第43話「LT前夜、同期で猛特訓」(インタールード⑥)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
※ この話は、楽しい話の回です。
八月の第三週の金曜日、夜七時。
会社三階の奥にある、社員用コミュニケーションラウンジ。
冷房は中。窓の外は二十七度前後、まだ湿気を残した夏の夜だった。LT用に、定時を過ぎてからこのラウンジを使うのは、諏訪マネージャーに事前に伝えてある。
大きな丸テーブルの上に、僕のMacBookとラウンジ常設の小型プロジェクター、それから引き出し式の白いスクリーンが、いつもより丁寧に並べられていた。
スクリーンの前に丸椅子が五脚並んでいる。四脚に葉山さんと黒木、丸山くん、杉本さんが座っていた。残る一脚はまだ空いている。
「アユシュくん、まだ?」
葉山さんが首を回してラウンジの入口を見た。
「自分の席で英語のスライドの確認、まだ続いてるって」
僕は私物のスマホで同期のLINEグループを開いた。アユシュくんから三十秒前のメッセージが来ていた。
「Sootaごめん。英語のスライドまだ十枚確認中。あと三十分くらいで合流する」
「了解、と返した」
「うん」
葉山さんが軽く肩をすくめた。
「じゃ先に始めよう。アユシュくんは後で合流」
「うん」
僕はMacBookをプロジェクターのUSB-Cケーブルにつないだ。スクリーンの上に、一枚目のスライドがぼんやり映った。
タイトルスライド。
「新卒1年で、観察したこと」
黒い背景。白い文字。中央にタイトルが置かれていた。その下に僕の名前の小さい一行。
「ヨキエル株式会社 桐谷蒼太」
以上。他には何もない。
ラウンジがほんの一拍だけ静かになった。
「桐谷くん」
葉山さんがまず口を開いた。
「うん」
「そのスライド地味すぎるっていうか、暗い」
「暗いっていうのは背景の話だけじゃなくて」
「タイトルの、湿度の話」
「湿度?」
「『新卒1年で、観察したこと』っていう、その湿度」
「五分のLTでこれ出されると、聴衆は一行目でちょっと肩が下がる」
「肩、下がる」
「うん」
葉山さんはそれだけ言って、ジン・トニックのグラスを軽くテーブルに置いた。
「もっとこう、ガツンと勢い系で行きましょうよ」
丸山くんがすぐにジャージの膝を叩いた。
「ガツン」
「『新卒1年』まではまあいいっす。ただ『観察したこと』のあとに、もう一段なにか欲しいっす」
「一段、何か」
「『観察したこと、5つ』とか、『観察したこと、現場の地形』とか。聴衆の頭が、五分の地図を一瞬で描けるフレーズ」
「あちょっと、いまの『現場の地形』、悪くないっす」
丸山くんは自分の口から出した言葉を繰り返してから、軽く頷いた。
「地図を描けるフレーズ」
杉本さんがMacBookのメモアプリにその一行を書き留めた。
……皆、容赦ない。
胸の奥で漏らした。
葉山さんの「湿度」、丸山くんの「何か」、杉本さんの「地図」。三人のひと言で、一枚目のスライドの空気はもう半分、書き換わっていた。
「黒木」
葉山さんが隣の椅子の黒木のほうを向いた。
「黒木の感想、まだ」
「言って」
黒木はスライドを見直した。
「タイトルスライド、いまフォントサイズ三十六」
「たぶんそれくらい」
「もう一段上げていい」
「上げる?」
「五十まで。タイトル一行の白文字の大きさで、聴衆の集中を一気に回収できる」
「五十」
「あとフォントの選択、太すぎる」
「太すぎる?」
「ゴシック系で、もう一段軽い太さのファミリーがある。プロジェクターは白文字が太いとにじむ」
「白の、にじみ」
「いま一番うしろの丸椅子から見ると、『観察したこと』の『観』の左の縦棒が、ぼやけてる」
黒木はそれだけ言って、もとの椅子の上に戻った。視線はラウンジの一番奥の空いている丸椅子のほうを確かめながら話していた。
……黒木、いつのまに一番奥の視点に移ってる。
内心で言った。
