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新卒エンジニア、観察ノートを開く(中巻) 両輪を、回す  作者: 音無 凪


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第44話「初めての登壇、岡崎さんとの出会い」

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。

 八月の第三週の土曜日、夕方五時半。


 港川市の中心駅前から徒歩五分。貸会議室「ふじみ」の入り口の前に、僕は立っていた。


 建物は四階建ての薄いベージュのタイル張り。一階が町の小さな書店、二階から四階までが貸会議室になっている。港川IT勉強会の会場は、三階のいちばん広い会議室Aだった。


 夕方の風が、駅前の銀杏並木の枝を軽く揺らしていた。


 僕は黒のリュックを背に、MacBookのポーチを脇に抱えていた。手のひらが湿っている。


 ……手のひらがこんなに湿っていたのは、たぶん入社式の朝以来だ。


 胸の奥で思った。


 ハンカチで拭いても、十秒でまた湿った。拭く、湿る、また拭く。会場に上がる前に、僕はこの不毛な往復を四回ほど繰り返していた。


 MacBookのポーチの中には、昨夜会社のラウンジで皆と組み直したLT原稿v0.9のスライドが入っていた。昨夜の五脚のばらばらの丸椅子の座り方のぬくもりは、まだリュックのストラップのあたりにかすかに残っていた。


 MacBookを社外に持ち出すには、社内ルールで部長とCISOの承認が必要だった。部長の諏訪マネージャー、CISOの柳沢さん。その持ち出しの承認は、諏訪マネージャーと柳沢さんのラインで、前日までに下りていた。今回のLTはエンジニアとしての登壇だったため、それとは別に部長とCTOの承認も必要。そちらも諏訪マネージャー経由で稟議を上げて、遠野さんから短いコメント付きで承認をもらっていた。


 遠野CTOからのコメントは、たった一行だった。


「楽しんできて。動画、あとで送って」


 ……CTOが、僕のLTを、知っている。


 内心でその一行をなぞって、軽く息を呑んだ。リュックの重さが、ほんの少しだけ変わって感じられた。


 


「桐谷さん、ですか?」


 建物の入り口の自動ドアの内側から、軽い声がかかった。振り向くと三十代後半くらいの男性が立っていた。


 白い半袖のシャツに紺のスラックス。革靴のつま先が磨かれている。髪は短く、清潔感がある。目の色が優しかった。その優しさは、五月の雨の日に白瀬さんが置いてくれた傘の温度と似ていた。ただ白瀬さんよりも、もう少し口元が笑っていた。


「はい。桐谷蒼太です」


「初めまして、岡崎順です」


「岡崎さん」


「うん。間宮さんから聞いてます」


「間宮さん」


「『うちの会社の二年目の桐谷くん、面白い観察してる』って」

「間宮さんが若手のことを面白いって言うのを、私は二、三年ぶりに聞いた」


 岡崎さんは口の端でほんの少し笑った。


「えっと、ありがとうございます」


「いやいや、間宮さんの太鼓判」


「はい」


「とりあえず上、行きましょうか。会場の準備、ちょうど終わったところ」


「お願いします」


 岡崎さんは僕の前を歩いて、エレベーターのほうへ向かった。エレベーターのボタンを人差し指で軽く押した。その押し方は、たぶん毎月ここのエレベーターの同じボタンを押してきた人の、慣れた動きだった。


 


 会議室Aの扉の前。ドアプレートにA4の印刷紙が画びょうで留められていた。


「港川IT勉強会 第48回 8月例会」


「タイトル:新卒1年で観察したこと(LT、桐谷蒼太さん)/その他」


「岡崎さん、48回も続いてるのですね」


「うん、四年とちょっと」


「毎月?」


「毎月。十二回、十二回、十二回、十二回で、今年で四十八回」


「毎月よく続きますね」


「私一人じゃ、続かない」

「岡崎が一人で頑張ってるってたまに思われるけど、違う」


「違う?」


「この四十八回の中で、毎月誰かが来てくれる。その毎月の誰かの参加が、続けてくれてる」


「なるほど」


「桐谷さんの今月の五分のLTも、その毎月の続きの一回」


 岡崎さんは扉のプレートを人差し指で軽く触れてから、ドアを押し開けた。


 ……毎月の誰かの参加が、続けてくれてる。


 胸の内で言った。


 岡崎さんの言葉は、LT本番の半時間前の僕の湿った手のひらに、ぱきっと乾いた紙の感触を押し当てていた。今夜のLTは、岡崎さんの四十八回の続きの中の、僕の一回ぶんの参加だった。その「参加」という温度が、僕の緊張の湿気を少しだけ引き取ってくれていた。


