断章Ⅶ「中堅四人組のある夜、立花・古川・赤坂・大沢」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、ある秋の夜、立花雄一、古川真治、赤坂拓真、大沢祐介の四人の同じ夜を、それぞれの一人称で並列に描いています。蒼太の視野には入らない、彼らの内面の物語です。
一、立花雄一の夜
夜の十時、家のリビングのソファに僕は深く沈み込んでいた。
ネクタイはもう外していた。スーツのジャケットも椅子の背に掛けてあった。シャツのいちばん上のボタンは外していた。
テレビは点いていたが、音は消してあった。画面にはニュース番組の深刻そうな顔のアナウンサーが何かを話していた。
妻は子供を寝かせ終わって、台所で洗い物をしていた。皿のぶつかる音。蛇口の水の音。それから妻の軽いため息。
ため息の意味は僕にはよく分からなかった。
いや、たぶん分かっていた。けれど分かりたくなかった。
今日、上司からこう言われた。
「立花、君、来年の課長候補、外れたから」
その一行を僕は社内会議室のホワイトボードの前で聞いた。
上司は別に悪意で言ったわけではなかった。むしろ淡々と事務的に伝えてくれた。
「君、まだ三十六だし、課長は急がなくていい」
そう付け加えてもくれた。
でも「課長は急がなくていい」というのは、たぶん外れた人に言う言葉だった。
僕は笑顔を作って答えた。
「了解です。来期はまた頑張ります」
社会人として模範的な返事をしたと思った。
帰り道、駅のホームで僕はその「了解です」を口の中でもう一度繰り返した。
了解。
了の字も解の字も僕の中ではまだ解けていなかった。
ソファの上で僕は目を閉じた。
ここ三ヶ月の、社内Slackでの自分の発言を頭の中で遡った。
ここ三ヶ月の自分の発言は、ほぼ二種類だった。
「LGTM!」と「了解」。
数えるのがばからしくなった。
……俺、ここ三ヶ月、何も書いてないな。
心の中で僕はぽつりとつぶやいた。
桐谷くんが新卒で入ってきた頃、僕はもう少し書いていた。「桐谷くん、ようこそ」「これ、桐谷くんにお願い」「うちのチーム、優しい人ばっかりだから」。あの頃の僕はまだ自分の言葉を書いていた。
今は書いていない。
書くというのは、責任を引き受けるということだった。
書かないというのは、責任から半分降りるということだった。
僕は降りていた。
降りたから課長候補から外れた。
たぶんそういうことだった。
台所から妻が出てきた。
妻は僕の隣に座った。
「お風呂、入る?」
「あとで」
僕は答えた。
「子供、寝た?」
「寝た。今日、保育園で転んだみたい。膝を擦りむいたって」
「保育園、連絡くれた?」
「連絡帳に書いてくれた」
「そっか」
妻は僕の顔をちらりと見た。
「あなた、今日、何かあった?」
「何も」
「『何も』の顔じゃないけど」
妻は小さく笑った。
僕は答えなかった。
答えるのが面倒というわけではなかった。
答えるとたぶん、僕の中で何かがぐらりと崩れる気がした。
崩れるのを止める力が、今夜の僕にはたぶんない。
「あなた、もう少し自分の話、してくれていいんだよ」
妻はそう言った。
「そのうち」
「『そのうち』って、五年聞いてる気がする」
妻は軽く笑った。
僕は笑い返せなかった。
……五年か。
心の中で僕は繰り返した。
結婚して七年。子供が生まれて六年。子供のために家を買って七年。家のローンはあと二十八年。
二十八年。
二十八年経つと僕は六十四歳になる。
あの古川さんと同じような、目に光のないおじさんになっているかもしれない。
……嫌だな。
心の中で僕はぽつりとつぶやいた。
古川さんになりたくない。
でももうなりかけているかもしれない。
