第53話「ある日の諏訪千絵」(インタールード⑦)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、諏訪千絵の視点で描かれています。時系列は二年目十一月の場面(桐谷が四人のマネージャーをノートに書く夜)より前、九月第一週の夜で、インタールードとして時系列を遡って配置しています。
九月の第一週、土曜日の夜九時十分。
ヨキエル株式会社の三階フロア。みなと信用金庫の本店から戻り、桐谷くんが社内向け資料の書き直しを終え、白瀬さんの紙コップのコーヒーが机の上で湯気を立てて、三人で六時半に会社を出た。それから私はもう一度、自分の席に戻ってきていた。
誰もいないフロア。窓の外の桜並木通りの葉桜の青さは、もう夜の濃さの中に沈んでいた。
机の引き出しの中から、薄いA5判のノートを取り出した。表紙はくすんだ紺色で、角が少し丸まっている。十年使っている、私の仕事用のノート。
ページの中ほどに、今朝九時の「桐谷くん再発防止策ドラフトv0.1からv1.0 仕上げ」、十時半の「みなと信金本店応接室、川島部長・山田副部長」、十一時三十分の「車中の桐谷くんへの一言」、午後三時の「白瀬さん帰社・紙コップ」、午後六時の「振り返り会_v1.0 月曜日朝九時半 第二会議室」、六時半の「白瀬さん駅、桐谷くん寮、私、車」と、簡潔な見出しが淡い青のインクで並んでいた。
最後の見出しの下は、まだ空白だった。
ボールペンを握った。ペン先を紙の上に置いた。書こうとして、手が止まった。
……今日は書く前に、一度深呼吸。
心の中で、私はつぶやいた。
息をゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。もう一度。肩の力が抜けた。手のひらに温度が戻ってきた。書こう、と思った。
ペン先をもう一度紙の上に置いて、ゆっくり書いた。
桐谷くん、震えなかった。隣で頷きだけ、置けた。
一行置いた。もう一行、書き足した。
川島部長、「分かりました」と置いてくださった。頷きがこちらにちゃんと届いた。
もう一行。
お客様の前で、自己弁護も自己批判もしない。淡く事実だけ。これは私がヨキエルに入った頃、当時の課長から教わった、いちばん基本の形。
三行、並んだ。
ペン先を止めた。窓の外の街灯の光が、ガラスに薄くにじんでいた。その光を見ながら、もう一行書き足した。
桐谷くんが、寮でちゃんと休めますように。
書いた一行は、低く湿った温度を奥に残していた。
夜十時十分前。
ノートを閉じて、引き出しに戻した。ロビーの自動ドアを出る。会社の駐車場の自家用車。白い軽自動車。後部座席に、子供たちの音楽教室の小さな鞄が置きっぱなしになっていた。
助手席に自分のリュックを置いた。エンジンをかけた。ナビは自宅までの二十二分のルートを表示した。
車を駐車場から出した。桜並木通り、夜の十時前、九月初旬。葉桜の青さは、夜気の中に薄く混じっていた。
窓を少し開けた。夜気が車内に流れ込んできた。湿った夜気の中に、秋の手前の気配が薄く混じっていた。
……秋、近い。
心の中で、私はつぶやいた。
九月の第一週の金曜日の夜から、今日の土曜日の夜まで、二十四時間とちょっと。その中で、私は長く深い呼吸をいくつか置いてきた。
ハンドルを握る手の力をゆるめた。ゆるめたぶんだけ、自分が薄く戻ってきた。
夜十時二十分。
自宅。市内の住宅地、二階建ての小さな一軒家。玄関の電気がついていた。夫が起きて待ってくれているらしかった。
玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「お疲れ」
夫の低めの声が、廊下の奥から軽く届いた。
夫、諏訪正人、四十二歳、市内の地方紙の文化部の記者。高校の同級生。私は新卒で記者ではなくこの業界を選び、ヨキエルに移って、もう十六年になる。
夫は、私の顔色を確かめてくれた。
「今日、難しい一日だった?」
「うん」
短く頷いた。夫はそれ以上は聞かなかった。ただ、廊下の奥の台所のほうに戻っていった。
私は玄関で靴を脱いで、廊下に上がった。子供たちの部屋のドアの隙間に、明かりは見えなかった。もう寝ているらしかった。
上の子、小学校五年生の千秋。下の子、小学校二年生の悠人。二人とも土曜日の朝の音楽教室と、午後の友達の家での遊びで疲れて、夜九時前に布団に入ったらしい。ドアの向こうに、ふたりの寝顔の気配が薄くあった。
台所の暖色の電気の下。夫がコンロの前で手を動かしていた。小さな土鍋に、湯気が薄く立っていた。
……味噌汁。
心の中で、私はつぶやいた。
夫は、私が遅く帰ってくる夜、よく温かい味噌汁を用意してくれた。今夜のはたぶん、わかめと豆腐の、いちばん簡単で軽い味の汁。
夫はお椀に味噌汁を注いで、テーブルのいつもの席に置いてくれた。ご飯はなかった。ただ、お椀ひとつ。
「食べてきた?」
「うん、半分くらい」
「うん。じゃ、これだけ」
「うん、ありがとう」
お椀の縁を両手で包んだ。温度が手のひらに伝わってきた。ひとくち、口に運んだ。わかめの香りと豆腐の柔らかさ、味噌の軽い甘み。口の奥で、ゆっくりほどけた。
深く、息を吐いた。吐いた息は温かく湿っていた。二十四時間ぶん、奥にためていた湿気の薄い分が、軽く押し戻された。
夫は向かいの席に座った。お茶のペットボトルを開け、ふたつの湯呑みに注いだ。ひとつを私のほうに押してくれた。
「今日、何があった?」
夫は丁寧に聞いてくれた。聞き方に押しがなかった。答えても答えなくてもいい、という余白を置いてくれた。
その余白の中に、私は口を開いた。
「うん」
「うん」
「若手の桐谷くんが、本番リリースで大きな失敗をした」
「ああ、桐谷くん」
「うん」
「お客様の業務システムが、十六分、応答停止になった」
「うん」
「夜間に発覚できて、業務時間前に復旧できた。月曜朝までに気づけずにいたら、御行の窓口に影響が出ていた」
「うん」
「私が今朝、お客様の本店に頭を下げに行った」
「うん」
「『組織の責任として、私が引き取ります』、と」
夫は頷いた。低く、丁寧な頷きだった。
「君は、いつもそれをするね」
その一行は低く軽かった。軽さの中に、夫の長い見守りの温度が薄く混じっていた。
……いつもそれをする。
心の中で、私はつぶやいた。
いつもそれをしてきた十五年が、夫の一行の隣に薄く並んだ。
「うん」
「桐谷くんを守るのが、私の仕事だから」
「うん」
「うん」
間。お茶をひとくち飲んだ。湯呑みの縁は、味噌汁よりは軽く冷えていた。その冷たさの向こうに、夫が何かを待っているのが分かった。
「正人くん」
「うん」
「私がヨキエルに入った頃のこと、覚えてる?」
「うん。あの、坂上課長の話?」
「うん、坂上課長」
坂上、というのは、私がヨキエルに中途で入った最初の頃、配属されていた当時のチームBの課長の名前だった。その名前を、私はここ数年、夫と話していなかった。十五年ほど前の記憶の中に、薄く置きっぱなしになっていた名前。今夜その名前が、ふっと口の奥から出てきた。
「あの人、君に何をしてくれたんだっけ」
夫は軽く目を細めた。高校の同級生で長く見守ってきた夫の目は、丁寧だった。
