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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第52話「四人のマネージャー、継ぐ・見ない・波・地」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 十一月の第三週、金曜日の夜。


 九月の終わりに、牧野マネージャーの夜会があった。あれからもう二ヶ月。


 寮の自室。


 窓の外、桜並木通りの葉はほとんど落ち切っていた。最後に残った数枚が、街灯の下で寒そうに揺れていた。


 港川市に初雪はまだ来ていない。けれど夜の風の匂いには、もう雪を待つ気配があった。


 机の上に、ノートを開いた。


 白いページ。何も書かれていない。


 ペンを取って、いちばん上にひと行書いた。


 ……マネージャーって、なんだろう。


 書いてから、その文字をしばらく見ていた。


 答えを書こうとして、書けなかった。答えがあるなら、こんな夜にノートを開いていなかった。


 答えではなく、観察を書くことにした。


 ヨキエルに入って、一年半あまり。


 その間に、僕は四人のマネージャーを見てきた。


 諏訪さん。江口さん。大沢さん。牧野さん。


 四人の名前を、ノートの上のほうに横一列に書いた。


 書き終えて、ボールペンを机に置いた。


 


 最初に、諏訪さんの名前の下に書こうとした。


 ペン先を紙に当てて、しばらく止まっていた。


 諏訪さんとの1on1で何度か、坂上課長という名前を聞いたことがあった。


 十数年前に諏訪さんを引っ張り上げてくれた人らしい。定年のあと、いまは別の会社で部長をしている、と聞いていた。


 数ヶ月前の1on1で、諏訪さんはこう言ったことがあった。


「この言い方、私もたぶん、ヨキエルに入った頃、当時の坂上課長から似た形で教わりました」


 あのとき、僕の中で何かが引っかかった。


 諏訪さんの言葉の作法は、坂上課長から受け取ったものだった。


 それをいま、諏訪さんが自分の言葉として僕に渡している。


 受け取って、渡す。


 受け取ったものを、そのまま渡すのではない。十年分の時間と自分の経験を混ぜて、渡す。


 諏訪さんはいつも「責任は、上が引き受ける」と言ってくれる。それも坂上課長から受け継いだ言葉かもしれなかった。


 ノートに、ひと行書いた。


 ……諏訪さんは、継ぐ人だ。


 書いてから、しばらくその一行を見ていた。


 継ぐ。


 過去から受け取って、未来に渡そうとしている。


 そのことが、諏訪さんを諏訪さんにしている。


 ……継ぐ、か。


 心の中で、その動詞を半秒だけ自分のほうに向けてみた。森山くんに白瀬さんの問いの形をそっと渡してみた、あの日。あれも、ほんの小さな「継ぐ」だったのかもしれない。受け取ったものを刻み直して、渡す。けれど、それで自分が「継ぐ人」になるのかは、まだわからなかった。動詞を一度やってみたことと、その人に「なる」ことの間には、たぶんまだ長い距離があった。


 


 次に、江口さんの名前の下に書こうとした。


 江口さんはチームBのマネージャー。僕の直属の上司ではない。けれど配属からの一年半あまりで、何度か近くで見てきた。


 江口さんの特徴をひと言で言うのは、難しかった。


 部下の進捗を細かく聞かない。週次の1on1も雑談中心。技術的な指摘もほとんどしない。


 最初に見たときは、無関心な人だと思った。


 でも、夏の副業の話のとき。


 チームBの丸山くんは、副業を始めるにあたって、江口さんには相談しなかった。人事の沢田さんに直接、書面で確認を取っていた。理由を聞くと、丸山くんは「いや、なんとなくっす」と笑っただけだった。


 なんとなく。


 その四文字から、伝わってくるものがあった。


 江口さんは、見ない。けれど、見ないことを選んでいる。


 江口さんはたぶん、東京の大手SIerで四年勤めて、辞めている。いつかの飲み会で中堅の誰かがそう話していたのを、耳の端で覚えていた。


 四年で辞めた人が、地方の中堅企業のマネージャーになって、十数年。


 その十数年の間に、たぶん見すぎることの怖さを学んだ。だから、見ないと決めた。


 無関心ではない。見ないことが、優しさになる場合もある。


 ノートに、ひと行書いた。


 ……江口さんは、見ない人だ。


 書いてから、その一行に注釈をひとつ付け加えた。


 ……(悪い、と書かない)。


 悪い、と書きたくなる気持ちが自分の中にあったから、その注釈を書いた。


 四人を良いマネージャーと悪いマネージャーで分けようとすると、観察が止まる。


 観察は、止めたくなかった。


 


