エピローグ「冬の桜並木通り」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
翌年三月の最終週、土曜日の午後二時。
港川市の冬は、まだ終わっていなかった。
前の晩からふわっと薄い雪が降った。朝までの六時間で、桜並木通りの歩道には軽く白い層が積もった。三センチくらい。盆地の三月の終わりにしてはめずらしい量の雪だと、地元のニュースは伝えていた。
寮の玄関を出た。
ダウンジャケット、薄手のマフラー、それから首から下げたミラーレスカメラ。十二月の賞与で白瀬さんに相談して買った白いカメラ。レンズはほどよく明るい標準ズーム。今日はそれを首から軽く下げて出た。
桜並木通りの入り口。
目の前の景色を、ふっと息で受け止めた。
雪。
桜の蕾。
ふたつが同じ枝の上に重なって置かれていた。
……雪と、蕾。
胸の奥でつぶやいた。
桜の蕾はもうなかばくらいふくらんでいた。あと一週間か長くて十日。風が南から吹けば薄桃色の縁がぱっと開く。地元のニュースは前の晩からそう伝えていた。
今朝の雪がその蕾の上にふわっと軽く置かれていた。
雪は冬の残りの輪郭。蕾は春の予感の輪郭。そのふたつが同じ場所に重なるのは、たぶん一年でいまの数日だけのめずらしい偶然だった。
カメラを軽く構えた。
ファインダー越しに雪と蕾をもう一度確かめた。
絞り、F4。
シャッター速度、すっと軽め。
ピントはいちばん近い蕾に。
かしゃ、とシャッターを押した。
一枚。
ファインダーから目を軽く離した。
画面で確認した。雪のふっくらと蕾のふっくらが、同じ枝の上にそっと重なっていた。
白瀬さんには週明け、会社のSlackで送ろう。たぶん白瀬さんは軽く「いいね」と短く返してくれる。
桜並木通りを歩いた。
寮から城跡公園まで二十五分。
雪の上に僕の靴跡が薄く置かれていった。一年前の三月の最終週、僕は同じ通りを雪なしで歩いていた。あの時の僕の靴跡は、雪のかわりに桜の薄桃色の気配の中に置かれていった。
二年経って、僕は雪と蕾の両方を同じ通りで見ている。
歩きながらカメラをもう一回構えた。
今度は通りの遠くの、桜の枝の連なりを撮った。
雪の白と枝の薄茶色と蕾の淡い緑が、淡く重なって画面の中に置かれた。
もう一枚。
軽くシャッター。
今日の景色は今日しか撮れない。一年後の今頃はたぶん雪は降っていない。三年後の今頃もたぶん降っていない。雪と蕾の偶然は、めったにない一日のささやかな贈り物だった。
城跡公園。
入り口から土塁の階段をゆっくり上った。
雪の階段は軽く滑った。手すりに片手を置きながら、一段ずつ短く上った。
土塁の上のいつものベンチ。
雪がベンチの上に薄く置かれていた。
マフラーの端で軽く雪を払った。払ったあとに、白い湿りのかたちがベンチに残った。
腰を下ろした。
目の前。
城跡公園のお堀の跡、その向こうの土塁、その先の港川市の街、四方の山。
四方の山の上のあちこちに、うっすら白い雪。山の色はいつもの薄い灰青より、今日は半段白く近かった。
……一年前、二年前、ここに来た。
内心でつぶやいた。
一年前の三月の最終週、僕は同じベンチに座って一年分の観察のノートを、最後のページまで読み返した。あの時のノートはA5の淡いグレーの表紙。入社式の前日に駅前の文具店で買った一冊目のノート。最後のページに僕は「一年、ありがとう」と書いた。
二年前の五月、僕は同じベンチに座って、配属から二ヶ月分の観察のノートを最初から最後まで読み返した。あの時のノートはまだなかばも埋まっていなかった。
今日の僕の手元には、新しいノートと新しい手帳がある。
ノートは二年目の一年分。表紙は薄い青のグレー。
手帳は、二年目の最初の四月一日に「二年目、仕事の質を見る」と書いた薄いグレーの手帳。手帳の二ページ目から一年分、季節ごとの短い言葉が、淡い青のインクでぽつぽつと並んでいた。
