第58話「遠野CTO、半径3メートルをもう一度」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十二月初旬、火曜日の午後二時。
社内Slackのダイレクトメッセージで、遠野CTOから一行が届いた。
「桐谷くん、今週か来週、三十分、いいですか。CTO室で、ちょっと話そう」
僕はその通知を見て、十秒ほど机の前で固まった。CTO室、と書いてあった。三十分、と。
遠野CTOから連絡が来るのは、初めてだった。入社式の朝の挨拶も、全社会議も、勉強会も、言葉はいつも大勢に向けて置かれていた。今回は僕個人宛てだ。
「明日、午後四時、お願いします」と短く返した。
二十秒ほどして、返事が来た。
「了解。明日、十六時、CTO室で」
短い。短いけれど、その短さは形式的ではなく、相手の時間を尊重する種類の短さだった。
翌日の水曜日。午前中はリードタイム集計の調整、午後は社内ドキュメントの修正。三時半に白瀬さんの席に寄って、夕方の集計レビューを明後日に動かしてもらった。
「遠野CTOですか」
「はい」
「うん、行ってきて」
白瀬さんはそれだけ短く言った。声には軽く、いいね、という色があった。聞き直しはなかった。
午後四時、五分前。
三階のフロアからエレベーターで……いや、エレベーターを使うほどの距離ではないけれど、念のため一度乗って、同じ三階で降りた。CTO室は三階のフロアの北東の角にあった。廊下を歩いてドアの前で軽く深呼吸をした。
「失礼します」
「どうぞ」
遠野CTOの声は低く、落ち着いていた。
ドアを開けた。
中は思っていたよりずっとふつうの部屋だった。広さは六畳くらい。白い壁、薄いグレーのカーペット、白木の作業机、本棚、応接用の小さな丸テーブルと椅子が二脚。テーブルの上にお茶のペットボトルが二本、湯呑みが二つ置いてあった。応接の椅子の脇に小ぶりのホワイトボードがひとつ立てかけてあって、青いマーカーと赤いマーカーがホワイトボードの下のトレーに、それぞれ一本ずつ置かれていた。
遠野CTOは白いシャツにグレーのスラックス。いつもの服装だった。立ち上がって軽く頭を下げた。
「桐谷くん、よく来てくれた」
「お時間、ありがとうございます」
「座って」
応接の丸テーブルの椅子を軽く引いた。
「お茶、開ける?」
「はい、いただきます」
遠野CTOはペットボトルのキャップをぱりと開けて、湯呑みに注いでくれた。所作は丁寧だった。CTOという肩書きの人の所作というよりは、お客様を迎える人の所作だった。
「桐谷くんは、入社二年目の冬、だね」
「はい」
「諏訪マネージャーから、いろいろ聞いてる」
「九月の本番障害、十月の振り返り、十一月のリードタイム集計、それから二年目で初めてLTで登壇したということも」
「はい」
「白瀬さんが、桐谷くんと一緒にリードタイムを測り始めた話、私のところにも聞こえてきてる」
「はい」
「秋の全社会議で、私は各部で施策を、と全社に置いた。白瀬さんはそれより早く、机の中の本を出してくれていた」
「はい」
「あれは、私の方針が現場に届いていた、いちばん静かな証拠だった」
「私のところに桐谷くんの名前は、何度か上がってる」
「ご迷惑、おかけしてないでしょうか」
「いや。むしろ桐谷くんのような若手が何を見ているか、聞きたいと思って、今日声をかけた」
遠野CTOは湯呑みを軽く持って、お茶をひとくち飲んだ。落ち着いていた。
「桐谷くんの観察、聞かせてくれる?」
「観察ですか」
「うん。具体的な事例は、私のほうから聞かないようにする。構造で語ってもらえると、いちばんありがたい」
「構造ですか」
「うん。誰の名前も出さなくていい。桐谷くんがこの一年半で見てきた組織の構造、人の動き方の構造。それを桐谷くんの言葉で」
その問い方は、葉山さんが沢田五郎から受けた問い、「いちばんやりたいことは何ですか」と形が似ていた。同じ家の系統の問い、と心の中で思った。
僕は湯呑みを軽く握ってお茶をひとくち飲んだ。喉に温かさが通った。
「えっと、整理して話します」
「うん、ゆっくり」
「いくつか見ました」
