第56話「間宮、駅前を歩きながらの夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
十一月中旬、木曜日の夜。
社内Slackのダイレクトメッセージで、間宮先輩から一行が届いた。
「桐谷くん、今夜十九時、駅前のロータリーで」
いけます、と返した。
間宮先輩からこういう誘いは、年に一度か二度だった。誘い方はいつも短い。返事も、短くていい。ただ、今夜の誘いは少し違った。いつもなら最後に「とんぼ」と付くところが、今夜は「ロータリー」だけだった。
夜七時、港川駅前のロータリー。
駅前広場の街灯の下で、間宮先輩はもうコートの襟を立てて立っていた。手にはコンビニのホットコーヒーの紙コップ。先輩はこちらに気づくと、軽く手を上げた。
「来たか」
「お疲れさまです」
「桐谷くん、今日はちょっと、歩こう」
「はい」
「とんぼは、最後にちょっとだけ寄る。先に駅前を半周くらい」
「はい」
間宮先輩はそれだけ言って、駅前のロータリーから北口の歩道のほうへ歩き始めた。歩く速度は、いつもの構造を語るときの座位の温度とはぜんぜん違う、ちょっと早足の温度だった。
……今夜の間宮さん、足が動いている。
心の中で僕はつぶやいた。
間宮先輩はいつも「とんぼ」のカウンターでお猪口を傾けながらゆっくり構造の話をする人だった。歩きながら話す姿は、入社以来一度も見たことがなかった。
歩きながら間宮先輩は紙コップのコーヒーをひとくち飲んで、それから低い声で続けた。
「桐谷くん、最近、どう」
「いろいろ、です」
「いろいろ、というと」
「葉山さんがパッケージ事業チームに異動しました」
「うん、聞いた」
「アユシュさんが韓国のAIスタートアップから声をかけられているそうで」
「うん」
「来年三月から、検討中とのことです」
「うん」
「先週、古川先輩がとんぼで本音を話してくれました」
「うん」
「最初は熱意があった、三年目で上司が変わった、提案を十回出して返ってこなかった、と」
「うん」
間宮先輩は紙コップのコーヒーを口に運んだ。間宮先輩の頷きはいつも短い。短い頷きの中に、ちゃんと聞いた、という色が入っていた。歩く足は止まらなかった。歩道橋の手前のあたりで信号待ちになって、足だけ半秒止まった。
「桐谷くんの二年目の後半、ずいぶんいろんなことが見えてきたな」
「葉山の異動、アユシュの選択、古川の本音」
「俺、二年目の頃はこんなにいろんなことは見えてなかった」
間宮先輩は軽く笑った。先輩の笑いは、自分のことに関してはいつも控えめだった。
「間宮さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「いいぞ」
「間宮さんはどうやって続けてきたのですか」
その問いを僕は今夜出すつもりだった。古川先輩の七つの段を、僕は今週ずっと頭の中で並べていた。並べていて、別の問いが自然に浮かんできた。間宮先輩はなぜ段を降りずに、ここまで続けてきたのか。
間宮先輩は信号が青に変わると同時に、また歩き始めた。歩道橋の階段を、ゆっくり上り始めた。コートのポケットに片手を入れて、もう片手は紙コップ。
一拍、間があった。
その間はいつもの構造を語る前の間ではなかった。構造を語る前の間はもう少し短い。今夜の間はもうちょっと長かった。少し違う種類の間だった。歩道橋の踊り場で間宮先輩は半段だけ歩く速度を落とした。
「桐谷くん」
「はい」
「俺もな」
「はい」
「ずっと、変えようとしてきた」
「はい」
「でも、疲れた」
その一行が出た。
僕は息を軽く止めた。間宮先輩の口から「疲れた」という言葉が出るのは初めてだった。
「先輩」
「桐谷くん、変革者って孤独だぞ」
「はい」
「孤独というのは悲劇的な意味じゃない。物理的に一人で動く時間が長くなる、という意味」
「分かります」
「いや、たぶんまだ半分くらいしか分かってない」
間宮先輩は軽く笑った。今夜の笑いには、いつも構造を語るときの淡い知性の色とは少し違う色が混ざっていた。
