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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第54話「葉山、異動希望を出す日」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十月初旬の月曜日。社内Slackの全社チャンネルに人事室からの周知が流れた。


「下期の異動希望面談、十月一日から二週間、受け付けます。担当は人事の沢田五郎です」


 同じ全社チャンネルに、続けてCTO室からの短い予告も流れていた。


「今月末の全社会議で、遠野CTOより技術方針の推進についてお話しします。詳細は追って各部長よりお伝えします」


 僕はその二行を目で追って、後半の一行は自分の担当ではないと理解して、前半の一行のほうに、もう一度目を戻した。


 沢田五郎、と僕はもう一度名前を読んだ。


 チームBには中堅エンジニアの沢田さんがいる。葉山さんが「美月ちゃん」と呼ばれるあの沢田さんだ。今日の周知の沢田は人事の沢田五郎で、五十代の男性。同じ姓の別人だ。社内にはもう一人、製造業のお客様向けに古いシステムを守る沢田さんもいて、合わせて沢田姓は三人いる。混同しないように、僕は手帳の余白に「人事=五郎/チームB=中堅/製造業=ベテラン」と短く書いた。


 昼休み。社員食堂の窓側の席で、葉山さんがおにぎりをひとつ食べ終えてお茶のペットボトルを軽く置いた。


「桐谷くん」


「うん」


「私、異動希望、出すから」


 短い一文だった。葉山さんの口調は静かだった。先月までのぴくっと跳ねるような苛立ちは奥にしまわれていた。決めた人の声だった。


「面談、いつ?」


「明日の午前。十時から」


「相手、人事の沢田五郎さん」


「うん。チームBの沢田さんとは別。だいぶ違う」


 葉山さんは軽く笑った。笑いには疲れの色があった。お茶をひとくち飲んで「桐谷くんに先に言っておきたかった」と言った。


「同期で最初に話す相手は、桐谷くんと決めてた」


「ありがとう」


「礼を言うのは私のほうだよ」


 葉山さんはもう一度お茶を飲んだ。窓の外では桜並木通りの紅葉が始まっていた。葉先が赤く色づいていた。


「ついでに言うと、転職サイト、登録してた。念のため」


「え」


「異動がだめだったときの保険。年が明けてすぐのころから」


 葉山さんは窓の外を一秒見た。


「スカウト、いくつか来てたけど、ぜんぶ流した」


 


 翌日、火曜日の朝十時。葉山さんは一階の人事室に向かった。僕は三階の自分の席でリードタイム計測の集計を更新していた。集計の数字は八月の終わりから九月の終わりまでで平均二日半。少しずつ下がっていた。


 数字を見ながら時計をちらりと確認した。十時を回ったところだった。葉山さんの面談はちょうど始まっている。


 集中、と心の中で言い直して手元のスクリプトに目を戻した。


 


 以下はその日の夜、駅前の喫茶店「あかね」で葉山さんから聞いた話の組み立て直しである。


 人事室は一階の北側、廊下の突き当たりにある。北向きの小さな窓、白い壁、白木のテーブル。テーブルの上にお茶のペットボトルが二本。ひとつは沢田五郎が用意したものだった。


「葉山さん、座ってください」


 沢田五郎は立ち上がって椅子を引いた。


 葉山さんは軽く頭を下げて座った。沢田五郎は向かいに腰を下ろした。髪は薄く、淡い灰色のジャケットを着ていた。胸ポケットに薄手のノート、ペン、社員証。誠実、と葉山さんはまず思ったという。誠実そう、ではなく、誠実、と。


「異動希望、書類は読みました」


「はい」


「もう少し口頭で聞かせてもらえますか」


 沢田五郎はペンを開いた。手帳のページは新しい白い紙だった。葉山さんの名前と日付だけが上のほうに書いてあった。


「江口マネージャーの下では、私は育たないと思います」


 葉山さんは最初に結論から出した。出してから自分でも少し驚いた。一年前の自分ならこういう言い方はできなかった。


 沢田五郎は淡く頷いた。頷きがちゃんと届いた感触があった。


「具体的に、どんなことが」


「いくつかあります」


「順に聞かせてください」


 葉山さんは頭の中で順番をつけた。手帳を開く必要はなかった。事例はもう口の端まで来ていた。


「一つめ。1on1が形だけです」


「形だけ、というのは」


「カレンダーには三十分入っています。実際は五分か十分で終わります。江口マネージャーは机の前で書類を見ながら『困ったこと、ある?』と聞いて、私が『大丈夫です』と答えると『うん、じゃあ、よろしく』で終わります」


「毎回ですか」


「毎回です。一年半、同じです」


 沢田五郎はペンを動かした。動きは速くなかった。聞きながら要点を置いていく動きだった。


「二つめ。お客様との打ち合わせで、議事録係を当然のように振られます。会議室に入って女性が私一人のとき、他の人には誰も議事録は振られません」


「江口さんが振るのですか」


「江口マネージャーは現場には来ないことが多いです。現場で振るのは立花さんかチームBの沢田さんです」


 葉山さんはここで一拍置いた。沢田五郎の表情を確かめた。同姓の話に相手は軽く眉を動かした。動きは小さかった。区別がついている動きだった。


「チームBの沢田さんですね。私とは別の沢田です」


「はい。中堅のエンジニアの沢田さんです。先月お客様先で、私に『美月ちゃん、議事録、頼める?』と言いました。立花さんも別の場で同じ言い方をします。お二人の口調が似ていて、私の中ではダブルパンチで来ます」


