第59話「とんぼ、倉田さんの長話」(インタールード⑧)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、楽しい話の回です。
十二月中旬、火曜日の夜七時半。
平日、僕は一人で「とんぼ」の引き戸を、軽く開けた。
一月ほど前、十一月の中旬に間宮先輩と「とんぼ」に寄った夜、大将がカウンター越しに、ぽつりと一言かけてくれた。
「桐谷くん、最近、火曜日の夜、倉田さんに、連れが二人」
「お連れ」
「五十くらいの女のひとと、三十くらいの男のひと」
「お知り合い同士ですか」
「うん。先月から、火曜日に揃ってる」
大将の短い一行を、僕は胸の内の手帳の隅にそっと書いた。倉田さん、五十、三十、火曜日、三人。短い符号だけ、頭の中に置いてあった。
今夜は十二月の中旬の火曜日。引き戸を開けた瞬間に、その手帳の符号が、ふっと立ち上がるのを感じた。
「いらっしゃい」
大将の声はいつも通り低かった。カウンターには先客が一人。左から二番目の席に、白髪の小柄なお年寄りがちろりを前に座っていた。倉田さんだった。
去年の年末、同期六人で来た夜に、二人の料理人の話を聞かせてくれた常連さん。あれからも店で何度か顔は合わせて、会釈くらいは交わしていた。けれど、同じカウンターに二人で並ぶのは、考えてみれば今夜が初めてだった。
「お、兄ちゃん、いたか」
声はもうだいぶ酔っていた。耳に入った瞬間、これは長くなる、と僕の第六感は察した。
「どうも、こんばんは」
軽く頭を下げて、倉田さんの右隣に座った。
「お通し、ぬる燗、桐谷くんいつもの」
大将がお通しを並べた。今夜のお通しは菊花のおひたしと、こんにゃくの白和え、それから軽い柚子の香りの小皿。十二月なかばの献立だった。
ぬる燗がちろりで出された。湯気がかすかに立っていた。
「そういえば兄ちゃん、名前、聞いてへんかったな」
「桐谷蒼太、と申します」
「桐谷さんか」
「はい」
「わしは倉田や」
倉田さん、と僕はノートに書きそうになった。実際には頭の中の手帳にだけ書いた。名前は、大将と女将さんの呼び声で何度も耳にしていた。けれど、こうして名乗り合うのは、今夜が初めてだった。
「わし、今年六十九や」
「お若く見えます」
「いやいや、若う見える、はお世辞や。年寄りはな、お世辞を見抜くんやで」
倉田さんは軽く笑った。笑い声は低く、よく通る声だった。
「桐谷さん、もう二年目か」
「はい、二年目です」
「ヨキエルやったな」
「はい、ヨキエルです」
「ヨキエル、ええ会社や。村瀬さんも遠野さんも知っとるで」
「ご存じなのですか」
「おう。ふたりとも若い頃から知っとる」
倉田さんはちろりからお猪口に酒を注いだ。手元はまだ落ち着いていた。
引き戸ががらりと開いた。
「あら、倉田さん、もうここ?」
女性の声が入ってきた。五十代、しっかりした口調、紺色のジャケット、髪は短く整えてあった。
「おう、大林さん、来たか」
「来たわよ、毎週火曜日でしょ」
「おう」
大林さん、と僕は胸の奥で書いた。大将の言っていた、五十くらいの女のひとだ。頭の中の手帳の符号が、目の前でひとつ実物になった。
「大将、いつもの」
「はい」
「お隣、新顔ね」
「桐谷蒼太と申します。ヨキエルの二年目です」
「あら、若いのね。大林、と言います。市役所の文化振興課、課長」
「よろしくお願いします」
「桐谷さん、倉田さんの隣に座ったの、あなた、運がいい、または運が悪い、どっちかよ」
「大林さん、ひどいこと言うなあ」
「ひどいことじゃないわよ、本当のことよ」
倉田さんは軽く笑った。大林さんも軽く笑った。大将は無言でおしぼりとお通しを、大林さんの前に並べた。
