表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/37

第59話「とんぼ、倉田さんの長話」(インタールード⑧)

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

※ この話は、楽しい話の回です。


 十二月中旬、火曜日の夜七時半。


 平日、僕は一人で「とんぼ」の引き戸を、軽く開けた。


 一月ほど前、十一月の中旬に間宮先輩と「とんぼ」に寄った夜、大将がカウンター越しに、ぽつりと一言かけてくれた。


「桐谷くん、最近、火曜日の夜、倉田さんに、連れが二人」


「お連れ」


「五十くらいの女のひとと、三十くらいの男のひと」


「お知り合い同士ですか」


「うん。先月から、火曜日に揃ってる」


 大将の短い一行を、僕は胸の内の手帳の隅にそっと書いた。倉田さん、五十、三十、火曜日、三人。短い符号だけ、頭の中に置いてあった。


 今夜は十二月の中旬の火曜日。引き戸を開けた瞬間に、その手帳の符号が、ふっと立ち上がるのを感じた。


「いらっしゃい」


 大将の声はいつも通り低かった。カウンターには先客が一人。左から二番目の席に、白髪の小柄なお年寄りがちろりを前に座っていた。倉田さんだった。


 去年の年末、同期六人で来た夜に、二人の料理人の話を聞かせてくれた常連さん。あれからも店で何度か顔は合わせて、会釈くらいは交わしていた。けれど、同じカウンターに二人で並ぶのは、考えてみれば今夜が初めてだった。


「お、兄ちゃん、いたか」


 声はもうだいぶ酔っていた。耳に入った瞬間、これは長くなる、と僕の第六感は察した。


「どうも、こんばんは」


 軽く頭を下げて、倉田さんの右隣に座った。


「お通し、ぬる燗、桐谷くんいつもの」


 大将がお通しを並べた。今夜のお通しは菊花のおひたしと、こんにゃくの白和え、それから軽い柚子の香りの小皿。十二月なかばの献立だった。


 ぬる燗がちろりで出された。湯気がかすかに立っていた。


 


「そういえば兄ちゃん、名前、聞いてへんかったな」


「桐谷蒼太、と申します」


「桐谷さんか」


「はい」


「わしは倉田や」


 倉田さん、と僕はノートに書きそうになった。実際には頭の中の手帳にだけ書いた。名前は、大将と女将さんの呼び声で何度も耳にしていた。けれど、こうして名乗り合うのは、今夜が初めてだった。


「わし、今年六十九や」


「お若く見えます」


「いやいや、若う見える、はお世辞や。年寄りはな、お世辞を見抜くんやで」


 倉田さんは軽く笑った。笑い声は低く、よく通る声だった。


「桐谷さん、もう二年目か」


「はい、二年目です」


「ヨキエルやったな」


「はい、ヨキエルです」


「ヨキエル、ええ会社や。村瀬さんも遠野さんも知っとるで」


「ご存じなのですか」


「おう。ふたりとも若い頃から知っとる」


 倉田さんはちろりからお猪口に酒を注いだ。手元はまだ落ち着いていた。


 


 引き戸ががらりと開いた。


「あら、倉田さん、もうここ?」


 女性の声が入ってきた。五十代、しっかりした口調、紺色のジャケット、髪は短く整えてあった。


「おう、大林さん、来たか」


「来たわよ、毎週火曜日でしょ」


「おう」


 大林さん、と僕は胸の奥で書いた。大将の言っていた、五十くらいの女のひとだ。頭の中の手帳の符号が、目の前でひとつ実物になった。


「大将、いつもの」


「はい」


「お隣、新顔ね」


「桐谷蒼太と申します。ヨキエルの二年目です」


「あら、若いのね。大林、と言います。市役所の文化振興課、課長」


「よろしくお願いします」


「桐谷さん、倉田さんの隣に座ったの、あなた、運がいい、または運が悪い、どっちかよ」


「大林さん、ひどいこと言うなあ」


「ひどいことじゃないわよ、本当のことよ」


 倉田さんは軽く笑った。大林さんも軽く笑った。大将は無言でおしぼりとお通しを、大林さんの前に並べた。


 


