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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第4話 先代の手帳

支所の地下は、石の冷たさが膝まで上がってくる場所だった。


私はランプを片手に、木の階段を降りた。エドモンが上で「明かりは余分にもう一つ持ってけ」と声を投げた。古い建物の地下は、湿気で扉の蝶番が固くなっている時がある、と彼は知っていた。


階段の踏板の四段目に、傷がある。先代の時代に、地金の塊を運ぼうとして、ひとつ落としたのだそうだ。傷の縁は、もう、丸くなっている。三年休んでも、四段目の傷は、私の足が、踏まずに済むように覚えていた。


地下の通路の突き当たり、頭の高さに窓がひとつ。窓の向こうは地面で、薄い光しか入らない。


突き当たりの右手、樫の扉。


鍵札に書かれた「A」の文字。


差し込んだ鍵が、最初は固かった。一度抜いて、油布で軽く拭いて、もう一度差した。鍵が回った。


扉の奥は、思ったより狭い小部屋だった。三畳ほど。壁に書架が二列。床に木箱が一つ。


私はランプを書架の縁に掛けて、木箱の前にしゃがんだ。


木箱の蓋に、もう一度、家紋。サン=アルディオ家の家紋。


蓋を開けた。


中に、革張りの茶色い手帳が一冊。


「アルベリック」と背に金箔の文字。


その下に、もう一冊。表紙に文字はない。


私は両方を抱えて、書架の縁に置いた。


ランプの明かりを少し近づける。


革張りの手帳を開いた。


最初の頁の日付は、十二年前。


「本日、王立鋳貨院辺境支所 副所長エドモン・カルティエ殿と協定。辺境伯領の地金は今後、王立鋳貨院の検査に従う。サン=アルディオの鉱山収益はここで一旦底を打ったと見るべき。協働しか道はない」


十二年前。先代辺境伯が、まだ存命だった頃の、若い字。


頁をめくると、月ごとの地金純度のメモが続いている。


私はそれを、目で追った。


十二年前から十年前、八年前――辺境伯領の地金純度は、徐々に落ちている。先代の字で「鉱脈変化。商会鋳貨ギルドからの引き合いあり。要警戒」と短く書き付けてある頁が、何度か出てくる。


そして、八年前の頁。


「ヴィルジニー嬢、十八歳。王立鋳貨院本院に首席で配属。私はこの娘の小数点が、いずれ我が領を支えるかもしれぬ、と感じる」


息が、一度止まった。


会ったこともない頃の、義父の字だ。


辺境伯家との縁組の話が出る、四年前。


私が王立鋳貨院本院で叙任されたばかりの十八歳の頃、先代はすでに私の名前を、自分の手帳に書いていた。


頁をめくる手が、少し震えた。


四年前の頁。


「ヴィルジニー嬢を、息子オリヴィエの嫁に迎える。息子は商会との取引を急ぐ性質。ヴィルジニー嬢の小数点で、辺境伯家の地金を支えていただきたい。これは、商会の利と相反することがあろう」


三年前の頁。


「ヴィルジニー嬢、結婚。検査官休職届を出す。本院鋳貨頭ヴェルニエ殿から私信あり。『嫁に職務を辞めさせるな』と書かれてある。私はそのつもりではない、と返信する」


同じ三年前、半年後の頁。


「私の体は持つまい。息子オリヴィエは商会との関係を、私が止めても進めるだろう。ヴィルジニーには、印を信じよ、と書き残しておく」


その頁の隅に、薄い灰色の小さな付箋が貼ってあった。


私はランプを近づけて、付箋の字を読んだ。


「息子オリヴィエが商会と急ぎすぎる時は、ヴィルジニー殿の印を信じよ。


我が家の鉱山は、商会の善意ではなく、ヴィルジニー殿の小数点が支える時が来る。


その時、息子に名前を呼ばせよ。


アルベリック」


私は付箋を一度、剥がしかけて、剥がさなかった。


紙の角を折って、伸ばした。今度は、伸ばす方の癖。


ランプの炎が、少しだけ揺れた。



私は、義父の手帳を、もう一度、読み返した。


頁の隅に、ところどころ、薄い鉛筆の跡があった。線を引いたり、消したり、また引いたりした跡。義父が、自分の判断を、何度も書き直しながら手帳を埋めていったのが、跡を見ると分かった。