「桐谷さん、聞いてあげて、倉田さんの話、長いから」
大林さんは僕にちょっと身を寄せて、小声で言った。小声、というか、倉田さんに半分聞こえるくらいの声で言った。
「長うないで、わしの話は」
「長いわよ、いつも」
「そんなに長うない」
「先週、三時間、半分、同じ話したじゃない」
「半分は違う話やった」
「半分が違うなら、半分が同じということでしょ」
倉田さんは軽く頷いた。
「半分は、認めたる」
倉田さんはお猪口を軽く傾けた。それから僕のほうにちょっと身を寄せた。
「桐谷さん、聞いてくれるか」
「はい、聞きます」
「わしの若い頃の話や」
「はい」
「わしの若い頃はな、港川市にIT企業なんて一社もなかったんや」
「一社もですか」
「一社もや。わし、昭和三十三年生まれ、今年六十九。中学を出て、地元の金属加工の会社に入って、夜学で工業の勉強したんや」
「その会社で三十年や。途中で専務になって、先代が引退するときに、社長を引き受けてくれ、て言われてな」
「社長」
「おう。四十五のときや。そこから二十年、社長やった」
倉田さんの口調は酔っていたけれど、年代の数字はちゃんと揃っていた。
「製造業の会社」
「おう。金属加工や。自動車の部品、農機具の部品、そういうのを作っとった」
「はい」
「社員はな、いちばん多いときで四十二人や」
「四十二人」
「おう。今は息子に継がせた。社員は三十人や」
「ご立派です」
「立派やない。ふつうの、地方の小さい会社や」
倉田さんは軽く笑った。けれどその軽い笑いの奥に、二十年の社長の重さがかすかに残っていた。
「桐谷さん、社長の二十年、聞きたいか」
「聞きたいです」
「ほら、また長い話が始まる」
大林さんが横から軽くツッコミを入れた。倉田さんは軽く首を振った。
「いや、長うない。要約や」
「要約も長いから、倉田さんの場合」
「大林さん、ひどいなあ」
「ひどくない、本当のこと」
大将は無言で酒の追加を置いた。倉田さんと大林さんの会話を聞いている素振りはなかったけれど、たぶんちゃんと聞いていた。
「桐谷さん、わしの二十年でいちばん思い出すのはな、若いのを守った話や」
「守った、というのは」
「わしが社長になって五年目や」
「うちの若いのが、お客さんの現場で大きなミスをしてな」
「納品前の最終検査で、寸法がコンマ五ミリずれとった」
「コンマ五ミリ」
「おう。コンマ五ミリはな、製造業では致命的なずれや」
「はい」
「お客さん、激怒や」
「わし、お客さんの本社に、その若いのと二人で頭を下げに行ってな」
「はい」
「向こうの社長の前で、わし、こう言うたんや」
倉田さんは軽くお猪口をテーブルに置いた。
「『すべて、私の管理責任です。この若い社員は、当社で必ず立派に育てます』、と」
その一行を聞いて、僕はほんの一瞬、息が止まった。
諏訪マネージャーが九月の本番障害のあとで、川島部長に口にした一行と、響きがほとんど同じ一行だった。
諏訪マネージャーが「組織の責任として、私が引き取ります。桐谷は学びます。私のチームで育てます」と置いた一行。
業種が違う。時代が違う。話している人の年齢もふた回り以上違う。言葉の形は二十年で少し変わっていた。それなのに、一行の温度はほとんど同じだった。出てきた場所は、たぶん同じだった。
「倉田さん」
「ん」
「その一行、ありがとうございます」
「なんでや」
「いえ、ちょっと別の話と繋がりました」
「ふぅん」
倉田さんは軽く首を傾けた。
「桐谷さんの会社の誰かが、同じことを言うたか」
「はい」
「ええ会社、ええ上司や」
「はい」
「わしの話、その人に伝えてええで。同じ一行を二十年前にも誰かが言うとった、てな」
