第51話「ノリ悪いね、と言われた午後」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
九月の最終週、月曜日の午後三時。
ヨキエル株式会社の三階フロア。森山くんの一回目の本番リリースは、先週金曜日の夕方七時、三人体制で無事に終わっていた。
諏訪マネージャーが組み直した三人体制。白瀬さん、僕、森山くんという並びは、ちゃんと機能した。森山くんが最初のステップから最後のステップまで、MacBookを抱えてコマンドを叩いた。白瀬さんが隣で淡く頷いた。僕はホワイトボードの「ロールバック判断:現場」のところに、自分の名前ではなく「桐谷蒼太+白瀬凪」と二人の名前を書いた。
二人の名前の並びは、九月五日金曜日の、僕ひとりの名前への答えだった。その差は、諏訪マネージャーが組み直してくれた差だった。
……組み直し。
胸の奥でつぶやいた。
今日月曜日の午後三時。僕は自分の席で、リードタイム計測スクリプトの軽い改良を続けていた。画面に、ふつうの集中のかたちが戻りつつあった。
頬に残っていた先週木曜日の湿気は、かすかに引いていた。目の周りの赤さも、もう消えていた。
その集中の奥に、ふと後ろから声がかけられた。
「桐谷くん、ちょっといい?」
軽く振り返った。
立っていたのは、別部署の牧野マネージャーだった。自社サービス事業チームのマネージャー。五十代半ば、軽く緩めたネクタイ、明るい色のジャケット。よく笑う顔。
ただ、その笑顔の奥に、押しの強さが薄く透ける人だった。赤坂先輩が七月にここから自社サービス事業チームに異動してから、よくフロアをふらりと見にくる。たぶん、赤坂先輩の歓迎の延長で、こちらのフロアにも足を運んでいるらしい。
「牧野さん、お疲れさまです」
軽く頭を下げた。
「お疲れ、お疲れ。元気そうじゃない」
「はい」
「この前、本番リリースで大変だったって聞いた」
「はい、ご迷惑おかけしました」
「いやいや、若いうちはそういうことあるよ」
牧野マネージャーは軽く笑った。笑いながら、視線は僕の机の上を確かめていた。MacBook、ノート、ボールペン、湯呑み。確かめてから、本題に入った。
「桐谷くん、来週の土曜日、空いてる?」
「うちの部の懇親会、あるんだよ」
「はい」
「桐谷くんも、ぜひ来てね」
……懇親会。
内心でつぶやいた。
別部署の、土曜日の懇親会。迷う、と思った。でも、迷う前に僕の口はすでに開いていた。
「すいません、その日は予定があります」
ぽつりと出た。出た一行は、奥のほうからまっすぐ出てきた。いつもの僕の、待つ言い方ではなかった。待たずに出た。
……出た。
胸の内で確かめた。
牧野マネージャーは、笑顔を止めた。
「えー、家族みたいなチームの集まりなんだよ?」
「赤坂くんも、楽しみにしてるって」
「はい」
「皆で集まる機会、なかなかないから、ぜひ」
「すいません、無理です」
二度目の「無理です」は、最初の「予定があります」よりも低かった。低くて、はっきりしていた。
……無理です。
胸の奥で繰り返した。
無理です、という四文字を別部署のマネージャーに向けてはっきり置いたのは、たぶん入社して初めてだった。
牧野マネージャーの顔が固くなった。笑顔が引いて、その奥の押しの強さが顔を出した。
「桐谷くん」
「はい」
「ノリ、悪いね」
その一行は低かった。低くて、かすかに攻撃的だった。
……ノリ、悪い。
内心でつぶやいた。
ノリ、という二文字を確かめた。ノリ悪く返す自分が、心の奥でぽつりと笑っていた。
ノリ悪いと言われたから、ノリよく「はい、行きます」と返すべきなのか?
……ちがう。
胸の内で言った。
ノリが悪いのではない。こちらの予定を、向こうが見ていないだけだった。
「すいません」
「予定、ありますので」
「うん、わかった」
牧野マネージャーは、もう一度笑顔を作ろうとした。作りかけて、戻りきらなかった。
「じゃ、また機会があれば」
「はい」
牧野マネージャーは軽く頷いて、僕の机の隣から離れていった。足音がフロアの向こうに消えた。消えたあとに、軽い舌打ちが聞こえそうな空気がかすかに残った。
残った空気は、こちらに何かを押しつけようとして、押しつけきれずに消えていった。
……消えた。
胸の奥でつぶやいた。
奥のところで、湿気が上がりかけた。でも、真ん中で止まった。止まった隣に、別のものがそっと置かれていた。明るく軽い、足場の感触だった。
……断れた。
内心で漏らした。
断れた、という三文字が、口の奥でぽつりとふくらんだ。そのふくらみは、机の上のふつうの集中の隣に、そっと置かれていた。
ふと、もう一度振り返った。フロアの向こう側、白瀬さんの席。
白瀬さんは、自分のMacBook Proの画面に視線を置いたまま、こちらに目を向けていた。目線がぴたりと合った。白瀬さんは軽く頷いた。頷きは小さかった。声は出さなかった。ただ、その小ささの中に、低い「よくやった」のぬくもりが置かれていた。
……白瀬さん。
胸の内でつぶやいた。
白瀬さんはたぶん、僕と牧野マネージャーのやり取りを隣の席から聞いていた。聞いていたけれど、何も言わなかった。ただ、頷きをこちらに置いてくれた。
