第61話「続ける、ということ」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
一月の第二週、月曜日。
松の内が明けて、港川の街は、ふだんの顔に戻りつつあった。桜並木通りの枝には、年末に降った雪が、日陰のところにだけ、まだ薄く残っていた。冷えた朝の空気の中を、白い息を吐きながら歩いた。
歩きながら、スマホをひとつ確かめた。
元日に送った年賀のLINEへの、早川からの返信だった。届いたのは昨日の夜。三が日からは、少し遅れて。
早川:あけおめ。返事、遅くなった
早川:少しずつ。年末から、散歩を始めた
早川:川沿いを三十分。毎日じゃないけど
三行だった。
短いけれど、去年の冬の、返事が何日も遅れていた頃を思えば、三行は長かった。散歩。毎日じゃないけど。その「毎日じゃないけど」の力の抜き方が、なんだかいちばん、回復の音に聞こえた。
……早川は、早川の続け方を、見つけ始めてる。
心の中で、そうつぶやいた。
線の向こう側に行ってしまった友人が、自分の足で、少しずつ歩いている。だったら、線のこちら側にいる僕は、何を続けているだろう。
その問いが、通勤の足元に、小さな石みたいに転がった。
正直に言えば、止まっているものが、ひとつあった。
勉強だった。
応用情報には、夏に受かった。合格の一時金で、技術書を二冊買った。SQLの性能の本と、設計の本。秋のあいだは、リードタイムの計測と並行して、少しずつ読んでいた。
止まったのは、十二月だった。
年末の締め切りが続いて、賞与の面談があって、忘年会があって、仕事納めがあった。どれも、言い訳としては上等だった。気がつくと、二冊の本は机の端に積まれたまま、表紙にうっすら、埃が乗っていた。
……結局、僕も続かないのか。
年明けの夜、その埃を指でなぞりながら、心の中でつぶやいた。
試験までは、続いた。受かったら、止まった。点を打ったら、線が止まった。資格というのは点で、勉強というのは線のはずだった。僕は点をひとつ打って、それで満足して、線を引く手を、いつのまにか止めていた。
古川先輩の七つの段の話を、思い出した。一段ずつ、降りていった人の話。降りる段は、いつも、こういう顔をして始まるのかもしれなかった。忙しさという、誰にも責められない顔をして。
その夜、九月のあの重さが、少しだけ背中に戻ってきた。机の前に座っても、しばらく指が動かなかった。
……また、来た。
でも、前の秋ほど深くは沈まなかった。斎藤先生の四つの言葉と、三ヶ月分のコレクションのいちばん下の一行が、足場として、ちゃんと残っていた。立ち上がって、白湯を一杯いれて、もう一度、机に戻った。
落ちて、それでも、足場があったから、浅いところで止まれた。回復というのは、たぶん、一直線ではなかった。
水曜日の夜、同期のLINEが動いた。
丸山:報告っす。俺、春の応用情報、受けるっす
丸山:物流のお客さんと話してると、分かんない言葉、まだ多くて
丸山:倉庫のおっちゃんたちの役に立つなら、二進数の続きも、覚えますよ
丸山くんらしい三行だった。
葉山:丸山くん、また教えるよ
丸山:葉山さん、神っす
杉本:私も、春は何か受けようかな
アユシュ:応援する。Keep going
画面の中で、同期たちが軽く跳ねていた。
僕は、何と返そうか、少しのあいだ迷った。
丸山くんは、基本情報のとき、机の勉強は苦手だと泣き言を言いながら、一番に手を挙げた人だった。その丸山くんが、誰に命じられたのでもなく、次を受けると言っている。理由は試験ではなくて、倉庫のおっちゃんたちだった。
僕は、もう持っている側だった。持っている側の僕の机の上で、二冊の本に埃が乗っていた。
桐谷:丸山くん、応援する。過去問のことなら、聞いて
それだけ打って、スマホを置いた。
置いてから、頬のあたりが少し熱いことに気づいた。恥ずかしさだった。誰にも見えない種類の、自分にだけ見える恥ずかしさだった。
週末、寮の共用ラウンジに、お茶を取りに降りた。
黒木がいた。
机の上に小さな基板を広げて、何かをいじっていた。細い配線と、小さなセンサーが、つながっていた。
