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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第3話 席は空けて待ってあったぞ

王立鋳貨院辺境支所は、辺境伯邸から馬車で半刻ほどの距離にある、石造りの古い建物だ。屋根の左半分は鋳貨工房の煤で黒ずみ、右半分は事務所の煙突から出る薪の煙で白くなっている。


外壁の南面には、苔。雨樋の継ぎ目から、毎年、苔が生えるのを、誰も剝がさない。「剝がすと壁が傷む」と、入所した年にエドモンに教わった。傷まないように、ものをそのままにする、というのが、支所の流儀だ。建物にも、人にも、紙にも、傷をつけないように、そのままにする。そのままにして、台帳の中だけで動かす。


入口の扉の取っ手は真鍮で、握ると、冷たい。三年経って、握り方を、私の手は、覚えていた。


馬車が支所の前で止まると、玄関の扉が内側からそっと開いた。


エドモン・カルティエ副所長が、いつもの黒い前掛けで、両手をその裾で拭きながら、出てきた。


「席は空けて待ってあったぞ」


挨拶ではない。報告でもない。三年休んだ後輩に対して、彼が選んだ第一声だった。


私は包みを抱えたまま、礼を返した。


「お久しぶりでございます、副所長」


「久しぶりはこっちの台詞だ。中に入れ。湯を沸かしてある」


支所の中は、三年前とほとんど変わっていなかった。入って左に試金台、右に薬瓶の棚、奥の壁際に長机と帳簿の棚。私の机は、奥から二番目。窓に近い、北向きの席。


机の上に、文鎮が、私が休職した日と同じ向きで置いてあった。鋳貨頭から贈られた、私個人の文鎮。三年、誰の手も触れていない。


「副所長」


「うん」


「これは」


「触っとらん。月に一度、布で拭いただけだ」


私は試金石の包みを机に置いて、文鎮の縁を一度だけ指で撫でた。


冷たかった。三年分、冷たかった。


「君宛の控だ」


エドモンが、別の机から、紐で束ねた厚い紙束を持ってきた。


「これは」


「毎月の月例報告書。君が休職してから三年、毎月一通、辺境伯邸のお屋敷宛に送り続けていた。捨ててはいまい?」


「保管しております」


「ならいい」


エドモンは、文鎮の脇に、紙束を置いた。「で、こちらは支所側の控だ。同じ内容。突き合わせてもらえると助かる」


突き合わせる。私は紐をほどいた。


三年分。三十六通。


私の個人控の手帳と、月例報告書の支所側控。両方を並べて読めば、辺境伯領の地金の小数点が、三年でどう動いてきたかが見える。


エドモンは私の机の脇に椅子を引いて、座った。


「で、復職届だが」


「はい」


「読んだ。受理した。辺境伯家側への通知は、明日付の朝に出す」


「ありがとうございます」


「言っておくが、復職と同時に、改鋳事業の現地確認の権限が君に戻る。これは、君が休職前に持っていた権限と同じだ。譲渡もされていない。辺境伯家側が『家令の名で代替する』と言っていても、王立鋳貨院の権限上、家令には改鋳許可符への副署権はない」


「承知しております」


「で、君が支所に戻った以上、現地確認は、君と私で行う」


「お願いいたします」


エドモンは少しだけ笑った。


「ぼやくのが好きな副所長で悪いが、君が休んでいた三年、辺境伯家の地金台帳は『商会鋳貨ギルドが入ってからおかしい』と支所内で囁かれていた。誰も声にしなかったがな」


「囁き、と申しますと」


「地金の入庫量と、改鋳後の鋳貨量の差が、毎期、商会の取り扱い分だけ小さい」


「小さい、というのは」


「入庫の方が、ね」


「つまり、改鋳後の鋳貨量に対して、入庫帳が少ない記録になっている」


「うん。改鋳の歩留まりが、辺境伯家の他の地金より、商会扱い分だけ良くなる。理屈に合わん」


私は地金台帳を開いた。改鋳事業の最新版――商会主任印「ナエル・モンセール」の名で押された頁。


地金純度の欄を、上から順に読んでいく。


小数点二桁目。


純度〇・九六二。


書かれている数字は、〇・九八四。


実測と書類の差、〇・〇二二。


小さい数字に見える。大きい数字だ。地金一トンあたり、二十二キログラム分、純度が違う計算になる。年貢一年分の改鋳量で換算すれば、辺境伯領一つを支える金属の重みが、書類の中で増える計算になる。