妻は僕の隣で、テレビの消えた画面をぼんやり見ていた。
「あなた、何が辛いの?」
妻は急にぽつりと聞いた。
「辛いというほどでも」
「でも、辛そう」
「うん」
僕は目を伏せた。
「今日、課長候補から外れたって言われた」
言葉が口から出た。
言ってから自分で驚いた。
「そっか」
妻は特に驚かなかった。
「あなたが辞令をもらえると思ってる、というのは、私にも伝わってた」
「そう?」
「ええ。それで今日、外れたと」
「外れた」
「悲しい?」
「悲しいというか」
僕は言葉を探した。
「悔しい?」
「悔しいというほどでもない」
「じゃ、何」
「……たぶん僕、自分が何をしたかったか、分からなくなってる」
声が自分で震えた。
声を震わせるというのは、僕にとってたぶん初めての経験だった。
妻は僕の手を軽く握った。
「私、あなたが新卒の頃を知ってるよ」
「ああ」
「あの頃のあなた、いまよりはたぶん自分の言葉を持ってた」
「いまはない、ってこと?」
「いまはたぶん、半分忘れてる」
妻ははっきり言った。
「忘れてる」
「忘れてる」
妻のその一行は、僕の中で薄く刺さった。
「忘れてるなら、思い出せばいい?」
「思い出すのは難しいかも」
「難しい」
「ええ。十年で忘れたものをまた思い出すのは、たぶん十年かかる」
「十年」
僕はその「十年」を口の中で繰り返した。
十年経つと僕は四十六歳になる。
四十六歳で自分の言葉を取り戻す。
遅いと思った。
けれどたぶん遅くはない。
古川さんは三十半ばでもうああして迷っている。僕もたぶん迷っていい。
妻は僕の手を握ったまま、テレビの画面を見ていた。
「あなた、お風呂、入ってきたら?」
「うん」
僕は立ち上がった。
立ち上がる時、ソファの下に子供の絵本が落ちていた。
絵本の表紙は「ねないこ、だれだ」だった。
絵本を拾った。
絵本の中の、子供を起こすおばけの絵を僕はふと見つめた。
……俺、ねないこだな、いま。
心の中で僕は軽く苦笑いした。
ねないこはおばけになる。
絵本のおばけはたぶん、ねないこを夜の世界に連れていく。
夜の世界というのは、たぶん僕が今夜座っているこのソファの上の風景なんだろう。
ねないこになって、夜の世界で自分の言葉をもう一度思い出していく。
そういうことなんだろうと思った。
お風呂場に向かった。
二、古川真治の夜
寮の自分の部屋、夜の十時。
俺はベッドの縁に座っていた。
ベッドはシングル。寮の支給品。布団は薄い。枕はもう少し新しいのに変えたいとずっと思っている。けれど変えるのが面倒で変えていない。
もう五年。
俺の机の上に、カップ麺の空の容器が転がっていた。
夕食。
夕食をカップ麺で済ますのは、ここ一年でたぶん二百回くらいやっている。
ばからしいと思う。
でもコンビニで別の何かを選ぶのが面倒だった。
俺の本棚を見上げた。
本棚は寮の備え付け。三段。
いちばん上の段に技術書が十五冊くらい並んでいた。
『Effective Java』『リーダブルコード』『達人プログラマー』『デザインパターン入門』『プログラミング作法』『ハッカーと画家』『ソフトウェア工学の基礎』『ドメイン駆動設計』『継続的デリバリー』『SREサイトリライアビリティエンジニアリング』。
最初の十冊は入社して三年目までに買った。残りの五冊は五年目までに買った。
ここ五年は一冊も買っていない。
……ここ五年。
俺は心の中でつぶやいた。
ここ五年で俺は何冊、技術書を読んだか。
答えはたぶんゼロ。
ゼロというのは、自分でも笑える数字だった。
「ふん」
俺はふっと鼻で笑った。
笑いというよりは自嘲だった。
俺はいちばん上の段から『達人プログラマー』を抜き出した。
本のカバーはもう色褪せていた。
ページを開いた。
