第62話「2年目の終わり、同期で振り返る」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
三月の第三週、金曜日の夜七時。
二年目が、終わろうとしていた。年度末で皆の予定が割れる前に、一度ちゃんと集まろう。言い出したのは丸山くんで、招集の一行はいつもの絵文字付きだった。
駅前の居酒屋「かいかん」。一年目の研修明けに六人で初めて杯を上げた店だった。引き戸を開けると、女将さんがいつもの低い声で「いらっしゃい」と言った。
「奥の小上がり、いつもの六人」
「はい」
女将さんは僕の顔を覚えてくれていた。二年で何度目だろうと心の中で数える。三十回は超えている気がした。
奥の小上がり。畳の上の四角い座卓はあのときと同じ位置にあった。座布団もたぶんあのときと同じ赤茶色だ。
葉山さんがいちばん早く来ていた。次が黒木。アユシュくんは寮から歩いて来た。丸山くんは社用車をいったん会社に戻してから歩いて来た。杉本さんが最後で、午後の打ち合わせが少し延びたらしい。
「皆、お疲れ」
葉山さんが座卓の真ん中に軽く手を置いた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「お疲れっす」
「お疲れさまです」
六人で短く声が重なった。
女将さんがお通しと、最初の生ビール五つとジンジャエール一つを並べた。アユシュくんは二年目の途中から薄いお酒以外は基本ジンジャエールに切り替えていた。理由は「日本酒の温度差で研究の集中が切れる」かららしい。
「乾杯」
「乾杯」
「二年目、お疲れ」
「二年目、お疲れ」
「お疲れっす」
「お疲れさまです」
六つのグラスが軽く中心で触れた。音は低くすっと座卓の上に置かれた。
六つのグラスのうち、アユシュくんのひとつだけが明るいオレンジだった。
……飲み物の選び方まで、いちばん理屈っぽい。
心の中で僕はちょっと笑った。その理屈っぽさが、二年たっても少しも削れていないことが、なんだか嬉しかった。
「葉山さん、異動してもう四ヶ月半」
黒木がいつものように短く切り出した。短い問いが座の空気をふっと丁寧に整えた。
「うん、四ヶ月半」
葉山さんは生ビールをひとくち飲んだ。
「どう?」
「ぜんぜん違う」
葉山さんの口調は十月の異動のときよりずっと軽かった。決めた人の声というよりは、決めた先でちゃんと根を張り始めた人の声だった。
「具体的に、どう違う」
今度はアユシュくんが聞いた。
「ひとつめ。1on1がちゃんと三十分ある」
葉山さんは指を一本立てた。
「ちゃんと、毎週?」
「うん、毎週。マネージャーの中本さんは五十代女性。最初の1on1で『あなたのいちばんやりたいことは何ですか』って聞かれた」
「いちばんやりたいこと」
「うん」
「沢田五郎さんの問いと同じ形」
黒木がぼそりと言った。葉山さんは軽く頷いた。
「同じ形。沢田さんが面談の最後で『中本さんは、私が知ってる中でいちばんちゃんと聞く人だから』と置いてくれたのは、たぶん正しかった」
「うん、よかった」
杉本さんが控えめに言った。
「ふたつめ。議事録、振られない」
葉山さんは二本目の指を立てた。
「会議室に入って、女性は私一人のときでも、議事録は若手の男性が当然のように取る」
「マジっすか」
丸山くんが軽く目を見開いた。
「マジ」
「それ、ふつうっすよね本来」
「本来はそう。でもふつうじゃない場所が社内にまだあったということ」
「江口さんとこ」
丸山くんはぼそりと言った。
「うん。丸山くん、ありがとう。よく分かってる」
