第49話「産業医・斎藤先生との面談」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
九月の第二週、金曜日の午後二時。
ヨキエル株式会社の三階フロア。月曜日の振り返り会から、ちょうど五日が過ぎていた。
月曜日の朝の会議室の四十五分は、諏訪マネージャーが事前に組んだとおり、十五分・十五分・十五分の三段で無事に通った。
チームAの八人。白瀬さん、立花さん、古川先輩、森山くん、僕、それから諏訪マネージャー。
最初の十五分は、僕が事実だけを話した。次の十五分は、諏訪マネージャーが組織の責任の話をした。最後の十五分は、白瀬さんが技術的な再発防止のディスカッションを回した。
会議室を出たあと、立花さんは「桐谷くん、お疲れ」とだけ言って自分の席に戻った。古川先輩は何も言わなかった。森山くんは「桐谷さん、ちゃんと戻ってきましたね」と笑った。
その笑いが、月曜日の僕の足場のいちばん柔らかい場所に置かれていた。
今日は、その週の終わりの金曜日。諏訪マネージャーが、僕の席のななめ後ろから声をかけた。
「桐谷くん、ちょっと、いい?」
「はい」
諏訪マネージャーは、僕の机の隣の空席に座った。
「桐谷くん、来週、産業医面談、行ってみて」
……産業医面談。
その四文字が、僕の机の上に置かれた。その四文字を、僕はあまり自分の近くに置いたことがなかった。
「いえ、僕、大丈夫です」
反射的に口が動いた。
諏訪マネージャーは、軽く首を振った。
「大丈夫って言う人ほど、行ってほしい」
「斎藤先生、知ってる?」
「四月の入社時の健康診断で、お見かけしました」
「うん。月二回、社内の産業医室に来てくれる」
「来週水曜日、十四時、空けてもらった」
「行ってみて」
「はい、わかりました」
諏訪マネージャーはそれ以上、何も言わなかった。ただ軽く頷いて、自分の席に戻った。
……月二回。
胸の奥で繰り返した。
斎藤千夏先生のことは、四月の健康診断のときに、白衣の温和な雰囲気だけ覚えていた。優しい目、五十手前くらい、髪を後ろで軽くまとめた、低めの落ち着いた声の女性医師。あのときは、面談というかたちではお会いしていなかった。ただ、視力検査の列の向こうに、遠くからお見かけしただけだった。来週、僕はその斎藤先生と、面談というかたちでお会いする。
……大丈夫です、か。
反射的にそう答えた自分の声を、頭の中でもう一度再生した。再生しながら、今年の一月の、早川のことを思い出した。
早川の会社には、たぶん、こういう声をかける人がいなかった。年末ちゃんと休めたか、と一人ずつに聞いて回るマネージャーも、面談の枠を勝手に空けておいてくれる上司も、いなかった。だから早川は、糸が切れるまで、誰にも気づかれなかった。間に合わなかったのは、早川の弱さではなくて、声のほうだった。
いま、僕には、声がかかっている。
だったら、行くのは、行かされるからではない。
……行こう。
心の中で、言い直した。
翌週、水曜日、十四時の五分前。
ヨキエルの三階の隅、小さな部屋。ドアに「産業医室」と書かれた白いプレート。その下に小さな札で「面談中はノックして、応答をお待ちください」とあった。
僕はドアの前で立ち止まった。ジャケットの襟を整える。ノートとボールペンはリュックの中に入れたまま。書く準備はしなかった。ノックを二回、軽く置いた。
「どうぞ」
ドアの向こうから低めの落ち着いた声。ドアを開けた。
産業医室。四畳半くらいの広さ。左の壁に書棚。右の壁に観葉植物の小さな鉢がひとつ。奥の窓の前に、白い小さなテーブル。テーブルの向こう側の椅子に、斎藤先生が座っていた。白衣、首元に薄いブルーのスカーフ。髪は後ろで軽くまとめ、銀縁の眼鏡。
「桐谷蒼太さん、ですね」
「はい」
「斎藤です。座って」