黒木のLT助言は、先月のラウンジで聞いたフォントサイズの一般論よりも、もっと具体的だった。このスクリーンの実際のにじみの位置にまで降りている。座っているのに、もう一番うしろの席の聴衆の目に入り込んでいた。
「次のスライド」
葉山さんがこちらに身を向けた。
「うん」
僕はMacBookの矢印キーを押した。
二枚目のスライド。黒い背景の上に白い文字で、三段の箇条書き。
「・本物の先輩、偽物の先輩」
「・磨く優しさ、放置する優しさ」
「・半径3メートルの観察」
「うん、これいいよ、たぶん」
葉山さんが頷いた。
「いい?」
「うん。ただ、順番」
「順番」
「いまは上から本物・優しさ・観察になってる」
「LTの流れだと、観察を先に説明しないと、聴衆に『本物・優しさ』の温度が半分しか伝わらない」
「観察、先」
「うん。『半径3メートルの観察』を一行目」
「次に『磨く優しさ、放置する優しさ』」
「うん」
「最後に『本物の先輩、偽物の先輩』」
「順番、ひっくり返す」
「うん。観察という土台の上に優しさの軸を置いて、その上に本物・偽物の話を乗せる」
葉山さんはジン・トニックのグラスの縁を指で軽くたたいた。
「三段のピラミッドだと思う」
「ピラミッド」
「うん。土台、軸、結論」
「なるほど」
杉本さんがまたメモに二行追加した。
「『土台、軸、結論』、いいです」
杉本さんは軽く頷いた。
「私のサポートの文書の整理の仕方とも、ちょっと似てます」
「杉本さんのとも似てる」
「はい。前提、定義、結論。順番を間違えると、読み手はすぐ迷子になります」
「すぐ迷子」
「はい」
杉本さんの「迷子」という一行を、僕もメモアプリにそのまま書き写した。
杉本さんの言葉は、いつも丸山くんの「ガツン」とは別の温度で、聴衆の動線を静かに設計していた。
「丸山くん、二枚目どう」
葉山さんが丸山くんのほうを向いた。
「順番は葉山さんので、いいと思うっす」
「うん」
「でもう一個提案あるっす」
「言って」
「『半径3メートルの観察』の行、文字だけっす」
「ここに図、入れたいっす」
「図」
「うん。半径3メートルって円の図」
「なるほど」
「桐谷さんの机を真ん中に置いて、そのまわりに三メートルの薄い円を描く」
「机、真ん中」
「その円の中に、葉山さん、黒木、丸山、杉本さん、アユシュくん、白瀬さん、立花さん、諏訪さん、森山くんって、軽く置いていく」
「名前は書かないっす。ただの丸い点でいいっす。点を九個か十個、円の中にばらばらと置く」
「ばらばらと」
「うん。聴衆はその図を見たら『あ、自分のまわりにも三メートルの円があるな』って、すぐ想像できる」
「すぐ、想像」
「うん」
丸山くんはジャージの膝の上で、人差し指で空中にゆっくり円を一つ描いた。その円の半径は、たぶんラウンジの机の幅のなかばくらいだった。
……丸山くん、運送業の頃に倉庫の中でこうやって台車の動線を描いてたんだろうな。
胸の内でつぶやいた。
丸山くんの空中の円の描き方は、たぶん運送会社時代の倉庫の地図の描き方の続きだった。その続きが、僕のLTの二枚目にちょうど降りてきていた。
「次のスライド」
「うん」
三枚目。画面の左半分にコードのスクリーンショット。Pythonで十五行くらい。画面の右半分に文章。
「白瀬さんから引き継いだ、レビューの観点」
「うん、これちょっと待って」
黒木が、初めて立ち上がった。
「左のコード」
「字、小さい」
「フォントサイズ?」
「いま十六。一番うしろの席から見えない」
「いくつまで」
「二十八。可能なら三十二」
「三十二」
「コードの行数、十五は多い」
「多い?」
「七行に削れ。重要な行だけ」
「七行」
「うん。残り八行削っても、聴衆はたぶん何の話か分かる」
黒木はMacBookの僕の画面のすぐ脇に寄った。
「ここの関数の定義二行は必要」
「その下のifの条件分岐三行、必要」
「最後のreturn二行、必要」