最初のページに俺の字でこう書いてあった。
「四月三日、入社初日。これを読んで一流になる」
ばからしいと思った。
二十二歳の俺はたぶん本気でそれを思っていた。
いま三十四歳の俺はそれをばからしいと思っている。
二十二歳と三十四歳の差は十二年。
十二年で俺は本気で、自分の本に書く字をばからしいと思うようになった。
ばからしいというのは、たぶん自分を守るための言葉だった。
ばからしいと思えば、できなかった自分を責めなくて済む。
ばからしいと思えば、もう本を開かなくて済む。
「ふん」
俺はもう一度鼻で笑った。
二十二歳の俺がいま、この三十四歳の俺を見たら、たぶんこう言うだろう。
「お前、ばからしいって言うけど、いまお前のやってるのが、いちばんばからしいぞ」
二十二歳の俺の声が、本のページの間から響いてきた気がした。
「うるさいな」
俺は本を閉じた。
本を本棚に戻した。
本棚は十年でほぼ変わっていなかった。本の数も本の並びも本のホコリの量も、ほぼ同じ。
変わったのはたぶん俺の方だった。
ベッドに寝転んだ。
天井の染みを見上げた。
寮の天井の染みは、入居した時からあった。五年経っても、染みは増えも減りもしなかった。
……俺の人生、この染みみたいだな。
心の中で俺はつぶやいた。
増えも減りもしない。
変わらない。
もう五年、たぶんもう十年、染みのままここにある。
「ふん」
俺はまた鼻で笑った。
その笑いに誰かが応えてくれたわけではなかった。寮の壁は薄いが、隣の部屋の人はたぶんもう寝ている。
スマホを見た。
スマホの待ち受け画面は、新卒の頃の、前の会社の入社式の集合写真だった。
もう解散してしまった、よその県の小さな受託会社。写真に並ぶのは、いまは散り散りになった同期たち。
古い写真。
でもまだ俺は消していない。
消したいと思う日もある。けれど消すのが面倒で消していない。
写真の中の俺は二十二歳。スーツがまだ馴染んでいない。笑顔もまだぎこちない。けれど目に光があった。
……目に光があった。
俺は画面をじっと見つめた。
十二年前の俺の目の光。
あの光はどこに消えたのか。
消えたのがいつだったか、思い出せなかった。
たぶん二十四、五のあたりで、ふっと消えた。
消えた理由ははっきり覚えている。
俺は新卒三年目の時、新しい技術調査の社内プロジェクトを提案した。
提案書を書いて、当時の上司に出した。
上司はこう言った。
「古川、それ、誰が得するの」
「えっと、組織全体が得します」
「組織全体って、誰のこと?」
「えっと、長期的に見れば、たぶん」
「長期的というのは無理ですよ。うちは短期で回ってる。長期の話、するな」
俺はその言葉を聞いて、提案書を引っ込めた。
二週間考えて、もう一度修正した提案書を出した。
今度の上司の答えはこうだった。
「古川、これ、まだ誰が得するか分からない」
二度目の引っ込め方は、一度目より少し深かった。
それでも俺は出し続けた。三回目も、五回目も、七回目も。答えはいつも同じだった。
十回目を出して、十回とも返ってこなかったとき、俺は決めた。
「もう、提案しない」。
決めてから十年。
俺は提案をしないままで生きてきた。
提案しなければ断られない。
断られなければ傷つかない。
傷つかなければ生きていける。
その三段論法で俺は十年過ごした。
その十年で俺の目から光は消えた。
消えたままもう戻らないかもしれない。
でも最近、ふと思うことがある。
最近、桐谷くんという新卒の子が入ってきた。
桐谷くんはノートを書いているらしい。
観察ノートと呼んでいる。
俺は桐谷くんとほとんど話したことがない。「ども」と廊下ですれ違うくらい。
けれど桐谷くんの目を、俺はちらっと見たことがある。
桐谷くんの目にはまだ光があった。