葉山さんは軽く笑った。笑いの中に、丸山くんがチームBで葉山さんが抜けたあとの空気を一人で背負っているその薄い重さがほんの少し見えた。
「丸山くん、チームB、どう」
「正直、薄いっす」
「薄い、っていうのは」
「葉山さんが抜けてから、なんか空気が薄いっす。江口さんは相変わらず判断しないっす。沢田さんがちょっと、これまで以上に頼られてるっす」
「沢田さん、頑張ってる」
「うん、頑張ってるっす。けど沢田さんもたぶん限界が近いっす」
丸山くんの「っす」はいつも軽い口調だったけれど、今夜はほんの一段低い「っす」だった。
「黒木は、どう」
葉山さんが振り返るように聞いた。
「テックリード補佐、九ヶ月」
「うん」
「奮闘中」
黒木はいつものように短く置いた。
「具体的に」
葉山さんは待った。黒木はしばらくぬる燗のお猪口を見ていた。
「コードレビュー、毎日三件」
「設計レビュー、週二件」
「うん」
「四月から、組込みにまた新人が来る」
「黒木が、迎える側」
葉山さんは軽く笑った。
「黒木、もうすっかり先輩」
「まだ補佐」
「うん、補佐。でも補佐は後輩から見るともう先輩」
「うん、たぶんそう」
黒木は軽く頷いた。
「黒木、ひとつ聞いていい?」
葉山さんが軽く置いた。
「うん」
「テックリード本体、どういう仕事か、もう輪郭は見えてる?」
黒木はぬる燗のお猪口をしばらく見ていた。
「まだよく分かってない」
「分かってない」
「うん」
「うん」
「林さんと白瀬さんを見て真似してる。合ってるかは来年か再来年に分かる」
「お、黒木、それ正直」
葉山さんは軽く笑った。
「うん。正直」
「3年目以降、どうする」
「補佐が取れたら本体に進むつもり。来年か再来年に」
「うん」
「ただ、その先で自分が何をする人になるのかは、まだ輪郭が薄い」
「うん」
「補佐の輪郭は、九ヶ月で半分くらい立った。本体の輪郭は、まだ立ってない」
黒木はそこで短く息をついた。短い息は、一年間、林さんと白瀬さんの背中を見続けた人の息だった。
「給料、上がった?」
丸山くんがぐいっと突っ込んで聞いた。
「変わらず」
「変わらず?」
「うん。補佐は役割。等級は据え置き」
「うわ、それ、テックリード補佐の責任、丸ごと無料っすかね」
「制度の方が、まだ追いついてない」
黒木は軽く笑った。今夜の笑いの中でいちばん皮肉が薄く混じる笑いだった。
「ただ、林さんの相談は、消えてないらしい。来年度、何か動くかもしれない、とだけ聞いてる」
「お、動くといいっすね」
「うん。期待はせず、観察はしてる」
「黒木、それでも続けるんすか」
「うん、続ける」
「なんで」
「技術が好きだから」
その一行を黒木は低く置いた。低さの中に、組込みのCPUと、半年で死んだ金魚一号と、新しく買った金魚二号と三号の輪郭が薄く重なっていた。
「You deserve more」
アユシュくんがぼそりと英語を混ぜた。
「うん、たぶん」
「Salary system, broken」
「うん、broken」
黒木はアユシュくんに軽く頷いた。
……黒木は、一年近く、ほとんど無料で、その責任を背負っている。
心の中で僕はそう思った。一年目、夏の寸志でラズパイを買った黒木。補佐の辞令をもらった夜に「給与、同期と同じだ」とぼそりと置いた黒木。あれから九ヶ月、制度はまだ追いついていない。それでも、一月に諏訪さんが言っていた。声を上げる人が、何人かいる、と。声は消えずに、どこかを進んでいる。
好きだから続けられる。それはたしかに強さだった。でも、好きだということに、会社のほうが甘えていいわけではない。誰かがいつか、この乖離をちゃんと直さないといけない。それが誰なのかは、まだ分からなかった。分からないまま、その一行だけは、今夜の僕の奥にはっきり残った。
