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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第5話 監察使、宿に着く

王立鋳貨院辺境支所の裏手に、古い旅籠が一軒ある。階段の踏板が三段目で軋み、扉の蝶番が雨の日に重い、二階建ての宿だ。


その旅籠の二階の窓に、夜更け、灯りが一つ点いた。


私は支所の二階から、その灯りを見ていた。


「来たな」


エドモンが、私の横で湯を啜った。


「監察使のシリル殿か」


「うん」


「明日の朝、挨拶に伺いますか」


「いや。あちらから来る。礼の角度が一定の男だ。先にこちらを訪ねるのが筋、と判断するだろう」


「分かりました」


「ヴィルジニー」


「はい」


「あの男は冷たい、と評判だが」


「はい」


「礼を欠かれたら、こちらが先に詫びろよ」


「副所長が、ですか」


「君が」


「私が」


「うん。君の検査控をまず疑うはずだ。詫びさせるな。先に『お疑いから始めてください』と言え。あの男は、そう言われたら、礼を一段深くする」


私は耳飾りに一度触れた。


「分かりました」



翌朝、支所の入口の扉が、控えめに二度叩かれた。


エドモンが応えた。


入ってきたのは、黒髪を短く整え、銀縁の眼鏡を掛けた男だった。年齢は三十前後。礼の角度が、扉を入る時、扉から二歩入った所、机に近づいた所――三回、すべて同じだった。


「中央財務監察庁、監察使補のシリル・ベルナトンと申します。本件、現地検証のため、本日より滞在いたします」


エドモンが応じた。


「副所長エドモン・カルティエだ。お疲れさまでした」


「移動中の沿線、街道筋の年貢納入所の通過記録を確認しながら参りました。辺境伯領の年貢が、王立金庫の門で滞っている件は、街道筋でも噂になっております」


「噂、ですか」


「噂は事実とは別物として扱います。確認のために来ています」


ベルナトン氏は、私の方に向き直って、礼の角度を変えずに、頭を下げた。


「王立鋳貨院辺境支所 鋳貨検査官、ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ様」


「はい」


「あなたの検査控を、私は街道筋で読みました」


「街道筋で、ですか」


「写しを携行しております」


「拝見できますか」


「お渡しします」


ベルナトン氏は、薄手の革鞄から、紙束を取り出して、机に置いた。


私は表紙をめくった。


三年分の私の月例報告書、支所側控の写し。


文字を読まなくても、上から下まで、私の筆跡だと分かった。


「副本ですので、原本は本院に保管されています」


「ありがとうございます」


「ヴィルジニー様」


「はい」


「もう一度、口頭でお聞かせいただきたいことがあります」


「どうぞ」


ベルナトン氏は、椅子を引いて座った。机の上に、鉛筆を二本、立てて置いた。一本は短く削ってある。もう一本は、まだ削っていない、新しいもの。


「ご自身の検査控に対して、まず疑問をお持ちでしたか」


「自分の控に対して、ですか」


「はい」


私は、ベルナトン氏のその問いの意味を、頭の中で一度、復唱した。


「正直に申し上げます。自分の控は、三年休職中も、辺境伯領の地金について個人的に記録を取り続けてきました。支所の控とは別の手帳で。突き合わせが取れていない可能性は、現時点ではあります」


「個人控をお持ちで」


「はい」


「同じ机に出していただけますか」


私は革張りの茶色い手帳――義父アルベリックから預かったものではなく、私個人の手帳――を、机に置いた。


ベルナトン氏は、その手帳の表紙にしばらく目を落としてから、


「拝見します」


と言って、表紙を開いた。


無音の数分。


ベルナトン氏は、鉛筆を持ち上げて、自分の覚え書きに何かを書き留めた。それから、もう一度、手帳の頁を最初から繰り直した。


私は耳飾りに、一度だけ触れた。中指で、軽く。


「ヴィルジニー様」


「はい」


「礼を欠きました」


「と、申しますと」


「街道筋で、私はあなたの控に対して『辺境伯夫人としての立場で書かれた可能性があり、控の独立性に疑問あり』という所見を、上司宛の電信に書き付けてしまいました」


「上司、と申しますと」


「中央財務監察庁、監察使長 デルマ氏」


「はい」


「ですが、いま、あなたの個人控を拝見し、月例報告書との照合が、三年分すべて、整合しています。所見を訂正します。控は独立して書かれています」


ベルナトン氏は、書面入れから一枚の紙を取り出した。


「『電信文訂正願』。私の名で書き、本日付で打電します」


「お受け取りください」


私は短く息を吐いた。


「ベルナトン様」


「はい」


「礼を欠かれた、とは思っておりません。順番として、当然のお疑いです」


「順番として、当然と」


「はい」


「では、なおさら、詫び書面を残させてください」


「分かりました」


ベルナトン氏は、自分の紙に短く詫び文を書き留めた。それを、私の机の上に、まっすぐ滑らせた。


「これは公文書として、控の写しを本院に送ります。同じ写しを、あなたの机にも置いていきます」


「ありがとうございます」


エドモンが、隅で湯を一杯、湯気を立てたまま運んできた。


「監察使殿。湯です」


「ありがとうございます」


ベルナトン氏は、湯を受け取って、机の縁に置いた。すぐには口をつけなかった。湯気が、立ち上っていた。



質問は、その後、二時間続いた。


主任印の名義変更がいつ、誰の指示で、どの書面で行われたか。


私が休職届を出した時、辺境伯家側に通知した文書の控はどこにあるか。


辺境伯家側の家令ロベール・ロワゾンと、私の指示系統がどう交差していたか。


商会令嬢ナエル・モンセールとの直接の面識の有無。


私はすべて、知っていることは知っている、と答えた。知らないことは、知らない、と答えた。


ベルナトン氏は、すべての答えを鉛筆で書き留めた。湯は、二時間後に冷め切ってから、ようやく一口飲んだ。


「明日、辺境伯邸の改鋳所に、同行をお願いしてもよろしいですか」


「はい」


「現場では、あなたの試金石で、地金見本の純度を実測していただきたい」


「分かりました」


「同行は」


「監察使殿、副所長、私の三名で」


「結構です」


ベルナトン氏は鉛筆を二本、革鞄に戻した。


帰り際、扉の前で、もう一度、礼の角度。最初と同じ角度。


「ヴィルジニー様」


「はい」


「あなたの個人控の、二年前の十月の頁に、辺境伯家の地金純度の脇に、小さく『義父様、お墓に。地金純度〇・九五八、報告済』と書かれていた行があります」


「はい」


「あの一行を、私は読みました。職務外のことです。失礼しました」


「いいえ」


「失礼しました」


ベルナトン氏は、深く頭を下げて、出ていった。



夜、宿の二階の灯りが、私の支所の二階から、また見えた。


私は窓辺で、新しい手帳の二頁目に、ペンを置いた。


「監察使ベルナトン氏、湯を最後まで飲んだ。


冷めた湯を、彼は、嫌な顔をせずに、一口で飲んだ。


詫び書面、まっすぐ置いた。


鉛筆を、二本、机に立てた。


これを、私は覚えておく」


ペンを置いて、私は耳飾りを一度、外した。


机の上に、ベルナトン氏の詫び書面が、白いまま置かれていた。


夫オリヴィエの「念のため」と、まったく違う字だった。

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