十二年前の俺の目と同じ光だった。
……あの光、消えるな、桐谷くん。
心の中で俺はぽつりとつぶやいた。
俺の光は二十四、五で消えた。
桐谷くんの光はいつ消えるんだろう。
あるいは消えないかもしれない。
桐谷くんは観察ノートを書いている。書くというのは、たぶん光を守る装置の一つだ。
俺ももし二十二歳の頃にノートを書いていれば、光はもう少し残ったかもしれない。
……今からでも、ノート書くか。
俺はふと自分に聞いた。
でも書くものが思いつかない。
書くものが思いつかないというのは、観察するものが思いつかないということだった。
観察するものが思いつかないというのは、たぶんいちばん寂しいことだった。
「ふん」
俺はまた鼻で笑った。
でもその「ふん」はいつもの「ふん」と少し温度が違った。
いつもの「ふん」は自嘲だった。
今夜の「ふん」はほんの少しだけ未練だった。
未練。
俺の中にまだ未練があるということが、軽く自分でも驚きだった。
未練があるということは、光がまだ完全には消えていないということかもしれない。
……桐谷くん、ありがとうな。
俺は心の中で桐谷くんに礼を言った。
桐谷くんはたぶん知らない。
知らないでいい。
俺の中の未練を思い出させてくれた、ということは、桐谷くんはたぶんノートに書く必要はない。
俺が心の中で礼を言うだけで十分だった。
スマホの画面を閉じた。
ベッドに寝転んだまま、天井の染みをもう一度見上げた。
染みは変わらない。
俺もたぶん明日も変わらない。
でも明日、もう一度本棚の『達人プログラマー』を開いてみるかもしれない。
その「かもしれない」が俺の中にあるということは、たぶん悪くない。
俺は目を閉じた。
寮の天井の染みは、暗闇の中で見えなくなった。
見えなくなっても染みはたぶんそこにある。
俺もたぶんそこにいる。
眠りに入った。
三、赤坂拓真の夜
異動先のチームのフロアで、夜の九時、退社まであと一時間。僕はまだ残業をしていた。
異動して三ヶ月。
新しいチームは別の事業部の、別の顧客の、別のシステムだった。技術スタックはほぼ同じ。けれど空気はぜんぜん違っていた。
新しいチームのマネージャーは四十代前半の女性で、河野さんという人だった。
河野さんは機嫌が常に安定していた。朝来た時の表情と、夕方帰る時の表情がほぼ同じだった。新人の質問に嫌そうな顔をしなかった。
河野さんを見ていると、僕はちょっと戸惑った。
以前のチームの諏訪マネージャーも機嫌が安定していた。けれど諏訪マネージャーの安定は、女性らしい温かさというよりは、職人の落ち着きのような安定だった。
河野さんの安定はまた別の種類の安定だった。
河野さんの安定はたぶん「自分はちゃんと責任を取る」と決めている人の安定だった。
諏訪マネージャーも河野さんも、二人とも責任を取る。
でも僕は責任を取ってこなかった。
その違いを、僕は異動して三ヶ月、ここでずっと考えている。
パソコンの画面を見た。
今日、新人の女性からPRのレビュー依頼が来ていた。
名前は山田というその子。今年の春に入社した新卒。
山田さんのコードを画面で開いた。
最初の数行を読んだ。
……うーん、これ、たぶん変数名、もう少し考えた方がいい。
心の中で僕は思った。
変数名は「tmp」だった。
僕は一年以上前、桐谷くんという別のチームの新卒に、似たコードを見たことがあった。
あの時、僕はなんとコメントしたか。
「LGTM!」とだけ書いた。
……あれはレビューじゃなかった。
今、振り返って僕は思った。
あれは責任を取らないための合言葉だった。
LGTMの後ろに絵文字をつける。それで僕はレビューをした気になっていた。