 


 会議室Aの中。


 四角い白い壁。前方に大きな白いスクリーン。プロジェクターはもう机の真ん中に置かれていた。長机はコの字に並べられ、パイプ椅子十五脚がそれぞれの長机の前に置かれている。


「もう三人くらい来てます」


 岡崎さんが入り口の脇の受付のほうを指で示した。受付の小さな机にA5の名簿。名簿の上のほうに、僕の名前と所属を岡崎さんがもう書き入れてくれていた。


「桐谷蒼太(ヨキエル株式会社2年目、LT登壇者)」

「LT登壇者の方は最初に来てもらえると、こっちが楽」


「すいません。十分前に着くつもりが、結局三十分前に」


「いや、ちょうどいい」


「ちょうどいい」


「PCの接続、確認できる時間、ある」


「確認お願いしたいです」


「うん。机の上、繋いでみよう」


 岡崎さんは長机のいちばん前の中央のUSB-CからHDMIへの変換ケーブルを引き寄せて、僕のMacBookのほうに差し出した。


 僕はリュックからMacBookを取り出して、USB-Cの変換ケーブルをつないだ。プロジェクターの白いスクリーンに、LT原稿v0.9のタイトルスライドがふわっと映った。


「新卒1年で観察したこと、五つ」


 白い背景に軽い太さのゴシック、フォントサイズ五十。昨夜黒木が最後に確かめた白文字のにじみは、いま半分も残っていないように見えた。


「いいタイトル」


 岡崎さんが頷いた。

「『観察したこと、五つ』の、『五つ』がいい」

「LTで数字を最初に置いてあると、聴衆はいま自分が何分で何個聞かされるか、すぐ見える」


「それ昨夜、丸山くんが」


「丸山くん?」


「同期のエンジニアで、運送業出身の」


「あー、その丸山くん、たぶん現場が強い人」

「現場の人は、すぐに地図を描く動きが得意」


「丸山くんも昨夜、地形って言ってました」


「うん」


 岡崎さんはMacBookの画面のタイトル、フォントサイズ五十をもう一度見た。


「いまフォントサイズ、五十?」


「はい」


「五十、ちょうどいい」

「四十五まで下げると、後ろの席はたぶんぼやける。五十か五十二で、ちょうど」


「なるほど」


 岡崎さんの五十・五十二の数字の刻みは、たぶん四年とちょっと、四十八回ぶんの白文字のにじみの計測の続きだった。


 ……岡崎さんも、たぶんフォントサイズをぽんぽんで刻む人だ。


 胸の奥でつぶやいた。


 黒木と岡崎さんは、別々の業界、別々の年齢、別々の流儀で、同じフォントサイズの刻み方を知っていた。その共通点が、僕のLT本番の安心の足場になった。


 


 六時十分前。会議室Aに参加者がぽつぽつ入ってきていた。すでに七、八人。


 僕は受付の脇のいちばん奥のパイプ椅子に座っていた。参加者のなかばは二十代から三十代の男性。残りは四十代以上の男性が三人と、四十代の女性が二人。二十代の外国籍らしき男性が一人、壁際に座っていた。


 ……アユシュくんの英語のサマリー、要るかもしれない。


 内心で思った。


 アユシュくんは昨夜、岡崎さんの四十八回の声のかけ方を、間宮先輩から聞いていた。その情報が、今夜の十五枚目のスライドの白背景の英語三行を、ちゃんと置かせていた。


「桐谷さん」


 すぐ隣に、岡崎さんが座った。


「はい」


「LT一番目で、いいですか」


「一番目」


「うん。本日LT、三本」


「三本?」


「桐谷さんの新卒1年で観察したこと、五分」

「二本目は、市内の別のIT中小の宮本さん。フリーランスの方の副業の話で五分」


「宮本さん」


「桐谷さん、ご存じ?」


「いえ、お名前だけ」


「あー、たぶん後で紹介できる」


「お願いします」


「で、三本目は岡崎が自分で五分」


「岡崎さんも?」


「うん、私も。今回のテーマは、勉強会の参加者の増やし方」


「参加者の、増やし方」


「うん。四十八回続けてきて、ぽつぽつ見えてきた半分のヒント」


 岡崎さんは口の端でほんの少し笑った。


「桐谷さん、一番目で緊張するかもしれないけど、聴衆は皆温かい」

「皆、最初の五分はちゃんと頷く」


「頷く」


「うん。LTに慣れていない人は、最初の一分、聴衆の頷きで一段楽になる」


「一段、楽」


「はい」


 岡崎さんは隣のパイプ椅子の背もたれにもたれた。その背もたれの音は、たぶん四十八回ぶんの、岡崎さんのいつもの音だった。


 