「七行」
「うん。残りの八行は全部削れ」
黒木はMacBookの画面の右端で、削るべき行を人差し指で一行ずつぽんぽんと指した。
……黒木、ぽんぽんのリズムがいつもより丁寧だ。
胸の奥でつぶやいた。
黒木の指の動きは、たぶん組込みチームのテックリード補佐になってから変わった。自分のレビューの動きの中で、相手が咀嚼する時間を空けるようになっていた。その間の取り方が、六月下旬の「かいかん」の夜の黒木のぽつりとした言葉とつながっていた。
「右の文章、どう」
葉山さんが今度は画面の右半分の文章を見た。
「白瀬さんから引き継いだ、レビューの観点」
「ちょっと長い」
「長い?」
「『白瀬さんから引き継いだ』まではいい。ただ、その下の説明文が五行ある」
「うん」
「五分のLTで、一枚に五行の説明文。聴衆は読まない」
「読まない」
「うん。スライドは読ませない。スライドで一瞬目を引いて、口でしゃべる」
「五行ぜんぶ削っていい」
「ぜんぶ?」
「うん。スライドには『白瀬さんから引き継いだ、レビューの観点』の一行だけ残す。あとはコード七行」
「で、説明は」
「桐谷くんの口」
「口で、しゃべる」
「うん。スライドの右半分は空白でいい」
「空白」
「うん。空白を空けると、聴衆は左のコードと桐谷くんの口の両方に集中できる」
「葉山さん、それちょっと設計っぽい」
丸山くんが半笑いでぼそりと言った。
「うん。私たぶん、副業のWebサイトのリニューアルの初打ち合わせから、ちょっと目が引き上がってる」
「友達のデザイナーが毎回『空白もっと空ける』って言うんだよね」
「『空白、空ける』」
「うん。空白は引き算じゃなくて、設計なんだって」
葉山さんはジン・トニックの最後の一口を飲み干した。
……空白は引き算じゃなくて、設計。
内心で言った。
葉山さんの「空白」の話は、先月の「ふつう」と「ふつうじゃなかった」の対比の、もう一歩別の角度だった。葉山さんは東京の友達のデザイナーの口癖を、自分の中でそっと翻訳して、僕のLTのスライドの右半分にちゃんと降ろしてくれていた。その降ろし方が、たぶん葉山さんの二年目の副業の収穫だった。
「杉本さん、次の文章見て」
葉山さんが杉本さんのほうに視線を回した。
「はい」
僕は矢印キーを押した。
四枚目。タイトルは「磨く優しさ、放置する優しさ」。その下に、本文として僕が書いた五段落の長めの文章。
杉本さんは画面を上から下まで目で追った。
「桐谷さん」
「うん」
「文章の流れがちょっと冗長です」
「冗長」
「はい」
「具体的には」
「『観察』の定義から入ったほうがいいです」
「定義」
「はい。いまのスライド、いきなり『優しさ』の二種類の話から始まってます」
「聴衆は、その『優しさ』の文脈がまだ半分しか分からない」
「四枚目のいちばん上に、一行足してください」
「一行」
「はい。『私は新卒1年で、半径3メートルの人と仕事を観察してきました』みたいな一文」
「その一文を置いてから『その観察の中で、二種類の優しさが見えた』とつなぐ」
「なるほど」
「順番をちょっと変えるだけで、聴衆の頭の中の地図が揃います」
「地図、揃う」
「はい」
杉本さんはジャスミン茶のグラスを両手で軽く包んだ。
……杉本さん、いつものグラスの包み方の向こうで、文章の地図をちゃんと引いてる。
胸の内でつぶやいた。
杉本さんの「地図」という一行は、丸山くんの「現場の地形」と葉山さんの「土台、軸、結論」と、それぞれ別の温度で、同じ地図という単語にピンを刺していた。三人とも五分のLTの中で、聴衆の頭の動線を地図として見ようとしていた。
「失礼します」
ラウンジの入口から軽い声が入った。アユシュくんだった。
「Wait, I want to help too」
「お、アユシュくん、合流っすか」
「うん。英語スライドの確認、一段落」
「お疲れっす」
「ありがとう」