桐谷くんは僕のLGTMを、たぶん最初は信じてくれた。けれど二週間目あたりから、桐谷くんの目の中に何か引っかかりが見えた。
桐谷くんはたぶん別の先輩、白瀬さんから二十二件のレビューを受けて、初めて僕のLGTMが何だったかを知った。
その時の桐谷くんの目を僕は覚えている。
桐谷くんは僕を責めなかった。
責められた方がたぶん楽だった。
責められなかったのが、いちばん辛かった。
桐谷くんは僕を観察する側に変わった。
観察される側というのは、責められるよりもたぶん深く堪える。
山田さんのPRに僕はレビューを書き始めた。
「変数名、tmpだと半年後、何を保持しているか分からなくなるかもしれません。pendingOrders、とか、unprocessedItems、のような内容を示す名前をおすすめします」
書いて保存した。
保存してから僕は軽く自分に笑った。
……これ、白瀬さんが桐谷くんに書いていたコメントの、ほぼコピーだな。
心の中で僕はつぶやいた。
一年以上前の白瀬さんの二十二件のレビューを、僕は誰かから間接的に聞いていた。当時の僕は「白瀬さん、過剰だよね」と軽く笑っていた。
今、僕は白瀬さんのレビューを自分の手で再現していた。
白瀬さんに近づきたいというのではなかった。
ただ、もうLGTMだけで済ませるというのが、僕の中でできなくなっていた。
異動して三ヶ月、河野さんの下で働いて、ようやく僕は自分の「優しさ」が何だったかを知った。
僕の「優しさ」は放置する優しさだった。
桐谷くんがいつか書いていたらしい、と白瀬さんの伝聞で聞いた言葉だった。
磨く優しさと放置する優しさ。
桐谷くんは僕の優しさを、ちゃんと「放置する優しさ」として観察していた。
観察された側の僕は三ヶ月かけて、ようやく自分の優しさが放置だったと認めることができた。
山田さんのPRにもう一行書き足した。
「もしよかったら、変数名の付け方、後で雑談で五分話せたら嬉しいです。僕、最近、変数名でつまずく時に考えるパターンを整理しています」
書いて保存した。
「雑談で五分話す」と提案する自分が、三ヶ月前の自分からたぶんいちばん変わったところだった。
三ヶ月前の僕なら、たぶんSlackで「LGTM!」と絵文字三つで終わっていた。
今の僕は「五分話せたら嬉しい」と書ける。
その変化は、河野さんの下で三ヶ月見てきたことの結果だった。
河野さんは新人に毎週、十五分の1on1を必ずやっていた。
雑談というよりは、丁寧な対話だった。
河野さんは新人に必ずこう聞いた。
「今週、自分の中で引っかかったこと、ありますか」
新人は最初、答えない。
河野さんは答えるのを待つ。三十秒、一分、二分。
新人がようやくぽつりと何かを言う。
河野さんはそれをちゃんと聞く。
その光景を僕は毎週、横目で見ていた。
……新人に聞くという行為が、こんなに丁寧にできるものか。
心の中で僕は初めて自分を恥じた。
恥じるという感覚が、僕の中でほぼ機能していなかった、と三ヶ月で気づいた。
恥じることができないと、たぶん自分を変えることもできない。
恥じることができるというのは、たぶん自分を変える最初の一歩だった。
パソコンの画面を閉じた。
帰り支度をした。
フロアの灯りをほぼ消した。最後の一つ、自分の机の上の灯りを消した。
フロアの暗闇の中で、僕はふと桐谷くんの顔を思い出した。
桐谷くんにいつか会えたら、こう言いたいと思った。
「桐谷くん、一年以上前の僕のLGTM、ごめん。あれはレビューじゃなかった。あれは責任から半分降りた合言葉だった」
会えるかどうか分からない。
たぶんしばらく会わない。
会えなくても桐谷くんは、たぶん僕の三ヶ月の変化を、いつか誰かから聞くだろう。
間宮さんから聞くかもしれない。藤村さんから聞くかもしれない。あるいは白瀬さんから聞くかもしれない。