「副所長」


「うん」


「これは、改鋳前の地金についての書類でしょうか」


「うん」


「実測値は、誰が」


「商会主任の名で押されている」


「実測の現場には、支所の検査官は」


「いない」


「私が休職届を出した日から、ですね」


「そうだ」


私は左の親指で、右の爪先を一度押した。


「副所長」


「うん」


「明日、辺境伯家の改鋳所に同行させてください」


「同行も何も、君が主任検査官だ。私が同行する」


エドモンは椅子の背にもたれて、天井を見た。


「明日、本院に第一報の電信を打つ。これは支所判断ではない。本院判断にする」


「本院鋳貨頭、ヴェルニエ様にですか」


「うん。場合によっては、中央財務監察庁にも写しを送る」


「中央財務監察庁」


「そう。改鋳停止令は、本院単独では出ない。中央財務監察庁の監察使が現地検証を行ってから、本院鋳貨頭が発令する。今のうちに、写しを送っておく」


「監察使は」


「中央財務監察庁 監察使補、シリル・ベルナトン殿。文官の若造だが、礼の角度が一定で、評判は固い」


私は耳飾りに、中指を一度触れた。


「分かりました」


エドモンは、机の上の控を、もう一度紐で束ね直した。


「君の試金石は」


「持ってまいりました」


「白布の包みか」


「はい」


「いい結び方だ」


「侍女が」


「ジャネットさんか」


「はい」


「あの人は良い結び方をする」


私は少しだけ笑った。



夕方、支所の鍵管理棚の前で、私はもう一つ、見覚えのない鍵に気づいた。


長机の奥、鍵管理棚の左下。木札に、薄い字で名が書いてある。


「アルベリック・ド・サン=アルディオ」


先代辺境伯。私の義父。三年前に亡くなった人。


私はその鍵札を、指の腹で軽く触れた。木札の縁が、少しだけ剥がれかけている。古い札だ。


「副所長」


エドモンを呼んだ。彼は別の机で帳簿を整えていた。


「ああ、それは」


エドモンが立ち上がって近づいてきた。


「先代の鍵だ。先代が亡くなる二年前に、支所の地下に何か収めていかれた。中身は私も知らん。鍵だけ預かっていた」


「収めて」


「あの方は、地下に資料庫を作って、君が嫁ぐ前、ご自分で時々通っておられた。亡くなる前に『これは、いずれヴィルジニーが必要になる時が来るかもしれん』とおっしゃってな」


「私が、ですか」


「うん」


私は木札を手に取った。鍵は古い真鍮の鍵で、頭の部分にアルファベットの「A」が刻まれている。


「明日、開けてもよろしいでしょうか」


「君の権限の範囲だ」


エドモンはそう言って、また自分の帳簿に戻った。


私は鍵札を、机の上の文鎮の脇に置いた。


窓の外、空が紫色になりかけている。


机を並べた。机を並べたい、と昨晩、書斎で思った。


今、机が並んでいた。三年の埃を被っていない机が。


エドモンが、もう一人の同僚と、奥の試金台で、別の地金の見本を試している声が、控えめに聞こえる。「商会扱いの去年の最終ロット、もう一度測ろう」「うん、副所長」――聞き慣れたやり取りだった。三年経っても、支所の人たちは、囁き声まで、同じ声音だった。


私は息を一つ吐いて、青表紙の地金台帳を開いた。


明日、現場へ行く前に、もう一度、数字を読んでおきたかった。


数字は、夫より、ずっと正直だ。

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