アユシュくんはトレーに紅茶のポットと五つのマグカップを丁寧に乗せていた。会社のラウンジの隣のミニキッチンで、合流前にもう淹れてきていた。
「皆、紅茶いる?」
「いただきます」
葉山さんがすぐに自分の前のマグカップを差し出した。アユシュくんは丁寧に五つのマグカップに紅茶を注いだ。
「The English summary on the last slide?」
アユシュくんはマグカップを置きながら、こちらに向けた。
「最後のスライドの英語のサマリー、ですか」
「うん」
「えっと、いまはない」
「ない?」
「うん。日本語のまとめのスライド一枚で終わる予定」
「Soota」
「うん」
「最後のスライドに、英語のサマリー一段置いたほうがいい」
「英語、サマリー」
「うん。日本人の聴衆十五人くらいの中に、一人か二人外国籍の人が混じっている可能性ある」
「港川市のIT勉強会、最近は岡崎さんが外国人エンジニアにも声をかけてるって、間宮先輩から聞いた」
「間宮先輩から」
「うん。間宮先輩、岡崎さんの古い友達」
「だから最後のスライドに英語三行置いて、ちょうどいい」
「三行」
「うん。三行、私が書く。Sootaもしいいなら」
「いいの?」
「Of course. It's fun」
アユシュくんはマグカップの上で両手を温め直した。
「英語の要約、最初の一行はこうかな」
アユシュくんはMacBookのほうに寄った。
「'Observing the people within three meters of my desk.'」
「'Two kinds of kindness: polishing and neglecting.'」
「polishingと、neglecting」
「うん。『磨く』と『放置する』」
「あー、その対比、英語だとすごくはっきりする」
「うん。Polish、verb。Neglect、verb。Both, active choice」
「Active choice」
「うん。どっちも能動的な選択」
アユシュくんはそれだけ言って、紅茶をひとくち飲んだ。
……能動的な、選択。
胸の奥で言った。
磨くも放置するも、どちらも能動的な選択。アユシュくんの英語三行の翻訳の中で、僕の日本語の「磨く優しさ、放置する優しさ」の対比の両側が、急にはっきりと立ち上がった。日本語の「放置」の湿った響きが、英語の「neglect」というぴしゃりとした動詞で、ぱりと皮をはがされた感じだった。そのぱりとはがれた感じが、たぶん今夜の僕のLT原稿のいちばん新しい輪郭だった。
「Soota」
「うん」
「Two kinds of kindnessの英語、最後のスライドに入れる?」
「うん、入れる。ありがとう」
「あと、もう一行」
「もう一行?」
「'The radius of three meters is small enough to start, big enough to matter.'」
「先週Soota、これ書いてた」
「うん。Big enough to matter、small enough to start」
「うん。それをひっくり返した形」
「なるほど」
「Small enough to startを最初に置くと、聴衆が入りやすい」
「Small enough to start、最初」
「うん」
「ありがとう、アユシュくん」
「No problem」
アユシュくんはマグカップの縁を両手で回した。その回し方は、たぶんネパールの実家の朝の紅茶の回し方の続きだった。
「桐谷さん」
黒木がもう一度こちらを向いた。
「うん」
「最後のスライド、英語三行を入れるなら」
「日本語のまとめのスライドと英語のサマリーで、二枚に分けていい」
「二枚」
「うん。一枚に混ぜると、フォントサイズを両方下げないと入らない」
「なるほど」
「二枚に分けて、最後の英語のスライドは白背景に黒文字、フォントサイズ四十でちょうどいい」