誰から聞いても桐谷くんは、たぶんその伝聞を観察ノートに書く。
桐谷くんの観察ノートに、僕の三ヶ月の変化が薄く書かれる。
そう思うと僕は嬉しかった。
観察される側というのは、もう嫌ではなかった。
観察されているというのは、たぶん誰かが僕を見てくれているということだった。
見てくれている人がいるなら、僕はもう少し変われる。
たぶんそういうことだった。
フロアを出た。
エレベーターのボタンを押した。
外、秋の夜風が薄く冷たかった。
桜並木通りの葉桜はもう紅葉し始めていた。
来週にはもっと赤くなる。
僕はゆっくり駅まで歩いた。
四、大沢祐介の夜
夜の十時、自宅のリビングで俺は缶ビールを開けた。
ビールをぐっと飲んだ。
冷えていた。冷蔵庫の冷気がまだ缶に残っていた。
妻は寝室で本を読んでいるらしい。娘はもう寝ていた。
俺はリビングのソファに深く座っていた。
テレビは消えていた。
今日、組込みチームでまた本番障害が出た。
俺はその障害のホワイトボード会議で、若手の田中という入社三年目の男に怒鳴った。
「お前、なんでテスト、ちゃんと走らせなかった!」
声は大きかった。会議室の壁がぴくっと震えるくらい大きかった。
田中は顔を青くして頭を下げた。
「すみません、テストケース、不十分でした」
「不十分じゃない! ゼロだ!」
俺はもう一度怒鳴った。
他の若手たちがホワイトボードの脇で目を伏せていた。
その時、組込みチームのもう一人のシニア、藤村さんがふとホワイトボードに近づいて、こう言った。
「大沢さん、田中くんのテスト、ゼロというのはたぶん正確じゃないです。テストは書いてある。けれどシナリオのいちばん深いところまでは行ってない、というのがたぶん正確」
藤村さんの声は低い。けれどよく通った。
俺はぴくっとした。
藤村さんは俺とほぼ同期で、組込みチームのもう一人の中堅だった。
藤村さんは俺に口を出すタイプじゃなかった。
でも今日は出した。
田中の前で藤村さんは俺をふっと訂正した。
俺はぐっと口を閉じた。
「で、田中くん、シナリオのいちばん深いところまで書いてみる?」
藤村さんは田中に話を振った。
田中はもう一度頭を下げてこう言った。
「書きます。今日中に書きます」
「今日中じゃなくていい。今週中で」
藤村さんは笑って、田中の肩を軽く叩いた。
俺はその光景をホワイトボードの脇で見ていた。
……俺、いま、要らない人だな。
心の中で俺はふと思った。
その「要らない人」感覚は、俺にとってたぶん初めての経験だった。
夜、リビングに戻ってビールを飲みながら、俺はその「要らない人」をもう一度頭の中で撫でた。
俺は機嫌で人を動かす癖があった。
知っていた。
知っていたが、変えるのが面倒で変えていなかった。
俺の機嫌の波で、若手は毎朝、俺の表情を見て、その日の行動を決めていた。
俺はそれを知っていて利用していた。
「俺の機嫌で若手が動く」というのは、俺にとっての権力の確認だった。
でも今日、藤村さんが俺の機嫌を無視した。
藤村さんは俺の怒鳴り声を、ふっと訂正で上書きした。
田中は俺の怒鳴り声よりも、藤村さんの訂正にちゃんと応えた。
……俺の機嫌、効かなかったな、今日。
俺はビールをもう一口飲んだ。
効かないというのは、たぶん俺の権力が薄くなっているということだった。
権力が薄くなるというのは、たぶん悪いことだった。
でも今日のその「効かなさ」を、俺は不思議と嫌悪しなかった。
むしろふっと軽くなった。
軽くなったというのは、自分でも意外だった。
寝室から娘がトイレに起きてきた。
小学二年生の娘。
娘はリビングの俺を見て、軽く首を傾けた。
「お父さん、まだ起きてる?」
「うん、まだ」
