第50話「寮で一人、泣く夜」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
九月の第四週、木曜日の夜九時四十分。
寮のロビー。会社からのいつもの帰り道。自動ドアをくぐると、奥の共用ラウンジから缶コーヒーの軽い香りが流れてきた。階段の手前で、寮母の小林さんとすれ違った。
「桐谷くん、お疲れさん」
「小林さん、こんばんは」
「今夜は早めね」
「はい」
小林さんは、いつもの紺のエプロンに、薄い水色のカーディガン。手にはお盆。お盆の上にラップをかけた小皿がふたつ。
「ちょうどよかった。桐谷くんに伝えとこうと思ってたんだけど」
「はい」
「今日もちゃんと、コーヒーマシンに、唐揚げ、入れてないからね」
「念のため」
「ありがとうございます」
「うん。心配しないでね」
小林さんは口の端でほんの少し笑った。一年半前、入社一年目の四月の夜、僕が新品のスーツのままラウンジのソファに深く座り込んで、翌朝ジャケットの背中に折り目とお茶のシミを両方作った、あの事件は、たぶんもう寮の中の小林さんのいちばん奥の引き出しの中で、軽く磨かれた笑い話になっていた。
「あの夜のこと、僕、まだ覚えてます」
「私もよ。あれ、たぶん私の寮母歴のいちばんの傑作」
「すみません」
「いいの。あれで桐谷くんのこと覚えたから」
小林さんは、お盆の上のラップをかけた小皿の隅を、軽くこちらに向けた。
「これ、夜遅い人用のおむすび。ラウンジの冷蔵庫に置いとくから。お腹空いたら、好きに食べてね」
「ありがとうございます」
「桐谷くん、最近ちょっと、痩せた?」
「いや、たぶんふつうです」
「ふつうね」
小林さんは半秒、僕の顔をじっと見た。それから「うん、ふつう」と軽く頷いて、お盆を抱えて廊下の奥のほうへ歩いていった。
……ふつう、で通った。
胸の奥で僕はつぶやいた。
ふつう、と言った僕の声と、ふつう、と頷いた小林さんの声は、たぶんお互いに半分ずつだけ嘘で、半分ずつだけ本当の音だった。お互いの半分を、お互いに突かない種類の置き方が、寮母の小林さんの一年半前から続く距離の形だった。
階段を二階まで上がった。廊下のいちばん奥から二番目のドアの前で、ICカードをピッと当てた。
夜十時、寮の自室。産業医面談から、一週間あまりが過ぎていた。
その一週間、僕はいつも通りに出社して、コードを書いて、定時に帰って、寮に戻っていた。いつも通り、というのは表向きだけだった。その奥のところで、僕の湿気はまだ薄く残ったままだった。
今日、木曜日。仕事の手元の進みは、戻りつつあった。
白瀬さんとの隣の席のリードタイム計測のスクリプトは、軽く再開していた。森山くんの一回目の本番リリースの予定が、明日、金曜日、夕方七時に控えていた。諏訪マネージャーが「桐谷くん、白瀬さん、森山くん、三人体制で行こう」と、注意深く組み直してくれていた。
仕事の進みは、ちゃんと置かれていた。
……ちゃんと置かれている。
内心でそう言った。
ちゃんと置かれているのに、いま机の前の僕の奥は、まだ湿気を残していた。
この一週間、僕は誰にも、その湿気のことを言わなかった。
森山くんが「桐谷さん、明日のリリース、よろしくお願いします」と頭を下げてくれたとき、僕はいつもの顔で「うん、こちらこそ」と返した。返した顔は、たぶんいつも通りに見えた。見えたはずだった。同期のLINEグループに、何か書きかけて、やめた夜もあった。「ちょっと、しんどい」と打って、全部消して、画面を閉じた。みんな、それぞれの二年目を、それぞれの場所で走っていた。その走りの中に、自分の湿気を一行だけ置く場所が、うまく見つけられなかった。
支えてくれる人は、いた。諏訪さん。白瀬さん。斎藤先生。篠原さん。それでも、夜の自分の部屋の机の前では、僕はいつも一人だった。支えはあるのに、その支えと、自分の奥の湿気が、うまく線でつながらなかった。
机の前の椅子に座っていた。私物のMacBookは閉じたまま。ノートを開いていた。ボールペンを握っていた。
書こうとして、手が止まった。書く言葉が出てこなかった。