 六時、定刻。


 岡崎さんが、いちばん前の机の中央に立ち上がった。


「皆さんお疲れさまです。港川IT勉強会、第四十八回、始めます」


 軽く頭を下げた。拍手がぱらりと起きた。


「本日はLT三本です」


「一本目、ヨキエル株式会社二年目、桐谷蒼太さん。タイトル『新卒1年で観察したこと、五つ』」


「桐谷さん、お願いします」


 岡崎さんがこちらを向いた。


 僕はパイプ椅子から立ち上がった。手のひらの湿気はまだ残っていた。ただその湿気の温度は、もう入社式の朝より軽くなっていた。


 ……皆、最初の五分はちゃんと頷く。


 胸の内で言った。


 岡崎さんから十分前に受け取った頷きを、僕はリュックの中にそっとしまっていた。その頷きがいま、僕の最初の一歩をぐっと押し出した。


 長机のいちばん前の中央に進む。MacBookの矢印キーに人差し指を置いた。


「桐谷蒼太、ヨキエル株式会社二年目です」


 最初の一行を置いた。パイプ椅子十五脚の半円の聴衆が、こちらに視線を揃えた。壁際の外国籍の男性も、首をこちらに向けた。


「今日は新卒一年間で僕が観察してきたことを五つ、五分でお話します」


 ぱらりとなかばの頷きが、半円の中で軽く回った。


 昨夜の葉山さんの「土台・軸・結論」のピラミッドの角度を、僕は思い出した。


「いちばん最初の土台、半径3メートルの観察から始めます」


 矢印キーを押した。


 二枚目。半径3メートルの薄い円の図。円の中に、丸山くんが提案してくれたばらばらの点が九個。名前は書かれていない。ただ九個の軽い丸の点が、ばらばらに置かれていた。


「半径3メートルというのは、僕の机の周りの人と仕事を観察できる範囲です」


「最初の入社の月、僕はこの半径3メートルをぼやけてしか見ていませんでした」


「半年くらいでぼやけが少し晴れて」


「一年目の終わりに、軽く輪郭が見えるようになりました」


 パイプ椅子のいちばん奥の四十代の女性が、ノートに何かを書いていた。その書く音は、たぶんボールペンのコツコツだった。


 ……書いてくれている人、いる。


 胸の奥でつぶやいた。


 そのささやかな確かめが、今夜の五分間の最初の足場だった。


 


 三枚目。葉山さんが提案してくれた、フォントサイズ三十二、七行のコードのスクリーンショット。右半分は空白。


「これは僕のチームの先輩、白瀬さんが教えてくれたコードレビューの観点です」


「関数の定義の二行、条件分岐の三行、returnの二行。合計七行を見てください」


「白瀬さんは、僕に答えを教えませんでした」


「『なぜ、この方針?』、『他の選択肢は考えた?』と、毎週、質問だけしてくれました」


「半年で、僕は白瀬さんの質問の形を、自分の頭の中に置けるようになりました」


「半径3メートルの観察の二段目は、本物の先輩の質問の形の観察です」


 壁際の外国籍の男性が、軽く頷いた。頷いたあと、彼は隣のパイプ椅子の女性に何かを英語でぼそりと囁いた。女性は軽く頷き返した。


 ……Polishingとneglectingの対比、後半で彼に届くといい。


 内心でつぶやいた。


 アユシュくんの英語三行の十五枚目は、たぶん彼の最後の頷きのちょうど隣に降りる予定だった。


 


 四枚目。杉本さんが提案してくれた、観察の定義の一行をいちばん上に足した「磨く優しさ、放置する優しさ」のスライド。


「ここからは観察の二段目、軸の話です」


「半径3メートルの観察の中で、僕は二種類の優しさを見ました」


「ひとつは、磨く優しさ」


「もうひとつは、放置する優しさ」


「磨く優しさというのは、相手の未完成を磨きに行く優しさです」


「白瀬さんの質問の形は、たぶん磨く優しさの側」


「放置する優しさというのは、相手の未完成を見ないふりをする優しさです」


「最初の半年、僕は放置する優しさのほうが楽だとなかば思っていました」


「ただ半年経って、磨く優しさのほうが結局、自分の二年目の足場をちゃんと置いてくれたと気づきました」


 拍手はまだなかった。ただ半円の十五脚のなかばが、軽く頷いていた。


 