「はい、伝えます」
「いや、伝えんでええ。本人が自分の口でその一行を口にしたんなら、それはその人の一行や。わしの話はただのおまけや」
倉田さんは軽く笑った。今夜の笑いの中でいちばん温かい色だった。
引き戸がもう一度がらりと開いた。
「お、倉田さん、また、ここ」
三十代の男性。短い髪、黒いセーター、肩に小さなバッグ。
「おう、宮本くん、来たか」
「来たっす」
宮本さん、と僕は内心で書いた。別IT中小のフリーランス、三十代男性、若いが場慣れしている、と僕の頭の中の手帳には書いてあった。実物は若さと軽い場慣れの両方を持っていた。
「大将、いつもの」
「はい」
「桐谷さん、こんばんは」
「あれ、ご存じですか」
「岡崎さんから聞いてます。港川IT勉強会でLTデビューした、って」
「ああ、はい」
「あれ、評判よかったっすよ」
「ありがとうございます」
宮本さんは僕の左隣に座った。倉田さんの右隣に僕、僕の左隣に宮本さん、宮本さんの左隣に大林さん。カウンターの右から倉田、桐谷、宮本、大林、という並びになった。
「倉田さん、三時間目、その話っすね」
宮本さんが軽くニヤッと笑った。
「お前まで、そない言うんか」
「いつものことっす」
「わしの話、お前ら、聞きすぎや」
「聞きすぎるくらい、いい話っす」
「皮肉か」
「半分、皮肉、半分、本気っす」
倉田さんは軽く首を振った。大林さんが横から「半分の比率、変わらないわね」と笑った。宮本さんも笑った。大将もいつもよりほんの少しだけ口角が上がっていた。
「桐谷さん、倉田さんの長話、いつもこんな感じっす」
「最初は辛いっすけど、三回目くらいから、ちょっと楽しくなる」
「分かります」
「半分くらいは同じ話なんすけど、半分は新しい話が混じってる」
「半分の比率」
「そう、半分の比率」
宮本さんはお通しの菊花のおひたしを軽く食べた。
「桐谷さん、二年目、何見てる」
「えっと」
「俺、新卒で別のIT中小に入って、五年目で辞めて、フリーランス三年目。だから桐谷さんの二年目の話、聞きたい」
「いろいろ見てます」
「いろいろ、というと」
「先輩の見分け方、マネージャーの見分け方、燃え尽きの過程、変革者の動き方、半径3メートル、です」
「お、いっぱい見てる」
「気づいたら見てました」
「いい二年目」
宮本さんは軽く笑った。倉田さんが横から「桐谷さんもちゃんと観察しとる、ええ子や」と言った。
「観察、ええぞ」
倉田さんはお猪口をもう一度傾けた。
「桐谷さん」
「はい」
「ひとつ、教えたる」
「はい」
「若いうちにな、ようけ観察しとき」
「はい」
「年取ったら、語る話が増えるんや」
その一行が出た。
大林さんが横から「これ、倉田さんの決め台詞ね」と軽くツッコミを入れた。宮本さんも「これ、聞くの、何回目っすかね」と軽く笑った。
「お前ら、決め台詞、馬鹿にすなや」
「馬鹿にしてないわよ、嬉しいのよ」
「嬉しい、て」
「桐谷さんが初めて聞くこの台詞を、私たちはもう十回くらい聞いてる。十回目でもちゃんといい台詞」
大林さんは軽く笑った。倉田さんも軽く頷いた。
「桐谷さん」
「はい」
「わしの決め台詞、聞いて笑うてもええ。けど、忘れたらあかんで」
「はい」
「年取ったら語る話が増える、いうのはな、たぶん本当のことや」
「はい」
「若いうちにようけ観察した人はな、年取って語る話がようけある。観察せんかった人は、年取って語る話が少ない」
「はい」
「わしはたぶん、観察したほうの人や」
「分かります」
「やからこうやって、若い人の前で長話するんや」
倉田さんは軽く笑った。今夜の中でいちばん嬉しそうな笑いだった。