「桐谷さん、聞いてあげて、倉田さんの話、長いから」


 大林さんは僕にちょっと身を寄せて、小声で言った。小声、というか、倉田さんに半分聞こえるくらいの声で言った。


「長うないで、わしの話は」


「長いわよ、いつも」


「そんなに長うない」


「先週、三時間、半分、同じ話したじゃない」


「半分は違う話やった」


「半分が違うなら、半分が同じということでしょ」


 倉田さんは軽く頷いた。


「半分は、認めたる」


 倉田さんはお猪口を軽く傾けた。それから僕のほうにちょっと身を寄せた。


「桐谷さん、聞いてくれるか」


「はい、聞きます」


「わしの若い頃の話や」


「はい」


「わしの若い頃はな、港川市にIT企業なんて一社もなかったんや」


「一社もですか」


「一社もや。わし、昭和三十三年生まれ、今年六十九。中学を出て、地元の金属加工の会社に入って、夜学で工業の勉強したんや」

「その会社で三十年や。途中で専務になって、先代が引退するときに、社長を引き受けてくれ、て言われてな」


「社長」


「おう。四十五のときや。そこから二十年、社長やった」


 倉田さんの口調は酔っていたけれど、年代の数字はちゃんと揃っていた。


「製造業の会社」


「おう。金属加工や。自動車の部品、農機具の部品、そういうのを作っとった」


「はい」


「社員はな、いちばん多いときで四十二人や」


「四十二人」


「おう。今は息子に継がせた。社員は三十人や」


「ご立派です」


「立派やない。ふつうの、地方の小さい会社や」


 倉田さんは軽く笑った。けれどその軽い笑いの奥に、二十年の社長の重さがかすかに残っていた。


 


「桐谷さん、社長の二十年、聞きたいか」


「聞きたいです」


「ほら、また長い話が始まる」


 大林さんが横から軽くツッコミを入れた。倉田さんは軽く首を振った。


「いや、長うない。要約や」


「要約も長いから、倉田さんの場合」


「大林さん、ひどいなあ」


「ひどくない、本当のこと」


 大将は無言で酒の追加を置いた。倉田さんと大林さんの会話を聞いている素振りはなかったけれど、たぶんちゃんと聞いていた。


「桐谷さん、わしの二十年でいちばん思い出すのはな、若いのを守った話や」


「守った、というのは」


「わしが社長になって五年目や」

「うちの若いのが、お客さんの現場で大きなミスをしてな」

「納品前の最終検査で、寸法がコンマ五ミリずれとった」


「コンマ五ミリ」


「おう。コンマ五ミリはな、製造業では致命的なずれや」


「はい」


「お客さん、激怒や」

「わし、お客さんの本社に、その若いのと二人で頭を下げに行ってな」


「はい」


「向こうの社長の前で、わし、こう言うたんや」


 倉田さんは軽くお猪口をテーブルに置いた。


「『すべて、私の管理責任です。この若い社員は、当社で必ず立派に育てます』、と」


 その一行を聞いて、僕はほんの一瞬、息が止まった。


 諏訪マネージャーが九月の本番障害のあとで、川島部長に口にした一行と、響きがほとんど同じ一行だった。


 諏訪マネージャーが「組織の責任として、私が引き取ります。桐谷は学びます。私のチームで育てます」と置いた一行。


 業種が違う。時代が違う。話している人の年齢もふた回り以上違う。言葉の形は二十年で少し変わっていた。それなのに、一行の温度はほとんど同じだった。出てきた場所は、たぶん同じだった。


「倉田さん」


「ん」


「その一行、ありがとうございます」


「なんでや」


「いえ、ちょっと別の話と繋がりました」


「ふぅん」


 倉田さんは軽く首を傾けた。


「桐谷さんの会社の誰かが、同じことを言うたか」


「はい」


「ええ会社、ええ上司や」


「はい」


「わしの話、その人に伝えてええで。同じ一行を二十年前にも誰かが言うとった、てな」


「はい、伝えます」


「いや、伝えんでええ。本人が自分の口でその一行を口にしたんなら、それはその人の一行や。わしの話はただのおまけや」


 倉田さんは軽く笑った。今夜の笑いの中でいちばん温かい色だった。


 


