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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第57話「オンボーディングは、技術だ」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十一月の最終週、火曜日の夕方。


 間宮先輩と先々週の夜、駅前のロータリーから歩道橋と北口の公園を歩いて、長い話を聞いた。あの夜の温度は、まだ自分の中に残っていた。


 あれから二週間。


 業務はいつも通り進んでいた。白瀬さんからのコードレビュー、諏訪マネージャーとの1on1、森山くんへの軽い助け舟。


 でも、自分の中で何かが動き始めていた。


 動き始めたまま、どこにも行き場がなかった。


 夕方の十七時半、僕は自分の島から、間宮先輩の島の方角に歩いた。


 間宮先輩はいつものように、画面に向かってコーヒーを飲んでいた。


「間宮さん」


 間宮先輩は画面から顔を上げた。


「お、桐谷くん」


「ちょっと、相談、いいですか」


 間宮先輩は椅子を軽く引いて、僕の方を向いた。


「いいよ。座って」


 間宮先輩の島の隣の空席に、僕は座った。


 


「来年、たぶん、後輩がつきます」


 僕は自分の声が少しだけ固いことに気づいていた。


 間宮先輩はコーヒーを置いて頷いた。


「ああ。三年目だもんね」


「はい」


「決まったの?」


「まだ決まってない。でも、業務量見ると、たぶん誰か来ます」


「森山くんが、もう、いるよね」


 間宮先輩がふと言った。


「森山くんは白瀬さんがメインです。僕は補佐で」


「来年は、たぶん僕がメインで持ちます」


 僕はそこで言葉を止めた。


「補佐とメインは、たぶん違う気がして」


 間宮先輩は軽く頷いた。


「違うよ。だいぶ違う」


 その一言で、来年の重さが少しだけ輪郭を持った。


 間宮先輩はそれ以上は聞かなかった。


 ただ軽く頷いた。


 しばらく沈黙が流れた。


 間宮先輩は、こちらが切り出すのを待っていた。


 僕はノートを軽く抱え直して、ゆっくり口に出した。


「人を、受け入れるって、何ですか」


 間宮先輩はしばらく黙った。


 画面の方を軽く見た。手のひらでコーヒーカップの縁を、ゆっくり撫でた。


「いい問いだね」


 間宮先輩は低い声でそれだけ言った。


 


「アユシュが、この前、大学の恩師の話をしていたのです」


 僕は続けた。


「大学の恩師、ですか」


「うん。日本に来る前、インドの大学で配属された研究室の指導教官、らしいです」


 僕はアユシュから聞いた話を、間宮先輩に伝え始めた。


 その先生は、新入生が研究室に来た最初の一週間で、四つのことを教えてくれたという。


 一つ目。あなたの役割はこれです。具体的にこういう仕事を、こういう範囲で引き受けてください。


 二つ目。私があなたに期待しているのは、これです。期待は三ヶ月後に、いったん書き直します。


 三つ目。失敗していいのは、ここまでです。これ以上の失敗は私が止めます。だから安心して、ここまでは失敗してください。


 四つ目。毎週この曜日のこの時間に、三十分話します。あなたが私を観察する時間でもあります。


 アユシュはそう話してから、ぽつりと言った。


 日本に来てから、こういう枠を作ってくれる人がいなかった。


「それを聞いて」


 僕は間宮先輩を見た。


「自分が後輩を持つときも、ちゃんと枠を作れるかな、って」


 間宮先輩はコーヒーをもう一口含んだ。


 しばらく黙ってから、低い声で言った。


「オンボーディングは、技術だ」


 