ノートのページの左端の薄い罫線を、目で追った。罫線の向こう側、白い余白。その余白の中に何を置くか、迷った。
迷っていたら、ペン先が紙の上にぽつりと青いインクの跡を置いた。点がひとつ、ぽつ、と置かれた。
その点を見つめた。次の文字が出てこなかった。
ノートを閉じた。もう一度、開いた。また閉じた。開いて、閉じて、開いて、閉じて。四回くらい繰り返した。
四回目に閉じたあと、ノートを机の右端に押しやった。手のひらを机の上に置いた。何もしなかった。
夜十時二分。
机の上のスマートフォンが、ぱきっと軽く震えた。画面に「お母さん」の表示。LINEではなく、通話だった。
……お母さん。
胸の内で僕はつぶやいた。
通話の着信は、いつもの母からの連絡の形ではなかった。いつもはLINEで軽く「元気にしてる?」と文字で送ってきた。通話は、ここ最近ではお盆の連休前、八月初めの一度だけだった。
今夜、十時に通話。迷った。迷ったけれど、画面の緑のボタンに指を置いた。
「もしもし」
「蒼太、ごめんね、夜遅くに」
母の声は、いつもの少し高めの柔らかい温度だった。
「うん、大丈夫」
「ちょっと、声聞きたくなって」
「うん」
「元気にしてる?」
「うん、元気」
反射的に口が動いた。動いた後で、僕の奥に湿気の温度が上がってきた。
「うん、ならよかった」
「うん」
間。一拍。もう一拍。
母の声が、低く続いた。
「最近ね、なんとなく」
「うん」
「お母さん、蒼太の声、ちょっと違う気がしたから」
その一行で、僕の奥の湿気が、上に押し上げられた。
……ちょっと、違う気がした。
胸の奥で僕は繰り返した。
LINEのメッセージは、いつも通りの「元気にしてる?」「うん元気」の往復だった。その往復の文字の中に、母は何かを感じ取ったらしかった。文字の温度のほんの少しの差を、母は夜十時の通話のかたちで、こちらに向けてきた。
「うん」
「最近、お仕事、忙しい?」
「うん、ちょっと、忙しい」
「うん」
「うん」
言葉が続かなかった。続かない隙間に、母の声が入ってきた。
「蒼太」
「うん」
「無理しないでね」
「お母さん」
「うん」
「今月の初め、本番リリースで大きな失敗、したんだ」
「うん」
「お客様の業務システムが、十六分、応答停止になって」
「うん」
「自分のミスもあったし、会社の確認の仕組みも、足りてなかった」
「うん」
「両方、これから直す」
母は、間を置いてから、ゆっくり返した。
「自分のミスは、自分で直すのね」
「うん」
「会社のプロセスも、一緒に直すのね?」
母の声は、低く穏やかだった。「両方」を、母は半秒で受け止めて、一拍で僕のほうにそっと押し返した。
「うん。両方」
「うん。それなら、お母さんは安心」
「お母さん、いつでも電話待ってるから」
「うん」
「夜中でもいいから。ちょっとでもしんどいときは、かけて」
「うん」
その言葉は、低く丁寧に置かれた。僕は頷いた。頷いたけれど、口の奥のところで何かが軽く震えていた。震えを抑えたまま、一拍。
「うん、ありがとう」
「うん」
「お母さん」
「うん」
「あ……今日はもう寝るね」
「うん。蒼太も、ゆっくり休んでね」
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい」
通話の終了ボタンに指を置いた。ぽつりと、画面の緑のラインが消えた。「通話、十分二十秒」と画面の上に薄く表示されていた。
スマートフォンを、机の上に置いた。
置いてから、ほんの一拍、早川のことが頭をよぎった。
早川は、年明けの布団から、起き上がれなくなった。僕は、まだ机に向かえている。面談の枠を空けてくれる人がいて、土曜の朝に組織ごと引き取ってくれる人がいて、母の声が十分二十秒、隣にあった。その差は、僕の強さじゃない。網の差だ。
……そう整理してしまう自分が、少しだけ嫌だった。
早川は、教訓じゃない。友達だ。
その一拍の、次の瞬間だった。奥のところで何かがぐっと押し上げられた。
堪えていた湿気が、口の奥のところから上に上がってきた。目の奥がぐっと熱くなる。熱さが、目尻のところにかすかに置かれた。