 引き戸がもう一度がらりと開いた。


「お、倉田さん、また、ここ」


 三十代の男性。短い髪、黒いセーター、肩に小さなバッグ。


「おう、宮本くん、来たか」


「来たっす」


 宮本さん、と僕は内心で書いた。別IT中小のフリーランス、三十代男性、若いが場慣れしている、と僕の頭の中の手帳には書いてあった。実物は若さと軽い場慣れの両方を持っていた。


「大将、いつもの」


「はい」


「桐谷さん、こんばんは」


「あれ、ご存じですか」


「岡崎さんから聞いてます。港川IT勉強会でLTデビューした、って」


「ああ、はい」


「あれ、評判よかったっすよ」


「ありがとうございます」


 宮本さんは僕の左隣に座った。倉田さんの右隣に僕、僕の左隣に宮本さん、宮本さんの左隣に大林さん。カウンターの右から倉田、桐谷、宮本、大林、という並びになった。


「倉田さん、三時間目、その話っすね」


 宮本さんが軽くニヤッと笑った。


「お前まで、そない言うんか」


「いつものことっす」


「わしの話、お前ら、聞きすぎや」


「聞きすぎるくらい、いい話っす」


「皮肉か」


「半分、皮肉、半分、本気っす」


 倉田さんは軽く首を振った。大林さんが横から「半分の比率、変わらないわね」と笑った。宮本さんも笑った。大将もいつもよりほんの少しだけ口角が上がっていた。


 


「桐谷さん、倉田さんの長話、いつもこんな感じっす」

「最初は辛いっすけど、三回目くらいから、ちょっと楽しくなる」


「分かります」


「半分くらいは同じ話なんすけど、半分は新しい話が混じってる」


「半分の比率」


「そう、半分の比率」


 宮本さんはお通しの菊花のおひたしを軽く食べた。


「桐谷さん、二年目、何見てる」


「えっと」


「俺、新卒で別のIT中小に入って、五年目で辞めて、フリーランス三年目。だから桐谷さんの二年目の話、聞きたい」


「いろいろ見てます」


「いろいろ、というと」


「先輩の見分け方、マネージャーの見分け方、燃え尽きの過程、変革者の動き方、半径3メートル、です」


「お、いっぱい見てる」


「気づいたら見てました」


「いい二年目」


 宮本さんは軽く笑った。倉田さんが横から「桐谷さんもちゃんと観察しとる、ええ子や」と言った。


「観察、ええぞ」


 倉田さんはお猪口をもう一度傾けた。


「桐谷さん」


「はい」


「ひとつ、教えたる」


「はい」


「若いうちにな、ようけ観察しとき」


「はい」


「年取ったら、語る話が増えるんや」


 その一行が出た。


 大林さんが横から「これ、倉田さんの決め台詞ね」と軽くツッコミを入れた。宮本さんも「これ、聞くの、何回目っすかね」と軽く笑った。


「お前ら、決め台詞、馬鹿にすなや」


「馬鹿にしてないわよ、嬉しいのよ」


「嬉しい、て」


「桐谷さんが初めて聞くこの台詞を、私たちはもう十回くらい聞いてる。十回目でもちゃんといい台詞」


 大林さんは軽く笑った。倉田さんも軽く頷いた。


「桐谷さん」


「はい」


「わしの決め台詞、聞いて笑うてもええ。けど、忘れたらあかんで」


「はい」


「年取ったら語る話が増える、いうのはな、たぶん本当のことや」


「はい」


「若いうちにようけ観察した人はな、年取って語る話がようけある。観察せんかった人は、年取って語る話が少ない」


「はい」


「わしはたぶん、観察したほうの人や」


「分かります」


「やからこうやって、若い人の前で長話するんや」


 倉田さんは軽く笑った。今夜の中でいちばん嬉しそうな笑いだった。


 