 五枚目から十四枚目までを、僕はゆっくりめくっていった。


 諏訪マネージャーの責任の引き受け方の観察。葉山さんのぴくっとの回数の観察。丸山くんの運送業の現場感の観察。アユシュくんの日本語と英語の行き来の観察。黒木のテックリード補佐のぽんぽんのレビューの観察。杉本さんのお客様対応で培った文書の地図の観察。森山くんの入社一ヶ月の観察。


 固有名詞はぜんぶ伏せてあった。名前の代わりに「マネージャー」「同期A」「同期B」「後輩」と置いている。それでも半円の十五脚の中のなかばの人は、たぶん自分の半径3メートルの別々の誰かの形を、僕の話の伏せた名前の向こう側にうっすら見ていた。


 ……皆、自分の半径3メートルを聞き返している。


 胸の内でつぶやいた。


 五分間の最後のなかばは、たぶん僕の話というよりも、聴衆それぞれの自分の半径3メートルの復習だった。


 


 十五枚目。最後のスライド。白い背景、フォントサイズ四十、黒い英語の三行。


「'Observing the people within three meters of my desk.'」


「'Two kinds of kindness: polishing and neglecting.'」


「'Small enough to start, big enough to matter.'」


 壁際の外国籍の男性が、こちらに身を向けた。彼の目が英語の三行の上を、ゆっくり左から右へ滑っていく。彼は軽く頷いた。その頷きは、たぶん今夜の僕の五分間の中でいちばん深い角度の頷きだった。


「ここまで五分間、ありがとうございました」


 僕は軽く頭を下げた。


 拍手がぱらりと半円の中から起きた。最初の拍手は岡崎さんから。その次は丸山くん……ではなく、四十代の女性。次に二十代の別の男性。次に壁際の外国籍の男性。それからもうひとり、もうひとりと、ぱらぱらと半円の中で続いた。


 ……音は、揃っていない。


 胸の奥で思った。


 昨夜寮のラウンジで、五脚のばらばらの丸椅子の飲み物の容器の縁がぶつかった音の続きが、今夜の十五脚の半円の拍手のぱらぱらの中に、かすかに続いていた。揃っていないぱらぱらの感じが、たぶん今夜の僕の五分間のいちばんいい終わり方の温度だった。


 


「桐谷さん、いいLTでした」


 LTのあと、岡崎さんが近づいてきた。


「ありがとうございます」


「特に最後の英語の三行、よかった」

「うちの勉強会、最近外国籍のエンジニアが数名来てくれてる」


「間宮先輩から」


「うん。間宮さんがその人たちにも声をかけてくれてる」


「ありがとうございます」


「桐谷さんの最後の三行、たぶんKrishnaさんが頷いてた」


「Krishnaさん?」


「あの壁際の男性」


「はい」


「インド出身、市内の別のIT中小のエンジニア。来日二年」


「アユシュくんと同じ、二年」


「アユシュくん?」


「同期のネパール出身のエンジニアです」


「あー、ヨキエルさんの組込みチームの彼?」


「はい。ご存じなのですね」


「間宮さんから、たまに名前が出る」

「私、いつかお会いしたいですって間宮さんに伝えてある」


「伝えます」


 岡崎さんは口の端で、もう一度ほんの少し笑った。


 ……アユシュくんの英語の三行、今夜の外国籍のKrishnaさんの頷きまでちゃんと届いた。


 内心でつぶやいた。


 昨夜の寮ラウンジでアユシュくんが紅茶のマグカップを両手で温め直した動きは、今夜の十五枚目の白い背景の黒い英語の三行の向こう側で、Krishnaさんの頷きと軽くつながっていた。二人はまだ会っていない。会っていなくても、英語の三行が、二人の頷きをそっと揃えていた。


 


 二本目のLT。宮本さんの副業の話、五分。三本目のLT。岡崎さんの勉強会の参加者の増やし方、五分。二本とも、僕はいちばん後ろから頷きながら聞いていた。


 宮本さんは三十代のフリーランスの男性。後にまた「とんぼ」で出会うと知ったのは、もっと先の話だ。今夜はただ頷きながら、宮本さんの副業の複数の軸の話をノートに取った。