「俺、新卒で入ったのは、西日本の小さいIT会社でな。そこにいた二年、けっこう本気で組織の構造を変えようとした」
「権限と責任の乖離、属人化、判断しないマネージャー、休日強要、悪口の宴、いろいろ書類にまとめて上長に持っていった」
「上長は」
「読んでくれた。けど動かなかった」
「動かなかった、というのは」
「動くというのは組織の構造をちゃんと変えるということ。読む、と動くの間には、大きな川がある」
間宮先輩は紙コップのコーヒーをもうひとくち飲んだ。歩道橋の上、ちょうど真ん中あたり。下の車道で、夜のタクシーが二台、信号待ちで止まっていた。
「俺はその川を一人で渡ろうとした。たった二年、無我夢中で」
「渡れましたか」
「半分くらいは渡った。半分は渡れなかった」
「半分」
「うん。半分はたぶん、俺一人では渡れない種類の川だった」
「先輩」
「結局、二年で潰れて、辞めた。三ヶ月休んで、ヨキエルに来た。遠野さんの『半径3メートル』に出会って、そこから少しずつ、動き方を変えた」
歩道橋を渡り切って、北口の駅前公園の脇に出た。十一月の夜の風が、公園のけやきの枝のあいだを薄く流れていた。間宮先輩は公園の入り口のいちばん手前のベンチを軽く手で示した。
「桐谷くん、ちょっと座るか」
「はい」
二人でベンチに座った。ベンチの木は乾いていて、冷たかった。間宮先輩は紙コップのコーヒーをベンチの脇に置いた。コートの裾を整えて、それから続けた。
「動き方を変えたというのは、いくつかの意味がある。ひとつは、一人で動かないということ。ふたつめは、変革を急がないということ。みっつめは、逃げ場をたくさん持つということ」
「みっつめですか」
「うん。みっつめがいちばん大事」
「逃げ場、というのは」
「会社の外に複数の世界を持つということ」
間宮先輩はベンチの脇に置いた紙コップのコーヒーを、もう一度手に取った。
「俺のいまの逃げ場、聞きたいか」
「聞きたいです」
「自転車、ボードゲーム、自治会、料理、Podcast、それからたまに小説の執筆」
「小説」
「うん。短いショートショート。年に二、三本書く。誰にも見せない」
間宮先輩は軽く笑った。
「あと最近、釣りも始めた。月に一度、土曜日の早朝に川沿いに一人で行く」
「七つくらいあるのですね」
「七つと数えると多いように見えるが、ひとつひとつは軽い。週に一個、軽く触れるくらいの軽さ」
「分かります」
「会社の外に軽い世界が複数あると、たぶんなんとか保てる」
間宮先輩はベンチから立ち上がって、軽く伸びをした。それからベンチの前を二、三歩、ゆっくり行き来した。歩きながら、続けた。
「会社の中だけに自分の重さを全部置こうとすると、長くは続かない」
「先輩」
「俺は続かないということを、前の会社の、あの二年で、ちゃんと思い知った」
その一行は淡かった。淡いというよりは、降りた淡さだった。古川先輩の淡さとは別の種類の淡さだった。古川先輩は降りた後でもう登らなかった。間宮先輩は降りた後で、別の場所にゆっくり登り直していた。
「間宮さん」
「うん」
「先輩は社内でいちばん物知りだと、僕、思ってました」
「組織の構造のことも、業界の歴史のことも、本のことも、地元のことも、いろいろ知ってます」
「だからすごい人だと思ってました」
「桐谷くん」
「はい」
「俺、物知りというほどじゃない」
「いえ」
「いや、物知りじゃない。逃げ場を複数持ってる、というだけ」
間宮先輩は軽く笑った。
「逃げ場が七つあると、それぞれの逃げ場でちょっとずつ知識がたまる。自転車で整備の話を覚える。ボードゲームでルールの設計を覚える。自治会で町内の歴史を聞く。料理で出汁のとり方を覚える。Podcast で業界の遠い人の話を聞く。小説で人の心の動かし方を考える。釣りで川の流れを見る」
「全部たし算すると、ちょっと物知りに見える」
「先輩」
「でもひとつひとつは、たぶんふつうの趣味の人と変わらない」