「アユシュ、結局、どうなった?」
葉山さんが軽く聞いた。聞き方は急かしていなかった。十一月にアユシュくんが「決めないといけないことがある」と僕に話したことは、たぶん同期の中でもうふんわり共有されていた。
アユシュくんはジンジャエールをひとくち飲んだ。
「三月からのオファーは、断った」
その一行は低くまっすぐ置かれた。日本語だった。
「断ったの」
「うん。先方には、二月に伝えた」
「韓国、やめたの?」
丸山くんが思わず聞いた。アユシュくんは首を振った。
「Koreaの道は、消していない。やめたのは、途中で投げ出すこと」
「途中で、というのは」
「研修員、three years。私、まだ二年。論文も、まだ書いてない。ここで覚えたいこと、まだ残ってる」
アユシュくんはジンジャエールを軽く置いた。
「三月から来い、と言われて、はい、と言うのは、簡単だった。でも、それだと私、ヨキエルの三年を、欠けたまま持っていくことになる」
「うん」
「だから、断った。向こうは、また声をかける、と言ってくれた。声がかからなかったら、それはそれ。私の実力の話」
その言い方には、強がりの色がなかった。理屈っぽい人の、理屈で支えたまっすぐさだった。
「アユシュ、ひとつ聞いていい?」
葉山さんが言った。
「Yes」
「断るの、怖くなかった?」
アユシュくんは少し考えた。
「怖かった。オファーは、いつも一回きりに見える」
「うん」
「でも、私、最初の年、孤独だった。言葉の壁、宗教の壁、食べ物の壁。全部あった。それでも、この五人がいて、二年、続いた。今は、孤独の中でも、半径3メートルを自分で作れる気がする。それ、ヨキエルで覚えた」
「うん」
「作れるなら、どこへ行っても、いつ行っても、たぶん大丈夫。だから、急がなくていい。そう思ったら、怖さ、半分になった」
その一行は、まっすぐ座卓の真ん中に置かれた。
誰もすぐには応えなかった。応えない数秒が、いちばんちゃんとした返事だった。
「Take your time、はアユシュの台詞だったね」
葉山さんが少し笑った。
「うん。自分にも、言った」
アユシュくんも少し笑った。
「丸山くんは、どう」
葉山さんが丸山くんのほうに軽く振り返った。
「俺っすか」
「うん、丸山くん」
「俺はまだチームBっす」
「葉山さんが抜けていちばん辛いのは、たぶん俺っすけど」
「でも辛い中でひとつ見えたっす」
「見えた、というのは」
丸山くんはお通しの枝豆をひとつ口に入れた。
「物流、いけそうっす」
「物流」
「うん。俺、運送ドライバー七年。物流の現場は、たぶん同世代の中ではいちばん知ってる」
「最近、お客様先で現場の話を現場の人とちゃんとできるようになった。SEっていうより物流の中の人寄りに見えるらしいっす」
「お、いい」
葉山さんは生ビールをすっと持った。
「丸山くん、物流のドメインエキスパート」
「ドメインエキスパート、なんすかね」
「うん、たぶんそう」
「俺、横文字苦手っす」
「ドメインエキスパートというのは、ある領域に深く詳しい人」
「ああ、それならたぶんなってる」
丸山くんは軽く頷いた。頷きの中に、運送会社時代の七年の積み重ねとヨキエル二年の積み重ねがふたつ薄く並んでいた。
「最近、桐谷さんからも教わったっす」
「俺から?」
僕は思わず聞き返した。
「うん。去年、桐谷さんがLTから帰ってきた夜、寮の共用ラウンジで」
「ああ、岡崎さんの会の夜」
「うん、その夜。『ドメインエキスパートって、世の中ではそう呼ぶらしい』って桐谷さんが教えてくれたっす」