「白に黒、四十」
「うん」
「分かった」
僕はMacBookのスライドのページを複製した。複製した白い背景の新しいスライドに、アユシュくんから聞いた英語の三行をゆっくり入力した。
「'Observing the people within three meters of my desk.'」
「'Two kinds of kindness: polishing and neglecting.'」
「'Small enough to start, big enough to matter.'」
三行、揃った。
フォントサイズを二十二、二十八、三十二、三十六、四十と一段ずつ上げていった。四十で止めた。
四十の白い背景の上の黒い英語の三行は、ラウンジのいちばん奥の空いている丸椅子から見ても、ぼやけずにちゃんと立っていた。
「うん、それでいい」
黒木はそれだけ言って、もとの位置に戻った。
夜八時半。四枚目までの見直しがようやく終わった。残り十一枚。
「皆、もうちょっといける?」
葉山さんが首を回した。
「いけるっす」
丸山くんはすぐに、ペットボトルの炭酸水の蓋をぱきりと開けた。
「いけます」
杉本さんは控えめに頷いた。
「I'm in」
アユシュくんはマグカップを両手で温め直した。
「うん」
黒木は短く頷いた。
五人とも、まだ自分の前の丸椅子から一センチも立ち上がっていなかった。
……皆、どうしてここまで付き合ってくれてるんだろう。
内心でつぶやいた。
その問いの答えは、たぶん今夜のラウンジの五脚の丸椅子のばらばらの座り方の中に、そっと置かれていた。
葉山さんは、副業で出会った東京の友達のデザイナーから受け取った「空白」の話を、ここに降ろしていた。丸山くんは、運送業の頃の倉庫の動線の図を。杉本さんは、サポートのお客様対応で培った文書の地図を。アユシュくんは、ネパールから日本へ来てからの二年の文化の越境の軽い勢いを。黒木は、組込みチームのテックリード補佐になってから変わったレビューのリズムを。
五人とも、自分の二年目のいちばん新しい引き出しを開いて、その中身を今夜の僕のLTの五分間のかたちのほうに傾けてくれていた。
……これ、たぶん皆の副業の続きでもある。
胸の内で言った。
今夜のラウンジは、僕のLTの猛特訓のふりをした、皆の二年目の引き出しの合同レビューのような場だった。
夜九時半。十五枚ぜんぶの見直しが終わった。
タイトルスライドは、フォントサイズ五十、軽い太さになっていた。タイトルの一行は「新卒1年で観察したこと、五つ」に変わった。二枚目は葉山さんの提案で、順番が観察・優しさ・本物にひっくり返っていた。三枚目のコードは十五行から七行に削られ、フォントサイズは三十二。四枚目の文章は杉本さんの提案で、いちばん上に観察の定義の一行が足された。五枚目から十四枚目には、丸山くんの「ガツン」、葉山さんの「設計」、杉本さんの「地図」、黒木の「白文字のにじみ」、アユシュくんの「能動的な選択」が、それぞれ少しずつ降りていた。十五枚目は白い背景に、黒い英語の三行。
「いける、たぶん」
葉山さんが頷いた。
「もう桐谷くんは絶対大丈夫」
「絶対?」
「うん、絶対」
「葉山さん、絶対って断言多いっすね」
「丸山くん、断言いまするところ」
「あー、はいっす」
丸山くんはペットボトルの炭酸水の最後の一口を飲み干した。
「桐谷さん、明日のLT頑張ってください」
杉本さんがいつもの控えめな温度で、軽く頭を下げた。
「ありがとう、杉本さん」
「Soota」
「うん」
「Don't forget. Share is light. Light is enough」
「Share is light. Light is enough」
「軽くshare、軽くでいい」
アユシュくんはマグカップを両手でもう一度温め直した。黒木は無言で片手を挙げた。
