断章Ⅴ「ある日のアユシュ・タパ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、アユシュ・タパの一人称視点で描かれています。十二月、寮の自室で、ネパールの家族に向けて書く手紙の形式です。
※ 時系列:二年目の暮れ、同期六人で集まる夜の、三日前。
十二月二十三日、木曜日の夜十時。
寮の三階、いちばん奥の部屋。
窓の外はもう冬の夜の空気。日本の十二月の夜は、私の故郷のヒマラヤのふもとの十二月よりは少しだけ湿った冷たさ。乾いていない。ネパールの冬はもう少し乾いている。私はそのことを二年経ってやっと自分の言葉で書ける。
机の上に白い便箋。三枚。
ボールペン、青いインク。
日本の文房具屋で買ったPilotの細字。インクの出方が私の指の動きともう合うようになった。
ヨキエルに来てから、もうすぐ二年。
今夜、私はネパールの家族にひとつ長い手紙を書こうと決めた。
長い手紙というのは、メールやWhatsAppでは書けない種類の手紙だ。指の速さで打つメッセージは私の中のなかばしか運ばない。残りはペンの先と紙の手触りの中でゆっくり並べないと運べない。
ペンを軽く握った。
Aama, Buwa, ……
母さん、父さん、お元気ですか。私は日本の港川市で元気にしています。
今夜は少し長い手紙を書きます。
ヨキエルに来てから二年が経ちました。最初の一年は、母さんと父さんに月に二回くらい短いメッセージを送っていました。「元気です」「仕事、楽しいです」「日本食、慣れてきました」。短い言葉ばかりでした。
今夜はその短い言葉の奥にずっと置きっぱなしになっていたものを、ひとつずつ丁寧に書こうと思います。
最初に書きたいこと。
日本に来て、私は思ったよりも苦労しています。
ペンを止めた。一行、丁寧に置いた。「苦労しています」と素直に書いた最初の一行。これまでの二年、私は家族に「苦労」という単語をほとんど使わなかった。家族を心配させたくなかったというのがなかば。残りは、「苦労」という単語を自分で口にしてしまうと自分の足元がふっと崩れてしまう気がしていたということだった。今夜は書いた。書いたあとも足元は崩れなかった。書くことのほうがたぶん足元を支える。
書き続けた。
苦労していること、いくつかあります。
ひとつめ。日本語です。
日本語は、私が日本に来る前にN2のレベルまで勉強しました。N2は新聞がほぼ読めると教科書には書いてありました。けれど会社の中の日本語は新聞の日本語ではありませんでした。
会社の中の日本語は、敬語と空気と行間でできていました。
敬語はルールで覚えられました。「お疲れさまです」「お世話になります」「恐れ入ります」。
でも空気と行間はルールでは覚えられませんでした。
日本人の同期や先輩やマネージャーは、「言わなくても分かるよね」という形でたくさんの大事なことを口の外に置いていました。
最初の一年、私はその口の外の場所にたぶんなかばくらい置いていかれていました。
ふたつめ。マネージャーです。
私のマネージャーの大沢さんは、機嫌の波がある人でした。良い日は私をたくさん褒めて、悪い日は私のコードを強い声で指摘します。技術は、昔は強かったみたいです。でも、いま私たちがやっていることには、あまり興味がないように見えました。
私は悪い日の強い声に慣れるのに半年かかりました。
ネパールでは上司が部下に強い声を出すことはもう少し少なかった。少なくとも私が日本の大学院で接していた研究者たちの中で、強い声はほとんどありませんでした。
日本に来て強い声に出会って、私の中は最初ぐらつきました。
救われたこと、ふたつあります。
ひとつは、組込みチームの先輩の藤村圭一さんが月に一度、私と同期の黒木律と一緒にお昼を食べてくれたことです。
藤村さんは技術の話をなかば。残りは生活の話を聞いてくれました。「ネパールのお米と日本のお米、違う?」「ネパールの十二月、どれくらい寒い?」「お母さんと何曜日に電話?」。技術の話の合間に生活の話がそっと置かれていました。
その薄い置き方が私をちゃんとここに置いてくれました。
もうひとつは、桐谷蒼太との友情です。
Sootaの名前を書きました。
Sootaは私のいちばん近い日本人の友達です。