 大将が皿を二つ出した。鯖の味噌煮とふろふき大根。倉田さんと大林さんと宮本さんの前にも、それぞれの皿が並んだ。倉田さんは鯖の味噌煮。大林さんはふろふき大根。宮本さんもふろふき大根。僕には鯖の味噌煮が出された。


「桐谷くん、鯖、いいぞ、今日のは」


「はい」


 大将の言葉はいつもの短いやつだった。


 鯖をひとくち口に運んだ。味噌は白味噌と赤味噌が軽く混ざっていた。鯖の脂と味噌の甘みが、口の中で軽くほどけた。


「美味しいです」


「うん、いい」


 大将は軽く頷いた。


 


「倉田さん」


 大林さんが軽く倉田さんに声をかけた。


「なんや」


「もう、そろそろいいんじゃない」


「まだいけるで」


「いけても、桐谷さん、明日仕事よ」


「ん、それはそうや」


 倉田さんは軽く頷いた。それから僕のほうにちょっと身を寄せた。


「桐谷さん、最後にひとつだけ」


「はい」


「ええか」


「はい」


「ほら、また、ひとつだけ、って言って、ふたつ言う」


「黙っとれ、宮本」


「黙ります」


 倉田さんは軽く咳払いをして続けた。


「桐谷さん」


「はい」


「わしの社長の二十年でな、いちばん覚えとるのは、社員旅行で温泉に行った年や」


「温泉ですか」


「おう。その年な、会社に初めてちゃんと利益が出た。ほんで社員四十二人、全員で二泊三日の温泉旅行を組んだんや」

「そんときな、若いのが一人、温泉で酔っ払うて、宿の女将さんの旦那さんに絡んでな」


「絡んだ」


「おう。だいぶ絡んだ」

「わし、翌朝、女将さんと旦那さんに頭を下げに行って、それから、その若いのと二人でもう一回、頭を下げに行ったんや」


「はい」


「そんときわし、その若いのに、こう言うた」


 倉田さんは軽く笑った。


「『お前、社員旅行でこんなことすなや。けど、こんなことするくらいのエネルギーあるんやったら、仕事にも向けえ』、と」


「はい」


「その若いの、いまはうちの専務や」


「すごい」


「すごうない。ふつうの会社の、ふつうの専務や」


 倉田さんは軽く笑った。


「桐谷さん」


「はい」


「観察の話のおまけや。温泉での失敗もな、ちゃんと観察しとくと、二十年後、こうやって語る話になるんや」


「はい」


「失敗も、観察の対象や」


「分かります」


「分かるんやったら、ええ」


 倉田さんは軽く頷いて、ちろりからお猪口に最後のひとくちを注いだ。


 


 夜九時。


 大将が軽く倉田さんに声をかけた。


「倉田さん、もうそろそろ」


「はい、はい、分かっとる」


 倉田さんは軽く立ち上がった。ふらつきはあったけれど、転びそうな感じではなかった。財布から札を出してカウンターに置いた。


「桐谷さん」


「はい」


「また来いや」


「はい」


「わしの話、半分は同じやけど、半分は新しいで」


「楽しみにしてます」


「ええ子や」


 倉田さんは軽く手を上げて、引き戸の向こうに消えた。引き戸がからりと閉まった。


 残った大林さんと宮本さんは軽く笑った。


「桐谷さん、お疲れさま」


「いえ」


「倉田さんの長話、初めて聞いた感じだったけど、桐谷さん、ちゃんと頷いてた」


「面白かったです」


「ふつう、最初は三十分でぐったりするのよ」


「いえ」


「桐谷さん、聞き上手」


 大林さんは軽く笑った。宮本さんが横から「桐谷さん、たぶん観察、得意な人っすね」と軽く言った。


「はい、ちょっと得意かもしれません」


「うん、いい得意」


 宮本さんはふろふき大根をひとくち食べた。


 