「桐谷さん、明日フォントサイズ最終確認。白のにじみないか、もう一度」
「うん」
「以上」
黒木はそれだけ言って、MacBookの僕の画面をもう一度確かめてから、もとの位置に戻った。「以上」は、たぶんテックリード補佐のレビューの最後のいつもの形だった。
「皆、ありがとう」
僕は丸テーブルの真ん中に向かって、頭を下げた。
「桐谷くん、頭下げすぎ」
葉山さんがすぐに半笑いで突っ込んだ。
「いや、なんか本気で皆ありがとう」
「本気でありがとうと思うなら、本気で明日五分のLTちゃんとやってきて」
「やります」
「で、動画は私が撮るね」
「ありがとう」
「桐谷くんの五分間の、最初の入りの表情。たぶん私のスマホでちゃんとおさえる」
「最初の、表情」
「うん。それ、桐谷くんから三浦さんにも送ってあげて」
葉山さんはジン・トニックの空のグラスを丁寧にラウンジの隣のミニキッチンのシンクへ運んでいった。丸山くんはラウンジの片付けをいくらか手伝ってくれた。杉本さんはジャスミン茶のグラスを流しで丁寧に洗ってから、軽く頭を下げた。アユシュくんは紅茶のポットをミニキッチンに戻し、僕のほうを振り返った。
「Soota」
「うん」
「Goodnight」
「おやすみ、アユシュくん」
「明日、十五人。Small enough to start」
「うん。Small enough to start」
アユシュくんは口の端でほんの少し笑って、エレベーターのほうに消えていった。黒木は無言で片手を挙げて、別の階段のほうに消えていった。その片手の挙げ方は、六月下旬の「かいかん」の夜、店の前で僕に振った片手の挙げ方と、たぶん同じ軽さだった。
僕はラウンジに残って、MacBookを閉じる前に、ファイル名「港川IT勉強会_LT原稿_v0.1」を見直してから、名前を変えた。
「港川IT勉強会_LT原稿_v0.9」
v0.1からv0.9まで、たぶん進んだ。v1.0ではない。明日のLT本番の五分間のあと、皆の感想と自分の振り返りを足して、それから初めてv1.0にする。v0.9というのは、本番の一歩手前のちょうどいい数字だった。
MacBookを閉じてリュックにしまった。スクリーンを巻き上げ、プロジェクターの電源を落とし、丸椅子を元の壁際に並べ直した。ラウンジの電気を消して、エレベーターに乗った。退社時刻、夜の九時五十分。深夜残業のラインの、十分前。
寮の自分の部屋に戻り、机の電気をつけた。机の上のノートを開いた。会社のファイル名や原稿の中身は、もうここでは触らない。代わりに、四月一日の最初の一行「二年目、仕事の質を見る」を、今日も一秒だけ見直した。その下に新しい一ページをめくる。
「八月第三週金曜日、夜七時から九時半。会社のラウンジ、LT猛特訓」
書いた。続けてもう数行。
「葉山さん、空白の設計。土台・軸・結論」
「丸山くん、現場の地形。半径3メートルの円」
「杉本さん、地図。前提・定義・結論」
「黒木、白文字のにじみ。フォントサイズ三十二。ぽんぽんの間」
「アユシュくん、能動的な選択。Polishing and neglecting」
「皆、自分の二年目の引き出しを開いて、ちょっとずつ傾けてくれた」
書きながら、僕はもう一度、今夜のラウンジの五脚のばらばらの座り方を思い出した。最後にもう一行。
「これ、たぶん最高のチームだ」
書いた。書いてから、その一行のまだ湿気の残った八月の夏の夜のラウンジの温度を確かめた。その温度は、たぶん一年前の僕にはまだちゃんと見えていなかった温度だった。
窓の外で、葉桜の青い葉が夜の風に揺れた。
……明日、五分間ちゃんと軽くshareする。
胸の奥でつぶやいた。
ノートを閉じ、机の電気を消し、布団に入って目を閉じた。
五分のLTの白い壁と、十五人の半円形の聴衆の輪郭は、もうぼやけていなかった。輪郭の手前に、五脚のばらばらの丸椅子の座り方の温度が、まだ薄く残っていた。