「商会鋳貨ギルドからの引き合いあり。要警戒」と書いた頁の脇に、義父は別の日、薄く「警戒、と書くのは怠慢かもしれぬ。判断、と書き直す」と書き加えていた。


警戒、ではなく、判断。


義父は、自分の言葉も、警戒した。


私は、その頁を、もう一度、指の腹で軽く撫でた。


階段を昇って、支所の二階の事務所に戻った時、エドモンは中央財務監察庁宛の電信文を書き終えていた。


「これでよろしいか」


彼は文面を私に見せた。


「辺境伯家改鋳台帳、主任印『ナエル・モンセール』署名分の地金純度二桁目に異常を認める。実地確認を要請。なお、本件は王立鋳貨院辺境支所より本院鋳貨頭ヴェルニエ殿に第一報を発しており、現地検証への中央財務監察庁同行を求めるものである。


末文に:


中央財務監察庁 監察使補 シリル・ベルナトン殿 写


王立鋳貨院辺境支所 副所長 エドモン・カルティエ」


「上出来です」


「お墨付き、ありがとう」


エドモンは紙を畳んで、電信員に渡しに立った。


私はもう一冊、文字のない方の手帳を、机に開いた。


中は、まっさらだった。


ただ、最初の頁の見開き内側に、もう一枚、付箋が貼ってあった。


「これは、ヴィルジニー殿のための手帳。


息子と話す時、書き留めるとよい。


書き留めた紙は、後で必ず役に立つ。


アルベリック」


私は付箋を、もう一度、指でなぞった。


それから、初めて私は、頬の内側を強く噛んだ。涙ではなく、息を、こらえるためだった。



夕暮れ、辺境伯邸の方で、家令ロベール・ロワゾンが廊下を歩いていた。


「奥様は、まだお戻りでないか」


「ご報告がございます」


「うん」


「奥様は、王立鋳貨院辺境支所におられます。届出は、本日付で受理されたとのことです」


「届出?」


家令の顔色が、少しだけ下がった。


「奥様、復職を、お決めになったとのことで」


「待て。改鋳所のお披露目は来週だぞ」


「お披露目のご出席につきましては、まだお返事をいただいておりません」


オリヴィエは廊下の壁に手をついた。


「ヴィルは、どこに泊まっている」


「支所の宿舎、と聞いております」


「宿舎」


「はい」


「家令、明日、迎えにやってくれ」


「迎えに」


「うん。話せば分かる」


家令は深く頭を下げたが、頷きはしなかった。彼は奥の廊下に下がってから、自室の机に向かい、深い息を一つ吐いた。


机の引き出しから、家令は一通の書類を取り出した。三年前、彼が婚礼の招待状の検査印を「省略」と書き付けた、自分の覚え書き。


家令は、その紙を、ランプの火に近づけかけて、止めた。


止めて、引き出しに戻した。



支所の窓辺で、私は新しい手帳の最初の頁に、ペンを置いた。


題は書かなかった。


ただ、最初の行に、こう書いた。


「念のため、と夫は言った。


その四文字を、私はもう、念のためとは読まない」


ペンを置いて、窓の外を見た。


空が、紫から黒へ変わっていく。


明日の朝、中央財務監察庁から、誰かが来る。


その誰かが、私の検査控を、まず疑うだろう。


私は、それを当然と思う。


私はそれを当然と思ったうえで、机の上に、青表紙の地金台帳を一冊と、新しい手帳を一冊、並べて置いた。


机が、二冊分、しずかに並んでいた。

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