「それ、川の、水位のやつ?」
「うん」
黒木は、手を止めずに答えた。
「実家に置いてきたのの、二号機。冬の川は水位が下がるから、センサーの位置を変える」
「忙しいのに、よく続くね」
僕は思わず言った。テックリード補佐になってから、黒木の平日は、目に見えて長くなっていた。
黒木は、少し考えてから、首を振った。
「続けてる、っていう感じじゃ、ない」
「えっ」
「作りたいから、作ってる。それだけ」
黒木は、基板の上のセンサーを、指で軽く直した。
「気合で続けてるわけじゃ、ない。気合だと、忙しいと止まる」
……気合だと、忙しいと止まる。
心の中で、その言葉を繰り返した。
僕は秋に、勢いで本を読んでいた。計測が面白くて、その勢いのまま読んでいた。だから、十二月に忙しくなったとたん、止まった。黒木は、勢いでも気合でもないところで動いていた。だから、忙しくても、細く続いていた。
とんぼの大将を、思い出した。三十年近く、毎日少しずつ、出汁を変える。一気にやるのでも、根性でやるのでもない。生活の中に小さく置いて、止めない。倉田さんは、それを研鑽と呼んでいた。
僕はたぶん、続け方を間違えていた。
その夜、自分の部屋で、二冊の本の埃を払った。そして、一日五ページだけ、と決めた。多い日も、少ない日も、五ページ。疲れた日は、一ページでもいい。読めない日があっても、次の日にまた開く。止めないことだけを、自分との約束にした。
諏訪さんが、一年目の最初の1on1で言っていた。一日十ページでいい、と。あのときは宿題の量の話だと思っていた。たぶん、違った。あれは、続け方の話だった。一年半経って、あの言葉の意味が、ようやく自分の言葉になった。
一月の下旬、顧客から、ひとつの指摘が届いた。
障害ではなかった。月初に使う集計の画面が、このごろ、開くのに時間がかかる、という連絡だった。何秒、と数字が添えられているわけでもない。「少し、待たされる感じがする」という、現場の体感の言葉だった。
その文面を読んだ瞬間、九月の金曜の夜の、あの冷たさが、背中を一瞬だけ通った。
ロード中のまま止まった画面。月曜朝の窓口。あの夜、遅さは、障害という形になってから、僕の前に現れた。
……今度は、形になる前に、来てくれた。
心の中で、そう思った。体感の言葉のうちに気づけるなら、数字になる前に、直せる。
僕はその画面のコードを、もう一度開いた。ログを一行ずつ追うやり方は、九月のあの夜に、嫌というほど身についていた。
原因は、思ったより素直な場所にいた。一覧を表示するたびに、一件ずつ、同じ問い合わせを何度も繰り返している。データが増えるほど、繰り返しも増える。導入から一年近く経って、顧客のデータは、着実に増えていた。
五ページずつ読んでいたSQLの本の、ちょうど先週のページに、その形が載っていた。まとめて一度で問い合わせる書き方と、検索に使う列へのインデックス。試験のために覚えたときは、四択の選択肢のひとつだった知識が、本の中では、誰かの待ち時間の話として書かれていた。
書き直してみた。それから、白瀬さんに相談して、インデックスをひとつ足した。
検証環境で動かすと、画面は、目に見えて速くなった。
数字でいえば、ほんの数秒。けれど、その画面を、顧客の担当者は月初に何百回も開く。月初のその人の半日が、少しだけ短くなる。
……届いた。
心の中で、つぶやいた。
九月の僕は、止まった画面の前で、自分の手の一行に青ざめていた。一月の僕は、止まる前の画面を、自分の手の一行で軽くできた。同じ「遅さ」なのに、立っている場所が、線の手前と向こうくらい、違っていた。
白瀬さんが、レビューにこう書いてくれた。
「速くなったね。これ、何をやったか、簡単でいいから、チームのドキュメントに残しておいて。他の人も、同じ場所で詰まるから」
僕は自分がやったことを、短い文章にまとめた。何が遅かったのか、どう直したのか、どうすれば早く気づけるか。最後の一行には、計測の話を足した。画面の応答時間も、リードタイムと同じで、測っていれば、体感より先に気づける。