Sootaは不思議な日本人です。
Sootaはよく観察します。
Sootaは、私が話す英語混じりの日本語を聞き返さないでちゃんと最後まで聞いてくれます。
Sootaはたぶん、私の口の外に置かれた半分を自分の耳の奥でちゃんと拾ってくれます。
日本に来た最初の頃、私はSootaに、ここの沈黙(silence)が分からない、と言ったことがあります。日本の会社の中の沈黙は、ネパールの沈黙とは別の意味を持っていました。
Sootaはその時こう答えてくれました。
「アユシュさん、僕も沈黙が分からないことがあります。たぶん日本人でも分からない人は分からない」
その一行が私を楽にしました。
私はその時、初めて日本の沈黙が日本人全員に分かるものではないと知りました。
みっつめ。男性中心の空気です。
これは私の同期の葉山美月から何度も聞かされたことです。
葉山さんが「美月ちゃん」と呼ばれて、議事録を当然のように振られて、女性が一人だけの会議室でお茶を配ることを期待される。
私は最初、その話を聞いて、なぜ葉山さんがそんなに怒っているのかなかばしか分かりませんでした。
ネパールにも性別の役割の問題はあります。むしろ日本よりもはっきりあります。
でも私のいたインドの大学は、その問題が私の周りではほとんど見えませんでした。教授も研究室のなかばは女性でした。論文の著者も性別関係なく評価されていました。
日本に来て葉山さんの話を聞いて、私はインドの大学の周りが私の中で特別だったと初めて知りました。
葉山さんは十一月に別の事業部に異動しました。
異動が認められた日、葉山さんは私にこう言いました。
「アユシュさん、私、決めたよ。一年半迷ってたけど」
葉山さんの目は決めた人の目でした。
決めた人の目は、強くて軽い目です。私は葉山さんの目を見て、自分の中にもいつか決めた人の目を置きたいと思いました。
ペンを止めた。
便箋の一枚目が、もうすぐ終わるところだった。書いた行をもう一度読んだ。日本語で考えたことを、英語混じりの私の言葉で書いた行。Aamaは英語をたぶんなかばくらい読めるので、英語混じりでも届く。Buwaも最近、Sootaの妹さんが教えてくれた英語アプリでゆっくり英語を勉強し始めているとSabinaが教えてくれた。
Sabina、と書こうとしてペンを軽く戻した。
妹のサビナには別の紙をもう一枚用意してあった。母さん父さんへの手紙と妹への手紙は別に書きたかった。妹はいま十七歳。私が日本に出てきたころは、まだ中学生だった。会わない間に、ずいぶん大人になっていた。
二枚目の便箋を新しく開いた。
Aama, Buwa, (続き) ……
さて、ここからはもうひとつ書きたいこと。
私の次の選択について。
私は今、選択をひとつ決めようとしています。
ヨキエルでの仕事を、来年のうちに辞める方向で考えています。
ペンを止めた。
書いてからしばらくその三行を見ていた。書いてはじめて、自分の中にその方向がはっきり置かれた。十一月にSootaに、ひとつ決めることがある、と話した時、私の中ではまだなかばくらいの方向だった。今夜紙に書いたことで、そこからもう一歩はっきり置かれた。
書き続けた。
ヨキエルはいい会社です。
マネージャーの大沢さんは波がある人ですが、最近は波の幅が少し小さくなりました。たぶん私と黒木が二年経って、波に対する距離の取り方を少し覚えたからです。
先輩の藤村さんは変わらず月に一度お昼を食べてくれます。
CTOの遠野吉彦さんは私の名前を覚えてくれています。廊下で会うと「アユシュさん、元気?」と声をかけてくれます。CTOから直接名前で呼ばれる会社は、たぶん日本の中でも多くはありません。
社長の村瀬正之さんは、四月の入社式で私たち一人ずつの顔をゆっくり見てくれました。あの目は温かく強かった。
ヨキエルはいい会社です。
でも「いい会社」が私の選択の理由の全部ではありません。
私がヨキエルでできなかったことが、ひとつあります。
研究です。
大学院で私は自然言語処理(NLP)の研究をしていました。低リソース言語、つまり英語ほどデータが多くない言語。たとえばネパール語、ヒンディー語、それから日本語のいくつかの方言。そういう言語の機械翻訳と自然言語理解のモデルを作っていました。
