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念のためと夫に呼ばれ続けて、三年目の朝が来た  作者: 九葉(くずは)


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第2話 白布の試金石

夜半過ぎに、雨が止んだ。


書斎の窓を開けると、湿った石畳の匂いと、辺境伯邸の前庭に植わっている薔薇の匂いが、薄く流れ込んできた。薔薇は、嫁いだ年の春に、私が植えてもらった木だ。三年で、夫の身長くらいになった。剪定は、庭師に任せている。私は、何も世話をしていない。


それでも、夜中の薔薇の匂いは、いつも、私の側を選んで、書斎まで届く。


書斎の机に、私は婚礼の年の招待状の控を一束、置いた。家令ロベールが倉から出して、ジャネットが書斎まで運んだ束だ。


封筒の表に、辺境伯家の家紋。裏に、検査印。


その検査印の脇に、私の小さな印影が、当時はちゃんと並んでいた。三年前の――婚礼の前の月。「奥様の検査印もお入れになりますか」と、当時の家令長が私に確かめてくれた、あの紙だ。


私は一通だけ封筒を開けて、中の招待状を引き出した。


招待状の右下に、辺境伯家家紋と、王立鋳貨院辺境支所の検査印。並んで、私の個人印影。


並んでいた、はずだった。


招待状の右下隅。検査印そのものが、にじみで一度消され、その上から薄く糊づけし直されていた。糊の縁に、別の紙――新しい紙――を貼った跡が見える。


「ロベール」


呟きが声になる前に、私は呼ばれてもいない名前を口に出した。誰も応えない。誰も応えなくていい。応えなくていい人の名前を口に出すのは、自分の頭の中の話を整える時の癖だ。