「技術、ですか」


「うん」


 間宮先輩はコーヒーカップを両手で包んだ。


「気合と、根性じゃない」


 間宮先輩は続けた。


「俺、二十五になる前、それを知らなくて、燃え尽きた」


 僕は間宮先輩の横顔を見ていた。


 駅前の夜に聞いた、あの話。二十五になる前、間宮先輩が前の会社で経験した、燃え尽きの夜々。


 あの話と、いま間宮先輩が言った「技術だ」が、自分の中でゆっくり繋がった。


 間宮先輩は少し目を伏せた。


「教える側にもなれず、教えてもらう側にもなれず、ただ走って転んだ」


 その一言には、二十五になる前の自分への小さな弔いが混じっていた。


 僕は何も言えなかった。


 間宮先輩はコーヒーカップを机に置いた。


「でも、それから十年近く経って、わかったことがある」


 間宮先輩は僕の方を向いた。


「人を受け入れる、っていうのは、技術として渡せる」


 


「アユシュのその先生が、四つのこと、教えてくれた、って言ったよね」


「はい」


「俺が本で覚えたのも、たぶんそれと同じ四つだと思う」


 間宮先輩はコーヒーカップを軽く回した。


「一つ目」


 間宮先輩はゆっくり続けた。


「役割の、言語化」


「役割」


「うん。最初の一週間で、『あなたの仕事は何か』を、五回くらい違う角度で説明する」


「五回……」


「うん。一回じゃ伝わらない。三回でも、まだ足りない。五回くらい言って、ようやく新人の側に輪郭ができる」


 間宮先輩はコーヒーをもう一口飲んだ。


 会話は急がず、ゆっくりと進んでいた。


 


「二つ目」


 間宮先輩は別の話題に入るような調子で続けた。


「期待の、擦り合わせ」


「期待」


「うん。『私はあなたに何を期待しているか』を、最初に紙に書いて渡す」


「紙に、ですか」


「紙に。口頭だと忘れる。紙に書いてあると、新人の側が必要なときに見返せる」


 間宮先輩はノートを机に軽く置いた。


「で、三ヶ月後に書き直す。最初の期待はたいていずれてる。三ヶ月で、ずれをお互いに確認する」


 僕はノートを開いてメモを取り始めた。


「メモ、いいよ」


 間宮先輩はそれを見て軽く笑った。


 


「三つ目」


 間宮先輩はコーヒーカップをもう一度、両手で包んだ。


「失敗の、許容範囲の、事前共有」


「事前共有……」


「うん。『この失敗はしてもいい。これは止めてくれ』を、最初の一ヶ月で具体例で渡す」


「具体例で」


「うん。抽象的に『大事な失敗はするな』って言われても、新人は何が大事かわからない。だから具体例で渡す」


 間宮先輩は続けた。


「『お客さんに変なメール送るのは止めて。そのまえに俺に相談して』『コードのバグは出していい。本番でバグが出ても、俺が引き受ける』『進捗が遅れるのはいい。ただ、遅れることを二日以上隠すのは止めて』」


 間宮先輩は三つ続けて口にした。


「これ、ぜんぶ具体的でしょ」


「はい」


「抽象的な言葉で安心するのは、教える側だけだ。教わる側は、具体例で初めて安心できる」


 その言葉が自分の中でゆっくり染みていった。


 


「四つ目」


 間宮先輩は空になりかけたコーヒーカップを軽く振った。


「定例の、相互観察」


「相互、観察」


「うん。毎週、同じ曜日に三十分。お互いに観察し合う時間」


「お互いに……」


「一方通行じゃない、ってことが大事」


 間宮先輩は続けた。


「先輩が新人を観察する時間でもあるし、新人が先輩を観察する時間でもある。お互いに見ている、ということを、最初に合意する」


 僕はペンを止めた。


 メモを取りながら、自分の中で何かが繋がり始めていた。


「これ、白瀬さんがやってくれてました」


 僕はぽつりと言った。


「お、桐谷くん、いいこと言うね」


 間宮先輩は少し笑った。


「白瀬さんのConfluenceの『失敗記録』。あれがたぶん、白瀬さんなりの『役割の、言語化』だったんだと思います」


「うん。それも、あるね」


「白瀬さんは、たぶん本では覚えていないですよね」


「うん。たぶん独学。自分が新人だったときに嫌だった経験から、自力で習得した」


 間宮先輩は続けた。


「俺は、燃え尽きてから本で覚えた。どっちでもいい。技術として渡せる」


 