修士論文はネパール語と英語の機械翻訳の新しい手法の提案でした。指導教授は、その論文を国際会議で発表することをすすめてくれました。私は卒業後、まず日本の企業で働きながらゆっくり研究の続きをしようと思っていました。
日本で就職したいと思っていました。日本は安全で、清潔で、食べ物もおいしい。けれど、自然言語処理や機械学習の会社は、ほとんどが東京にありました。東京は家賃が高い。地方なら、私の給料でも、落ち着いて暮らせる。だから私は、地方のIT企業を探しました。ヨキエルの募集は、組込みのC++の仕事でしたが、エンジニアの仕事はある、と思いました。応募して、内定をもらいました。
ヨキエルに入って二年。
研究の続きはヨキエルの中ではできませんでした。
私のいる部署は、組込み開発のチームです。組込みのCPUの上に乗るソフトウェアの仕事は、私にとっても新しく面白い経験でした。でも自然言語処理の研究はヨキエルの事業の中にはありません。
私の中で、ヨキエルの組込みの仕事と自然言語処理の研究の二つの像が、二年ずっと別々に置かれていました。
組込みの仕事のほうは毎日の業務としてちゃんと進んでいた。
自然言語処理の研究のほうは、夜と週末に私が一人で論文を読んでコードを書いて、夜更かしで進めていた。
ふたつの像が平行に走っていました。
平行に走るのは悪くはありません。むしろ二つの足を両方とも強くしてくれる時期でした。
ただ二年経って、私の中でひとつだけはっきりしたことがありました。
自然言語処理の研究を本業としてやりたい。
夜と週末で続けるのではなく、昼間の業務としてやりたい。
その思いが私の中で二年ではっきり置かれた。
正直に書くと、それは、もう一つの絵を手放すことでもありました。
日本に来たとき、私はここに長くいるつもりでした。日本の会社に入れたことは、私の誇りです。永住権のこと、いつか帰化のことも、うっすらと考えていました。ここで根を張る。その絵を、私は一度、たしかに描きました。
でも、研究を昼間の仕事にできない二年が、その絵を、少しずつ薄くしていきました。
その時、声をかけてくれたのがソウルのAIスタートアップでした。
会社の名前はここには書きません。家族にはまだ会社の名前を伝えていないからです。次の手紙で書きます。
ソウルの会社は、自動運転とComputer vision(画像認識)を主軸にしたAIの会社です。いま事業を一気に強くしている時期です。けれどアジアの各地で走らせるために、低リソース言語のデータにも本気で取り組んでいる。社員は四十人くらい。半分が韓国人、もう半分が世界中から来ている研究者。インド、ネパール、フィリピン、ベトナム、東南アジアと南アジアの研究者が多い。社内の公用語は英語と韓国語が同じくらい。
給与はヨキエルの一・六倍くらい。
住む場所はソウルの中心の外国人居住エリア。
仕事内容は、画像と言語の境界。自動運転やComputer visionのモデルに、ネパール語・ヒンディー語、それから東南アジアの低リソース言語の標識や音声や地図の情報をどう結びつけるか。私の低リソース言語の研究を、画像の側へ一歩伸ばす仕事です。
私の修士論文の延長線上にありながら、そこに画像という新しい一歩を重ねる仕事でした。
ペンを止めた。
書きながら、自分の指先が軽く震えていることに気づいた。
震えは、不安の震えと嬉しさの震えがなかばずつ混ざったものだった。
書き続けた。
Aama, Buwa, ……
私のいまの気持ちを、ひとつちゃんと書きたいと思います。
私は研究(research)を続けたい。でも家族のそばにも近くにいたい。
ソウルはカトマンドゥから飛行機で五時間。
ネパールに帰るなら、私は家族のそばに毎日いられる。
ソウルなら家族のそばに毎日はいられない。でも年に二回くらい帰れる距離。
日本の港川市はカトマンドゥから飛行機で七時間、乗り換え含めて十五時間。私は二年で二回しか帰れていません。
ソウルはその意味で、日本の港川市とネパールのカトマンドゥのちょうど中間の距離です。
研究と、家族との距離。
その二つをソウルはちょうど両方とも両立させてくれる場所かもしれないと私は考えています。
もしソウルに行ったら、家族のところにもう少し頻繁に戻れます。