 大沢さんの名前の下に、ペンを置いた。


 大沢さんは組込み開発部の中堅マネージャー。一年目の夏のあの夜、僕は大沢さんと少しだけ距離を置いたことがあった。


 大沢さんは、機嫌の波がはっきりある人だった。


 機嫌のいい日の朝は、僕にも笑顔で挨拶してくれる。機嫌の悪い日は、目も合わせてくれない。


 最初は、扱いにくい人だと思った。


 でも、見ているうちにわかってきたことがあった。


 波があるからこそ、本心が見える。


 機嫌のいい日に大沢さんが言ったことは、たいてい機嫌の悪い日にも変わらない。ただ、声のトーンが違うだけ。


 あるとき、大沢さんが急に娘さんの話を始めた日があった。


 ひな、という名前の、八歳の女の子。


 その日の大沢さんは、いつもとまったく違う温度を見せていた。


 帰り際、僕にぽつりと言った。


「桐谷くん、子供がいると、自分の機嫌の波が自分でも笑えるようになる」


 その一言が、ずっと自分の中に残っていた。


 波の高低を読めるようになると、距離の取り方が見えてくる。


 ノートに、ひと行書いた。


 ……大沢さんは、波の人だ。


 書いてから、ひと呼吸置いて、もう一行書き足した。


 ……波を読めるのは、たぶん、波の外にいる僕だから、だ。


 その二行目を書いたとき、組込みの島で毎日その波を浴びている黒木の横顔が、少しだけ浮かんだ。読んで距離を取れる僕と、浴び続ける黒木とでは、同じ波でも、重さがまるで違った。


 


 最後に、牧野さんの名前の下にペンを置いた。


 牧野さんは自社サービス事業チームのマネージャー。九月の終わりの夜会で、僕は牧野さんの「もうひとつの顔」を見たような気がしていた。


 いつもは明るく賑やかで、絵文字を多用するSlackを書く人。


 でも、あの夜会で、牧野さんはぽつりと藍川町の話をした。


 千寿閣旅館という名前の温泉旅館。牧野さんの実家。三代目の父が亡くなって、兄が四代目を継いだ。牧野さんは東京で十五年を過ごして、それからヨキエルに来た。


 その話を、牧野さんはいつもの賑やかな調子で語った。けれど語り終えた後のほんの一瞬、目の中に別の色があった。


 地に縛られた、と書きたくなった。


 でも、その「縛られた」という言葉に、悪い意味は込めたくなかった。


 牧野さんはたしかに、藍川町と千寿閣旅館に何かを縛られている。けれどその縛りは、牧野さんの存在をどこかで支えてもいる。


 縛りがすべて、悪いわけではない。


 ノートに、ひと行書いた。


 ……牧野さんは、地に縛られた人だ。


 書いてから、その一行に注釈をひとつ付け加えた。


 ……(縛りが悪いわけ、ではない)。


 


 ノートに、四行が並んだ。


 ……諏訪さんは、継ぐ人だ。

 ……江口さんは、見ない人だ。

 ……大沢さんは、波の人だ。

 ……牧野さんは、地に縛られた人だ。


 ペンを置いて、四行を見ていた。


 並べてみたら、並べる前よりも四人の輪郭が少しだけ近くなった気がした。同時に、近くなったぶんだけ、自分がどこに立つのかがよけいにわからなくなった。


 どれも、悪い、とは書かなかった。


 四人とも、自分の弱さを抱えながらマネージャーをやっている。それはたぶん、僕にはまだわからない長い時間の積み重ねの中で、四人なりに選び取った形なのだろう。


 ……で。


 ノートの一番下に、ひと行書いた。


 ……で、自分はどれになるんだろう。


 書いてから、しばらくその一行を見ていた。


 答えは出なかった。


 継ぐ人にも、見ない人にも、波の人にも、地に縛られた人にも、自分がなれる気はしなかった。


 いや、なれるなれない、ではなかった。


 なりたいなりたくない、でもなかった。


 たぶん、まだ選んでいない。


 二年目の冬、十一月の金曜日の夜。僕はまだ、選んでいない。


 選んでいないものを無理に選びにいくのは、違う気がした。


 


 白い紙の右下に、ひと行書いた。


 ……答えは、まだ出ない。


 書いてから、ボールペンを机に置いた。


 窓の外、桜並木通りの最後の数枚の葉が、街灯の下で揺れていた。


 風が強くなってきた。


 冬が近かった。


 ノートを閉じた。


 閉じてから、手のひらの温度を確かめた。


 ペンを長く握っていたせいで、人差し指に薄く跡がついていた。


 その跡を、しばらく見ていた。


 四人を観察した。


 観察して、書いた。


 書いたことで、四人の輪郭がほんの少しだけ整理された。


 答えは出ていない。


 けれど、答えを急がないこと自体が、たぶん今夜のひとつの結論だった。


 答えを急がないでいる時間が、もう少し続いていい。


 そう、思った。


 


 ノートを机の引き出しにしまった。


 明日は土曜日。


 久しぶりに、何もない一日になるはずだった。


 白瀬さんとのPRのレビューの続きも、月曜まで後回しでいい。


 二年目の冬の、最初の週末。


 布団に入って、目を閉じた。


 目を閉じたまま、四人の名前をもう一度、ひとりずつ繰り返した。


 諏訪さん。


 江口さん。


 大沢さん。


 牧野さん。


 四人の顔が、四つの違う温度で頭の中に並んだ。


 その四つの温度のどこにも、自分の顔はまだ置けなかった。


 置けないことを置けないままに、夜は深まっていった。


 風が窓の外で、長く鳴った。


 港川市に明日、雪が降るかもしれなかった。


 降らないかもしれなかった。


 どちらでも、いい気がした。


 目を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。


 


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