第42話「寮ラウンジ、副業のススメ勉強会」
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、地名、企業名等はすべて架空のものです。実在のいかなる存在とも関係ありません。
八月の第一週、土曜日の夜。
寮の共用ラウンジ。
冷房はいつもより強めに効いていた。窓の外はたぶん、まだ二十八度くらいの湿った夏の夜だった。
このラウンジは、男子棟と女子棟をつなぐ一階の中央にあった。社員証をかざせば、寮に住んでいない社員でも入れる。居住棟のほうは指の静脈認証で、入居者しか入れない。男女が一緒になれるのは、この一階の共用部だけだった。
いつだったか、間宮先輩が教えてくれた。このラウンジは遠野CTOの発案で、社員どうしが交流して、こういう小さな勉強会やイベントが自然に生まれる場所にしたかったのだ、と。だとすれば、僕たちが今からやろうとしている副業のススメ勉強会は、たぶんCTOの狙い通りの使われ方だった。
大きな丸テーブルの周りに、葉山さん、丸山くん、杉本さん、僕の同期四人が、それぞれの飲み物を置いて座っていた。
黒木は組込みチームの設計レビューの追い込みで、今夜は来られない、とSlackで連絡が来ていた。「次は行く」といつもの短い、二文字級のレスだった。
ラウンジへ来る途中、黒木の部屋の前を通った。半分開いたドアの奥、棚の上に、小さなガラスの鉢が見えた。去年の夏祭りですくった金魚一号は、年明けに半年で寿命を迎えていた。いまその鉢では、黒木が春に新しく迎えた金魚二号と三号が泳いでいた。黒木は誰にも言わなかったが、その鉢の水は、いつも澄んでいた。
アユシュくんはラウンジの隣の共用キッチンのほうで、ネパールから送ってもらった紅茶の葉をヤカンに入れているところだった。
「お湯、もう少し待つ」
アユシュくんがこちらに半身向けて、軽く声をかけた。
「了解」
丸山くんがジャージの膝を、軽く叩いた。
「じゃ、お湯待つ間にいきましょうか、副業のススメ勉強会」
「勉強会、ってちょっと大げさじゃない?」
葉山さんが半分笑いながら聞いた。
「いやいや、葉山さん、勉強会って言わないと雰囲気出ないっす」
「出すの、雰囲気だけ?」
「中身も出すっす」
「丸山くんって、出力の順番よく雑だよね」
葉山さんはちょっと肩をすくめて笑った。
葉山さんの肩の角度は、六月の昼の定食屋の最後の角度よりも、六月下旬の黒木のおめでとう会の後半よりも、また少し戻っていた。
時間が半分解いてくれた部分も、たぶんあった。
ラウンジのテーブルの真ん中に、丸山くんが自分のノートをぱさり、と置いた。
「自分からいきます。俺、副業もうぽつぽつ始まってるんすよ」
「お、丸山くん、もう始まってる」
「運送業時代の知り合い、何人かいて。前にいた会社よりもうちょっと小規模な別の運送会社の若い社長が『システム相談、ある』って」
「相談、って」
「倉庫の中のピッキングの仕分けが、紙の伝票とExcelでぐちゃぐちゃになってて。それをちょっと整理する話」
「最初の相談、無料で聞いたっす。話聞いたら案外、面白くて」
「面白くて、どうしたの」
「就業規則の範囲で月四時間までなら、副業を申請して報酬もらってよし、って人事の沢田さんから書面で確認とったっす」
「お、丸山くん、ちゃんと手続き踏んでる」
「葉山さん、俺、運送業時代、書面、書面、書面で生きてきたっすから」
丸山くんは軽く笑った。
「で、ふた月でExcelの整理から、簡単なAccess代替のWebフォームの提案までたどり着いたっす。報酬は月二万円ちょっと」
「二万、ちょっと」
「金額は別にたいしたことないっす。むしろ、向こうの社長の現場の話を聞けるほうが勉強になるっす」
「丸山くん、社長さんと話、合うんだ」