「私、入社二年目の冬」
「うん」
「お客様の本番システムで、大きな障害を出した。夜中の十一時から朝の五時まで、現場で修復作業」
「うん」
「次の日の朝、お客様の本店に、坂上課長と二人でお詫びに行った。私、震えて、お客様の前で声が出なかった」
「うん」
「そのとき、坂上課長が隣で」
「『すべて、私の管理責任です。諏訪は、当チームで必ず立派に育ちます』、と」
その一行を、口の奥でもう一度確かめた。十五年前の坂上課長の低い声が、いま台所の暖色の電気の下に、薄く戻ってきた。
「あの一行が、私を立ち上がらせた。あの一行がなかったら、私はたぶん、その冬、辞めていたかもしれない」
夫は頷いた。長く、丁寧な頷きだった。
「だから今朝、私は川島部長の前で、その一行を自分の口から出した」
「『組織の責任として、私が引き取ります。桐谷は、必ず学びます。私のチームで育てます』、と」
「言葉の形は、十五年で少し変わった。でも、出てきた場所は、坂上課長と同じ場所だった」
「うん」
「私が坂上課長から受けた支えを、桐谷くんに渡した」
「今度は、私の番なんだろうな」
その一行は低く淡かった。淡さの中に、十五年の継承の温度が薄く混じっていた。
……今度は、私の番。
心の中で、私はつぶやいた。
番、という一文字は、軽く温かかった。その温かさが、私の足場の下に薄く置かれた。
夫はお茶をひとくち飲んで、湯呑みをテーブルに戻した。
「桐谷くん、大丈夫?」
「うん、たぶん」
「うん」
「今日、車の中で『すいません』が出かかっていた」
「うん」
「『謝らないで、学ぼう』と置いた」
「うん、いいね」
「うん」
「明日、日曜日、休んでもらった」
「うん」
「月曜日の朝、振り返り会、四十五分」
「うん」
「桐谷くん、ちゃんと戻ってくると思う」
夫は軽く頷いた。頷きの中に、私の見立てを信じてくれる温度があった。
「君は、いつもそういう若手のこと、ちゃんと見てるね」
「うん」
「でも」
「うん」
「君、今夜は、君のことも見ていいよ」
その一行は、低く軽く置かれた。
……私のこと。
心の中で、私はつぶやいた。
今日の二十四時間ちょっとの中で、私は桐谷くんを、川島部長を、白瀬さんを、立花さんを、島田副部長を、それぞれ見ていた。自分のことは後回しになっていた。夫の一行は、その後回しをこちらに引き戻してくれた。
「うん」
「ありがとう」
短く、それだけ置いた。夫は軽く笑った。
お椀の中の味噌汁は、もう半分くらい減っていた。残りをゆっくり飲み干した。最後のひとくちは温かかった。その温かさの中に、夫の二十年あまりの長い見守りが薄く混じっていた。
お椀を流しに運んだ。夫が「俺、洗うよ」と手を伸ばした。
「うん、お願い」
「うん」
夫にお椀を託した。お椀は、温かい湿りをまだ残していた。
子供たちの部屋の前。ドアを軽く開けた。
二段ベッドの上の段に千秋。下の段に悠人。二人とも深く眠っていた。千秋の、横向きにふくらんだ頬。悠人の、布団から軽く出している小さな足。ふたりとも、ふつうの健やかな、九月の夜の眠りの中にいた。
悠人の足の布団を軽くかけ直した。悠人はもぞりと寝返りを打って、もう一段深く眠った。千秋のほうは起きなかった。
ふたりの寝顔を見ながら、軽く息を吐いた。
……この子たちが大人になる頃。
心の中で、私はつぶやいた。
あと二十年もすれば、千秋も悠人も、ちょうど私が入社二年目の冬に立っていた頃の年に、たどり着く。
その頃の社会と職場が、いまよりは少しでも優しい場所であってほしいと、心の奥で思った。