手前側の椅子を、手のひらで示した。僕は手前の椅子に座った。
テーブルの上には、白い小さなノートと、青いボールペンが一本。ノートには僕の名前と入社年月日と所属が、軽く書かれていた。他には何も。
「桐谷くん、最近どう?」
斎藤先生はノートの上のボールペンを握らないまま、軽く言った。書き取ろうとする手の動きはなかった。
……最近、どう。
内心で繰り返した。
その四文字の質問は、広かった。その広さは、僕が答えの入り口を自分で選んでいい、という余白を持っていた。
「……あまり、よくないかもしれません」
ぽつりと出た。出た音は、自分の口から出たにしては低かった。
「うん」
斎藤先生は、静かに頷いた。ノートの上のボールペンは、まだ握らなかった。
「眠れてる?」
「……なかばくらい、です」
「うん」
「食べれてる?」
「あまり、食べたくないです」
「うん」
「朝、起きるの、つらい?」
「あ……はい、つらいときが、あります」
「うん」
斎藤先生は頷くだけだった。頷きの一回ごとに、僕の口の奥でゆっくり何かがゆるんでいった。一拍、間。
「桐谷くん」
「はい」
「正直に言ってくれて、ありがとう」
その一行は、低く丁寧で湿っていなかった。
……ありがとう。
胸の内で漏らした。
正直に言ったことに対して、ありがとうと言ってくれる人がいる。その事実が、僕の口の奥のところで、もう一段ゆるめてくれた。
「桐谷くん、二週間前に本番リリースで、大きな障害があったね」
「はい」
「諏訪さんから概要を聞いてる」
「はい」
「桐谷くんは隣で、お客様への謝罪の場に同席した」
「はい」
「諏訪さんが『組織の責任として、私が引き取ります』と、お客様の前で頭を下げた」
「はい」
「そのとき、桐谷くんはどう感じた?」
その質問は、深かった。その深さが、僕の奥のまだ言葉にしていなかった湿気のほうを、そっと引き寄せた。
一拍、間。もう、一拍。
僕はぽつりと言った。
「失敗したのは、僕です」
「うん」
「でも、諏訪さんが引き受けてくれて。申し訳、ないと」
「うん」
「すみません、と口の奥のところで、ずっと言いたかったです」
「うん」
「でも、諏訪さんに『謝らないで』と言われて」
「うん」
「言えなかったです」
言い終えてから、僕は口を止めた。止めた口の奥に、まだ湿気がかすかに残っていた。頬は乾いていた。
斎藤先生は、僕の止まりを待ってくれた。待ってから、ゆっくり口を開いた。
「桐谷くん」
「はい」
「諏訪さんは、自分の選択で、そうした」
「桐谷くんが申し訳ないと感じる気持ちは、自然なこと」
「はい」
「でも、その気持ちが、桐谷くんを潰してはいけない」
「諏訪さんが引き受けたのは、桐谷くんが申し訳ないと思って潰れるためじゃない」
「はい」
「桐谷くんが、次の仕事をちゃんとできるように、引き受けた」
その四行は、ゆっくり低く置かれた。四行が、僕の奥に明るい線を一本、すっと引いた。
……次の仕事を、ちゃんとできるように。
胸の奥でなぞった。
その八文字は、僕がまだ自分一人では組み立てられなかった整理の言葉だった。
「桐谷くんの申し訳ない気持ちは、しまわなくていい」
「ただ、その気持ちを次に活かしてほしい」
「はい」
「『申し訳ない』のままで止めない」
「はい」
「『申し訳ない』の隣に、『次は、こうする』を置く」
「次は、こうする」
「うん。それが、諏訪さんが引き受けた意味」
斎藤先生は、そこで一拍間を置いた。
「桐谷くん」
「はい」
「『次は、こうする』を、もう何か書いた?」
その質問で、僕はぽつりと思い出した。
月曜日の振り返り会で、白瀬さんが書いてくれた再発防止の議論の最後、ホワイトボードの三行。
本番環境の応答時間を、リリース前に必ず計測する。
計測値が閾値を超えたら、リリースを延期する。
リリース判断は、二名以上の同席で行う。