大将が皿を二つ出した。鯖の味噌煮とふろふき大根。倉田さんと大林さんと宮本さんの前にも、それぞれの皿が並んだ。倉田さんは鯖の味噌煮。大林さんはふろふき大根。宮本さんもふろふき大根。僕には鯖の味噌煮が出された。
「桐谷くん、鯖、いいぞ、今日のは」
「はい」
大将の言葉はいつもの短いやつだった。
鯖をひとくち口に運んだ。味噌は白味噌と赤味噌が軽く混ざっていた。鯖の脂と味噌の甘みが、口の中で軽くほどけた。
「美味しいです」
「うん、いい」
大将は軽く頷いた。
「倉田さん」
大林さんが軽く倉田さんに声をかけた。
「なんや」
「もう、そろそろいいんじゃない」
「まだいけるで」
「いけても、桐谷さん、明日仕事よ」
「ん、それはそうや」
倉田さんは軽く頷いた。それから僕のほうにちょっと身を寄せた。
「桐谷さん、最後にひとつだけ」
「はい」
「ええか」
「はい」
「ほら、また、ひとつだけ、って言って、ふたつ言う」
「黙っとれ、宮本」
「黙ります」
倉田さんは軽く咳払いをして続けた。
「桐谷さん」
「はい」
「わしの社長の二十年でな、いちばん覚えとるのは、社員旅行で温泉に行った年や」
「温泉ですか」
「おう。その年な、会社に初めてちゃんと利益が出た。ほんで社員四十二人、全員で二泊三日の温泉旅行を組んだんや」
「そんときな、若いのが一人、温泉で酔っ払うて、宿の女将さんの旦那さんに絡んでな」
「絡んだ」
「おう。だいぶ絡んだ」
「わし、翌朝、女将さんと旦那さんに頭を下げに行って、それから、その若いのと二人でもう一回、頭を下げに行ったんや」
「はい」
「そんときわし、その若いのに、こう言うた」
倉田さんは軽く笑った。
「『お前、社員旅行でこんなことすなや。けど、こんなことするくらいのエネルギーあるんやったら、仕事にも向けえ』、と」
「はい」
「その若いの、いまはうちの専務や」
「すごい」
「すごうない。ふつうの会社の、ふつうの専務や」
倉田さんは軽く笑った。
「桐谷さん」
「はい」
「観察の話のおまけや。温泉での失敗もな、ちゃんと観察しとくと、二十年後、こうやって語る話になるんや」
「はい」
「失敗も、観察の対象や」
「分かります」
「分かるんやったら、ええ」
倉田さんは軽く頷いて、ちろりからお猪口に最後のひとくちを注いだ。
夜九時。
大将が軽く倉田さんに声をかけた。
「倉田さん、もうそろそろ」
「はい、はい、分かっとる」
倉田さんは軽く立ち上がった。ふらつきはあったけれど、転びそうな感じではなかった。財布から札を出してカウンターに置いた。
「桐谷さん」
「はい」
「また来いや」
「はい」
「わしの話、半分は同じやけど、半分は新しいで」
「楽しみにしてます」
「ええ子や」
倉田さんは軽く手を上げて、引き戸の向こうに消えた。引き戸がからりと閉まった。
残った大林さんと宮本さんは軽く笑った。
「桐谷さん、お疲れさま」
「いえ」
「倉田さんの長話、初めて聞いた感じだったけど、桐谷さん、ちゃんと頷いてた」
「面白かったです」
「ふつう、最初は三十分でぐったりするのよ」
「いえ」
「桐谷さん、聞き上手」
大林さんは軽く笑った。宮本さんが横から「桐谷さん、たぶん観察、得意な人っすね」と軽く言った。
「はい、ちょっと得意かもしれません」
「うん、いい得意」
宮本さんはふろふき大根をひとくち食べた。
「桐谷さん」
「はい」
「倉田さんの最後の一行、覚えてます?」
「はい。失敗も観察の対象、と」
「もうひとつありました」
「はい」
「年取ったら、語る話が増える」
「はい」
「あれ、たぶん桐谷さんにいちばん必要な一行っす」
「なぜですか」
「桐谷さん、今いちばん観察してる時期っしょ」
「はい」