優しい、というのは、ふわふわした意味ではない。もっと淡く、しっかりと、足場の置かれた場所という意味だった。
責任は、上が引き受ける。若手は震えてもいい。震えながらちゃんと立ち上がり、足場を組み直せる場所。その場所を私の世代が組み続けないと、二十年後の千秋と悠人の足場は置かれないかもしれない。
……組み続ける。
心の中で、私はつぶやいた。
組み続ける、という四文字は、長くゆっくりした温度をしていた。今日一日、桐谷くんにささやかな足場を置いた作業の、長い延長線上にある四文字でもあった。
ドアを軽く閉めた。
夫婦の寝室。夜十一時十分前。
夫が書斎で、明日の校了前の原稿を確認している音が薄く聞こえていた。キーボードの、かたかたという小さな音。
私は寝室の机の前に座った。机の上に、私のノート。A5判、くすんだ紺色。もう一度、引き出しから取り出した。会社で四行書いてあった。その続きの空白に、もう少し書き足したかった。
ボールペンを握り直した。ペン先を紙の上に置いて、ゆっくり書いた。
十五年前、坂上課長が私に置いてくれた一行を、今朝桐谷くんに置けた。
もう一行、書き足した。
夫が「今夜は君のことも見ていいよ」と置いてくれた。
もう一行。
千秋と悠人の寝顔。二十年後の足場を、組み続けたい。
もう一行。
桐谷くん、立派に育ってほしい。
書き終わった四行は、淡い青のインクで並んでいた。低く丁寧で、湿っていなかった。
いちばん最後の一行を、もう一度読んだ。「立派に育ってほしい」というのは、私が今朝川島部長の前で口に出した一行の、続きだった。
川島部長の前では「育てます」と断定で置いた。いまノートの中では「育ってほしい」と願いで置いた。ふたつは別の置き方だった。
別の置き方の奥で、ふたつとも同じ場所から出ていた。その場所はたぶん、十五年前の坂上課長の低い声を、いまも覚えている場所だった。
ノートを閉じた。机の上のいつもの位置に戻した。
ベッドに入った。夫はまだ書斎で、軽くキーボードを鳴らしていた。その音は、家の中の少し外側で薄く流れていた。
目を閉じた。暗闇の中に、桐谷くんの寮の部屋が薄く浮かんだ。机の上のノート、ペン、私物のMacBook、いちばん左のノートの「二年目、仕事の質を見る」の一行。
桐谷くんは、今夜ノートを開けただろうか。開けても開けなくてもいい。ただ、寮でちゃんと休んでほしい。
……ちゃんと休んでほしい。
心の中で、私はつぶやいた。
その願いは、低く丁寧で、湿っていなかった。
十五年前、坂上課長も私の入社二年目の冬の夜、自宅の机の前で同じ願いを置いてくれていたかもしれない、とふと思った。置いてくれていたとしたら、私は十五年経って、その願いをもう一度、桐谷くんのほうに渡している。
渡しているその先に、二十年経った千秋と悠人の世代の、まだ知らない若手の、ささやかな足場の輪郭が薄くあった。はっきりとは見えなかった。見えなかったけれど、確かに暗闇の奥に、薄く置かれていた。
窓の外、九月初旬の夜空。雲が薄く流れていた。雲の隙間に、半月。その青白い輪郭は、明日の朝までにはもう少しふくらむらしい。ふくらんだ月は、桐谷くんの寮の部屋の窓からも、たぶん薄く見えるはずだった。
ふたつの窓から、同じ半月を見ているかもしれない。その重なりの中で、私はゆっくり眠りに落ちていった。
落ちていく隣に、坂上課長の十五年前の低い一行と、夫の今夜の「君のことも見ていいよ」の一行と、千秋と悠人の寝顔の三つが、薄く並んだまま置かれていた。三つの並びは、月曜日の朝の振り返り会の四十五分の手前で、私をちゃんと待ってくれていた。