「ビール、飲んでるの?」
「うん」
「お父さん、最近、会社で笑ってる?」
その一行は、まったく前触れなく娘の口から出てきた。
俺はぴくっとした。
ぴくっとというのは、たぶん葉山さんという別のチームの新卒の女性がよく使う言葉らしい。葉山さんの「ぴくっと」を、俺は社内Slackの別チャンネルで誰かが書いているのを、横目で見たことがあった。
葉山さんの「ぴくっと」が何の意味かは知らない。
けれど今、俺はたぶん葉山さんの「ぴくっと」を、自分の体で初めて経験した。
「会社で、笑ってるか?」
俺は娘に聞き返した。
「うん。お父さん、最近、家でもあんまり笑わないでしょ。会社では笑ってるの?」
「会社では」
俺は考えた。
考えながら、答えが出てこなかった。
会社で俺が笑ったのはいつだったか。
たぶんもう半年、笑っていなかった。
半年。
半年笑っていなかったということは、半年、俺は機嫌が悪かったということだった。
機嫌が悪い半年。
若手はその半年、毎朝、俺の表情を見ていた。
毎朝、俺の表情はずっと機嫌が悪かった。
若手は毎朝、俺に話しかけない選択を続けていた。
俺は若手に話しかけられないということを、「権威」と誤解していた。
誤解していたというのは、たぶんいちばん寂しいことだった。
「会社では、たぶん笑ってないな」
俺は娘に答えた。
「じゃ、明日から笑ってみたら?」
娘は軽く笑った。
「明日から」
「うん。お父さん、笑ってる方がかっこいいよ」
「かっこいい」
俺は繰り返した。
娘はトイレに行った。
俺はソファの上でしばらく動けなかった。
「かっこいい」と言われたのは、たぶん何年ぶりだった。
娘の中で俺はまだかっこいいらしい。
その「まだ」が俺の中で、ぐっと何かを揺らした。
……笑うか。
俺は心の中でぽつりとつぶやいた。
明日、笑える自信はない。
でも笑おうと思った。
まず田中に声をかけよう。
「田中、テスト、書けた?」
いつもの怒鳴り声じゃない。
普通の職場の上司の声で聞こう。
田中はたぶん最初、ぴくっとする。
ぴくっとする田中を見て、俺はたぶん軽く笑う。
その笑いが俺の半年ぶりの職場の笑いになる。
たぶんそういうことだった。
娘が寝室に戻った。
俺はビールの缶を流しに置いた。
リビングの灯りを消した。
寝室に入る前、俺はふと玄関の脇の姿見の前で立ち止まった。
姿見の中の自分の顔を見た。
眉間にしわが寄っていた。
……たぶんこれが職場の俺の顔だな。
俺はしわを指で伸ばしてみた。
伸ばしてもしわは戻った。
深く刻まれているしわだった。
たぶん五年で刻まれたしわ。
戻すのは五年かかるかもしれない。
でも戻すと決めた。
明日から田中に声をかける。
ぴくっとする田中を見て、軽く笑う。
半年ぶりの職場の笑い。
そこからしわを戻していく。
俺は寝室に入った。
妻はもう本を閉じて寝かけていた。
俺は布団に入った。
目を閉じた。
外、秋の夜風が家の窓を軽く揺らした。
風の音は十年前から変わらない。
俺の中で変わるものが、これから出てくるかもしれない。
眠りに入った。
同じ夜、四人
立花の家のリビング、古川の寮の自室、赤坂の異動先のフロア、大沢の自宅。
四つの場所で、四人の中堅が同じ夜を過ごしていた。
四人ともそれぞれの場所で、自分のこれまでを薄く振り返っていた。
振り返るという行為は、四人にとってたぶん初めての夜だった。
四人ともまだ、自分が何をするか決めていない。
ただ今夜、ふっと何かに気づきかけている。
気づきはまだ行動には繋がっていない。
でも気づきがあるということは、たぶん明日からの行動の最初の一歩だった。
四人の上に同じ夜の月明かりが差していた。
月明かりは四人を平等に照らしていた。
夜が深まっていった。