 間宮先輩は空のコーヒーカップを机に置いた。


 窓の外、夕方の遅い時間。


 桜並木通りの最後の葉が、街灯の下で揺れていた。


「桐谷くん」


 間宮先輩は僕の方を見た。


「来年、後輩がついたら、この四つをいきなり全部やる必要はない」


「はい」


「最初の一週間で、一つ目。次の一ヶ月で、二つ目と三つ目。三ヶ月で、四つ目」


「ゆっくり、ですか」


「うん。ゆっくり、でも確実に。技術として渡す、っていうのはそういうことだから」


 間宮先輩は少し笑った。


「でも、もうひとつ大事なこと、言っておく」


「はい」


「四つ全部やっても、うまくいかないこと、ある」


「……」


「そのときは、自分のせいだとは思わないこと」


 間宮先輩の声に、少しだけ温度が戻った。


「うまくいかないのは、技術だけでは説明できない何かがある。そっちは技術じゃ、ない」


 その「技術じゃ、ない」の意味を、僕は心の中でしばらく受け止めた。


 たぶんそれは、人と人の間にいつも流れる、説明のつかないものなのだろう。


 間宮先輩は立ち上がった。


「コーヒー、もう一杯淹れに行く。桐谷くん、行く?」


「はい。行きます」


 二人で休憩スペースに向かった。


 


 席に戻ってノートを開いた。


 白いページに、僕は四つの行をゆっくり書き写した。


 一、役割の、言語化。

 二、期待の、擦り合わせ。

 三、失敗の、許容範囲の、事前共有。

 四、定例の、相互観察。


 四行の下に、もう一行付け加えた。


 ……技術として、渡せる。


 書き終えてその五行を見ていた。


 ふと顔を上げると、組込みチームの島から藤村さんがこちらに目を向けていた。連絡事項で寄りに来ていたらしい。


「また、ノート?」


「はい。また、ノートです」


「桐谷、最近、ノート、増えたな」


「はい、増えました」


「何書いてんの」


 藤村さんは半分、冗談のような調子で聞いた。


 僕は少し考えてから答えた。


「来年の自分への、地図です」


 藤村さんはしばらく、僕の顔を見ていた。


 それからぽつりと言った。


「桐谷、来年、後輩、持つの?」


「たぶん」


「……いい先輩に、なれそうだな」


 藤村さんはそれだけ言って、自分のチームの島の方角に戻っていった。


 僕はそれ以上は答えなかった。


 ただ藤村さんの「いい先輩に、なれそうだな」が、自分の中にゆっくり落ちていった。


 


 窓の外、夕焼けが深まっていた。


 桜並木通りに、街の灯がぽつぽつと灯り始めていた。


 ノートを閉じた。


 明日からも業務は続く。白瀬さんからのレビュー、諏訪マネージャーとの1on1、森山くんへの軽い助け舟。


 でも、いまの自分の中には四つの新しい行が加わっていた。


 その四つの行が、来年の春にたぶんゆっくり効いていく。自分が受け入れる、まだ顔も名前も知らない誰かのために。


 今夜もう一度、間宮先輩の言葉を思い出した。


 ……オンボーディングは、技術だ。気合と、根性じゃない。


 その「技術だ」という言葉の中に、間宮先輩の、あの夜々の弔いがまだ生きていた。


 弔いが、技術に変わる。


 弔いを技術に変えるまでに、間宮先輩はたぶん十年近くかけている。


 その十年の重みを、今夜、四つの行で僕は受け取った。


 ノートを机の引き出しにしまった。


 冬の風が窓の外で静かに流れていた。


 桜並木通りに雪はまだ来ていなかった。


 来週か、再来週か。


 たぶん、その頃には初雪が降る。


 降る頃には、もう一度間宮先輩と話しに行こう。


 そう、思った。


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