その三行は、Confluenceの「振り返り会_v1.0」の最後のページにもう入っていた。
「はい」
「うん」
「Confluenceに書きました。あと、月曜日の振り返り会で、ホワイトボードにも書きました」
「うん」
「文書とホワイトボードの両方で」
「はい」
「いいね」
「『次は、こうする』を、もう書いた」
「はい」
「『次は、こうする』を書けたなら、桐谷くんはもう、次に進む足場を持ってる」
その一行は、低く丁寧で湿っていなかった。
……足場を、持ってる。
内心でつぶやいた。
足場、という二文字が、僕の足の下にそっと置かれた。
斎藤先生は、ノートのページを軽くめくった。別のページに目を落とした。
「桐谷くん」
「はい」
「次の面談、いつにする?」
「定期面談は三ヶ月に一度、十二月に予定がある」
「はい」
「ただ、それまでに、また話したいと感じたら、いつでもここに来ていい」
「ノックして、応答があれば入って」
「はい」
「応答がない時間帯は、私が他の方の面談中ということ」
「はい」
「廊下に、空き時間の表が貼ってある」
「分かりました」
「うん」
斎藤先生は、ノートのページをもう一度めくった。
「桐谷くん」
「はい」
「最後にひとつ、私からお願いがある」
「今夜、寮に帰る前に、どこかひとつ寄ってほしい」
「寄る」
「うん。いつも歩いている道で、いつもの場所ではなく、ひとつだけ違う場所に寄って」
「違う場所」
「うん。コンビニでもいい。喫茶店でもいい。たまに行くごはん屋さんでもいい」
「はい」
「会社と寮のいつもの線の上ではなく、ちょっとだけ線の外側」
「線の外側」
「うん」
「桐谷くんが、いま足場を持っているか確かめる、ささやかな実験」
「はい」
「足場を持っていれば、線の外側でも座っていられる」
「持っていなければ、線の外側にはいられない」
「はい」
「どちらでもいい。確かめるだけ」
斎藤先生の声は、低く優しかった。優しいけれど、軽くはなかった。「線の外側」という四文字が、僕のまだ慣れない場所に置かれた。
「分かりました」
「うん」
「今日はこれで終わり」
「ありがとうございました」
「うん。お疲れさま」
斎藤先生は、軽く頭を下げた。僕も軽く頭を下げた。椅子を立って、ドアのほうへ向かう。ノブに手をかけたところで、後ろから斎藤先生の声が、ふと届いた。
「桐谷さん」
「はい」
「ここの三階の自販機、ホットコーヒー、ぬるいですよ」
「気をつけて」
「はい」
「あれ、たぶん設定温度が一段低い。私、月二回ここに来るたびに、確かめてる」
斎藤先生は、低い声のまま軽く笑った。笑いはかすかで、面談のいちばん奥の真剣な気配とはぜんぜん別の場所に置かれていた。
「ご親切に、ありがとうございます」
「うん」
産業医室のドアを出た。廊下の白い壁の側面に、空き時間の表が貼られていた。水曜日と金曜日の午後の空きコマが、いくつか青いマグネットで印を付けられていた。その印を確かめてから、ドアを閉めた。
廊下の突き当たり、三階の自販機コーナーの前を通った。緑のランプの灯った自販機の中に、ホットコーヒーの缶のサンプルが二段並んでいた。
……一本、買ってみる。
胸の内でつぶやいた。
小銭を投入した。ガコン、と缶が落ちた。缶を取り出して、プルタブを軽く開ける。ひとくち口に含んだ。
ぬるい。
……本当だ。
胸の奥でつぶやいた。
ぬるい、というよりは、ホットコーヒーとして期待される熱より、たぶん十度くらい低い温度。飲めないほどではない。ただ、口の奥の「ホット」は、ちょっと届かないところで止まっていた。
……斎藤先生、本当にぬるい。ありがとうございます。
もう一度確かめた。
月二回、ここの自販機の温度を確かめている産業医がいる。その産業医は、面談の最後に、初めて来た新人に「ぬるいですよ、気をつけて」と置いてくれる。「気をつけて」の四文字は、たぶん面談の本筋のいちばん奥の「次は、こうする」の四文字の隣で、半段だけ軽い場所に置かれていた。