「観察をちゃんと続けると、十年後、二十年後、桐谷さんもたぶんここのカウンターで、若い人に長話してる」
「えっ」
「冗談じゃないっす、本気っす」
宮本さんは軽く笑った。大林さんも軽く頷いた。
「桐谷さん、十年後、二十年後、楽しみね」
「はい」
「私たち、まだここにいるかもしれないし、いないかもしれない。けど桐谷さんは、たぶんここにいる」
「はい」
「ここにいるなら、また誰か、若い人に観察の話を置いてあげて」
「はい」
「それがたぶん、引き継ぎということ」
大林さんは軽く笑った。
夜九時半。
僕も会計を済ませた。お猪口の底の最後のひとくちをゆっくり飲み干した。引き戸を開けた。
「お疲れさま」
大将の声はいつもの低い、短いやつだった。
「ありがとうございました」
大林さんと宮本さんに軽く頭を下げた。二人は軽く手を上げた。
引き戸を閉めた。十二月の夜気が頬に当たった。
桜並木通りは紅葉がほぼ落ちきっていた。地面に茶色い葉がうっすら積もっていた。歩くと葉が軽くかさかさと鳴った。
歩きながら、僕は倉田さんの話を頭の中で並べた。
昭和三十三年生まれ、六十九歳。
地元の金属加工の会社に、中学卒で入社。
四十五歳で、社長。
二十年、社長をやった。
社員四十二人、最大。
若い社員のミスのとき、お客様の前で「すべて、私の管理責任です」と。
社員旅行での若い社員の酒の失敗のとき、「エネルギー、仕事にも向けろ」と。
その若い社員は、今、専務。
失敗も、観察の対象。
若いうちにたくさん観察した人は、年取って語る話がたくさんある。
十行くらいの並びだった。十行のうちなかばくらいは、たぶん来年も再来年もここで聞ける話だろう、と宮本さんが言っていた。残りは新しい話らしかった。半分と半分というのが、倉田さんの長話のたぶんちょうどいい比率だった。
寮の自室。机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。
新しいページに、十二月十六日火曜日の日付。
「とんぼ、倉田さんの長話」と、見出しを入れた。
その下に、いくつかの行を、並べた。
倉田さん、六十九、元金属加工の会社の社長、二十年。
大林さん、五十代、市役所の課長。
宮本さん、三十代、別IT中小のフリーランス。
倉田さんの長話、半分は同じ、半分は新しい。
諏訪マネージャーの「組織の責任として、私が引き取ります」と、二十年前の倉田さんの一行は、ほぼ同じ重み。
業種が違っても、時代が違っても、本物のマネジメントの一行は似た温度で置かれる。
失敗も、観察の対象。
その下に、もう一行。
倉田さんの決め台詞:「若いうちに、ようけ観察しとき。年取ったら、語る話が増える」。
もう一行。
観察の蓄積は、二十年後、四十年後の語りの厚みになる。
最後に、もう一行。
十年後、二十年後、僕もたぶんここのカウンターで、別の若い人に何か置いている。
ノートを閉じた。
窓の外、十二月の夜気。桜並木通りの落ち葉は、夜の暗がりに、軽く沈んでいた。
去年の年末、二人の料理人の話を聞いた夜のことを、思い出した。あの夜の倉田さんの話は、たぶん今夜の長話の、ほんの入口だったのだろう。なかばはたぶん来年も、同じ話を聞く。残りは新しい話になる。半分と半分の比率は、たぶん観察を続ける人のちょうどいい世代間の比率なのだろう、と思った。
机のスタンドを軽く消した。部屋の灯りも消した。
暗闇の中で目を閉じた。
倉田さんの「年取ったら、語る話が増える」の一行は、僕の頭の中にちゃんと置かれていた。十年後、二十年後、その一行はたぶんもう一回り、僕の中でふくらむ。そのときの僕はたぶん、別の若い人の隣で自分のお猪口を軽く上げている。