手帳をリュックから出した。
一ページ目を開いた。
「二年目、仕事の質を見る」
二年目の四月一日の朝に書いた、一年近く前の自分の文字。
文字は当時より、ほんの少し形が丸かった。手帳の最初の一行を書いた頃の僕は、ペンの先をたぶん強く紙の上に押しつけていた。今日の僕の指先はペンをもう少し軽く握る。
二ページ目を開いた。
「二年目、四月一日、火曜日から始まる」
「今、僕はこの街の桜が、もうすぐ満開になるところを見ている」
「一年前、僕はまだ咲いていない桜の蕾を見ていた」
三行。
二年目の四月のはじめ、土塁の上のベンチで書いた三行。
その三行の下のページの白い空白を、僕はしばらく見ていた。
一年分の観察の輪郭が、その空白の奥にそっと置かれていた。
空白の奥に置かれているそれらを、頭の中でいくつか並べた。
四月。新人の森山翼くんと初めて挨拶を交わした朝。
五月。立花さんが僕の仕事を自分の手柄として、会議で口にした日。
五月の連休明け。白瀬さんから中規模機能設計を「桐谷くんに任せたい」と言われた日。
五月の終わり。諏訪マネージャーがチームの数字を僕に見せてくれた日。
六月。昼休みに歩きながら、葉山さんの「私もう限界、かもしれない」を聞いた日。
六月の終わり。黒木がテックリード補佐になったとぼそりと言った、同期飲み会の夜。
七月。赤坂先輩の別チームへの異動。送別会の軽く滑稽な「俺はやっぱり、好かれる先輩だっただろ?」。
八月。三浦からのLINEに「LT、やってみる」と返した夜。
八月の第三週。同期五人と寮の共用ラウンジでLT前夜の猛特訓。
同じ週の土曜日。岡崎さんとの最初のLT会場での出会い。
八月の終わり。リードタイム集計。両輪、両輪、両輪、と独白した夜。
九月の初め。本番障害。みなと信用金庫の業務システムが、夜間に十六分の応答停止になった日。月曜朝までに直さなければ、窓口に影響が出るところだった。
九月の初め。諏訪マネージャーが「組織の責任として、私が引き取ります。桐谷は学びます。私のチームで育てます」と川島部長の前で置いた一行。十年来のお付き合いの、共同振り返りの重みの中で。
九月の中。斎藤先生との最初の産業医面談。
九月の下。寮の自室で母の電話を切ったあと、一人で泣いた夜。
十月。葉山さんが人事の沢田五郎との面談で異動を決めた朝。
十一月。アユシュくんから「I have a decision to make」と聞かされた昼。
十一月。「とんぼ」で古川先輩の七つの段の話を、ぬる燗と一緒に聞いた夜。
十一月の中頃。間宮先輩の「変革者は孤独。逃げ場を複数持つ」を聞いた夜。
十二月の初め。遠野CTOからCTO室で「半径3メートル」をもう一度置いてもらった日。
十二月の中頃。「とんぼ」で倉田さんの、二十年前の「私の管理責任」の話を聞いた夜。
十二月の終わり。斎藤先生との二度目の産業医面談。「目の色が九月と違う」と置かれた。
一月の半ば。早川からの、年賀の返信。散歩を始めた、と。毎日じゃないけど、と。
一月の終わり。月初の集計画面を、障害になる前に速くできた日。諏訪さんの「読み続けてる人のところにだけ、その運は来る」。一日五ページの約束。
一月。葉山さんがパッケージ事業チームでちゃんと根を張り始めた。
二月。アユシュくんが、三月からのオファーを断ると、先方に伝えた。Koreaの道は消えていない、と。
三月。黒木が、四月に来る新人の受け入れ準備を始めた。
三月。丸山くんがお客様先の物流ドメインの仕事で、下期も評価Aの手応えをつかんだ。来月は応用情報を受ける。
三月。杉本さんが、新年度の社内公募の要項を、毎日確かめ始めた。
三月の第三週。同期六人で、二年目の締めの夜。アユシュくんの「あと一年、やり切る」。葉山さんの「考え抜いてから決めればいい」。
三月の最後の週。今日。
ふっと、頭の中で並びを止めた。