軽い場所が、かすかに僕の口の中の温度を支えてくれた。
ぬるいホットコーヒーの缶を握りながら、エレベーターのほうへ歩いた。エレベーターのボタンを押した。下りの矢印がぽっと灯った。
夜七時。
寮の方角に、いつもの桜並木通りのいつもの十二分のルート。そのルートの真ん中あたりに、駅前の小さな路地がある。
僕は、その路地の入り口で足を止めた。路地の奥に、ちいさな看板がひとつほのかに光っていた。「澪」と、白い字で書かれていた。その看板は、これまで何度も通り過ぎていた。通り過ぎていたけれど、入ったことはなかった。
……線の外側。
内心でつぶやいた。
斎藤先生の声の四文字が、僕の足を押した。
路地に足を入れた。奥の白木の引き戸の前で立ち止まる。引き戸の隣に、小さな黒板。黒板に白いチョークで、今日のお品書きが書かれていた。
秋刀魚の塩焼き、新さんまの刺身、きのこと豆腐のだし煮、土瓶蒸し、菊花のおひたし、白いごはん、ぬか漬け。それから地酒の銘柄が三つ。
……入って、いいのだろうか。
胸の内で迷いを置いた。
迷った。迷ったけれど、引き戸に手をかけた。軽く引いた。からりと、引き戸が開いた。
店の中。白木のカウンター。奥行きは浅め、椅子は六つ。左の二つは五十代くらいの男女のお客さん。右の二つは四十代くらいの男性のお客さんと、一つ空席。いちばん右の角にも、もうひとつ空席があった。
カウンターの中、奥に和服に白い割烹着の女性がいた。三十代前半、髪を後ろで軽くまとめて、静かな目。その人が、こちらを見た。
「いらっしゃいませ」
低めの丁寧な声。
……篠原玲奈さん、たぶん。
胸の奥でつぶやいた。
とんぼの大将の沼田さんが、いつだったか軽く話してくれていた、市内の小料理屋の女将さんの名前。白瀬さんが、たまに一人で寄ると社内Slackのプライベートチャンネルに書いていた店の名前。その「澪」の女将さんが、いま目の前に立っていた。
「お、お一人ですか」
「はい」
「いちばん奥、どうぞ」
篠原さんは、いちばん右の角の空席を手のひらで示した。僕は軽く頭を下げて、その席に座った。
白木のカウンターは、よく磨かれた滑らかな手触りだった。席の前におしぼり、お通しの小鉢、お茶の湯呑み。お通しは菊花のおひたし。黄色の薄い花びらが、青い小鉢の中で上品に揺れていた。
「お決まりの頃に、お声がけください」
「はい」
篠原さんはそれだけ言って、カウンターの中に戻った。戻ったあと、僕のほうをもう一度見ることはなかった。他のお客さんとも長くは話さず、短く相槌を打って、料理の手を動かしていた。
……聞かない人。
内心で思った。
篠原さんは、僕がなぜ一人で来たのか、どこの会社か、どんな顔色か、何も聞かなかった。ただ、お通しとお茶を置いてくれた。その軽い置き方が、僕の奥の湿気を、ゆっくり押し戻した。
お品書きを軽く見た。秋刀魚の塩焼き、新さんまの刺身、きのこと豆腐のだし煮、土瓶蒸し。地酒、三銘柄。
……日本酒を飲める年齢になって、もう三年以上。
胸の内でつぶやいた。
寮の自室でペットボトルの水を直接飲む夜が続いていた。その中で、地酒のお猪口のぬくもりは、別の場所にあった。別の場所に寄ってみよう、と思った。
「すいません」
「はい」
「秋刀魚の塩焼き、ひとつお願いします」
「うん」
「あと、お酒、いちばん軽めのおすすめを、お猪口でひとつ」
「うん。地元の蔵の新酒の冷やおろし、おすすめ」
「それでお願いします」
「うん」
篠原さんは軽く頷いて、カウンターの中の冷蔵庫のほうに消えた。戻ってきて、青磁のお猪口に新酒の冷やおろしを注いでくれた。とくとく、と小さな音が、カウンターの上にそっと流れた。