もしネパールに帰ったら、研究の続きはたぶんネパール国内では難しい。ネパールの大学のNLPの研究室は、私の知る限りまだ規模が小さい。
もし日本に残ったら、研究の続きはヨキエルの中ではできない。日本の別の会社に転職するか博士課程に進むか、選択肢はある。けれど家族との距離は変わらない。
三つの選択肢を二年考えました。
ペンを止めた。
長くゆっくり息を吐いた。
書き続けた。
いまの私のいちばん傾いている方向は、ソウルです。
まだ最終決定ではありません。
もし最終決定したら、年内にソウルの会社に返事をします。
ヨキエルへの退職は、すぐではありません。いまの仕事の引き継ぎと、後輩のことを考えると、来年の夏ごろになりそうです。
それから、ソウル。
その方向でいまは考えています。
Aama, Buwa, ……
私の選択を、まずふたりにいちばん最初に伝えたかった。
ふたりがどう思うかは、たぶんなかばくらいは心配だと思います。
もう半分は応援してくれると、私は信じています。
私が日本に発つと決めたあの日、Aamaはなかば泣きながら、勇気を持って(Be brave)、と口にしました。Buwaは何も言わずに私の肩を軽く叩いてくれました。
あの時のAamaの「Be brave」とBuwaの軽い肩のぬくもりは、いまも私の机のスタンドの灯りの輪の中にそっと置かれています。
今度の選択も、私はそのぬくもりの延長線上で決めます。
ペンを止めた。
便箋の二枚目が書き終わった。
二枚目を丁寧に二つ折りにした。
三枚目の便箋を新しく開いた。
三枚目には、最後のいちばん大事なことを書こうと決めていた。
Aama, Buwa, ……
最後に、ヨキエルでの二年で私が得たものを書きたいと思います。
お金ではありません。給与はふつうの、地方IT中小の新卒の給与でした。
技術でもありません。組込みの技術は、私の研究の方向とはいくらか別の技術でした。
日本語でもありません。日本語はたしかに上手くなりましたが、ヨキエルでなくてもたぶん別の場所でも上手くなったでしょう。
いちばん得たもの。
仲間です。
Soota、Mitsuki、Ritsu、Kenji、Yuiの五人の同期。
それからSootaの先輩の白瀬さん、間宮さん、諏訪マネージャー。
組込みチームの藤村さん。
産業医の斎藤先生(私も一度、面談を受けたことがあります)。
港川市の居酒屋の沼田さん夫妻(「とんぼ」です)。
小料理屋の篠原さん(「澪」です。Sootaに連れて行ってもらいました)。
CTOの遠野さん。社長の村瀬さん。
ヨキエルの中と、ヨキエルの周りの、半径3メートルの中の人たち。
私がソウルに行っても、ネパールに帰っても、この人たちの姿は私の中に消えずに置かれ続けます。
半径3メートルという言葉は、CTOの遠野さんが入社式の朝に私たち新卒に置いてくれた言葉でした。
二年経って、私はその言葉の意味が少しだけ分かりました。
半径3メートルは物理的な距離ではない、ということ。
半径3メートルは、私がソウルに行ったあともネパールに帰ったあとも、心の中に置かれ続ける人たちの輪郭、ということ。
Aama, Buwaも、私の半径3メートルの中に二十六年ずっといてくれました。
Sabinaも十七年ずっといてくれました。
日本の同期の五人は、私の半径3メートルに二年近く入ってくれました。
私がどこに行っても、この人たちの姿は私の心の中の、机のスタンドの灯りの輪の中にそっと置かれ続けます。
その輪郭が私のこれからの研究をたぶん支えてくれます。
Aama, Buwa, ……
長い手紙、ここまで読んでくれてありがとう。
次の手紙では、ソウルの会社の名前と最終決定の日付を書きます。
ふたりとも、健康でいてください。
Sabinaにもよろしく。
愛をこめて、
あなたのSon、
Ayush
ペンを止めた。
手紙を三つ折りにして封筒に入れた。
封筒には、ネパールの実家の住所を、日本に発つ前にお母さんが教えてくれた通りに丁寧に書いた。郵便局には明日の朝、寮の食堂で朝ご飯を食べてから出しに行く。航空便でたぶん十日くらいで届く。
手紙の隣に、別の便箋をもう一枚出した。
Sabina, ……
妹のサビナ、元気にしてる?