「うちの会社にはない言葉、でしょ」
「ない」
葉山さんがそっと頷いた。
「世の中にはある。うちにはない。でも、たぶん俺がやってるのは、その仕事っす」
「3年目以降は、どうする」
「物流の現場を見続ける人になりたいっす」
「お客様先の倉庫、トラックの配車、伝票のフロー。ぜんぶ俺の中にちゃんと立てたい」
「お、いい」
葉山さんは生ビールをすっと持った。
「あと、来月、応用情報っす」
丸山くんがちょっと胸を張った。
「お、いよいよ」
「桐谷さんの過去問のメモ、効いてるっす。アルゴリズムのとこ、配送の最短ルートだと思えば、いけるっす」
「丸山くん、それ、いちばん強い覚え方」
葉山さんが笑った。僕も笑った。一月の夜、頬が熱くなったあの恥ずかしさが、二ヶ月かけて、こういう形で戻ってくるとは思っていなかった。
「丸山くん、評価、上がった?」
黒木が短く聞いた。
「上期、初Aもらったっす。下期も、手応えあるっす」
「お、A」
「初A」
「いいね」
「うん、いいっす」
丸山くんは嬉しそうに笑った。笑いには、嬉しさの輪郭がちゃんと淡くまっすぐに置かれていた。
「杉本さんは、どう」
葉山さんが杉本さんのほうに振り返った。
「私ですか」
「うん、杉本さん」
「私、最近考えてることがひとつあって」
杉本さんは控えめに、しかしちゃんと自分の言葉で始めた。二年でいちばん声の輪郭がはっきりしてきた人かもしれないと僕は思った。
杉本さんの足元の鞄から、付箋が何枚もはみ出した分厚いシラバスの束が覗いていた。テストの、ひとつ上の級のものだった。
「考えてること、というのは」
「私、テストを、もっと深く極めたいと思っていて」
「テスト」
「はい。一年目に真鍋さんに教わって。同値分割とか、境界値とか。最初は、言葉を覚えただけでした。でも二年目に、ほんとうの仕様で使ってみて、わかったことがあって」
「わかったこと」
「テストは、コードだけを試す仕事じゃない、ということ」
杉本さんはジャスミン茶のグラスを両手で包んだ。
「要件定義書も、仕様書も、設計書も、ぜんぶ、テストの対象でした。お客様の要件の、書かれていない隙間。仕様の、食い違い。設計の、抜け。いちばん上流の言葉のところで、もう、壊れ方は始まっていて」
「上流」
「はい。文学部で、写本の異同を、別の写本と並べて、違いを探していました。あれと、同じでした。要件の言葉を、別の角度の言葉と並べて、ずれを探す。私、たぶん、それが得意で」
杉本さんは少しだけ口の端を緩めた。
「真鍋さんに、言われました。あなたの文章を読む力は、要件定義でも、仕様でも、レビューでも、テスト設計でも、ぜんぶで効く、強い武器になる、って」
「武器」
「はい。文系で、IT未経験で入ってきて。ずっと、引け目でした。でも、言葉の力は、ちゃんと技術の現場で武器になるって。それが、嬉しかったです」
その一行を、杉本さんは、少しだけ誇らしそうに置いた。
「ひとつ上の級は、一度、落ちました」
「落ちた」
「はい。この夏に。テストを読む力は、写本みたいには、すらすらいかなくて。悔しかったです」
杉本さんはそこで一度、言葉を止めた。
「でも、悔しくて。だから、もっと深く知りたくなって。三か月あけて、春に、もう一度受けます」
「うん」
「黒木くんの、テックリード補佐の話を聞いてから、思って」
「思って」
「黒木くんが、まだ完成していないロールに、手を挙げた話」
「ああ」
黒木が短く聞き返した。
「私も、手を挙げる側になりたくて。ヨキエルで、テストを、品質を、ちゃんと一本、立てる側に。品質は文化です、って、真鍋さんが言っていて。一人じゃ守れない。組織で守る。その文化を、私が、つくる側になりたいです」