葉山さんが言った。
「合うっす。うち、親父が個人で運送やってたんすよ。中古のトラック一台で、一人親方。社長っていっても、従業員、自分一人っすけど。荷主と値段の交渉して、経費計算して、繁忙期と暇な時期でひいひい言って。子供のころから、その背中ずっと見てたんで」
……丸山くんのお父さんが、社長。
「だから、社長が夜中に何を心配してるか、なんとなく肌で分かるんすよ。システムの相談に乗ってても、結局は、その人の商売がうまくいくかどうかの話っすから。そこは、たぶん俺の強みっす」
経営、という言葉を、丸山くんはさらっと使った。同期の誰も、まだ持っていない視点だった。技術の話をしているはずなのに、丸山くんの足は、いつも、商売の地面に着いていた。
すごいね、と僕が言うと、丸山くんは少し照れて、それから、声を一段落とした。
「でも、正直、技術は大卒組にぜんぜん追いつけてないっす」
……引け目。
心の中で、僕はそう思った。丸山くんが、自分の技術をこんなふうに低く言うのは、初めてではなかった。
「コードのきれいさとか、設計とか。白瀬さんとか黒木みたいには、まだ全然っす。だから、こんな倉庫のExcelの整理くらいしか」
「でも」
葉山さんが、まっすぐ言った。
「その社長さんは、丸山くんに頼んだんだよね。ほかの誰かじゃなくて」
「……まあ、そうっす」
「倉庫のピッキングが分かって、伝票が分かって、そのうえでExcelもいじれる人。たぶん、そんなにいないよ」
丸山くんは、少し黙った。
「現場を、知ってるからっすかね」
「それ、たぶん武器だよ」
葉山さんの声は、お世辞ではなかった。事実を、事実として置く声だった。
丸山くんは、ジャージの膝を、もう一度軽く叩いた。
「七年、トラック乗ってたのは、無駄じゃなかった、ってことっすかね」
「無駄じゃない」
僕も、思わずそう言っていた。遠野CTOが内定の面接で丸山くんに言った、という言葉を、前に本人から聞いたことがあった。七年の現場感は、技術以上の財産です。あのとき丸山くんを拾った言葉が、いま、葉山さんの口からも、別の形で同じことを言っていた。
「現場を知ってる人がITをやると、強い」
丸山くんが、自分の言葉でそう言い直した。さっきまでの引け目とは、声の置き方が、少しだけ違っていた。
「丸山くん、お祭り好きなんだよね、たぶん」
葉山さんがそうぽつりと言った。
「葉山さん、それ東京の誰かが言ってたやつに似てるっす」
「東京?」
「いや、なんか桐谷さんの東京の友達がお祭り、お祭り、って言ってる、って前に聞いた気がするっす」
……三浦の話、丸山くんにいつかちょっと流したかもしれない。
心の中で僕は振り返った。
三浦はたぶん自分自身もお祭り好きと自覚していたし、僕の知る同期の中で「お祭り」という単語がいちばんぴったり合うのは、たぶん丸山くんだった。
二人はたぶん、別々の業界の、別々の世代のお祭り好きだった。
その共通点を葉山さんが半秒で見抜いた。
葉山さんはそういう把握が、いつも速かった。
「次、私いきます」
杉本さんが控えめに手を、軽く挙げた。
「お、杉本さん、いきましょう」
「私は副業はまだ始まってないのですが、知り合いから文書整理の話が来てます」
「文書整理、って」
「県内の別の小さい会社で、社内の手順書とか議事録のデータ化と整理のお手伝い」
「私、文系出身で、大学の頃、古文書の解読をゼミでやってました」
「そんな話、初めて聞いたっす」
「言ってなかった、と思います」
杉本さんはジャスミン茶のグラスを、両手で軽く包んだ。
「古文書の解読、なんで、また」
「文学部の、日本史の近世史ゼミでした。江戸時代の商家の帳簿の写しを読み解くゼミ」
「お、まじっすか」
「読み解くのと、現代の社内の手順書の整理、ちょっと似てて」
