の誰かが立つ。三週間の研修が明けて、配属が決まったあとに。その中の一人がもしかしたらチームAに来る。諏訪マネージャーから「研修が明けたら、君にも一部のOJTを任せたい」と前の週の1on1で言われていた。


 補佐です、と諏訪さんは付け足した。白瀬さんがメインで、僕はその下で第一段の質問を受ける。それでも、誰かにとっての「聞ける先輩」に、僕が回る。


 ……去年の僕は、聞く側だった。


 白瀬さんに、諏訪さんに、間宮さんに、いくつ質問を投げただろう。その一つ一つに、誰かが手を止めて答えてくれた。来月から、その役のはしっこに、自分が立つ。


 ……ちゃんと、答えられるのかな。


 ……先輩。


 もう一度、その言葉を内心で撫でた。


 しっくり来ない。


 でも、しっくり来ないからといって立場が変わらないわけではなかった。


 ……一年目のあの土曜日に、僕は決めた。


 別のことが浮かんだ。


 三月の最後の土曜日、城跡公園の土塁の上でノートを閉じて、寮への帰り道に決めたことがあった。「僕から、声をかけよう」「観察するだけの一年は、今日で終わる」と。あの言葉が今朝も、まだ心のどこかにあった。


 今日もたぶん、消えていない。


 バスの揺れに合わせて僕は小さく頷いた。


 


 会社の最寄りのバス停で僕は降りた。


 二人の新人も降りた。


 彼らは入社式の会場である隣のビル八階の研修室に向かう。僕は三階のフロアに向かう。エレベーターホールで彼らと僕の行く階が分かれた。


 エレベーターの中で、僕はネクタイの結び目を軽く指で押さえた。一年前はここでネクタイを直していた。今日は押さえるだけで済んだ。


 三階で扉が開いた。


 いつもの受託開発部のフロア。


 いつもの机の並び。いつもの蛍光灯の白い光。いつものMacBookの起動音。


 新卒の姿は、まだここにはなかった。今日から三週間、彼らは隣のビル八階の研修室で過ごす。一年前の僕らがそうだったように。このフロアにその誰かが立つのは、研修が明けて配属が決まってからだ。


 ……たぶん、ひとりは、チームAに来る。


 そう思った。


 諏訪マネージャーの話では、今年の新卒のうち関西の大学を出た男性が一人いるらしい。その人がチームAに来るのかどうかは、まだ分からない。


 ……来たら、自分から声をかけよう。


 心の中でひとつだけ決めた。


 決めてから僕は自分の席に着いた。


 MacBookを起動した。


 


 起動の音を聞きながら、リュックからノートを出した。


 一年目に使い切ったノートではなく、四月一日の朝のためだけに用意した新しいノート。表紙はまた淡いグレー。一年前と同じサイズ、同じメーカー、ほんの少しだけ違う色。


 最初のページを開いた。


 白紙だった。


 ペンを取った。


 ゆっくり書いた。


「二年目、仕事の質を見る」


 書いてから、しばらくその一行を見つめた。


 一年前のノートの最初の一行は「明日から観察を始める」だった。


 今朝の一行はそれより少しだけ長かった。


 ……仕事の質を、見る。


 心の中でもう一度、自分に言い聞かせた。


 質、と書いて、僕は何を見たいのか、まだはっきり言葉にできなかった。


 一年目は、たぶん「ある」かどうかを見ていた。動くか、こなせるか、終わるか。書いたコードが本番に乗るかどうか。そこに必死だった。


 二年目に見たいのは、それとは少し違う何かのはずだった。同じ動くコードでも、いいコードと、そうでないコードがある。同じ終わった仕事でも、次につながる終わり方と、そうでない終わり方がある。その差が、たぶん質なのだと思う。


 でも、いいコードって、何だ。質って、どこを、どう見るんだ。


 机の引き出しには、応用情報のテキストが入っている。試験は、二週間後の日曜日。命じられた試験で、自分のために受ける試験。それも、たぶん「質」の入り口のひとつだった。


 書いた本人が、まだその一行に追いついていなかった。


 たぶん一年かけてノートにいろいろなことが書かれて、その上でもう一度この一行を読み返したときに、少しだけ意味が見えるはずだった。


 ノートを閉じた。


 顔を上げた。


 窓の外、隣のビルの八階のあたりに目をやった。あの研修室で、今ごろ今年の新卒が、一年前の僕らと同じように緊張して並んでいるはずだった。


 諏訪マネージャーは奥の自分の席で、何かの資料に目を通していた。研修が明ければ、あの新卒の誰かがこのフロアに来る。


 ……始まる。たぶん、もうすぐ。


 僕はそう感じた。


 二年目の朝。


 桜並木通りの蕾は、今日のうちにたぶん半分以上が開く。


 窓の外の空は、盆地の四方の山に囲まれて、ぐるりと薄い青だった。


 


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