「お、それいいね」
葉山さんが軽く頷いた。
「SWEBOKの地図にも、ありますよね、テスト」
「あるある。Software Testing、っていう、一本」
杉本さんはそこで少しだけ口の端を緩めた。
「ヨキエルの地図の上で、その場所を、私が、もっと太くしたいです」
「太くする、っていうのは、いい」
葉山さんは生ビールをひとくち飲んだ。
「いいね」
「ありがとうございます」
杉本さんは控えめに頭を下げた。控えめの輪郭の奥に、ちゃんと自分の二年で見つけた軸が、淡く、でも確かに立っていた。
そういえば先週、杉本さんは、東京のJaSSTというテストの集まりに、二年続けて行ってきたと言っていた。外には、テストを生業にしている人が、たくさんいる。その人たちに会うと、自分の場所が、すこし広く見える、と。
「桐谷くんは、どう」
葉山さんがいちばん最後に僕のほうへ振り返った。
五人の視線がふっと僕のほうに集まった。集まり方は急かしていない。二年、何度も繰り返してきたゆっくりした集まり方だった。
「僕は」
僕は生ビールをひとくち飲んだ。半分くらいまで減っていた。
「まだ迷ってる」
「迷ってる、というのは」
「三年目で何を選ぶか、まだ決まってない」
「うん」
「皆みたいにテストとか研究とかドメインエキスパートとか補佐とか、そういう明るい一行がまだ僕の中に置かれてない」
「うん」
「観察は続ける」
「うん」
「ただ観察の先に何を選ぶかは、まだ見えてない」
その一行は自分でもちょっと寂しい温度だった。
寂しい温度が座卓の上にふっと置かれた。
葉山さんはしばらく黙って僕の顔を見た。
「桐谷くん」
「うん」
「桐谷くんは桐谷くんで、考え抜いてから決めればいい」
その一行は、葉山さんが十月の異動を決めたあとのまっすぐな温度で置かれた。
「考え抜いてから」
「うん」
「私、十月の異動はぎりぎりまで悩んだ。そのあとは迷わなかった」
「悩み方のぎりぎりまでをちゃんと悩むことだけは大事」
「悩み方が浅いと、決めたあとでぐらつく。悩み方がぎりぎりまで深いと、決めたあとはぐらつかない」
「桐谷くんは悩み方が深い人」
葉山さんは軽く笑った。
「だから桐谷くんは桐谷くんで、考え抜いてから決めればいい」
「うん」
黒木が短く同意した。
「Take your time」
アユシュくんもジンジャエールを軽く持ち上げた。
「桐谷さん、急がなくていいっす」
丸山くんが軽くすっと置いた。
「桐谷くんならちゃんと選べます」
杉本さんが控えめに、しかししっかり置いた。
五人の声がふっと座卓の真ん中に丁寧に重なった。重なり方は、二年目の前半、寮の共用ラウンジでLT前夜に同期五人が僕のスライドを直してくれたあの夜の重なり方と似た形だった。
半径3メートルがここにあった。
僕はふっと息を吐いた。
吐いた息の中で、寂しい温度の一行が軽く溶けて別の温度に変わった。
「皆」
「うん」
「ありがとう」
短い一行だった。
「うん」
葉山さんは軽く頷いた。
「桐谷さん、最後にひとつ聞いてもいいっすか」
丸山くんが軽く手を上げた。
「うん」
「桐谷さん、観察、何が増えました?」
「何が、増えた」
「うん。二年目の最初と今で、観察、何が増えました?」
その問いは丸山くんらしいまっすぐな問いだった。一年前ならたぶんこういう問いは丸山くんから出てこなかった。出てくるようになったのは、たぶん丸山くんの中で物流ドメインの輪郭がはっきりしてきて、自分以外の人の領域にもちゃんと興味を持てるようになったからなのかもしれない。