「うん」
「一つめ。本物の先輩と偽物の先輩の違いです」
「うん」
「本物の先輩は自分の手柄を自分のものと言いません。偽物の先輩は後輩の仕事を自分の手柄として、会議で発表します」
「本物の先輩はレビューでたくさん指摘します。けれど最後にちゃんと肯定します。偽物の先輩は最初は優しく、最後で裏切ります」
「本物の先輩は、信頼するというのは任せて質問だけすることだと見せてくれます。偽物の先輩は、信頼するというのは丸投げすることだと見せます」
遠野CTOは頷きながら聞いていた。メモは取っていなかった。手は湯呑みのほうにずっと置かれていた。
「二つめ。本物のマネージャーと判断しないマネージャーの違い」
「うん」
「本物のマネージャーは本番障害のときに、『組織の責任として、私が引き取ります』とお客様の前で言います」
「判断しないマネージャーは現場の若手に『現場で決めて』と判断を丸投げします」
「うん」
「本物のマネージャーは1on1で『いちばんやりたいことは何ですか』と聞きます。判断しないマネージャーは1on1で『困ったこと、ある?』しか聞きません」
「本物のマネージャーは自分のチームの数字を、若手にちゃんと見せます。判断しないマネージャーは数字の話をしません」
「うん」
「三つめ。燃え尽きの過程」
ここで僕は一拍置いた。古川先輩の七つの段を構造で語っていいのかどうか、迷った。けれど構造で、と遠野CTOは言ってくれていた。だから構造で出した。
「最初は熱意があった人が、ある時上司が変わって、提案を出しても返ってこなくなって、十回出して十回返ってこなくて、ある日提案を出すのをやめる」
「やめてから、コードを書く意欲も薄れていく。燃え尽きというよりは長い、過程の話だと思いました」
「うん」
「断罪の対象ではありません。観察の対象です」
遠野CTOは湯呑みをテーブルに軽く置いた。
「四つめ。変革者の動き方」
「うん」
「変えようとして、疲れた、という人がいます。会社を移ったあとで、動き方を変えた、と」
「一人で動かない、急がない、逃げ場を複数持つ。逃げ場は辞めるための場所ではなく、続けるための場所」
「変革者は孤独だけれど、孤独だからこそ逃げ場の数で続けられる」
遠野CTOは頷いた。長く静かな頷きだった。
「桐谷くん」
「はい」
「君の見方は私の参考になる」
「いえ」
「いや、参考になる。私一人では見えない角度の話が、いくつか入っていた」
「ありがとうございます」
「特に燃え尽きの過程の話と逃げ場の話は、私の頭の中の整理にも、たぶん貢献する」
遠野CTOは軽く笑った。笑いには、自分の側も学ぶ、という色がちゃんとあった。
「桐谷くん、ひとつ私から話してもいい?」
「はい、お願いします」
「私も若い頃、似たようなことを観察していた」
「遠野さんがですか」
「うん。新卒で別の会社に入って、三年目くらいまで、組織の中でいろんなことを見ていた」
「はい」
「本物の先輩と偽物の先輩。本物のマネージャーと判断しないマネージャー。燃え尽きの過程。変革者の孤独」
「同じです」
「うん。たぶん桐谷くんの見ているものと、八割くらいは重なる」
「はい」
「違いはひとつあった」
「違いですか」
「私は半径3メートルから始めたということ」
その一行が出た。
半径3メートル、と僕は心の中で繰り返した。入社式の朝、遠野CTOが新卒たちに置いてくれた最初の言葉。「まず、自分の半径3メートルから変えていく。それが変革の出発点です」というあの言葉。
「半径3メートルですか」
「うん。これは君に最初に渡した言葉でもあるけど、私自身に、ずっと置いている言葉でもある」
「はい」
「私は若い頃、組織全体を変えたかった」
「はい」
「上長を変えたかった。経営陣を変えたかった。会社の方針を変えたかった」
「はい」
「全部、無理だった」
遠野CTOは軽く笑った。笑いには長い距離の淡い色があった。
それから立ち上がって、応接椅子の脇のホワイトボードを引き寄せた。トレーの青いマーカーを手に取って、キャップをぱりと開ける。
「桐谷くん、一回、図にしてみる」
「はい」