「桐谷さん」


「はい」


「倉田さんの最後の一行、覚えてます?」


「はい。失敗も観察の対象、と」


「もうひとつありました」


「はい」


「年取ったら、語る話が増える」


「はい」


「あれ、たぶん桐谷さんにいちばん必要な一行っす」


「なぜですか」


「桐谷さん、今いちばん観察してる時期っしょ」


「はい」


「観察をちゃんと続けると、十年後、二十年後、桐谷さんもたぶんここのカウンターで、若い人に長話してる」


「えっ」


「冗談じゃないっす、本気っす」


 宮本さんは軽く笑った。大林さんも軽く頷いた。


「桐谷さん、十年後、二十年後、楽しみね」


「はい」


「私たち、まだここにいるかもしれないし、いないかもしれない。けど桐谷さんは、たぶんここにいる」


「はい」


「ここにいるなら、また誰か、若い人に観察の話を置いてあげて」


「はい」


「それがたぶん、引き継ぎということ」


 大林さんは軽く笑った。


 


 夜九時半。


 僕も会計を済ませた。お猪口の底の最後のひとくちをゆっくり飲み干した。引き戸を開けた。


「お疲れさま」


 大将の声はいつもの低い、短いやつだった。


「ありがとうございました」


 大林さんと宮本さんに軽く頭を下げた。二人は軽く手を上げた。


 引き戸を閉めた。十二月の夜気が頬に当たった。


 


 桜並木通りは紅葉がほぼ落ちきっていた。地面に茶色い葉がうっすら積もっていた。歩くと葉が軽くかさかさと鳴った。


 歩きながら、僕は倉田さんの話を頭の中で並べた。


 昭和三十三年生まれ、六十九歳。


 地元の金属加工の会社に、中学卒で入社。


 四十五歳で、社長。


 二十年、社長をやった。


 社員四十二人、最大。


 若い社員のミスのとき、お客様の前で「すべて、私の管理責任です」と。


 社員旅行での若い社員の酒の失敗のとき、「エネルギー、仕事にも向けろ」と。


 その若い社員は、今、専務。


 失敗も、観察の対象。


 若いうちにたくさん観察した人は、年取って語る話がたくさんある。


 十行くらいの並びだった。十行のうちなかばくらいは、たぶん来年も再来年もここで聞ける話だろう、と宮本さんが言っていた。残りは新しい話らしかった。半分と半分というのが、倉田さんの長話のたぶんちょうどいい比率だった。


 


 寮の自室。机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。


 新しいページに、十二月十六日火曜日の日付。


「とんぼ、倉田さんの長話」と、見出しを入れた。


 その下に、いくつかの行を、並べた。


 倉田さん、六十九、元金属加工の会社の社長、二十年。


 大林さん、五十代、市役所の課長。


 宮本さん、三十代、別IT中小のフリーランス。


 倉田さんの長話、半分は同じ、半分は新しい。


 諏訪マネージャーの「組織の責任として、私が引き取ります」と、二十年前の倉田さんの一行は、ほぼ同じ重み。


 業種が違っても、時代が違っても、本物のマネジメントの一行は似た温度で置かれる。


 失敗も、観察の対象。


 その下に、もう一行。


 倉田さんの決め台詞:「若いうちに、ようけ観察しとき。年取ったら、語る話が増える」。


 もう一行。


 観察の蓄積は、二十年後、四十年後の語りの厚みになる。


 最後に、もう一行。


 十年後、二十年後、僕もたぶんここのカウンターで、別の若い人に何か置いている。


 ノートを閉じた。


 窓の外、十二月の夜気。桜並木通りの落ち葉は、夜の暗がりに、軽く沈んでいた。


 去年の年末、二人の料理人の話を聞いた夜のことを、思い出した。あの夜の倉田さんの話は、たぶん今夜の長話の、ほんの入口だったのだろう。なかばはたぶん来年も、同じ話を聞く。残りは新しい話になる。半分と半分の比率は、たぶん観察を続ける人のちょうどいい世代間の比率なのだろう、と思った。


 机のスタンドを軽く消した。部屋の灯りも消した。


 暗闇の中で目を閉じた。


 倉田さんの「年取ったら、語る話が増える」の一行は、僕の頭の中にちゃんと置かれていた。十年後、二十年後、その一行はたぶんもう一回り、僕の中でふくらむ。そのときの僕はたぶん、別の若い人の隣で自分のお猪口を軽く上げている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