「似てるんだ」
「書いた人の癖と、抜けてる前提と、書き残されなかった経緯を、行間から推測してつなぎ直す。作業の感じが似てます」
「あー、なるほど、っす」
「うちの会社のサポートの仕事、毎日二十件くらい自分のキューに来てます。半分はドキュメントが足りてないから起きる、繰り返しの問い合わせ」
杉本さんはジャスミン茶を、ひとくち飲んだ。
「お客様対応で時間を取られて、ドキュメントを書き直す時間がなくて」
杉本さんはそれだけ言って、目を半分下げた。
「副業のほうは、もうちょっと自分のペースで文書整理の経験を積めるかもしれない、と思って」
「で、社内のサポートのほうも、副業で慣れた整理の手順を半年後くらいに戻して、応用してみたいです」
「お、それいいっすね」
「テストをもっと深くやってみたいところですが、ドキュメントをちゃんと書ける人って、たぶんテストにも効くから」
「うん、たぶんそうっす」
丸山くんがいつものぶっきらぼうな調子で、ちゃんと頷いた。
……杉本さんの「お客様対応で時間取られて」の一行、まだ続いてる。
心の中で僕は確かめた。
一年目のいつか社内Slackで杉本さんが書いた一行と、今日のジャスミン茶のグラスの両手の包み方は、たぶん同じところでつながっていた。
ただ今日の杉本さんはその一行の隣に、「副業の経験を半年後に戻して応用」という半歩未来の一行を、ちゃんと自分の口で置いていた。
その置き方がたぶん、杉本さんの二年目の半歩だった。
もうひとつ、杉本さんの言葉の奥に、半分だけ顔を出しているものがあった。お客様の声を、ただ受けて返すだけじゃなく、どこが壊れやすいか、どこが危ないかまで、先に読みたい。さっきの「テストにも効く」の一言のもう少し奥に、そういう向きが薄く混じっていた気がした。
……黒木が、まだ無い役割に手を挙げたみたいに。
心の中で僕はそう思った。黒木のテックリード補佐の話を、杉本さんはあのおめでとう会の夜、いちばん静かに聞いていた。あの夜から、杉本さんの中でも何かが動き出しているのかもしれなかった。
「次、私いってもいい?」
葉山さんが、手元のグラスのジン・トニックを軽く傾けた。
「お願いするっす」
「東京の大学時代の友達がWebサイトのリニューアル、やりたい、って言ってて」
「お、葉山さん、Web系っすか」
「友達がデザイナーで、コーディングと、簡単なバックエンドができる人を探してた」
「で、葉山さんに声かかった」
「うん。先週、初打ち合わせが終わった。今月から月四時間くらいの副業」
「四時間で、報酬は」
「月三万円。フリーランスとしては安いけれど、初めての副業だから勉強代込みで許容範囲」
「会社の就業規則は確認した。人事の沢田さんに書面で申請も出した」
「丸山くんと同じルートっすね」
「うん。沢田さん、丁寧な人だった。話をちゃんと聞いてくれた」
「人事の沢田さん、いいっすよね」
丸山くんがぼそりと頷いた。
丸山くんと葉山さんがそれぞれ人事の沢田さんと書面で確認したやり取りを、僕は心の中で薄く一行、書き留めた。
……人事の沢田五郎さん、たぶんちゃんと書面を回してくれる人。
心の中で僕は確かめた。
その確かめはたぶん、六月の昼に葉山さんが話していた「江口マネージャー、現場で、決めて」の平らな声と対比になっていた。
組織の中の「現場で、決めて」の人と、「書面でちゃんと回す」の人。
二人ともたぶん、人事と現場のラインの、それぞれ別々の位置にいる。
その別々の位置が、二年目の僕にとって新しく見え始めた、組織の中の地形だった。
「葉山さん、副業のほう楽しい?」
杉本さんが控えめに聞いた。
「初打ち合わせの二時間、半年ぶりくらいに頭がめっちゃ回った」