ホワイトボードのいちばん中央に、青いマーカーで小さな丸をひとつ書いた。直径三センチくらいの丸。その丸の中に「私」と書く。
「これが、自分」
「はい」
丸のまわりに、半径十センチくらいの大きな円を、ゆっくり一筆で書き足した。中央の小さな丸を囲むかたちで、ちょうど同心円になった。
「これが、半径3メートル」
「はい」
「全部無理だと分かったあとで、私は自分の手の届く範囲だけ変えようと決めた」
「半径3メートル」
「うん」
大きな円の中に、青いマーカーで小さな丸をいくつか書き足した。「先輩」「後輩」「同僚」「上司」と、それぞれの丸の中に短く書き込む。書く順番はゆっくりで、書きながらこちらに目を上げ、上げてからまた書く動作を二、三度繰り返した。
「自分の半径3メートルの先輩、後輩、同僚、上司、それから自分自身。その範囲だけちゃんと観察して、ちゃんと関わって、ちゃんと変えようとする」
「はい」
「それ以外の範囲は、自分がその範囲に動いたときに、また観察して、関わって、変えようとする」
「動いたとき、というのは」
「異動とか、昇進とか、転職とか、独立とか。物理的に自分の半径3メートルが移動したとき」
「分かります」
「変革は半径3メートルから。それ以外は続かない」
その一行は淡く、まっすぐだった。長く置いてきた言葉の淡さとまっすぐさだった。
「私はヨキエルに三十三歳で最初に来て、四十歳で一度離れた。CTOとして戻ってきたのは四年前だ」
「はい」
「最初に来たときにヨキエルの半径3メートルは、私のチームの五人だった」
「五人」
「うん。その五人をまずちゃんと観察した。ちゃんと関わった。ちゃんと変えた」
「はい」
「五年目までに、その五人が自分たちの半径3メートルを変え始めた」
「広がっていくということですか」
「うん。半径3メートルが、隣の半径3メートルと重なる。重なった先でもう一回り広がる」
遠野CTOはホワイトボードに、最初の大きな円の脇に、もうひとつ同じくらいの大きさの円を、半分だけ重ねて書き足した。二つの円が交わる楕円形の部分を、青いマーカーで軽くハッチングで塗りつぶした。
「これが、重なり」
「はい」
もうひとつ、その隣にもう一回り大きな円を、二つの円を内側に含むかたちで赤いマーカーで書き足した。
「重なった先で、もう一回り広がる」
「それが変革ですか」
「それが続く変革、と私は呼んでる」
遠野CTOは赤いマーカーのキャップを軽く閉めて、ホワイトボードのトレーに戻した。図のいちばん最初の中央の小さな丸の中の「私」の文字を、もう一度青いマーカーで軽くなぞり直してから、椅子に戻ってきた。湯呑みをもう一度軽く持った。
「続かない変革は、たぶん変革じゃない。一時の波で終わる」
「分かります」
「桐谷くん、君の三年目、何を選ぶかは君次第」
「はい」
「ただ何を選んでも、半径3メートルだけは置いておいたほうがいい」
「はい」
「半径3メートルを忘れて組織全体を変えようとすると、たぶん十年目で疲れる」
その一行は間宮先輩の話とまっすぐ繋がっていた。
「分かりました」
「分かった、とちゃんと言える顔をしている」
遠野CTOは軽く笑った。
「桐谷くん、ありがとう。今日は私が教わったほうが多い」
「いえ」
「いや、本当に。CTO面談というのは、一方的にこちらが話すというよりは、相手からいちばん学ぶ場、と私は思ってる」
「はい」
「またこういう機会、作っていい?」
「ぜひ、お願いします」
「うん。たぶん半年に一度くらい」
「分かりました」
午後四時三十二分。三十分の予定が二分だけ伸びた。
ドアを出るときに、ホワイトボードの上の二つの重なる円と、その外側のもう一回り大きな赤い円が、軽く視界の端に置かれた。図はそのままホワイトボードの上に残されていた。たぶんしばらく消さずに置いておくのだろう、と心の中で僕は思った。
遠野CTOは立ち上がって、ドアまで軽く送ってくれた。CTOという肩書きの人の所作というよりは、お客様を見送る人の所作だった。
「桐谷くん」
「はい」
「君のノート、続けて」
「はい」
「続けたノートは、たぶん十年後、二十年後、別の若手の足場になる」