並びは二十行を軽く超えていた。
一年で二十行を超える観察が、僕の半径3メートルの中にそっと置かれていた。一年前の今頃、僕はその輪郭のなかばも、まだ見えていなかった。
手帳の新しいページを開いた。
二年目の終わりの、最後のページ。
ペンを握った。
ゆっくり書いた。
二年目、仕事の質を半分くらいは見られた。
書いてその下に、もう一行書いた。
残りの半分はたぶん三年目で見える。
もう一行書いた。
去年の僕にできなかったことが、いくつかできるようになった。後輩に自分から声をかけること。事業の数字を、自分の書くコードと地続きで読むこと。迷ったとき、自分が地図のどのあたりにいるかを確かめること。
三つとも、まだ上手ではない。ただ、去年は手の中になかった。
もう一行書いた。
諏訪マネージャー、白瀬さん、間宮さん、斎藤先生、遠野CTO、岡崎さん、倉田さん、それから母。皆、僕の半径3メートルにちゃんといてくれた。
もう一行。
葉山さん、黒木、アユシュくん、丸山くん、杉本さん。同期五人も僕の半径3メートルのいちばん近いところにいてくれた。
もう一行。
森山翼くん。後輩は一人。来年はたぶんもう一人増える。
もう一行。
立花さん、古川先輩、赤坂さん、牧野さん、江口さん、大沢さん。半径3メートルの中でぴくっとする人たちも、ちゃんと半径3メートルの中にいた。彼らも観察の対象。
六行、並んだ。
六行の下にしばらくペンを止めた。
書きたい一行が頭の中でなかばくらいもうできていた。残りはまだふっと浮かんでいなかった。
空を見上げた。
四方の山に囲まれた、盆地の薄い灰青の空。雲が薄くゆっくり流れていた。
雲の流れる速度に合わせて、僕の中でなかば浮かんでいた一行が、ふっと残りのかたちを整えた。
ペンをもう一度握った。
ゆっくり書いた。
三年目、自分の選択をする。
書いた一行をしばらく見ていた。
書いた一行の下に、もう一行書き足した。
悩み方のぎりぎりまで悩む。葉山さんが置いてくれた一行を忘れない。
もう一行。
ぱりとふっと来る瞬間まで、ゆっくり観察を続ける。丸山くんが置いてくれた一行を忘れない。
もう一行。
観察のコレクションが自分の軸になる。斎藤先生が置いてくれた一行を忘れない。
もう一行。
半径3メートルから始める。それ以外は続かない。遠野CTOがもう一度置いてくれた一行を忘れない。
四行。
その四行を書いて、僕は手帳を軽く閉じた。
手帳をリュックに戻した。
ベンチから立ち上がった。
マフラーの端を軽く整えた。
もう一度カメラを軽く構えた。
目の前の、城跡公園のお堀の跡の薄く積もった雪と、土塁の手前の桜の蕾を画面に収めた。
ふっとシャッターを押した。
一枚。
今日の、二年目の最後の一枚。
土塁をゆっくり降りた。
階段の雪は午後の光でもう少し湿っていた。手すりに片手を置いて、一段ずつ降りた。
城跡公園の入り口。
桜並木通りに戻った。
通りの向こうの桜の枝の連なりを、もう一度目で追った。
ふと通りの遠くに、人影がふたつ見えた。
スーツケースを引いている若い男性がひとり。それから、別の方向から歩いてくるリュックを背負った若い男性がもうひとり。
遠目だった。
スーツケースの男性のスーツの新しさ。リュックの男性の靴の、ぴかぴかの新品の艶。
……たぶん、新卒。
胸の内でつぶやいた。
今日は三月の最後の土曜日。五日後の木曜日が入社式。寮への引っ越しを一足早くする新卒なのかもしれない。スーツケースの男性はまっすぐ寮のほうへ。リュックの男性は駅のほうへ、たぶんいったん地元に戻る。
一年前の三月の最終週の僕も、寮の入り口の前でスーツケースをすっと置いた。
二年前の三月の最終週の僕も、まだ地元から特急に乗る前の準備の中で、寮の段ボールをひとつずつ詰めていた。
目の前の二人の新卒は、たぶん僕の二年前と似た日々を、これからヨキエルの三階のフロアでゆっくり形作っていく。