 岡崎さんのLTは、四十八回・四年とちょっとぶんの勉強会の運営の内省だった。タイトルは「参加者の増やし方」だったけれど、内容は「四十八回の続け方」の話だった。


 最後のスライドの岡崎さんの一行は、こうだった。


「続けるのは、続ける人がいるからではなく、毎月の誰かの参加がいるから」


 拍手がまたぱらりと起きた。その拍手の中に、たぶん僕の参加も軽く混じっていた。


 


 LT三本のあと、懇親会。会議室Aの長机をコの字から口の字に組み直して、皆で半時間。ペットボトルのお茶と、近くのコンビニで岡崎さんが買ってきた軽いお菓子。ピザはなかった。ビールもなかった。ただ十五人の半円が口の字に戻って、互いの名前を確かめ合っていた。


「桐谷さん、ですよね」


 いちばん最初に声をかけてきたのは、四十代の女性だった。


「はい」


「LT聞きました。途中でメモ、たくさん取りました」


「ありがとうございます」


「私、市内の別のIT中小の平岩と申します」


「平岩さん」


「あなたの観察、私たちにもたぶん当てはまります」


「私たち」


「うちの会社、社員二十五人。中堅の女性は私を含めて三人」


「うん」


「『磨く優しさ』、『放置する優しさ』の対比、すごくよく分かります」

「うちのチーム、たぶん放置する優しさのほうが多い」


「平岩さん、それたぶん岡崎さんの勉強会の中で話せるかもしれません」


「あー、岡崎さんに相談しよう」


 平岩さんは軽く頷いた。その軽い頷きは、たぶん覚悟の形だった。


「桐谷さん」


 次に別の方向から声がかかった。壁際からこちらに近づいてきたのは、Krishnaさんだった。


「初めまして」


 Krishnaさんは丁寧に頭を下げた。日本語の発音はまだ少しぎこちなかったけれど、ゆっくりちゃんと揃っていた。


「初めまして、桐谷蒼太です」


「Krishnaと呼んでください」


「Krishnaさん」


「あなたの最後の英語の三行、very good」


「ありがとうございます」


「'Small enough to start, big enough to matter.'」


「はい」


「これ、私の来日二年目のいまのtemperatureに、very close」


「temperature」


「温度。いまの温度」


「はい」


「Small enough to startで、ちょうどいま私いる感じ」


「ちょうどいま、いる」


「うん。私の日本語、まだsmall」


「はい」


「ただsmallでstartして、ちょっとずつmatterになると信じている」


「はい」


「あなたの三行、私にそれをreminderしてくれた」

「Thank you」


 Krishnaさんは、もう一度軽く頭を下げた。


 ……Krishnaさんも、たぶん来日二年目のアユシュくんと似たtemperatureにいる。


 胸の内で思った。


 Krishnaさんの「small enough to start」の頷きは、たぶんアユシュくんが寮ラウンジの紅茶のマグカップを両手で温め直した続きと、ちょうど別の角度からつながっていた。二年目というのはたぶん、来日二年目と新卒二年目で文脈は違っても、どちらもsmallでstartしてmatterのほうへ近づいていく時期なのかもしれなかった。


 


 懇親会終了、夜八時。会議室Aの後片付けを、岡崎さんと一緒に手伝った。


 パイプ椅子を十五脚、元の長机の脇に戻す。長机のコの字も戻す。ホワイトボードに「四十八回」と書かれた岡崎さんの字を、丁寧に消した。


「桐谷さん」


「はい」


「来月もぜひ」

「LTは無理にしないでいい。聴衆でもいい」


「はい」


「半径3メートルの観察の続き、たぶん桐谷さんの二年目の後半にちょうど降りる」


「続き」


「うん」


「来月、何時から何曜日でしたっけ」


「九月第三土曜日、夕方六時」


「了解です」


「カレンダー、Slackで合わせるなら、間宮さん経由で招待を送る」


「お願いします」


 岡崎さんは口の端で、もう一度ほんの少し笑った。その笑い方は、四十八回ぶん、毎月の誰かの参加の続き方を丁寧に待っている人の笑い方だった。


 


 会議室Aを出て、エレベーターで一階へ降りた。建物の自動ドアを出て、駅前の銀杏並木のほうへ歩き出す。


 夜八時の銀杏並木は、夏の湿気をまだ少し含んでいた。葉桜の枝ではなく銀杏の枝の音が、駅前の街灯の明かりの下でふわっと揺れていた。


 僕はリュックからスマホを取り出した。葉山さんが撮ってくれた、LT本番の五分間の動画を確認した。


 最初の僕の入りの表情は、葉山さんが言ったとおり、湿った緊張の表情だった。ただ二分目くらいから、湿気は軽くなっていた。動画はぜんぶで五分十二秒。五分以内ではなかったが、十二秒は許容範囲だろう。


