第60話「斎藤先生、二度目の面談」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十二月の最終週、月曜日の午後三時。
社内SlackのリマインダーがPCの右下に小さく光った。「定期産業医面談:斎藤千夏先生/15時半/産業医室」。九月の面談からちょうど三ヶ月経っていた。
通知を消して、画面のリードタイム集計のタブを閉じた。
白瀬さんに軽く声をかけた。
「白瀬さん」
「うん」
「産業医面談、行ってきます」
「うん、行ってきて」
白瀬さんの返事はいつもの短いやつだった。声に「いいね」の色が薄く混じっていた。九月の最初の面談のときは、たぶん白瀬さんの中にもちょっとした気配りがあったはずだった。今日のは気配りより、いってらっしゃい、のほうが前に出ていた。
産業医室は三階の南側、廊下のいちばん奥。冬の窓の光がほどよく差し込む、明るい部屋。
ノックを二回、軽く。
「失礼します」
「はい、どうぞ」
ドアを開けた。
斎藤千夏先生はいつもの白衣で、応接の小さな丸テーブルの向こうに座っていた。机の上にお茶のペットボトルが二本、湯呑みが二つ。部屋の配置は九月のときとほぼ同じだった。
「桐谷くん、お久しぶり」
「お久しぶりです」
「座って」
椅子を引いた。腰を下ろした。
斎藤先生は僕の顔を軽く見た。診察というほどの目ではなかった。久しぶりに会った知人をふっと確かめる種類の目だった。
「お茶、開けるね」
「はい、いただきます」
ペットボトルのキャップがぱりと開いた。お茶が湯呑みに注がれた。淡い湯気が薄く立った。
「桐谷くん、最近、どう?」
九月のときと同じ問い方だった。
あの日の僕はこの問いに「……あまり、よくないかもしれません」と答えた。声は半分くらいしか出ていなかった。
今日の僕はしばらく考えてから、こう答えた。
「以前より少しいいです」
「うん」
「ちゃんと寝てます」
「うん」
「ちゃんと食べてます」
「うん」
斎藤先生は頷きを三回、丁寧に置いてくれた。
「眠れてる、というのは何時間くらい?」
「平日は六時間半、土日は七時間半くらいです」
「うん、いい」
「九月のときは、四時間と半分くらいでした」
「覚えてる。今日は二時間ぶん、増えてるね」
「はい」
斎藤先生は軽く笑った。笑いには、嬉しい、の色がほんの少し混じっていた。
「食事は、どう?」
「夕食、寮の食堂でちゃんと食べてます」
「朝は?」
「コンビニのおにぎりと、ヨーグルト」
「ちゃんと食べてる」
「九月のときは、あまり食べたくない、と言ってたよね」
「はい、よく覚えてらっしゃる」
「うん、九月の桐谷くん、覚えてる」
斎藤先生は湯呑みを軽く持って、お茶をひとくち飲んだ。
「桐谷くん、最近、顔色いいね」
いきなりの一行だった。診察というよりは、近所のおばさんに声をかけられたような温度だった。
「そうですか」
「うん、いい」
「自分ではよく分からないです」
「分からないと思う。鏡で見ても、たぶん同じくらいに見える」
「はい」
「でも私から見ると、最初に来たときと目の色が違う」
その一行が淡く置かれた。
目の色、と斎藤先生は言った。色、という言葉の選び方は医療というよりは、人が人を見るときの言葉に近かった。
「目の色、ですか」
「うん」
「どんなふうに違いますか」
「九月の桐谷くんの目は、ピントが内側にあった」
「内側」
「うん。自分の中の痛みのほうに向いていた」
「はい」
「今日の桐谷くんの目は、ピントが外にもある」
「外」
「うん。私の顔をちゃんと見て、湯呑みの位置もちゃんと見て、窓の外の冬の光もたぶんちらっと見てる」
言われて、僕はちらっと本当に窓のほうを見た。窓の外、桜並木通りの桜の木の枝に葉はもうほとんどなかった。冬の枝の輪郭が薄く青い空に置かれていた。
「今、見ました」
「うん、見えた」
斎藤先生は軽く笑った。
間が十秒くらい、ほどよく置かれた。