その置き方は、九月五日金曜日の、紙コップのコーヒーの置き方の続きだった。白瀬さんの置き方は、いつも要るところにぴたりと置かれる。
僕も軽く頷き返した。白瀬さんは視線を自分の画面に戻した。いつも通りの、白瀬さんの席の空気だった。
席を軽く立った。フロアの隅の男子トイレのほうに、ゆっくり向かった。
個室でドアを閉めた。座らずに立ったまま、深呼吸をした。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。もう一度。もう一度。三回くらい繰り返した。肩の力が抜けた。手のひらが温かくなった。
……落ち着け。
胸の奥で言い聞かせた。
落ち着け、というのは、心をふつうの集中に戻すための軽い合図だった。
ジャケットの内側のシャツの背中は、軽く湿っていた。でも湿りは浅かった。九月五日金曜日の、応接室の前の深い湿りとは別のものだった。その浅い湿りの中に、明るく軽い足場の感触が置かれていた。
個室から出た。洗面台の前で手を洗った。
鏡の中の自分は、ふつうの顔に戻っていた。目の奥に、軽くしっかりしたものがある。九月の第四週の木曜日の夜、洗面所の鏡の中にあった赤い目とは、別の目だった。
その目の奥に、新しい場所がうっすら見えた。二年目の九月の最終週、僕の中にぽつりと置かれた、ささやかな足場のかたち。
……足場。
内心でつぶやいた。
斎藤先生が二週間前、産業医室の白い小さなテーブルの向こうで置いてくれた二文字。
足場を持っていれば、線の外側で座っていられる。
線の外側、というのは、いつもの「澪」の右の角の席だけではなかった。「はい、わかりました」のいつもの自分の、もう一歩外側のことでもあった。別部署のマネージャーの誘いに「無理です」と置く場所も、線の外側だった。
その線の外側に、いま僕は座っていた。座っていられた。
……座っていられた。
胸の内でつぶやいた。
席に戻った。ノートを開いた。最近のページの空白の右側。ボールペンを握り直した。ペン先を紙に置いて、ゆっくり書いた。
断れた。今度は、嘘をつかずに。
書いた一行を見つめた。青いインクが、紙の上で乾いていく。
もう一行、書き足した。
別部署の懇親会、土曜日。「無理です」と二回、置いた。
もう一行。
ノリ悪い、と言われた。ノリ悪く返す自分を確かめた。
もう一行。
白瀬さんが頷いた。九月五日金曜日の、紙コップの続き。
四行、並んだ。
ペン先を止めて、もう一行書き足した。
線の外側に座れる足場。一年前の僕は、嘘の口実を借りないと立てなかった。
書き終わった五行を、上から下までもう一度読み返した。
最後の一行は、入社一年目の六月の僕のことだった。あのとき僕は、葉山さんが先に断ってくれて、やっと「明日、用事があるので」と嘘をついて断った。断れたけれど、いつか嘘をつかなくても断れるようになりたい、とノートに書いた。
今日は、嘘をつかなかった。先に断ってくれる誰かも、いなかった。その隙間に、足場の感触がそっと置かれていた。
ノートを閉じた。机の上のいつもの位置に戻した。
午後五時四十五分。
MacBookの画面で、リードタイム計測スクリプトの改良を区切りのいいところまで進めた。Gitにコミットをひとつ置いた。コミットメッセージは「Refactor: calc lead-time per PR」。画面を閉じて、席を立った。
白瀬さんの席をもう一度見た。白瀬さんはまだ画面の前に座っていた。
「お先に失礼します」
「うん、お疲れさま」
白瀬さんは画面に視線を置いたまま、軽く頷いた。
一階のロビーで、警備員の田所さんが軽く頭を下げた。
「桐谷さん、お疲れさまです」
「田所さん、お疲れさまです」
田所さんはいつもの軽い見守りを、こちらに置いてくれた。いつもの、ロビーの空気だった。
自動ドアを出た。桜並木通り、九月の最終週の夕方。
葉桜の緑は、夜の濃い色の手前に傾きかけていた。紅葉の手前の小さな赤味が、葉の縁にぽつりと差し始めていた。
……紅葉、もうすぐ。
胸の奥でつぶやいた。
夏はもう終わりだった。秋が、桜並木通りの葉の縁から始まりかけていた。
その中を、いつもの十二分のルートでゆっくり寮に向かった。今日の十二分は軽かった。軽くなった差は、たぶん午後三時の「無理です」と、白瀬さんの頷きと、ノートの五行が、僕の足の下に置かれていたからだった。
……三つの軽さ。
内心でつぶやいた。
寮のロビーを抜けて、自分の部屋に戻った。ドアを閉めた。リュックを机の横に置く。ジャケットをハンガーに掛ける。ネクタイをゆっくりほどき、軽く巻いて引き出しに戻した。机の前の椅子に座った。
窓の外、九月の最終週の夕焼け。桜並木通りの方角の空に、紅葉の手前の赤味の延長のような、薄いオレンジが置かれていた。
……断れた。今度は、嘘をつかずに。
胸の内でもう一度つぶやいた。
その一行はもうノートに書いてあった。書いてあるけれど、もう一度胸の奥で確かめた。確かめは、軽く温かかった。
その温かさの上に、たぶん明日からの僕の、いつもの集中がふつうに置かれていく。置かれていく隣に、今日の「嘘をつかずに断れた」がそっと残ったまま伴ってくれる。
その伴いが、二年目の九月の最終週の、僕のささやかな足場の確かめだった。