 僕はLINEを開いた。送り先は三浦翔太。動画を添付して、メッセージを一行入力した。


「LT、終わった。五分十二秒」


 送信。十秒もしないうちに、三浦から返信が来た。


「お、桐谷やったか」


「動画すぐ見る」


 既読のあと、しばらく無音。二、三分経って、もう一通来た。


「お前、思ったよりちゃんと話せるな!」


「最初の一分の湿気はご愛敬」


「二分目からぐっと上がった」


「特に最後の英語の三行、いいぞ」


「あれ、お前書いた?」


 僕は軽く笑って返した。


「アユシュくんが書いてくれた」


「アユシュ、いいな!」


「お礼、伝えとけ」


「うん」


「で、これ東京の勉強会まとめチャンネルに貼っていい?」


「いいよ」


「五百人くらいにリーチする」


「うん。Big enough to matter」


「お、お前いきなり英語混ぜ始めた」


「アユシュくんとKrishnaさんの影響」


「Krishna、誰だ?」


「今日のLT聞いてくれた外国籍のエンジニア」


「お、勉強会いきなり国際化してるな」


「うん」


「桐谷、お前、東京の勉強会いつ呼ばれてもいいよう、ちょっと準備しとけ」


「東京?」


「次の二、三ヶ月のうちにたぶん声かける」


「うん」


「無理はしなくていい。ただ、選択肢はいつでもopen」


「うん」


 三浦からのメッセージの最後、openという英単語の軽い置き方は、アユシュくんの英語三行の軽い置き方と温度は違っても、方向は似ていた。


 ……三浦もアユシュくんもKrishnaさんも、皆別々の文脈で、僕の半径3メートルの外側に向けてopenを置き続けている。


 胸の奥でつぶやいた。


 その確かめは、今夜の銀杏並木の夜八時の、湿気の軽くなった空気の中にちゃんと降りていた。


 


 駅前から、桜並木通りに入った。駅から寮まで徒歩十二分。夜の銀杏並木の空気から、桜並木通りの葉桜の気配に変わった。


 葉桜の青い葉の上に、薄い雲のかかった夏の月。月の光はなかば、雲に隠れていた。


 寮の入り口の前で、僕は足を止めた。ノートを取り出し、立ったまま開いた。


 最後のページ。前夜の最後の一行「これ、たぶん最高のチームだ」を見返す。その下に、新しい一ページをめくった。ボールペンを握り直す。


「八月第三週土曜日、夕方六時。港川IT勉強会第四十八回、LT登壇、五分十二秒」


 書いた。続けて。


「岡崎順さん。四十八回続けている人」


「『毎月の誰かの参加が、続けてくれてる』」


「平岩さん。市内の別IT中小、中堅女性。『放置する優しさ』に頷く」


「Krishnaさん。来日二年、インド出身。『small enough to start』に頷く」


「宮本さん。フリーランス、副業の複数の軸の話」


「三浦。東京の勉強会まとめチャンネル五百人、リーチ。選択肢はopen」


 最後にもう一行。


「外の世界は、優しい」


 書いた。書いてから、その一行をもう一度見直した。


 「外の世界」というのは、たぶん僕の半径3メートルのもう外側にある世界の、新しい輪郭だった。その世界は、岡崎さんの四十八回の続きの中の小さな一回と、Krishnaさんの来日二年の頷きと、平岩さんの放置する優しさへの頷きの、ぜんぶでできていた。


 「優しい」と書いたのは、たぶん、その外の世界のひとつひとつの頷きの温度の合計の、軽さのことだった。


 ……ただ優しいだけではないことは、たぶん半年後か一年後に別の形で見えてくる。


 内心で思った。その予感を、今夜はまだ書かなかった。今夜はただ「外の世界は優しい」の一行を、ノートに残しておく夜だった。


 ノートを閉じる。寮のドアを開けた。共用ラウンジのほうの電気はもう消えていた。


 昨夜の五脚のばらばらの丸椅子の跡だけが、ラウンジの白いリノリウムの床の上に薄く残っていた。その跡を踏まないように、僕は廊下の奥の自分の部屋へゆっくり歩いていった。


 


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