書きながら、思った。九月の障害の再発防止策の、いちばん末端の一行を、僕はいま、自分の手で書き足している。
一月の最後の週、諏訪さんとの月例の1on1だった。
「桐谷くん、集計画面の件、お客様から、お礼の連絡が来てた」
「はい」
「気づいてから直すまでが、早かった。九月のときと、何が違った?」
諏訪さんの聞き方は、責める角度ではなくて、本当にただ、聞く角度だった。
僕は少し考えてから、答えた。
「九月は、障害になってから、調べ始めました。今回は、体感の言葉のうちに、調べ始められました。それと」
「それと?」
「ちょうど、読んでいた本のページに、答えの形がありました。運が良かったのだと思います」
「運じゃないよ」
諏訪さんは、少し笑った。
「読み続けてる人のところにだけ、その運は来るから」
その一行は、まっすぐ来た。僕は、十二月の埃のことを思い出して、何も言えずに、ただ頷いた。続けていなかった一ヶ月が、僕にはちゃんとあった。それでも、もう一度開いた先のページが、今回の運を連れてきた。止めた事実と、再開した事実。両方とも、本当のことだった。
「あのリストね」
諏訪さんが、ふと続けた。
「資格の一時金の、対象リスト。来年度、見直しの話を、上にあげてみようと思ってる」
「あの、古いっていう」
「うん。品質と速度を上げようっていう会社の、資格のリストが昔のままなのは、やっぱりおかしいから。それにね」
諏訪さんは、半秒だけ、言葉を選んだ。
「紙の資格には一時金が出て、新しい役割の責任には、まだ何も出ていない。そういう声も、ちゃんと拾われ始めてる。私の管轄の外の話だけど、声を上げる人が、何人かいる」
……黒木の話だ。
心の中で、僕は静かに確かめた。六月の夜、座敷の温度を半度下げた、あの「給与、同期と同じだ」の一文。林さんが上に相談すると言っていた話。あれから半年、声は、消えずにどこかを進んでいた。
遠野CTOの言葉を、思い出した。半径3メートルだけ、ちゃんと変える。制度というのは、たぶんこういう速度で、誰かの半径3メートルから動き出す。
「楽しみにしています」
僕がそう言うと、諏訪さんは「まだ、あげてみるだけ」と言って笑った。
諏訪さんは湯呑みを軽く両手で包み直した。
「先週の全社会議、桐谷くんも出ていましたね」
「はい」
「遠野CTOの三つの方針、いつもと同じ順番でしたね」
「品質、開発速度、エンジニアが長く働ける組織、の順です」
「うん。二年目の私たちは、あの三つのうちの一つ、開発速度のところに、白瀬さんと一緒に半歩、踏み出したことになる」
「はい」
「三年目の桐谷くんが、どこにどう半歩を踏み出すかは、桐谷くん次第です」
諏訪さんはそれだけ言って、湯呑みをテーブルに戻した。
僕はその一行を胸の内に置いて、面談室を出た。
寮の自室。机のスタンドの灯りの下で、ノートを開いた。
新しいページに、一月の終わりの日付。
「続ける、ということ」と、見出しを入れた。
その下に、いくつかの行を、並べた。
資格は、点。勉強は、線。点を打って、線を止めていた。
丸山くん、春に応用情報。理由は、倉庫のおっちゃんたち。
黒木「気合だと、忙しいと止まる」。作りたいから、作る。
大将の出汁。一日五ページ。止めないことだけを、約束にする。
集計画面、速くなった。障害になる前の遅さを、直せた。九月との差は、たぶん、続けていた分。
諏訪さん「読み続けてる人のところにだけ、その運は来る」。
資格のリスト、来年度、動くかもしれない。声は、消えていなかった。
最後に、もう一行。
早川、散歩を続けている。毎日じゃなくて、いい。僕も、毎日じゃなくて、いいから、止めない。
ノートを閉じた。
窓の外、一月の夜気。桜並木通りの枝は、雪も葉もなく、ただ静かに、春の準備をしていた。
二年目が、終わりに近づいている。三年目の手前で、僕はようやく、続け方というものを、ひとつ覚えた気がした。一日では、Bの店になれない。一年でも、まだなれない。それでも、毎日少しずつ、出汁を変えるように。
明日も、五ページ。
それだけ決めて、灯りを消した。