「美月ちゃん、と」


「はい」


「呼び方を葉山さんはどう感じていますか」


「不快、というほどではないのかもしれません。ただ、その呼び方の延長で議事録やお茶や後片付け、そういう仕事が当然のように来ます。だから私はその呼び方をもう受けたくないと思っています」


 葉山さんは半秒、視線を落とした。小学校五年の頃、女子グループから『葉山さんはちょっと違うよね』と距離を置かれた半年の温度が、心の奥でほんの少しだけ動いていた。あの頃の自分は何も言えなかった。今は言える。


 沢田五郎は頷いた。短い頷きだったが聞き流しではなかった。葉山さんはその差をちゃんと見ていた。


「三つめ。立花さんは桐谷くんの仕事を自分の手柄にしました。チームAの話ですがフロアは同じです。私は見ていました」


「桐谷くんというのは、新卒二年目の桐谷蒼太くんですね」


「はい。私の同期です」


「立花さんの件は別の場で、別の経路で、報告が来ています」


 沢田五郎は短くそう言った。葉山さんは内心で軽く頷いた。報告が来ているという一行は、白瀬さんか諏訪さんから上がっているのだろうと思った。


「四つめ。江口マネージャーは現場の判断を私たちに丸投げします。『現場で決めて』、それだけです。判断の責任を引き受けない人の下で、私は二年目を終えたくありません」


「丸投げ、というのは明確な言葉ですね」


「私が自分の言葉で言うなら、そうなります」


 沢田五郎はペンの動きを止めた。手帳のページに四つの項目が並んでいた。葉山さんからは見えなかった。


「逆に、聞かせてください。この一年半で、よかったことは」


 葉山さんは少し考えた。この問いも、江口マネージャーからは出てこなかった。


「同期の、丸山くんです。物流の案件で組んでいます。丸山くんは前職が運送で、現場にほんとうに詳しいです。倉庫の数え方、繁忙期の波。『それ、現場で回らないっすよ』と彼が止めて、私がそれを要件の優先順位に並べ直す。あの作業は、好きでした」


「いい組み合わせですね」


「はい。仕事そのものが嫌なわけではありません。だから、よけいにはっきりしました。私が離れたいのは江口マネージャーの下であって、丸山くんとのあの仕事ではない、と」


 言いながら、葉山さんは少し寂しくなったという。異動すれば、丸山くんとのあの噛み合いも、置いていくことになる。


 


「異動希望先は、どちらですか」


「パッケージ事業チームです」


「自社サービス事業チームは」


「あそこは、牧野さんですから」


 葉山さんは短くそう言った。沢田五郎はほんの一瞬だけ視線を上げた。視線の動きは小さかったが、葉山さんは見逃さなかった。


「牧野さん、ですか」


「はい」


「葉山さんは牧野さんをどう見ていますか」


「桐谷くんが先月、休日の懇親会を断ったときの牧野さんの『ノリ悪いね』を、私は聞いています。同じフロアにいました」


「なるほど」


「あの空気の下では、私はまた別の形で削られると思います」


 沢田五郎はゆっくり頷いた。


「分かりました」


 頷きの後で彼はペンをもう一度動かした。手帳の四つの項目の下に、何かを一行書いた。葉山さんからは見えなかったが、たぶん異動先の希望とその判断材料の要約だろうと思った。


 


「葉山さん、ひとつ私の側からも聞いていいですか」


「はい」


「葉山さんがパッケージ事業チームで、いちばんやりたいことは何ですか」


 葉山さんは一拍置いた。江口マネージャーの形だけの1on1では、こういう問いは出てこなかった。一年半、出てこなかった問いだった。


「お客様の業務をちゃんと最後まで見届ける仕事です」


「最後まで、というのは」


「受託では納品で関係が切れます。パッケージならお客様が使い続けるあいだ、ずっと見届けられます。私はそういう関わり方の仕事をやってみたいです」


「分かりました」


 沢田五郎はもう一行書き足した。


「葉山さんの希望はちゃんと組織側に伝えます。最終的な決定は私一人ではしません。受け入れ先のマネージャーと、葉山さんの上司と、私の上長とで、二週間以内に判断します」


「はい」


「結論が出たら、まず葉山さんに私の口から伝えます」


「お願いします」


 葉山さんは軽く頭を下げた。沢田五郎も軽く頭を下げた。お辞儀の角度が同じくらいだった。葉山さんはその同じくらいの角度をちゃんと見ていた。


 