その間の中で、僕は九月の自分から十二月の自分までの三ヶ月の輪郭を、ひとつ頭の中で薄く撫でた。九月の最初の面談、産業医室を出てから「澪」の白木のカウンターに座った夜、寮の自室で母の電話を切ったあとの泣き方、十月の振り返り会、葉山さんが異動を決めた日、十一月のアユシュくんと古川先輩の話、十二月の遠野CTOの個別面談、先週の倉田さんの長話。三ヶ月の間に、ずいぶんいろんな人の声が、僕の机の脇を通っていった。
その輪郭を一通り頭の中で置いてから、僕は口を開いた。
「斎藤先生」
「うん」
「観察する、ということがなんとなく分かってきた気がします」
その一行は、自分でも意外なくらいふっと素直に出てきた。
斎藤先生は湯呑みを軽くテーブルに置いた。
「観察、とは?」
短い問いだった。短さは答えを促す問いの短さだった。
「えっと」
僕は湯呑みのほうに視線を落とした。湯気はもうほとんど立っていなかった。
「ひとつめ。観察は、見るだけじゃない、ということです」
「うん」
「見るだけ、というのはたぶん、一年前の僕がやっていたことです。先輩の動き、マネージャーの口癖、同期の表情、ノートに見たまま書く」
「うん」
「見るだけだと、観察した僕の中に何も置かれない気がしました」
「うん」
「最近は、見たあとに、その人がなぜそう動いたかまでを、ノートに書くようにしてます」
「なぜ」
「はい、なぜ」
「うん、いいね」
斎藤先生は頷いた。頷きには、医療の人としての頷きと別の何かの頷きが、半分ずつ混ざっていた。
「ふたつめ。観察は自分にも向く、ということです」
「うん」
「九月のとき、僕は自分の痛みをちゃんと観察してませんでした。失敗して、諏訪マネージャーが引き受けて、申し訳ないと思っていただけで、自分が何にいちばん痛んでいるか、自分の言葉で置けてませんでした」
「うん」
「斎藤先生にあの日、『正直に言ってくれて、ありがとう』と言ってもらってから、痛みも観察の対象だ、となんとなく分かりました」
「うん」
「それから、母と電話の夜、一人で泣いた日があって、その夜ノートに『今日僕は初めて、ちゃんと泣いた』と書きました」
「うん」
「ちゃんと泣いた、というのも観察の言葉だと、書きながら気づきました」
斎藤先生は湯呑みをもう一度軽く持った。今度はお茶を飲まなかった。手の中に湯呑みをゆっくり包んでいた。
「うん、それ、いい」
「はい」
「桐谷くん、痛みの観察は、医療の言葉ではセルフモニタリングと言う」
「セルフモニタリング」
「うん。自分の体調、気分、睡眠、食欲、その日の自分のことを、自分で観察する。診察室の医者じゃなくて、その人自身が自分の主治医にほんの少しずつなっていく」
「主治医、ですか」
「うん。完全に主治医にはなれない。でも半分くらいは、自分が自分のことをいちばんよく観察してる人になる」
その一行は淡く長かった。長さの奥に、斎藤先生が産業医として、たぶんずっと若手に置いてきた一行の輪郭があった。
「みっつめ。観察は領域を超える、と思いました」
「領域、というのは」
「会社の中の観察を、たぶん業界の外の人にも置けます。先週、『とんぼ』で六十九歳の元金属加工会社の社長さんの長話を聞きました」
「うん」
「その方が二十年前、若い社員のミスのとき、お客様の前で『すべて、私の管理責任です』と言った、と話してくれました」
「うん」
「諏訪マネージャーが九月の本番障害のあと、川島部長に置いた一行と、ほぼ同じ温度でした」
「うん」
「諏訪さんの一行は『組織の責任として、私が引き取ります。桐谷は学びます。私のチームで育てます』、でした。言葉の形は二十年で少し変わっていました」
「うん」
「でも、出てきた場所は、たぶん同じでした」
「うん」
「業種が違う、時代が違う、年齢もふた回り以上違う。でも本物のマネジメントの一行は、似た温度で置かれていました」
「うん、いい観察」
「観察の対象が、IT中小の中だけじゃなくて、製造業の二十年前にも繋がりました。だから観察は領域を超える、と思いました」
斎藤先生は湯呑みをテーブルに軽く置いた。
「桐谷くん」
「はい」