彼らが桜並木通りで雪と蕾の偶然に出会うのは、たぶん五十回くらい後の三月の最終週かもしれない。それまでに彼らも、たぶん観察のコレクションをいくつか貯める。
……来年度、僕はたぶん彼らの先輩。
胸の奥でつぶやいた。
一年前、桜並木通りで新卒の二人が「九時半、九時半」と繰り返しているのを、僕はバス停の後ろで聞いていた。
今年もたぶん、同じ場所で同じ会話が繰り返される。今年の新卒の中の一人は、もしかしたら僕の隣の島に配属される。森山翼くんに続く二人目の後輩。
彼がヨキエルに来た最初の朝、僕はたぶん自分から声をかける。
……僕から、声をかけよう。
一年前の自分の言葉が、今日もう一度内心で軽くぱきっと立った。
一年前のあの一行は、今日もまだ消えていなかった。
消えていなかった上に、今日の一行は、一年前より少しだけ具体的だった。
……来週から、研修期間。
胸の内でつぶやいた。
研修期間のあいだ、桜並木通りや、ヨキエルの一階ロビーや、寮の食堂で、新卒に会ったら、まず名前を覚える。覚えた名前を、自分から呼ぶ。呼んだあとに、「桐谷蒼太です、二年目です、よろしく」と短く言う。短く言うだけでいい。
二年前、僕は自分の名前を覚えてくれた間宮先輩や、白瀬さんや、諏訪マネージャーから、まずその短い一行をもらった。一年前、僕は森山翼くんに同じ短い一行を返した。今年も、たぶん新しい誰かに、同じ短い一行を僕の口で返す。
名前を呼んで、挨拶をする。それだけのことを、ちゃんと自分から置く。
……それだけ。
胸の奥でもう一度つぶやいた。
それだけのことが、二年前の僕の半径3メートルのいちばん端のところから、今日の僕の半径3メートルのいちばん中心のところまで、ゆっくり移動してきた一行だった。
桜並木通りの入り口、寮のすぐ手前。
立ち止まってもう一度空を見上げた。
四方の山に囲まれた、薄い灰青の盆地の空。
雲がゆっくり流れていた。
ヨキエルでの三年目がもうすぐ始まる。
……三年目、自分の選択をする。
内心でもう一度その一行をつぶやいた。
今日手帳に書いたその一行の意味を、これから一年で僕は自分の目で確かめてノートに書く。
一年前の同じベンチで、僕は「二年目、仕事の質を見る」とつぶやいた。その意味を僕は一年で半分見られた。残り半分はたぶん三年目で見える。
三年目の「自分の選択をする」の意味は、たぶん来年の三月の最終週の、もう一度のベンチでなかばくらい見えている。残りは四年目で見える。
半径3メートルがゆっくり隣の半径3メートルと重なる。重なった先でもう一回り広がる。広がりの中で、僕は自分の選択をひとつずつ置いていく。
風が吹いた。
桜の蕾の上の雪が軽くふわっと揺れた。
雪はふっと軽く、空気の中にかすかに舞った。
舞った雪のかたちの中に、薄桃色の蕾の輪郭がもう一度そっと立った。
冬の残りと春の予感が、同じ場所で軽く混ざった。
僕はゆっくり寮のほうへ歩き始めた。
歩きながら、首から下げたカメラをもう一度軽く手で押さえた。
明日、寮の自室で写真を現像のように画面で確認しながら、新しいノートの最初のページを開く。
最初のページに、今日手帳に書いた一行をもう一度ゆっくり書く。
三年目、自分の選択をする。
書く一行は、二年前の「明日から観察を始める」と一年前の「二年目、仕事の質を見る」と似た形で、しかしなかばくらい別の温度で、新しいノートの最初の場所に置かれる。
その先の白いページを、僕はこれから一年で自分の輪郭でゆっくり埋めていく。
寮の入り口が目の前に見えた。
雪はまだ地面にうっすら置かれていた。
桜の蕾はまだ開いていなかった。
あと一週間か十日。
その間に僕の三年目はぱりと始まる。
ヨキエルでの三度目の四月一日が、もうすぐ来る。
空をもう一度見上げた。
空は淡い灰青で、ぐるりと盆地の上に置かれていた。
その下で、僕は寮のドアを軽く押した。