「いえ」
「いや、変わらない」
間宮先輩はベンチの前に立ったまま、紙コップのコーヒーをまたひとくち飲んだ。飲んだ手はゆっくりだった。
僕は自分の中で、間宮先輩の七つの逃げ場をもう一度並べてみた。自転車、ボードゲーム、自治会、料理、Podcast、小説、釣り。並べてみるとたしかに、ひとつひとつはふつうの趣味の人と変わらない、と言われれば変わらないのかもしれなかった。
けれどそれを七つ並べるというのが、ヨキエルに来てからの間宮先輩の動き方だった。七つ並べる動き方を「ふつうの趣味の人と同じ」と言うのは、たぶんちょっと違った。
軽くツッコミを入れたくなった。
間宮さんが社内一の物知りに見えたのは、たぶん知識の深さじゃなく逃げ場の数のせいかもしれない、と内心で思った。ツッコミというよりは軽い納得だった。
ベンチの脇のけやきの枯れ葉が、夜風で軽く三枚、四枚と地面に落ちた。間宮先輩は立ったまま、その枯れ葉のいちばん最後の一枚が地面に着くのを見届けてから、続けた。
「桐谷くん」
「はい」
「俺の今日の話、もしかしたらちょっと暗かったかもな」
「いえ」
「いや、暗い」
「いえ、暗いとは思いません」
「思わないか」
「思わないです」
「なぜ」
「先輩が降りた後で、別の場所に登り直した話だからです」
「ああ」
間宮先輩は軽く笑った。今夜の中でいちばん明るい笑いだった。
「桐谷くん、ちゃんと整理して聞いてるな」
「はい」
「古川の話と俺の話、別、とちゃんと見えてるか」
「見えてます」
「どう、別」
「古川先輩は、降りて、そのまま。間宮さんは、降りて、別の場所に登り直した、です」
「うん、いい整理」
「ありがとうございます」
「桐谷くん、観察、続けてるな」
「はい」
「いいぞ、続けろ」
間宮先輩は紙コップのコーヒーをもうひとくち飲み干した。
夜九時前。
間宮先輩はベンチの脇のごみ箱に、空になった紙コップを軽く落とした。
「桐谷くん、ちょっと冷えてきたな」
「はい」
「とんぼで温まって帰るか。最後のひと品だけ」
「はい」
駅前公園を出て、北口の路地のほうへ歩いた。とんぼの引き戸の前で、間宮先輩は軽く息を吐いて、引き戸を開けた。
大将はカウンターの向こうで軽く頷いた。先客はもう半分くらいいて、いちばん奥の二席だけが空いていた。
「大将、桐谷くんと二人。短くひと品だけ」
「うん。ふろふき大根、いま温まったとこ。それでいいか」
「いい」
大将はぱりとふろふき大根を二つ出した。柔らかかった。味噌は白味噌の甘いほうだった。冬の手前の軽い甘さだった。
「桐谷くん、ふろふき大根はちゃんと味噌つけて食え」
「はい」
二人でふろふき大根を食べた。歩道橋の上の十一月の風と、ベンチの上のけやきの枯れ葉の温度のあとで、とんぼのカウンターの中の白い湯気の温度は、もうひとつ別の場所に置かれていた。
「先輩」
「うん」
「もうひとつだけ聞いていいですか」
「いいぞ」
「先輩は、ヨキエルを辞めようと思ったこと、ありますか」
その問いを、僕は今夜出すかどうか迷っていた。けれど歩道橋の上と公園のベンチと、それからとんぼの白い湯気を挟んだあとで、間宮先輩の口調がいつもより少し開いている、と感じた。だから出した。
間宮先輩は軽く頷いた。
「ある」
「いつですか」
「ヨキエルでも、何度か、年の暮れにな」
「何度か、ですか」
「うん。そういう夜に、辞表を、書きかけて、書きかけて、書きかけて、結局、書かなかった」
「なぜ書かなかったのですか」
「書きかけている間に、逃げ場の七つが自分を引き戻した」
「逃げ場が、ですか」
「うん。たとえば自転車で川沿いを走っていると、ふっと『来週も走りたい』と思う。来週も走るには平日の仕事をちゃんと終えていないと走れない。だから書きかけの辞表をまた引き出しに戻す」
「先輩」
「逃げ場は辞めるための場所、と思われがちだが、逆」
「逆」
「逃げ場があるから、辞めずに続けられる」
その一行は淡かった。古川先輩の淡さとも別の種類の淡さだった。