「それは医療の世界でも同じなのね」
「医療でも、ですか」
「うん」
斎藤先生は軽く椅子の背に寄りかかった。白衣の襟がすっと整った。
「医療の若い頃、私は症状を見ることがいちばん大事だと思ってた」
「症状」
「うん。熱、咳、痛み、検査の数値。それを見て診断する」
「はい」
「でもある時、先輩のお医者さんにこう言われた」
「はい」
「『症状だけ見ても、患者さんの半分しか見えない。残り半分は、その人の生活、家族、仕事、悩み、眠り、食事、その人の半径3メートルだ』と」
半径3メートル、と僕の中で何かが軽く止まった。
先週、遠野CTOがCTO室で僕に置いてくれた一行と同じ言葉だった。業種が違う、所属が違う、立場が違う。それでも領域を超えて、似た形の言葉が別の人の口からもう一度出てきた。
「斎藤先生」
「うん」
「先週、遠野CTOから半径3メートル、という同じ言葉を聞きました」
「うん」
「遠野さんから、半径3メートルから始める、それ以外は続かない、と」
「うん、遠野さんなら、そう言う」
斎藤先生は軽く頷いた。頷きの中に、遠野CTOに対する長い知り合いの温度が薄く混ざっていた。たぶん斎藤先生と遠野CTOは、産業医とCTOとして長年一緒に若手を見てきた人たちだった。
「桐谷くん、領域を超えた似た言葉は、たぶん本物の言葉の特徴」
「本物」
「うん。本物の言葉は領域を超えて、同じ形で別の口から出る」
斎藤先生は軽く湯呑みを傾けた。
「私の先輩のお医者さんの『半径3メートル』と、遠野CTOの『半径3メートル』と、たぶん港川市の元社長の『私の管理責任』。みんな別の人の、別の場面、別の業種。でも似た形」
「はい」
「桐谷くんは、その似た形を観察で集めていく人になってる」
「集めていく、ですか」
「うん。集めていくと、自分の中に似た形のコレクションがゆっくり貯まっていく」
「コレクション」
「うん。そのコレクションが、桐谷くんの三十代、四十代、五十代の足場になる」
その一行は長く淡かった。長さの中に、斎藤先生が四十八歳までの自分のコレクションを、たぶん背中の奥に持っている、という重みが薄く置かれていた。
「桐谷くん」
「はい」
「九月の桐谷くんの目と、今日の桐谷くんの目の違いは、たぶんそのコレクションが三ヶ月でほんの少し増えた、ということ」
「はい」
「コレクションが増えると、ピントが内側だけじゃなくて、外にも向くようになる」
「分かります」
「コレクションが増えると、痛みの観察もできるようになる」
「はい」
「コレクションが増えると、領域を超えて、自分の経験をほかの人の経験と重ねられるようになる」
「はい」
斎藤先生は軽く笑った。今日の中でいちばん柔らかい笑いだった。
「桐谷くん、三年目、楽しみにしてる」
「はい、ありがとうございます」
「三年目で桐谷くんのコレクションは、もうひと回り増える」
「はい」
「増えたコレクションは、桐谷くんが何を選ぶかの軸になる」
「軸、ですか」
「うん。何を選ぶか、という選択は、空っぽの場所からは出てこない。コレクションのある人だけが、自分の軸で選べる」
その一行を僕は頭の中でもう一度繰り返した。
コレクションのある人だけが、自分の軸で、選べる。
三年目、自分の選択をする、というおぼろげな予感が、その一行の隣に、ほんの少し具体的な輪郭で置かれた。
「斎藤先生」
「うん」
「最後にひとつ、聞いてもいいですか」
「うん、どうぞ」
「先生はいつから産業医をされているのですか」
斎藤先生は湯呑みをもう一度軽く持った。
「私、三十二歳のとき、産業医の研修を受け始めた」
「はい」
「最初は内科のクリニックで、外来の合間に、月に一日だけ企業に行く形だった」
「四十歳のときにヨキエルさんが産業医を探していて、声をかけてもらった」
「はい」
「それからもう八年」
八年、という数字を、僕は手帳の中で軽く受け止めた。八年前というと、遠野CTOがヨキエルに戻ってくるより、さらに前だ。斎藤先生のほうが先に、ここの若手を見てきたことになる。