……。
ひと粒、頬に流れた。軽く温かかった。頬の半分をぽつりと、ゆっくり伝っていった。
もう、ひと粒。もう、ひと粒。ぽつ、ぽつ、と続いた。
手のひらで頬を押さえた。押さえても止まらなかった。止まらないまま、机の上に軽く伏せた。
声は出さなかった。
……なぜ。
内心で僕はつぶやきかけて、その先を、止めた。
……整理しなくていい。
もうひとつだけ、僕は自分にそう言った。それから何も言わなかった。
ただ、肩が軽く震えていた。頬を伝うものは、止まらなかった。
しばらく、机の上に伏せたまま、僕は止まっていた。時計の音は聞こえなかった。空気の音だけが、薄く流れていた。
どのくらいの時間か、分からなかった。たぶん、五分か、七分か、八分くらい。
頬を伝うものが、ゆっくり少なくなった。もうひと粒、もうひと粒、と薄くなる。最後の粒が、机の上のノートの表紙の隅にぽつりと落ちた。ノートの表紙の薄い色の上に、湿った小さな丸がひとつ、薄く広がった。
もう、出てこなかった。
……止まった。
胸の内でそう確かめた。
ゆっくり、上体を起こした。目尻のところを手の甲で押さえた。目の奥は、まだ熱かった。熱さは、引いていく途中だった。
椅子から立ち上がった。部屋を出て、共用の洗面所に向かった。廊下は、薄く静かだった。他の部屋からテレビの音も、足音も聞こえなかった。
洗面所の蛍光灯の白い光。鏡の中の自分の顔。目の周りが、赤く腫れていた。頬は、軽く湿っていた。
……腫れている。
胸の奥でつぶやいた。
冷たい水を両手ですくった。顔にぱしゃっと当てた。水は冷たかった。冷たさが、目の周りの熱を押し戻した。もう一度、両手ですくった。もう一度。もう一度。三回くらい繰り返した。
目の周りの赤さは、まだ残っていた。でも、頬の湿りは消えていた。タオルで顔を押さえた。タオルのふつうの白い綿の感触。その感触が、僕をいつもの場所に戻してくれた。
鏡の中の自分の顔は、いつもの顔に近づいていた。近づいたけれど、目の周りの赤さは、まだ残っていた。その赤さは、明日の朝までにはたぶん引くだろう。
部屋に戻った。ドアを閉めた。机の前の椅子に座り直した。
机の右端に押しやっていたノートを、もう一度左に戻した。表紙の隅の湿った丸の跡は、小さくなっていた。手のひらで表紙を撫でた。
ノートを開いた。四月一日の最初のページから、最近のページまでゆっくりめくった。二年目の四月、五月、六月、七月、八月、九月。ページごとに、薄い青いインクの線が続いていた。
森山翼くんの初対面、立花さんの手柄、白瀬さんの信頼、諏訪マネージャーの数字、葉山さんの限界、黒木の新しい役割、赤坂先輩の異動、副業、LT登壇、岡崎さんとの出会い、リードタイム計測、桜並木通りの夜の内省。
ぜんぶ、ノートの中に薄く残っていた。
それから九月五日金曜日の本番リリースのページ。九月六日土曜日の応接室のページ。九月の第二週の振り返り会のページ。九月の第三週の産業医面談のページ、その隣に「澪」のページ。
最後のページの空白の右側。今夜の空白。
ボールペンを握り直した。ペン先を紙の上に置いた。一拍止めて、ゆっくり書いた。
今日僕は初めて、ちゃんと泣いた。
書いた一行を見つめた。その一行は、まだ湿った温度を残していた。
もう一行、書き足した。
お母さんからの電話のあと、十分くらい、机の上で。
もう一行。
声は出さなかった。頬だけ、半分、流れた。
もう一行。
ぜんぶ流したわけではない。留まったところもある。
四行、並んだ。ノートのページの右上のほうに、薄い青いインクで置かれていた。
ペン先を止めた。もう一行、書き足した。
これも観察の対象、なのかもしれない。
書き終わった五行のいちばん最後の一行を、もう一度読んだ。
観察の対象、というのは、外の世界の他の人や、組織や、技術のメトリクスや、桜並木通りの新人の表情や、立花さんの会議の振る舞いや、白瀬さんの紙コップの温度のことだと、僕はずっと思っていた。
今夜、観察の対象に新しい場所が加わった。自分の奥の湿気のかたち。自分が初めて、ちゃんと泣いた、その温度。それもたぶん、観察できる。
……できるのか?