「分かりました」
「桐谷くんも逃げ場、持っとけ」
「とんぼですか」
「とんぼもひとつ」
「澪はどうですか」
「澪もひとつ」
「桜並木通りの散歩は」
「いい逃げ場」
「カメラ」
「うん、カメラもいい」
「LT、勉強会、岡崎さんとの集まり」
「いい逃げ場、いっぱいある」
間宮先輩は軽く笑った。
「桐谷くん、もう五つ、六つ持ってるな」
「気づいたら増えてました」
「いい増え方」
「ありがとうございます」
「桐谷くん、たぶん続けられるぞ、長く」
「先輩」
「俺と一緒、というほどの長さじゃなくていい。桐谷くんのペースでちゃんと続けられる」
「はい」
夜九時半。
大将がお会計を出した。間宮先輩は自分の分を自分で払った。僕も自分の分を払った。古川先輩のときは先輩が出してくれた。けれど今夜の間宮先輩との会計は、別々だった。これまでとんぼで二回、間宮先輩がまとめて払ってくれていたから、別々というのは、たぶん今夜の温度の意味だった。
「桐谷くん、また今度な」
「はい」
「冬の前にもう一度ここで」
「はい」
「あと、俺からひとつ」
「はい」
「逃げ場の話、誰にも言わなくていい。気が向いたら、自分の中だけで整理しろ」
「分かりました」
間宮先輩は軽く手を上げて、引き戸の向こうに消えた。引き戸がぱりと閉まった。大将は軽く頭を下げた。
残された僕は緑茶の湯呑みの最後のひとくちを、ゆっくり飲み干した。
夜十時、寮への帰り道。
桜並木通りは紅葉の後半。葉の三分の二は赤く、残りは茶色く乾いていた。
歩きながら、僕は今夜の間宮先輩の話を頭の中で並べていた。
最初は、ずっと変えようとしてきた。
でも、疲れた。
変革者は、孤独。
前の会社で潰れて、ヨキエルに来て、動き方を変えた。
一人で動かない、急がない、逃げ場をたくさん持つ。
逃げ場は、辞めるための場所ではなく、続けるための場所。
頭の中の並びは、古川先輩の七つの段とは別の形をしていた。古川先輩の段は下に下に降りていく階段だった。間宮先輩の七つは横に広がる軽い世界だった。
どちらが正解、ということではなかった。ただ二つの形は別、ということだけがちゃんと見えた。
寮の自室。机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。
新しいページに、十一月十三日木曜日の日付。
間宮先輩、駅前歩道橋とけやきベンチの夜気で、本音。とんぼは最後の白い湯気のひと品。
その下に、いくつかの行を、並べた。
変革者は、孤独。
俺もな、ずっと変えようとしてきたが、疲れた。
前の会社で潰れて、ヨキエルに来て、動き方を変えた。
逃げ場を、複数、持つ。
逃げ場は、辞めるための場所ではなく、続けるための場所。
ちょっと間を置いて、もう一行。
間宮先輩の逃げ場、七つ。自転車、ボードゲーム、自治会、料理、Podcast、小説、釣り。
もう一行。
ひとつひとつは、ふつう。たし算するとちょっと物知りに見える。
もう一行。
間宮先輩が社内一の物知りに見えたのは、知識の深さではなく、逃げ場の数のせい、かもしれない。
その下に、もう一行。
古川先輩の段と、間宮先輩の七つは、別の形。
もう一行。
別の形でも、それぞれちゃんとある。
ノートを閉じた。窓の外、夜気の中、紅葉の通り。十一月の風が薄く流れていた。
古川先輩の本音と間宮先輩の本音。二週連続で、僕は本音を二つ聞いた。本音と呼んでいいのかはまだ迷う。けれど本音以外の言い方が、今のところ見当たらない。
二つの本音は別の形だった。別の形だからこそ、それぞれちゃんと置けた。
明日は金曜日。リードタイムの集計を白瀬さんともう一度確認する予定だった。仕事はちゃんと続いていた。続いている仕事の隣に、本音が二つ。二つは仕事を邪魔しなかった。むしろ仕事の足場の下の、見えにくいところで薄く何かを支えていた。
窓を軽く閉めた。二つの本音が、これから自分のどこに効いてくるのか。それはまだ、分からなかった。