「うちの会社の打ち合わせと違って、議事録誰が書く、みたいな変な空気がない」
「ない、っすか」
「うん、ない。四人でホワイトボードに皆で書いて、皆で消す」
葉山さんはグラスのレモンの輪切りを、軽く潰した。
「あれがたぶんふつう、なんだと思う」
「ふつう、ですか」
「うん。その『ふつう』が、たぶん思ったより社内ではふつうじゃなかった」
「葉山さん、それちょっと痛い気づきっすね」
「うん、まあ痛いというか。外に出てみて初めて見えた、その手の『ふつう』をもうちょっと確かめたい」
葉山さんはそれだけ言って、ジン・トニックをひとくち飲んだ。
……副業、というのはお金だけの話ではない、らしい。
心の中で僕は確かめた。
お金の話で、ふと一年前の父の言葉を思い出した。報酬は、働いた時間に対してじゃなく、出した価値に対して出る。丸山くんが現場の話を「勉強になる」と言い、葉山さんが「自分の頭が回った」と言うのは、たぶん副業で受け取っているのがお金だけじゃなくて、価値を出す場所そのものだからだ。
そういえば今年の夏の寸志は、去年の十万円固定から半分くらいの査定に変わっていた。明細の数字は去年より少しだけ増えていた。それでも「これは何に対して出たんだろう」と考える癖だけは、去年の六月のあの日からずっと続いていた。一年目は四分の一、二年目は半分、いつか満ちる。去年の明細を見ながら自分に言い聞かせたその段の、半分まで来た数字の上に、僕は今年の夏を薄く重ねた。
葉山さんの「ふつう」と「ふつう、じゃなかった」の対比は、たぶん葉山さんの今後の判断の足場のひとつになっていく。
葉山さんはまだはっきりとは、僕にあの六月の昼の続きを話していない。けれど副業の話の中で、自分の現在地を葉山さん自身がもう一度地図に描き直しているように見えた。
アユシュくんが紅茶の入った白いポットをトレイに乗せて、ラウンジに戻ってきた。
「お湯、来た。皆、飲む?」
「いただきます」
葉山さんがすぐに、自分のグラスの隣の空のマグカップを差し出した。
アユシュくんは丁寧に、四つのマグカップに紅茶を注いだ。
「私、副業、まだない」
アユシュくんは自分の分の紅茶をひとくち飲んでから、軽く言った。
「研究のほうの論文のレビューの依頼、たまに来る。あれは副業、ない」
「論文レビュー、無償?」
「うん。アカデミアの、無償の貢献」
「お、立派っすね」
「立派、というよりは、私、自分のため。reviewすると、自分の研究の引き出し、増える」
「日本で、副業、まだ考えてない。私の頭、いま研究の方向と職場の方向、両方考えるのでいっぱい」
「うん、それはそうだよね」
「ただ、皆の副業の話、聞いていて面白い」
アユシュくんはそれだけ言って、紅茶をもうひとくち飲んだ。
「桐谷くんは?」
葉山さんが僕のほうを向いた。
「僕」
「うん。桐谷くん、まだ副業何も言ってない」
「うん。まだ何も」
「ふーん」
葉山さんはそれだけ軽く返した。
その「ふーん」の角度は、半分催促、半分こちらの様子見だった。
僕はMacBookを開いている隣のテーブルに置いた、自分のスマホをちらっと見た。
画面にLINEの通知が来ていた。
送り主、三浦翔太。
メッセージのプレビュー欄に、最初の数行だけ見えていた。
「桐谷、お前の地元の勉強会、いつあんの?」
「LT、行けよ」
「俺の今日の東京のLT、まあまあウケた」
「お前、絶対向いてる」
……三浦、相変わらず早い。
心の中で僕はつぶやいた。
三浦はたぶん、先日の夕方のLINEのやり取りの続きをもう出してきていた。三浦の「お前絶対向いてる」は、断言の語尾だった。三浦の断言は、いつも半分根拠があって半分勢いだった。
その半分の勢いに、僕は一瞬戸惑った。
戸惑いながら、僕はその勢いを嫌だ、とは思わなかった。