内心でつぶやいた。
迷った。迷ったけれど、書いた一行は消さなかった。ノートのページに、薄い青いインクで五行並んだまま、置いておいた。
窓の外、九月の第四週の夜空。雲が薄く流れていた。雲の隙間から、雨の予感が薄くガラスの向こう側に置かれていた。
……雨。
胸の内でつぶやいた。
窓辺に近寄った。ガラスに頬を寄せた。外気はまだ雨ではなかった。ただ、湿気が夜気の中に薄く混じっていた。
もう少し待った。ぽつ、とガラスの外側に薄い湿った点がひとつ置かれた。もうひとつ、もうひとつ。雨が降り始めた。軽い、霧雨に近い、九月の雨。
桜並木通りの葉桜の青い葉の上に、薄い湿りが置かれていった。窓の外の街灯の白い光の下で、雨の粒が軽く光って見えた。
……雨。
もう一度、口の中でつぶやいた。
雨は、今夜の僕の外側で、かすかに降っていた。
窓辺から机の前に戻った。ノートを閉じた。机の上のいつもの位置に戻し、ボールペンをノートの上に横向きに置いた。
机の電気を消した。部屋の中が、暗くなった。暗闇の中で、窓の外の雨の音だけが薄く聞こえていた。ぽつ、ぽつ、というよりは、しゃー、というような連続した音。その音が、部屋の中の僕の外側で、薄く流れていた。
布団のほうにゆっくり向かった。布団の中に入った。目を閉じた。
目の奥は、まだ熱を残していた。でも、頬はもう乾いていた。頬の半分を伝った湿気は、洗面所の冷たい水で洗い流されていた。
……流した。
胸の奥でつぶやいた。
流したのは、頬の半分。奥の湿気の全部ではなかった。でも、半分、流れた。昨日までの一週間、流したかったのに流せなかったものの半分。その半分は今夜、ちゃんと流れた。
暗闇の中で、母の声をもう一度確かめた。
お母さん、いつでも電話、待ってるから。
夜中でもいいから。
ちょっとでもしんどいときは、かけて。
三行の母の言葉は、低く丁寧に置かれていた。その三行は、僕が新卒で港川市に来た一年半前から、ずっと母の中に置かれていた言葉だったらしい。今夜、ちゃんとこちらに届けてくれた。
届けてくれた隣で、僕の口は「うん、ありがとう」の五文字しか出せなかった。五文字しか出せなかったけれど、五文字、ちゃんと出した。
……ちゃんと出した。
内心でつぶやいた。
ちゃんと出した五文字の隣で、頬の半分が流れた。その並びが、今夜の僕のいちばん奥のところに、そっと置かれていた。
お母さんの電話は、たぶん引き金だった。一週間、流したくても流せなかった湿気の栓を、母の「ちょっと違う気がした」の一行が、そっと抜いた。
でも、流れたあとで奥に残ったのは、崩れた何かではなかった。先週、産業医室で斎藤先生が置いてくれた言葉が、まだ足の下に残っていた。「申し訳ない」の隣に、「次は、こうする」を置く。あの日、僕はもう「次は、こうする」を、諏訪さんと一緒に書いていた。書けたなら、足場を持っている、と斎藤先生は言ってくれた。
今夜の涙は、その足場を流しはしなかった。引き金は母で、足の下の足場は斎藤先生の四文字。その二つは別々の場所で、ちゃんと両方、残っていた。
暗闇の中でもう一度、ノートに書いた最後の一行を確かめた。
これも観察の対象、なのかもしれない。
その一行は、まだ迷いを残していた。迷いの奥のところに、別のものがぽつりと置かれていた。
もし観察できるなら、僕は明日からも書ける。書き続けられる。書き続けられるなら、たぶんまた足場を組み直せる。
……組み直せる。
胸の内でつぶやいた。
組み直せる、という四文字は、まだ遠い場所にあった。でも、その輪郭は暗闇の奥のところに、かすかに見えていた。
窓の外の雨の音は、変わらず続いていた。布団の中は、ふつうの夜の温度だった。
目を閉じたまま、待った。眠りの入り口は、昨夜より近かった。近い眠りの中に、僕はゆっくり落ちていった。
落ちていく隣に、「観察の対象」という五文字が、薄く置かれたまま残っていた。その五文字は、明日の朝の机の上のノートのいちばん最後の一行のところで、僕を待ってくれていた。
翌朝、金曜日。
六時四十五分。目覚ましの一拍前に、ふっと目が開いた。
窓のカーテンの隙間から、薄い九月の朝の光が、机の上のノートの背に置かれていた。雨はもう、上がっていた。
布団の中で天井をしばらく見た。目の奥の熱は、引いていた。頬は乾いていた。
……昨夜のあれは。
胸の奥でつぶやいた。
昨夜のあれは、たぶん、ちゃんと泣くということだったのかもしれない。
その一行が、布団の中の僕の中に、ゆっくり置かれた。整理しないまま昨夜に置いた湿気は、ひと晩を挟んで、今朝の薄い言葉にひとつだけ移り変わっていた。
布団から、ゆっくり上体を起こした。机の上のノートが、いつもの場所にいつもの角度で置かれていた。