お猪口を口元に運んだ。ひとくち。冷たすぎず、温かすぎず、口の奥でほどける温度。お米の軽い甘さの向こう側に、すっきりした切れ味がぽつりと置かれていた。
……うまい。
胸の奥で漏らした。
うまい、という二文字を自分の口の中で確かめたのは、ここしばらくなかった。ここしばらく、というのはつまり、九月五日の金曜日の二十二時三十分以降、ということだった。
十二日ぶりに、僕はうまいと感じた。そのうまさは、奥の湿気の向こう側でそっと置かれていた。
しばらくして、秋刀魚の塩焼きが、白い大皿に運ばれてきた。皮はぱりっと香ばしい。大根おろし、すだち。
骨に沿って、箸を入れた。ほぐれた身を、口に運んだ。脂の温度、塩の加減、すだちの香り。白いごはんの代わりに、お猪口の冷やおろしが隣に並んだ。
……線の外側。
内心でつぶやいた。
斎藤先生が言った「線の外側」に、僕は座っていた。座って、いられた。座っていられるということは、足場を持っているということ。斎藤先生の四文字の確かめが、いま僕の足の下にそっと置かれていた。
篠原さんが、空いたお猪口の隣にひとくちのお水を置いてくれた。
「ありがとうございます」
「うん」
短く、それだけ。
篠原さんは、僕の様子を軽く見ていたのかもしれなかった。見ていたけれど、何も聞かなかった。聞かない見方は、たぶん白瀬さんの隣の席の見方の、もう一歩向こう側にあった。
白瀬さんは、紙コップのコーヒーを机の上に置いてくれた。篠原さんは、お水をお猪口の隣に置いてくれた。二つは、別の置き方だった。その別々の置き方が、奥の湿気の別の場所を、それぞれ押し戻していた。
夜八時三十分。
お会計、千八百円。お猪口一杯と、秋刀魚の塩焼きと、お通しの菊花のおひたし、お茶。篠原さんはレシートを白いお盆に置いてくれた。
「ありがとうございました」
「ご馳走さまでした」
「うん。また、どうぞ」
また、どうぞ。
その四文字は、軽くて開かれた響きだった。丁寧で、押しつけがましくない。
……また、来ていい。
胸の内でつぶやいた。
また来ていい、という許可が、僕の外側にそっと置かれた。
引き戸を開けた。からりと、外の路地の九月の夜気が頬に触れた。頬は、まだ乾いていた。目の奥は、まだ少し湿っていた。
それでも、いま僕のどこかに、新しい場所が置かれていた。その新しい場所は、線の外側の「澪」のいちばん右の角の、お猪口と秋刀魚の隣にある場所だった。
寮までの残り六分。九月の夜の桜並木通り。葉桜の青さは、緑から夜の濃い色に傾いていた。月は半月から少しふくらんでいた。
寮のロビーの自動ドア。夜勤の警備員さんが軽く頭を下げた。僕も軽く頭を下げた。
自分の部屋。机の上のいちばん左のノートを開いた。今日のページに、ボールペンでゆっくり書いた。
斎藤先生に、初めて自分の感情を言葉にした。
「次は、こうする」を書けたなら、足場を持っている。
澪、いちばん右の角。秋刀魚と新酒。
線の外側に、座っていられた。
四行を書いた。書いた後で、ペン先を紙の上に止めた。もう一行、書き足した。
また、来ていい。
書き終わった五行は、まだ少し湿った気配を奥に残していた。でも、頬は乾いていた。目の奥の湿気は、昨夜より薄かった。
ノートを閉じる。机の上のいつもの位置に戻した。
窓の外、九月の夜空。雲がかすかに流れていた。雲の隙間に、半月から少しふくらんだ月のかたち。
布団に入った。目を閉じた。
暗闇の奥に、まだ「200 OK」の青い文字が残っていた。残っていたけれど、その隣にいま、新しい三つが薄く並んでいた。
斎藤先生の「次は、こうする」の四文字の低い声。篠原さんの「また、どうぞ」の四文字の軽い置き方。お猪口の冷やおろしの、口の奥でほどける温度。
三つの薄い並びが、十二日前の青い文字を押し戻していた。
今夜の眠りの入り口は、昨夜より近かった。近い眠りの中に、僕はゆっくり落ちていった。