「八年で桐谷くんみたいな若手が、何人もここに来た」
「はい」
「九月の桐谷くんと似た目で、十二月にはいくらか落ち着いた目になる人もいれば、十二月になってもまだ九月のままの人もいる」
「私はその違いをずっと観察してる」
「先生も、観察」
「うん、私も観察」
斎藤先生は軽く笑った。
「私の観察のコレクションも、たぶん桐谷くんと似た形で貯まってる」
「はい」
「だから桐谷くんの今日の話は、私の中の別のコレクションと重なった」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
斎藤先生は軽く頭を下げた。診察の医師が患者に頭を下げる動きだった。八年の産業医の中で、おそらく何百回かは若手に対してそうしてきた動きの、ほんの一回だった。
午後四時十分。
三十分の予定がほんの十分だけ伸びていた。
斎藤先生は立ち上がって、ドアまで送ってくれた。
「桐谷くん」
「はい」
「次は三月、年度末の定期面談」
「はい」
「それまで、観察、続けて」
「はい」
「観察を続ける人は、たぶん三月にはもう少し違う目でここに座ってる」
「はい」
「楽しみにしてる」
「失礼します」
軽く頭を下げてドアを閉めた。
産業医室の外、三階の廊下。
冬の窓から斜めの光が、廊下の床に薄く帯を作っていた。光の帯の中を僕はゆっくり歩いた。
歩きながら、頭の中で斎藤先生の言葉をいくつか並べた。
目の色が、九月と違う。
ピントが、外にも、ある。
痛みも、観察の対象。
自分が、自分の半分の主治医。
観察は、領域を超える。
半径3メートルは、医療でも、同じ。
コレクションのある人だけが、自分の軸で、選べる。
七行の並びは、淡く青いインクで、頭の中に置かれていた。
窓のひとつに薄く僕の影が映っていた。影の輪郭は、九月のときよりほんの少し背筋がまっすぐだった。たぶん背筋というのは、コレクションの厚みでほんの少し伸びるものなのかもしれない、とふと思った。
その日の夜、寮の自室。
机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。新しいページに、十二月二十二日月曜日の日付。
「斎藤先生、二度目の面談」と、見出しを入れた。
その下に、いくつかの行を、並べた。
九月の目と、十二月の目は、違う。
ピントが、内側だけから、外にもある場所へ。
痛みは、観察の対象。
セルフモニタリング、自分が自分の半分の主治医。
観察は、領域を超える。
医療の先輩の「半径3メートル」と、遠野CTOの「半径3メートル」と、倉田さんの「私の管理責任」は、似た形。
本物の言葉は、領域を超えて、別の口から、同じ形で出る。
その下に、もう一行。
観察のコレクションが、三十代、四十代、五十代の足場になる。
もう一行。
コレクションのある人だけが、自分の軸で、選べる。
もう一行。
早川から、昨日、返信が来た。少しずつ良くなってる、年末は実家に帰る、と。線の向こう側でも、季節はちゃんと進んでいる。その二行も、僕のコレクションに入れておく。
最後に、もう一行。
三月、年度末の定期面談まで、観察、続ける。
ノートを閉じた。
窓の外、十二月の夜。盆地の冬の空気はもう完全に冬の温度だった。桜並木通りの桜は枝だけになり、街灯の光が枝の輪郭を薄く照らしていた。
来年の今頃、僕はたぶんまた同じ廊下を歩いて、産業医室のドアをノックする。そのときの僕の目は、今日の目よりもう少しだけ外に向いているはずだった。コレクションの量も、もうひと回り増えているはずだった。
机のスタンドを軽く消した。部屋の灯りも消した。
暗闇の中で目を閉じた。
九月の夜、僕が「澪」の白木のカウンターで、何も聞かれない静かさに守られながら温かい出汁をひとくち口に入れた、あの夜の輪郭が、いまも僕の中に薄く置かれていた。あの夜の輪郭が、三ヶ月分のコレクションのいちばん下の一行になっていた。
いちばん下の一行があるから、その上に別の行が積み上がっていけるのだろう、と思った。
明日からも観察は続く。