「足場ですか」
「うん。君が今、半径3メートルの先輩から足場をもらっているのと同じ形で」
「はい」
「いってらっしゃい」
「失礼します」
軽く頭を下げてドアを閉めた。
CTO室のドアの外、三階の廊下。
エレベーターまで、十歩。
歩きながら、僕は頭の中で遠野CTOの言葉をもう一度並べた。
半径3メートルから、始める。
それ以外は、続かない。
続かない変革は、変革ではない。
半径3メートルが、隣の半径3メートルと重なる。
重なった先で、もう一回り広がる。
君のノートは、十年後、二十年後、別の若手の足場になる。
六行の並びは、入社式の朝の「まず、自分の半径3メートルから変えていく」の一行からまっすぐ延びていた。一年八ヶ月前の一行が、今日もう一度、別の形で置かれた。
廊下を一人で歩く間、二十秒くらいの時間。
二十秒の中で、僕は何を選ぶかまだ分かっていない自分を、ちゃんと認めた。三年目に何を選ぶか、と遠野CTOは置いてくれた。何を選ぶか、というのはたぶん、今この瞬間に決めることではなくて、半径3メートルの中で、これから半年、一年、二年かけてゆっくり見えてくることだった。
ゆっくり見えてくるまでの間、ノートをちゃんと続ければよかった。続けたノートは足場になる。僕自身の足場にも、たぶん別の若手の足場にも。
フロアの角を曲がると、いつもの三階のチームAの島の光が目に入った。
その日の夜、寮の自室。
机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。新しいページに、十二月三日水曜日の日付。
「遠野CTOの個別面談」と、見出しを入れた。
その下に、いくつかの行を並べた。
君のような若手が何を見ているか、聞きたい。
構造で語ってもらえると、ありがたい。
私は若い頃、似たようなことを観察していた。
違いは、私は半径3メートルから始めた。
変革は、半径3メートルから。
それ以外は、続かない。
半径3メートルが、隣の半径3メートルと重なる。
君の三年目、何を選ぶかは君次第。
半径3メートルだけは置いておいたほうがいい。
その下に、もう一行。
君のノートは、十年後、二十年後、別の若手の足場になる。
最後に、もう一行。
今夜から、ノートの位置づけが少しだけ変わった。
その下に、もう一行だけ書き足した。
明日、森山くんがどこかで詰まっていたら、答えではなく白瀬さんにもらった問いの形をもう一度渡してみよう。
組織全体を変える大きな話は、まだ僕には遠かった。でも、半径3メートルのいちばん近くにいる後輩に、自分が受け取った足場をひとつ渡してみる。それくらいなら、いまの僕にもできる気がした。それがたぶん、ノートの位置づけが変わるということの、最初の一歩だった。
ノートを閉じた。
窓の外、十二月の夜気は十一月よりだいぶ冷たかった。桜並木通りの紅葉はもうほとんど落ち、地面に重なっていた。地面の色は茶色く湿っていた。
半径3メートル、という言葉を、僕はもう一度心の中でつぶやいた。一年八ヶ月前、入社式の朝、僕はその言葉の意味を半分も分かっていなかった。今日もう一度その言葉を渡されて、半分くらいはたぶん分かった。残りの半分はこれから三年目でゆっくり分かっていくのだろう、と思った。
ノートの脇に湯呑みのお茶。さっき寮の食堂で淹れた淡い緑茶。お茶はもうぬるくなっていた。ぬるい温度でも、いま僕の手のひらの中にはちゃんと馴染んでいた。
机のスタンドを軽く消した。部屋の灯りも消した。
暗闇の中で目を閉じた。
半径3メートルの先輩、後輩、同僚、上司、それから自分自身。一年八ヶ月で、その範囲の中にちゃんといろんな人が置かれていた。葉山さん、黒木、アユシュくん、丸山くん、杉本さん、白瀬さん、諏訪さん、間宮さん、古川先輩、立花さん、赤坂さん、森山くん。それから半径3メートルの外の遠野CTO、村瀬社長、岡崎さん、三浦、母、父。
外と数えた人たちも、結局、僕の半径3メートルにときどき入ってきていた。半径3メートルというのは固定の半径ではなく、動く半径なのかもしれない、とふと思った。動く半径の中で、僕は明日も観察を続ける。