「桐谷くん、何見てるの」
葉山さんが僕のスマホの画面を、軽く覗き込んだ。
「いや」
「LINE?」
「うん」
「誰から?」
「東京の、大学時代の友達」
「お、三浦、っていう人?」
「うん。三浦」
「桐谷くんから、たまに名前出る」
「うん」
「で、なんて?」
「えっと、地元のIT勉強会、LTで登壇しろ、って」
「お、LT?」
葉山さんがちょっと、目を開いた。
丸山くんと杉本さんとアユシュくんも、それぞれこちらに半身向けた。
「桐谷くん、LTやるのですか」
「いや、まだ決めてない。三浦が勝手に勧めてきてる」
「LTって、皆できるもの?」
葉山さんが僕に聞き返した。
「いや、僕も自信ない」
「えー、桐谷くんなら絶対できるよ」
「絶対、というのは」
「観察ノート、あるじゃん」
「あのノート、たぶん五分しゃべる材料いくらでもある」
「いや、ノートまだぐちゃぐちゃで」
「ぐちゃぐちゃ、と、五分のLTで話せる、は別の話」
葉山さんはいつもの速さで、断定を軽く置いた。
その「別の話」の置き方が、たぶん葉山さんのいまの、半段戻ってきた肩の角度だった。
「蒼太、君の『観察』」
アユシュくんがこちらに、首を向けた。
「share with the world、してみたら」
アユシュくんの口調はいつもの、日本語+核心語の英語、のいつもの並び方だった。
「share with the world」のところだけが英語で、ぐっと押し込まれていた。
「世界に分かち合う」ではなくて「share with the world」と置くと、その「share」の動詞の中にたぶん、ネパールから日本へ来たときの文化の越境の軽い勢いが含まれた。
shareの動詞はたぶん、アユシュくんの中で、何かを誰かに開いて置く、というわりと軽やかな明るい動詞だった。
「shareの相手、最初は地元のIT勉強会の十五人くらい?」
僕はちょっと聞き返した。
「うん。十五人、いい数字。Big enough to matter、small enough to start」
「Big enough、small enough」
「うん。意味、伝わる?」
「意味、伝わる。十五人くらいが、大事に思えるくらいの大きさで、始めるにはちょうどいい小ささ」
「うん、それ。Soota、訳、上手い」
アユシュくんが口の端で、ほんの少し笑った。
アユシュくんが僕のことを「Soota」と呼ぶのは、いつもの自然な呼び方だった。
その「Soota」の音はたぶん二年目のいま、僕のいちばん軽くて温かい、自分の呼ばれ方だった。
「コードの、スクリーンショット」
ぼそりと、声が入った。
ラウンジの入口のほうに、黒木が立っていた。
「お、黒木、来たっすか」
丸山くんがすぐに、軽く声をかけた。
「ちょっと、早めに、終わった」
「お、ちょうど桐谷さんのLTの話してたところっす」
「うん。聞こえた」
黒木は入口の脇のもう一脚の丸椅子を引いてきて、テーブルの少し外の位置に座った。
「コードのスクリーンショット、字、大きくすれば、見やすい」
黒木は座るなり、そうぼそりと続けた。
「それちょっと具体的っすね」
「うん」
「具体的に?」
「フォントサイズ、二十四以上。可能なら二十八。背景、白。ハイライト、控えめに青と緑、二色まで」
「二色まで」
「三色以上、混ぜると、後ろの席から見にくい」
「お、黒木、もうLTの設計始めてるっす」
「黒木、いつもこういうの得意」
葉山さんがにやり、と笑った。
「黒木、たぶん引き出し別々」
葉山さんはそうつぶやくように、足した。
「引き出し?」
黒木は軽く首を傾げた。
「うん、いま私の勝手な観察」
「いい」
黒木はそれだけ答えた。
黒木の「いい」は、たぶん軽く葉山さんの観察を肯定していた。