「ひとつ。観察は、自分にも向くと、最近分かった」
丸山くんが頷いた。
「ふたつ。観察は、領域を超えると、最近分かった」
もう一度、頷く。
「みっつ。観察を続けると、似た温度の言葉が、別の口からもう一度出てくる」
「うん」
「諏訪さんの『組織の責任として、私が引き取ります』と、二十年前の元社長さんの『私の管理責任です』。形は違うんだけど、責任を引き受ける一行が、別の口から出てきた」
「『半径3メートル』を、遠野CTOと産業医の斎藤先生の医療の先輩の両方が口にした」
「うん」
「似た形の言葉が何度も別の口から出るのが、本物の言葉らしい」
「お、いい観察」
丸山くんは軽く頷いた。
「桐谷さん、観察のコレクション増えたっすね」
「コレクション」
「うん。さっき桐谷さん、自分のコレクションが増えた、って言ってたっす」
「うん。斎藤先生にそう言われた」
「コレクションが増えると、たぶん何を選ぶかいつかふっと見える日が来るっす」
「ふっと、見える」
「うん。俺、運送のドメインがふっと見えたのは二年目の十月くらいっす。それまではぼんやり見えてなかった」
「丸山くん、二年目の十月、何があった」
「お客様先で物流の現場のおっちゃんから、『丸山くん、現場、分かるね』ってぱりと一行もらったっす」
「うん」
「ぱりと一行もらった瞬間、自分の中で軸が置かれた」
「ぱりと」
「うん、ぱりと」
丸山くんの「ぱりと」は、最近の同期の間で共通の音になっていた。たぶん「とんぼ」の大将のお通しの置き方の音から僕の口を経由して、丸山くんにもふっと移っていった音だった。
「桐谷さんもいつかぱりと来るっす」
「来る?」
「来るっす。来るまでゆっくり観察を続ければいいっす」
「うん」
「俺は桐谷さんがいつかぱりと一行をもらう瞬間、たぶん隣で見てるっす」
丸山くんは軽く笑った。今夜の中でいちばん明るい笑いだった。
夜九時半。
女将さんが〆のおにぎりとお味噌汁を六つ、座卓の上に並べた。お米は地元の新米。お味噌汁はなめこと油揚げ。
六人で短く食べた。
食べながら葉山さんがぽつりとこう言った。
「来年の今頃、また六人でここに集まれるか、分からない」
その一行は低く淡かった。
アユシュくんの道は、消えていない。杉本さんの春の再挑戦も、どこへ繋がるか分からない。誰も否定しなかった。否定する代わりに全員が軽く頷いた。
「集まれなくなっても、皆それぞれの場所で頑張る」
葉山さんは続けた。
「それでも丸二年、同期だったことは、消えない」
「うん」
「うん」
「Yes」
「うん、消えないっす」
「消えない」
五つの「うん」と「Yes」と「っす」と「です」が明るく座卓の上に重なった。
〆のおにぎりを全員が食べ終わるまで、十五分くらいかかった。
夜十時。
六人で会計を済ませた。一人四千五百円。
引き戸をからりと開けた。
外の夜気は、まだ冷たかった。けれど、冬の冷たさとは、もう違っていた。ゆるんだ冷たさだった。
桜並木通りまで五分。
六人で軽く並んで歩いた。
街灯の光の下、桜の枝には固い蕾がぽつぽつと並んでいた。先のほうのいくつかは、もう薄く膨らみ始めていた。
桜並木通りの入り口を、六人でそのまま抜けた。
帰る先は、六人とも同じ寮だった。
桜並木通りの街灯の下を、僕たち六人はゆっくり歩いた。アユシュくんが時々、枝の蕾を見上げた。断った人の横顔は、思ったより静かだった。
寮の自室。
夜十時半。
部屋の電気を軽くつけた。
机のスタンドの灯りもつけた。
ノートを開いた。新しいページに三月の第三週、金曜日の日付。
「二年目の終わり、同期で振り返る」と見出しを入れた。