お兄ちゃんのほうは日本の港川市で元気にしています。
今夜、お母さんとお父さんに長い手紙を書きました。その内容はお母さんかお父さんがたぶんあなたに伝えてくれます。
ここではあなただけに別のことを書きます。
サビナ、十七歳の冬、どんな景色を見てる?
お兄ちゃんが十七歳の冬は、毎日学校から帰ってきて家の手伝いをして、夜は本を読んで星を見て寝ていました。
あなたはいま、たぶんお兄ちゃんとは違う十七歳。
あなたが何を見ているか、お兄ちゃんは知りたい。
次の手紙で教えてください。
お兄ちゃんは来年、もしかしたらソウルに行きます。
ソウルに行ったら、年に二回くらいネパールに帰れます。ヨキエルにいた二年より頻繁に帰れます。
あなたが大学に進む頃、もしかしたらお兄ちゃんは近くにいられるかもしれません。
もしソウルが嫌だったら、もしくはネパールに帰ったほうがいいと思ったら、ちゃんと教えてください。
あなたの意見は、お兄ちゃんの選択の中にちゃんと入っています。
愛をこめて、
あなたのDai(お兄さん)、
Ayush
ペンを止めた。
妹への手紙も三つ折りにして封筒に入れた。住所はお母さんへの手紙と同じ。同じ封筒に二枚、一緒に入れた。郵便代を少しでも節約できる。
封筒を机の上のいちばん見える位置に置いた。
明日の朝、忘れずに出すように。
机のスタンドの灯りを軽く消した。
窓の外、日本の十二月の夜。
寮の窓から見える桜並木通りの、葉桜の枝。葉はもうほとんど落ちていた。冬の枝のかたちがかすかに街灯の光に照らされていた。
私は軽く目を閉じた。
ネパールの実家の台所の景色が、ふっと心の中に浮かんできた。Aamaのいつもの紺色のサリー。Buwaが新聞を読むときに軽く眉を寄せる仕草。Sabinaが台所で水を汲む音。三つの像がそっと私の中に置かれていた。
ソウルに行っても、ネパールに帰っても、日本に残っても、その三つは消えない。
半径3メートルというのは、たぶんそういうこと。
私は軽く息を吐いた。
布団を軽く広げた。
寮の薄い掛け布団は、二年で私の体にちゃんと馴染んでいた。
明日、郵便局。
明後日、Sootaと駅前の喫茶店でお昼。たぶんソウルの話をもう少し詳しく伝える。
三日後、同期六人で駅前の居酒屋。年の瀬の、同期の集まり。
四日後から年末年始の休暇。今年はネパールには帰らない。年明けの最終決定の前に、もう一度自分の中でゆっくり考えるための休暇。
Shubha ratri.
ヨキエルの二年目の冬、私はまだ決めかけている。決めかけている思いの中に、Aamaの「Be brave」と、Buwaの肩の軽いぬくもりと、Sootaの「沈黙は日本人でも分からない人は分からない」の一行がそっと置かれていた。
その三つを胸の奥でもう一度撫でた。
目を閉じた。
眠りの気配がゆっくり近づいてきた。