黒木は自分の引き出しの分け方を、自分自身の言葉ではたぶんまだ整理していない。けれど、葉山さんにその動詞で軽く整理されたことを嫌がってはいなかった。
「黒木、最近は何作ってるんすか」
丸山くんが、画用紙から顔を上げた。
「川の温度の、やつ。カメラの画像から、鮎が映った瞬間だけ記録する。小さいモデルを、ラズパイに載せて」
「……それ、ラズパイで動くんすか」
丸山くんが、目を丸くした。
「削って、詰めて、載せる。卒研で、ずっとやってた」
「ちゃんと動いたら、田舎の漁協ほしがるやつっすよ。それ」
丸山くんは本気で感心していた。いらないものを削って、ほしいものを載せる。黒木の手は、その両方を、口数少なくやっていた。
「皆、ありがとう」
僕はラウンジの真ん中の四人に向かって、軽く頭を下げた。
黒木にも、目で頷いた。
「桐谷くん、頭下げすぎ」
葉山さんがすぐに突っ込んだ。
「いや、なんか本気で、皆ありがとう」
「本気でありがとう、と思うなら、本気でLT決めてよ」
「うん」
僕はMacBookの新しいメモアプリの、空のページを開いた。
ファイル名を入力した。
「港川IT勉強会_LT原稿_v0.1」
タイトルに、日付の代わりに「v0.1」と入れた。
v0.1、というのはたぶんまだ、書き始めのいちばん最初のバージョン番号だった。
その「0.1」の音は、なぜか軽くて、ありがたい数字だった。
「決めた」
僕はラウンジの真ん中で、軽く声を出した。
「お、桐谷さん、決めたっすか」
「うん。LT、やってみる」
「決めた、っすね」
「うん、決めた」
葉山さんがジン・トニックのグラスを、軽くテーブルの中央に傾けた。
「乾杯、っぽくしよう」
「いいっすね」
丸山くんはすぐに自分のジョッキを傾けた。
杉本さんはジャスミン茶のグラスを、両手で丁寧にテーブルの中央に押し出した。
アユシュくんは紅茶のマグカップを、軽く傾けた。
黒木は自分の手元のペットボトルのお茶を一瞬見て、それから軽くテーブルの中央に置き直した。
五つの別々の飲み物の、それぞれの容器の縁がテーブルの真ん中で、軽くぶつかった。
ぶつかる音はたぶん、ぴったり揃っていなかった。
揃っていない四つか五つの音が、ラウンジの天井にばらばらと跳ねた。
その揃っていない感じが、たぶん僕たち同期のいまのいちばんちょうどいい、合い方だった。
乾杯のあと、僕はもう一度スマホを開いた。
三浦からのLINEに、返信を入力した。
「LT、やってみる」
短い一行を、送った。
数秒で、三浦からの返信が来た。
「お、決めたか」
「動画、絶対送れよ。こっちで紹介する」
「紹介、って、どこで」
「東京のスタートアップ界隈、Slackの勉強会まとめチャンネル」
「そんなのあるの」
「ある。お前の動画、五百人くらいにリーチする」
「五百」
「無理しなくていい。動画、撮ったやつだけ、こっちでぽんと貼る」
三浦のLINEのいつもの勢いだった。
その勢いはラウンジの、揃っていない五つの容器の音よりもう一段強くて、雑だった。
けれど三浦の雑さはたぶんいつも、僕のぎりぎりの背中を押し出す、いい雑さだった。
僕は三浦のLINEに、短く返した。
「分かった」
「動画、葉山さんに頼んでみる」
「ありがとう」
送信してから、MacBookのメモアプリの、まだ空のv0.1のページに、最初の見出しを入力した。
「新卒1年で、観察したこと」
タイトルの下に、もう一行メモを入れた。
「五分。十五人。Big enough to matter、small enough to start」
アユシュくんの英語の一行を、僕はファイルの中にそのまま置いた。
その一行がたぶん、僕のいまのいちばんちょうどいい、自分へのリマインドだった。
ラウンジを解散したのは、夜十一時半。