その下に六人の輪郭を一行ずつ並べた。
葉山さん、パッケージ事業チームに異動して四ヶ月半、空気が違う。根を張り始めた。
黒木、テックリード補佐九ヶ月、給料据え置き、それでも続ける、技術が好きだから。声は消えずに進んでいる。
アユシュくん、三月のオファーを断った。あと一年、やり切ると決めた。Koreaの道は、消えていない。
丸山くん、物流ドメインエキスパート、上期A、来月は応用情報。運送七年の積み重ねが生きた。
杉本さん、テストを極める、品質を文化に。文章を読む力が、武器になる。
桐谷蒼太、まだ迷ってる、悩み方のぎりぎりまで悩む。
六行の輪郭は淡く青いインクで薄く置かれていた。
六行の下にもう一行。
葉山さんが置いた「考え抜いてから決めればいい」、その一行がいちばん僕に効いた。
もう一行。
丸山くんの「ぱりと一行がふっと来る瞬間」、まだ僕には来ていない。来るまでゆっくり観察を続ける。
もう一行。
アユシュくんの「孤独の中でも、半径3メートルを自分で作れる気がする」。あの一行は、たぶん今夜のいちばんの持ち帰りだった。半径3メートルは、場所に付くのではなくて、人に付く。だから、いつか持って行ける。急がなくて、いい。
もう一行。
丸二年、同期だったことは、消えない。
最後にもう一行。
三年目、僕はどうするか。
その一行を書いて、しばらく見ていた。
書いた一行の下には、白紙が残っていた。
……同期六人が、それぞれ違うロールを作っている。
心の中で僕はつぶやいた。
黒木が補佐に手を挙げたから、杉本さんはヨキエルのテストと品質の場所を、もっと太く立てようと思った。杉本さんが輪郭を立てたから、葉山さんは合流する場所が見えた。丸山くんは物流のドメインエキスパートとして並び、アユシュくんは韓国の研究の場所へ向かう。
刺激は一方向じゃない。座卓を囲んでいるあいだ、お互いの選択がお互いの選択を軽く押し出していた。
……同じ一枚の地図の上で。
二年近く前、遠野CTOがホワイトボードに描いたSWEBOKの十八本の線が、ふっと頭の中に戻ってきた。あの地図の上で、五人はそれぞれ自分の場所をまだぼんやりと確かめ始めていた。五つの場所が薄く並んでいた。テックリード補佐、テストと品質、ドメインエキスパート、パッケージ事業、研究エンジニア。
ぜんぶ違う場所。でも、同じ一枚の地図の上。
……地図を持つと、迷ったときに、楽になる。
遠野CTOのあの一行が、二年近く遅れて、別の温度で座卓の上に薄く立ち上がっていた。
僕の地図の上の場所だけ、まだぼんやりとしていた。
白紙のまま、しばらく置いた。
白紙のままで今夜はいいと思った。
ノートを閉じた。
窓の外、三月の第三週の夜。
街灯の光の下で、桜並木通りの蕾は固く、けれど確かに膨らみ始めていた。あと半月もすれば、あの蕾が半分開く。三度目の春の桜を、六人はたぶん、まだ同じ街で見る。その先は、分からない。分からないままで、今夜はよかった。
ふと一年近く前の四月一日、僕がノートに「二年目、仕事の質を見る」と書いた朝のことを思い出した。あの朝の僕はまだ「仕事の質」という言葉の輪郭を半分も分かっていなかった。
今夜の僕はその輪郭の半分くらいはたぶん見えている気がした。
残りの半分は三年目でゆっくり見えてくるのだろうと思った。
机のスタンドを軽く消した。部屋の灯りも消した。
暗闇の中で目を閉じた。
六人で「乾杯」と声を重ねたあの最初の音が、まだ僕の耳の奥に薄く残っていた。
来年は、誰かの最初の一杯に、僕が立ち会う側にいる。その予感だけが、耳の奥の「乾杯」と一緒に、まだ小さく鳴っていた。