 その日の夜七時、駅前の喫茶店「あかね」。窓際の二人席。コーヒーを二つ。


「桐谷くん、面談、ちゃんと聞いてくれた」


「うん」


「沢田五郎さん、誠実な人だった」


「うん」


「江口マネージャーとは全然違う」


「うん」


 葉山さんはコーヒーをひとくち飲んだ。湯気が顔の前で薄く流れた。


「ねえ、桐谷くん」


「うん」


「一年前の私は、たぶんああいう問いに答えられなかった」


「『いちばんやりたいことは何ですか』?」


「うん。一年前なら『分かりません』『考えたことありません』で終わってた」


「今日はちゃんと答えたんだね」


「うん。『お客様の業務を最後まで見届けたい』って」


 葉山さんは自分でも少し驚いたように笑った。笑いに苦みはなかった。


「それにね」


「うん」


「決めたの、ほんとは今日じゃないの」


「うん?」


「一年目の冬。覚えてる? ぴくっとの数が、ずっと右肩上がりだった頃。あのとき決めてたの。錆びる前に、だめなら、動く、って」


「……覚えてる」


「あれから八ヶ月、対処の引き出しを増やしながら待った。待って、それでも変わらなかったから、動いた。だから今日のは、衝動じゃないの」


 だめなら、動く。一年目の一月の社員食堂で、葉山さんが置いたあの言葉は、消えていなかった。八ヶ月かけて、今日の面談の四つの項目に育っていた。


「桐谷くんとか、白瀬さんとか、諏訪さんとか、見てる人たちのおかげかもしれない」


「葉山さん、自分の言葉だよ」


「自分の言葉。でも横に誰かが座ってないと出てこない種類の言葉なんだよ」


 その言い方は葉山さんらしくない、と僕は思った。葉山さんはいつも自分の苛立ちを自分の中で処理する人だった。今夜の言い方は苛立ちではなく、何かを認める言い方だった。


 僕は黙って頷いた。窓の外を帰宅途中の通勤客が歩いていた。葉山さんはもうコーヒーを半分以上飲み終えていた。


 


 一週間後、火曜日の夕方四時。


 社内Slackのダイレクトメッセージで、葉山さんから一行が届いた。


「決まった。パッケージ事業チーム、来月から」


 僕は席を立って三階のフロアの奥、チームBの席のほうに軽く目を向けた。葉山さんはMacBookの画面を見ていた。横顔はいつもよりやわらかかった。


 夕方五時、廊下の自動販売機の前で葉山さんと合流した。缶コーヒーを二つ買った。


「葉山さん、おめでとう」


「ありがとう」


「沢田五郎さん、どうだった?」


「電話だった。直接、私の携帯に。『正式に決まりました、十一月一日付け、パッケージ事業チーム、配属』って」


「来月、引き継ぎ、忙しくなるね」


「うん。引き継ぎは立花さんとチームBの沢田さんにちゃんと私の言葉で置いていく」


 葉山さんは軽くそう言った。「私の言葉で」のところにいつもより少し力が入っていた。


「江口マネージャーには」


「形だけの1on1で、形だけの引き継ぎ。それでいい」


「葉山さんらしい」


「うん。最後の1on1は、形だけ、形だけ」


 葉山さんは缶コーヒーをひとくち飲んだ。「桐谷くん、いつも話を聞いてくれてありがとう」と言った。一年前の喫煙所の話、議事録の話、立花さんの話、ぴくっと跳ねる感覚の話、限界の予兆の話。葉山さんが僕に置いてきた話はたぶん一年半ぶんの厚さだった。


「葉山さんが話してくれたから、僕も自分の観察を続けてこられました」


「お互いさま、ということにしておこう」


「うん」


 二人で笑った。廊下の自動販売機の電球が薄く点滅していた。


 


 その日の夜、寮の自室。机のスタンドの灯りの下でノートを開いた。新しいページに十月十四日火曜日の日付を入れた。


 葉山さん、パッケージ事業チーム、十一月一日。


 その下に、もう一行。


 人事の沢田五郎さん、五十代、誠実。中堅の沢田さんとは別人。


 その下に、三行目。


 話を聞く人事、判断する人事。江口マネージャーとは別の形のマネジメント。


 四行目。


「いちばんやりたいことは何ですか」という問いを、葉山さんに置けた人がいた。


 五行目。


 葉山さんは、その問いに、自分の言葉で答えられた。


 六行目。


 一年半、答えられない問いだった。今日、答えられた。


 七行目。


 答えられる場所に、葉山さんは移る。


 八行目。


 異動は、決断だった。逃げではなかった。


 最後にもう一行。


 決断できる場所まで、葉山さんを連れてきたのは、葉山さん自身の一年半だった。


 ノートを閉じた。窓の外、桜並木通りの紅葉。十月の夜気は九月よりもう少し乾いていた。


 葉山さんが来月から別の階で働いている。その想像はまだ少し落ち着かない。けれど寂しさよりも、ほっとした気持ちのほうが大きかった。


 ぴくっと跳ねる感覚を抱えたままの葉山さんを、僕はもう見たくなかった。だから今夜のほっとした気持ちは、たぶん正しいほっとした気持ちなのだと思った。


 窓を少しだけ閉めた。寮の廊下で丸山くんが「お疲れっすー」と誰かに声をかけている音がぼんやり聞こえてきた。


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