葉山さんは自分の部屋に戻り際、僕のほうをもう一度振り返った。
「桐谷くん」
「うん」
「LTの動画、私撮るね」
「ありがとう、葉山さん」
「あと、スライドのレビュー皆でする」
「猛特訓、っぽいやつ」
「猛特訓?」
「うん。たぶん丸山くんが、なんかこだわる」
「たぶんこだわる」
葉山さんは軽く笑って、自分の部屋のほうへ歩いていった。
丸山くんはラウンジの片付けを半分手伝ってくれた後、「お、桐谷さん、スライド、まじでガツン、といきましょうね」とジャージの肩を軽く叩いて、自分の部屋に戻った。
杉本さんはジャスミン茶のグラスを流しで丁寧に洗ってから、軽く頭を下げて自分の部屋に戻った。
アユシュくんは紅茶のポットをキッチンのほうに戻し、僕のほうを半身振り返った。
「Soota」
「うん」
「v0.1、好きな数字」
「うん、僕も」
「shareは、軽く」
「軽く」
「Goodnight」
「おやすみ」
黒木は無言で軽く片手を挙げて、廊下の奥に消えていった。
寮の自分の部屋に戻り、机の電気をつけた。
ノートを開いた。
四月一日の最初の一行、「二年目、仕事の質を見る」を今日も一秒だけ見直した。
その下、新しいページを開いた。
「副業のススメ、勉強会、寮ラウンジ」
書いた。
もう一行。
「丸山くん、運送業の知り合いの会社、Excelの整理。月四時間、二万円ちょっと」
「杉本さん、文書整理の副業、知り合いの会社から。古文書解読の経験、応用」
「葉山さん、東京の友達のWebサイト、月四時間、三万円。『ふつう』を社外で確かめ直す」
「アユシュくん、論文レビューの、無償の貢献」
「黒木、LTスライドのフォントサイズの助言」
もう一行。
「三浦から、LT登壇、改めて煽り」
書きながら、僕は「煽り」という言葉の軽さを確かめた。
三浦の煽りはたぶんいつも、十パーセントの勢いの過剰と、九十パーセントのちゃんとした根拠で出来ている。
その十パーセントの過剰の分が、僕の迷いをいつもぐっと押し出す。
もう一行書いた。
「LT、決めた。v0.1のファイルを開いた」
書きながら、僕はv0.1、という数字をもう一度見つめた。
v0.1、というのはたぶんまだ完成度の半段手前の、いちばん最初の形だった。
その「半段、手前」の軽さがたぶん、今夜の僕のいちばんの出発の角度だった。
もう一行、最後に書いた。
「shareは、軽く。Big enough to matter、small enough to start」
アユシュくんの英語の一行を、僕はノートにそのまま書き写した。
書き写しながら、僕はたぶん三浦とアユシュくんが、別々の方向から僕の同じ背中を押していることに気づいた。
三浦は東京の方向から。
アユシュくんはネパールと、寮の共用キッチンの方向から。
二人の押し方は、別々の温度で、別々の文体だった。
けれど二人の押す方向はたぶん、僕の半径3メートルの外側に向かって、ほぼ同じだった。
ノートを閉じた。
窓の外、八月の夜の風が、葉桜の枝をゆっくり撫でていた。
……来週、葉桜の下をもう一度ひとりで歩こう。
心の中で僕はつぶやいた。
歩きながら、たぶんv0.1のLT原稿の見出しを、もう一段組み直す。
組み直したあと、再来週かその次の週には、丸山くんがこだわると葉山さんが言っていた寮のラウンジでの猛特訓の予定が、たぶんSlackで流れてくる。
その予定の通知を、僕はたぶん半秒で確認する。
その半秒は、いつもの僕の観察の続きの中の、いちばんふつうの半秒だった。
今夜、僕はその積み重ねの先に、五分のLTの白い壁と十五人の半円形の聴衆を、薄く想像した。
まだぼやけていた。
ぼやけていたけれど、輪郭はもう、ノートのv0.1のファイル名の中に薄く置かれていた。