二通目を開ける。


同じだった。


三通目。同じ。


控帳は二十通あり、十二通までめくって、私はやめた。十二通目までで充分だった。


招待状から、私の名前は、後付けで消されていた。


私はそれを婚礼の年に知らずに、夫の隣で「奥様」と呼ばれていた。


紙の角を一度折って、伸ばす。


伸ばさない。今は、伸ばさない。



机の端に置いた便箋を、私は引き寄せた。


ペン先を改めてインクに浸ける。


宛先――王立鋳貨院辺境支所 副所長 エドモン・カルティエ殿。


差出人――ヴィルジニー・ド・サン=アルディオ。


題目を一度書きかけて、消した。「ご無沙汰しております」ではない。「お久しぶりでございます」でもない。


私は王立鋳貨院職員ヴィルジニーとして、ヴィルジニー個人として、紙に向かう。


題目を書き直した。


「復職届」


本文。


「家事都合による休職の事由が消滅したため、王立鋳貨院辺境支所 鋳貨検査官の職務に復帰いたしたく、本届を提出いたします。


休職期間:三年。


復帰希望日:明日付。


備考:着任後、辺境伯領の地金台帳照合および改鋳許可符の発行記録について、副所長権限による再点検を希望します。


ヴィルジニー」


短い。これでいい。エドモンには、これで通じる。


便箋を封筒に入れて、封蝋を熱する蝋燭に火をつけた。


蝋を垂らす前に、私はもう一枚、別の便箋を取り出した。今度は私信用。エドモン宛て、私的な一行。


「席は、まだ空いていますか」


封筒に入れて、私信用は別の封蝋――家紋ではなく、私個人の鋳貨師印で押す。本院から発行された、私の唯一の私印だ。



夜明け前、扉が二度、軽く叩かれた。


「ジャネットでございます」


「お入り」


ジャネットが入ってきた。手に、まだ温かい白湯の杯。私の白湯は、彼女が運ばないと冷めない――冷めても飲むけれど、温かい方が、私の指は紙を扱える。


「奥様」


「ジャネット」


「お申し付けの前に、整えております」


その言葉に、私は少しだけ笑った。


「荷物ね」


「はい」


「荷物の中身、聞かない方がいい」


「お聞きしません」


私は便箋二通を、彼女に渡した。


「これを、朝一番の馬で、王立鋳貨院辺境支所まで」


「承知いたしました」


「もう一つ。今朝、馬車を一台、門に呼んでおいてくれる?」


「呼んでございます」


「呼んだのは」


「奥様の朝食前に、わたくしが」


私は彼女の白い手袋を見た。指先がいつも通り、まっすぐ揃っている。


「ありがとう」


「奥様」


「ええ」


「結びは、堅結びで」


「ええ」


ジャネットは深く礼をして、退いた。



書斎の窓辺で、空がほんの少しずつ薄くなっていく。雨は止んでいる。風も止んでいる。私は試金石の入った木箱を、白布で巻いて、麻紐を二本かけた。堅結びで。ジャネットが結んだのではない、私が結んだ。


結んでみて、ジャネットの結びより、私の結びは、少しだけ角が立っていた。三年、ジャネットの結びを横で見ていたつもりだったけれど、結局、自分の指は自分の癖でしか、結べないらしい。それでも、ほどけはしない。ほどけない、ということは、結びとして、合格だ。


机の引き出しから、青表紙の地金台帳を取り出す。これは支所のもの。改鋳事業の最新版は辺境伯家の倉にあるけれど、副本がここにある。私が個人的に控として持っていた束だ。


それと、もう一つ。


机の奥の引き出しを開けた。


中に、革張りの小さな手帳。茶色い革。背の薄い、八年使い込んだ手帳だ。私の検査控――王立鋳貨院辺境支所に提出する公的控とは別に、十八で本院に配属された日から個人的に書き続けた、毎日の地金純度のメモ。婚姻と同時に休職したけれど、辺境伯家の地金は、私の個人控では一度も止まらずに記録されていた。


辺境伯家の家令や夫が知らないはずの、三年分の数字。


私はこの手帳も、一緒に持っていく。



朝、辺境伯邸の玄関で、私は二度だけ振り返った。


一度目は、廊下の奥。ジャネットが頭を下げて、見送っている。


二度目は、夫の寝室の扉。閉まったままだ。


夫オリヴィエは、領都から戻ってきていない。書置きは残さない。書置きを残せば、彼は「話せば分かるじゃないか」と言うだろう。彼の言う「分かる」は、私が彼の話に合わせる、という意味だ。三年で、私はその翻訳を覚えた。


玄関に、ジャネットが立っている。


「行ってまいります」


「行ってらっしゃいませ」


「夕方までに、辺境伯様がお戻りでしたら――」


「戻りでしたら?」


「ええ。戻ってきたら、家令にお伝えしてください。『奥様は、王立鋳貨院辺境支所に復帰のお届けを出されました』とだけ」


ジャネットは一度、私の方をまっすぐ見た。それから、視線を下げた。


「承知いたしました」


「ジャネット」


「はい」


「あなたの荷物は」


「奥様が落ち着かれてから、ご相談いたします」


「ええ」


私は玄関を出た。


門の前に、馬車が一台、止まっている。


御者が一礼した。馬車の戸を開けた。


「鋳貨院辺境支所まで」


「かしこまりました」


私は乗り込んで、自分の膝の上に、白布で巻いた試金石の包みを載せた。麻紐の堅結びが、揺れに合わせて、軽く擦れる音を立てる。


馬車が動き出すと、辺境伯邸の門が、ゆっくり遠ざかった。


私は窓の外を見なかった。膝の上の試金石の包みを、両手で押さえていた。


御者が小さく口笛を吹いた。


私はその時、はじめて、息を一つ、長く吐いた。


朝の風が、馬車の窓のすきまから、ほんの少しだけ入ってきた。風に、辺境伯領の朝の匂いがした。竈の煙、麦の藁、馬の汗、それから、遠くの鉱山の方から流れてくる、岩の匂い。


三年、毎朝、私が吸ってきた風と、同じ風だった。


ただ、今日の風は、誰かに合わせて吸わなくていい風だった。


戻る先は、実家ではない。


戻る先は、三年休んでいた机だ。

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